ごん、と音がした。控えめに言えば鈍い音、ものすごく詳細に描写するなら、重ための打撃音に近い。
何事かと驚いて振り返れば、そこには頭を軽くさする少年――魈が立っている。なんとも言えない表情を浮かべていて、蛍と視線が合うと慌てた様子でそらした。
どうやら状況からして、道すがらに生えている木の幹に頭をぶつけたようである。
「魈、大丈夫?」
「問題ない」
問題ない、音では無かったような気がする。蛍が慌てて駆け寄ると、ショウは微かに首を振った。かすかな赤みを帯びた額が、ちらりと見える。どう考えても痛そうだ。多分、あとでアザになってしまうやつだろう。パイモンが蛍同様に、魈の様子を見て心配そうに表情を曇らせる。
「大丈夫、な音じゃなかったぞ……」
「冷やす? ちょうどパイモンが昨日氷スライムのジェルを……」
「そっ、それはオイラのおやつ! オイラの……! でもっ、でもぉ、ううっ……」
「また氷スライム狩ってあげるから」
「何をする気だ。必要ない」
鞄の中をあさろうとする手を、魈の手がそっと止める。でも、と言葉を続けるより先に、魈がもう一度、念を押すように「大丈夫だから、気にしないでくれ」とだけ続けた。そのまま、蛍の側を抜けて先を歩いて行く。
「あっ、しょ、魈! 待ってくれよぉ」
パイモンが慌てた様子で魈を追いかけるのを眺め、蛍も鞄を締めてからその背を追いかける。こうなったら、きっと魈は蛍が無理にでも氷スライムのジェルを渡したとしても、使うことはないだろう。後は道すがら、ちゃんと後で冷やすようにと伝え続けるくらいしか手はない。
数歩分の距離を一気に詰めて、蛍は魈の隣に立つ。先ほどのことなんて無かったというように、魈はつんとした表情で前を向いていた。
「……魈、ちゃんと後で冷やしてね」
「くどい。大丈夫だと言っているだろう」
「でも、魈、木に頭ぶつけたのさっきだけじゃないでしょ」
蛍は少しだけ眉根を寄せる。一回、頭をぶつけただけならば、ここまで何度も何度も、それこそくどいくらいには言わなかった。けれど、魈が木に頭をぶつけたのは、さっきだけではない。
何なら、この道中――帰離原から璃月港へ向かうまでの間、大変な頻度で頭をぶつけていた。あまりにもぶつけるものだから、何が起こったのかと思ったくらいである。といっても、先ほどまでは軽くぶつける程度だった。鈍い音がするくらいの勢いでぶつけたのは、先ほどが初めてである。
「そうだぞ! オイラちゃあんと数えてたんだからな。魈が頭をぶつけたの、さっきで五回目だ!」
「ほら」
「……。……お前たちを送り届けたら、ちゃんと冷やす。それでいいだろう?」
小さなため息と共に、かすかな言葉が魈の唇から漏れる。蛍は小さく頷いた。魈は約束を違える人ではない。魈がするというのならば、きっと必ずしてくれるだろう。
「うん。約束だよ」
「わかっている。――ほら、早く行くぞ」
ちらりと蛍を一度だけ見て、魈はもう一度視線を戻す。もう少し歩けば、璃月港の城門に着くだろう。
――帰離原でヒルチャールと戦う魈を偶然見つけ、加勢をしたのが少し前のことだ。それから、どこへ行くのかと尋ねられ、璃月港へ行くのだと答えたところ、送る、とだけ言われた。断る理由もないので、感謝を述べてお願いをして――長くも短い距離を、三人で歩いてきた。道すがら、喋るのは大体蛍かパイモンで、魈はほとんど聞き役に徹していたが、楽しい旅路だった、と思う。
魈は、最近、なにくれと蛍を気にかけてくれている気がする。海灯祭での日々を過ごしてから、それが顕著だ。多分、多分ではあるが――友人、というようなカテゴリーに入れてもらっているのではないか、なんて、蛍は思っている。多分、魈に聞いたら「違う」と一蹴されそうだが。
ただ、魈が蛍のことをどう思っているにせよ、蛍にとって魈は友人で、オセルとの戦いでは命を救ってくれた恩人でもある。そんな相手がなんだかおかしい、というのは少し、いや、かなり、見過ごせなかった。
「城門だ」
魈の足が止まる。いつの間にか、目的地に到着してしまっていたようである。璃月港の全景を見渡せる高台で、魈はゆっくりと蛍を見た。
魈は、ここから先に行くことはない。海灯祭の時も、今も、璃月に必要以上に近づくことはしなかった。
「ありがとう、送ってくれて」
「うんうん。魈のおかげで、道中何事もなく来れたし! し、仕方無いから、オイラの氷スライムのジェル、譲ってやってもいいぞ!」
「いらない」
なんでだよっ、とパイモンが少しだけ憤った声を上げる。それに小さく笑ってから、蛍はじっと魈を見た。――額が、かすかに赤い。痛みを滲ませているであろうそこを見ていると、蛍の視線の行く先に気づいたのか、魈がかすかに顔をそらした。
「……大丈夫?」
「問題ないと言っている」
何度も何度も繰り返した問いかけを、もう一度繰り返す。魈はあきれたような口調でそれだけ言うと、蛍を視線だけで見た。さっさと行け、と言いたげな視線だった。
恩人だ。友人でもある。だから、普段と様子が違うのは心配だ。だが、これ以上問いかけても、きっと魈は答えてくれないだろう。そうやって線を張るきらいが、魈にはあった。それを短い付き合いの中で、蛍は理解している。
「……今度お礼するね。望舒旅館に行くから。夜が良いかな?」
「礼?」
「そう。送ってくれた、お礼」
蛍は小さく頷く。魈は小さく顎を引いて、それから「勝手にすると良い」とだけ言う。これはつまり、お礼をしても良い、ということである。いらない、と言われることをなんとなく想像していたので、少しだけほっとする。魈に笑って返し、蛍は彼の元から離れた。
城門の方へ向かう。門番に手荷物検査をされた後、振り返った先にまだ魈が居て、蛍はパイモンと一緒に手を振った。それに対してか、魈は軽く首を振って、そのまま消えてしまった。多分、どこかへ向かったのだろう。
護法夜叉としての、責務を果たしに。