案内された部屋は、L字型のソファーが鎮座する、小さな部屋だった。大人が二人も入室したら、なんだか手狭に思えるくらいの大きさだ。中央にはテーブルがあり、その上にはメニュー表やらなんやらが立てられている。隅の方に置かれたテレビからは、アーティストの紹介映像が流れていた。
「よし! 歌いましょう!」
テレビの傍に備え付けられたデンモクとマイクを手に、私は後から入室してきた独歩さんに声をかけた。今まさに上着をハンガーにかけていた独歩さんは、私の言葉に少しだけ驚いたような顔をしてそれから小さく頷く。
「その、先にどうぞ」
「私が一番で良いんですか……!?」
「それは、だって、お前が来たがってた所だろ。だから……」
独歩さんはそれだけ言うと、デンモクを私の傍に寄せた。そうして、小さく笑みを零す。
「カラオケに遊びに来るの、久しぶりだ……」
「飲み会とかのアフターとか、二次会で来られたりしなかったんですか?」
「俺は飲み会の後に会社へ戻って仕事をしていたので、全然」
悲惨な言葉が出てきた気がする。ぶ、ブラック過ぎないだろうか、それ。思わず言葉を飲み込みかけて、慌てて私は首を振る。それからすぐにぐっと拳を握って見せた。
「じゃあ今日は沢山歌いましょう!」
独歩さんは私の言葉に瞬くと、それから小さく笑う。突けばほろりと崩れてしまいそうな、そんな静かな笑い方だった。
「そう、だな。そうする。本当に久しぶりで……ちょっと楽しみだったんだ、今日」
「私も独歩さんとカラオケ行けるって決まってから毎日本当にこの日を楽しみにしていました」
そう、本当に――ものすごく、楽しみだった。
だって、まさか、推しの歌声を、無料で聞けるような機会に恵まれるなんて、思いもしなかった。もちろん、公式から配信されている『観音坂独歩』の曲は何度も聞いたし、そらで歌詞が言えるくらいには覚えている。どの曲も最高に好きだ。
そう、その上で、だからこそ、推しが色んな曲を歌うところ、もっと見てみたいし、もっと聞きたいと思ってしまう。オタクとしての性質みたいなものである。推しが可愛い曲歌うのだって聞きたいし、推しがかっこいい曲を歌うのだって聴きたい。
それが今日、カラオケに行くという名目で叶えられようとしているのだから、もう――本当に夢のようだ。もしかしたら本当に夢かもしれない。実際の私は眠っていて、今も布団の中なのかもしれない。あり得る。
「もう本当に……独歩さん何を歌うんだろうってずっと……」
「何をって……」
「録音したいんですが……」
「それは俺が恥ずかしいので」
すぐさま拒絶される。悲しい。泣きそう。でも、嫌がる独歩さんに無理強いを出来るわけもないので、私は小さく頷いて返した。いずれ、許された時に実行したい。
とりあえず話し続けてカラオケの時間を消費するのもなんだし、と私はデンモクの画面に触れる。こちらの世界に来てから、色々こちらの世界の曲に触れることも多くあったのだが、やはりというか――私の世界とは違う。流行っている曲も、人気のアーティストも、何もかも。私が好きな歌手がこちらには居ないのだと気づいたとき、やっぱり異世界なのだなあ、なんてしみじみと思った。ただ、かと思えば、昔の有名な曲なんかはメロディーも歌詞もそのまま存在したりしていて、なんだか面白かったのも、覚えている。
曲を検索し、そのまま転送する。画面に曲名が表示されて、独歩さんが「あ」と小さく声を上げた。
「これ知ってるやつだ」
「一緒に歌いますか?」
声をかけると独歩さんは微かに顎を引いた。そうしてから、微かに視線を動かして、ゆっくりと首を振る。
「いや、大丈夫。聞いてる、その、聞きたい」
なんだかものすごく期待を寄せられているようだ。私はマイクの電源を入れて、神妙に頷いて返す。
「頑張って歌いますので! 終わったら独歩さんの番ですよ! 順番です!」
正直ずっと独歩さんに歌っていてほしいくらいだし、歌声を聞きながらサイリウム振りたいくらいだ。けれど、そんなことをしたら独歩さんの喉が大変なことになるのは想像に難くない。推しには健やかに生きてほしい。
イントロが流れ始める。デンモクを独歩さんに渡して、私は歌い始めた。
独歩さんとのカラオケは二時間分歌いきり、終了時刻を迎えた。延長はせずに、そのまま外に出る。
端的に言って最高だった。観音坂独歩、ああいう歌とか歌うんだとか、ああいう曲とか好きなんだとか、色々知ることが出来てもう、本当に、こんなの無料で良いのだろうかと独歩さんが歌う度に思った。チケット代とか実は必要だったりしないのだろうか。一曲目を歌い始める時に少しだけ照れていたのか声が揺れたのとか、それに気づいて視線を揺らしながらも歌いきっている所とか、もう最高としか言いようがなかった。二曲目からは照れも消えたのか、声の震えも何もかも無くなっていたのも最高と言える。もう最高としか言えない。本当に最高だった。
「最高……」
余韻に浸っていると、独歩さんが「声……」と呟いて、それから小さく笑った。
「お前の声、掠れてる。俺もだけど」
「お互い沢山歌いましたもんね」
「本当に。カラオケってこんな楽しかったんだな」
独歩さんが微かに咳き込む。普段よりもざらり、とした感触を滲ませた声が、私の耳朶を掠めた。そっと視線を向けると、楽しそうに頬を緩ませている姿が見える。
私が楽しかったように、独歩さんも少しは楽しんでくれたのだろうか。それなら良かったな、と思う。
「次来たらタンバリンとか鳴らしましょうか、私」
「なんだよ、それ」
「借りられるんですよ。鈴とか、そういうの」
「知らなかった」
独歩さんが小さく笑う。そうして手を伸ばしてきたので、一歩、独歩さんに近づいてその手を取った。私よりも骨張っている手。男の人の手だ。それが、柔らかな温度に濡れて、私の手の平をじんわりと包む。
「次も、楽しみにしてる、ので……、また行かないか?」
「もちろん! カラオケも、他の所も、色々行きましょう」
独歩さんを連れて行きたい場所が沢山ある。ね、と繋いだ手を軽く持ち上げて見せると、独歩さんは照れたように眦を赤らめた。碧色の瞳が、柔らかな感情で濡れる。
「ああ。色々、全部、お前と一緒なら何でも楽しい、から」
「じゃあ、とりあえず今日は今からコンビニ行きましょう」
コンビニ? と独歩さんが首を傾げる。お互いの喉を休めるための飴が必要ですよ、と続ける。一拍置いて、掠れた声で独歩さんが笑った。