しりたたき1.
気がついたら見知らぬ場所に居た、という状況を、人生で二度も体験することになるとは思いも寄らなかった。
私は小さく息を飲む。まず――まず、状況を理解しなければいけないだろう。爆ぜるように音を刻む心臓を必死に押さえ込みながら、私はゆっくりと周囲を見渡した。
両隣は壁に覆われている。どうやら路地のような場所に居るようだ。昨日か一昨日、とにかく恐らく近い期間内に雨が降ったのだろうか、ぬかるみのような地面が、裸足に粘つく。空を見ると抜けるような青空が見えるが、それでも今居る場所には光があまり差し込まないようである。
ゆっくりと立ち上がる。昨日は、大学へ提出するためのレポートを打ち込んでいた。明日提出だからと結構、突貫工事をしてしまって、まあ明日の朝見直して大学で印刷をすればいいだろう、明日の朝の自分にすべてを託そう、なんて思いながら眠りについたはずである。
普段通りの、普通の一日だった。私は周囲を見渡す。どう考えても自分の部屋ではない。着用している衣服は寝間着のままだが、あからさまに状況が一変していた。
夢、だったり、するだろうか。一瞬だけ浮かんだ希望的観測にすがるように、私は手のひらをぎゅうっとつねる。――痛い。いや、でも、でも、夢でも現実みのある感覚を覚える時はある。もしかしたら、そうかもしれない。
けれど、そうじゃなかったら。
喉の奥がぎゅうっと萎むような心地がする。とりあえず、状況を理解するためにも誰かに声をかけるべきだろうが、人通りが少ない。……寝間着姿のまま、色々な場所を歩くというのは少し恥ずかしいが、致し方ないだろう。私は意を決して、ゆっくりと歩き出した。
明るい方へ、と向かう内に少しずつ地面が乾いていく。地面をなめるように太陽の光が差し始め、じわじわと肌を焼くような熱が体を蝕んでいく。暑い。なんだかくらくらするような暑さだった。鉄板の上で熱されているような感覚に陥る。
額に汗がじんわりと滲む。起き抜けに結構ハードな運動だ。壁に手をついてゆっくりと呼吸をしていると、不意に、何かの気配がした。――いや、気配、というより、見られている、という感覚、と言った方が正しいかもしれない。
周囲へ視線を巡らせる。どこにも人の姿は無い。それなのに――どうしてだろう、誰かに見張られているような感覚がなくならない。
「あ……あの、誰か居ますか」
喉の奥が震える。それを飲み込んで、私は口を開いた。誰かが見ているのは、多分、確かだ。こういうときの直感はいやになるほど当たる。
だからこそ、声を上げて――それに応じて出てきてくれるなら、きっと、問題は無いのだろう。
けれどもし、出てこなかったら。
周囲を見回すが、いらえは一切無かった。それどころか、ねめつくような視線が増えた心地すらする。心臓が一瞬にして強い音を立て始めた。不安や焦燥感といったものが一気に襲ってきて、体の温度が低くなっていくような心地がする。
「すみません、誰か……」
あからさまに声が震えてしまった。口を閉ざして、私はそのまま歩き始める。路地はどうも込み入った作りをしているらしく、出口を目指して歩いているというのに、その出口が見つからない。微かに聞こえる人の喧噪を辿っていっても、どうしても見つからなかった。
歩く内に体力を消耗していくような心地を覚える。私を見る視線は未だに存在していた。ここまで赤の他人を監視する理由って、あるだろうか。無い気がする。
あるとしたら、それは――。
考えた瞬間、とん、と背後で音がした。振り向く間もなく、何かに足を蹴られて体勢を崩す。背中から地面に体をぶつけてしまった。痛い。喉の奥が呻くような声を上げる。痛みに明滅した視界が、少しずつ形の線を鮮やかに引き始めるのと、視界に人影が映ったのは同時だった。
男性――だろうか。二人居る。そのうちの一人が、私の肩を強く押さえていた。
「獣人じゃないよな。地元のやつじゃない!」
「観光客って体でもなさそうだ。これは売れる」
信じられない言葉が、聞こえてきたような気がした。発せられた言葉の意味を理解出来ずに、思わず呆けた声が出る。
う、売れる。売れる? 売れるってなんだろうか。人身売買的な、そういう意味合いの?
理解した瞬間に背筋を氷塊が滑り落ちるような心地を覚えた。逃げなければいけない、と思う。だというのに、体にどれだけ力を入れても、肩を押さえられているからか、上手く動けない。逃げ出すことすら出来ないようである。
私の肩を押さえた男性が「おっと。急に暴れるな」と怒る。怒りたいのはこちらの方である。何が、一体、何が。何が起こって――。
「た、たすけ、たすけて。たすけて!」
必死になって声を上げる。周囲に視線を巡らせるが、答えるような存在はどこにも居なかった。男性が笑いながら、「こんな場所に助けが来るかよ」と、早口に言う。
「ここは太陽から見放された場所、夕焼けすらも届かない場所だぜ」
ぐっと足を掴まれた。何かで縛られているようである。抵抗をしようとするが、相手の力が強くて一切、適わない。夢。夢だろうか。夢? 夢と思いたい。こんな、こんなこと、こんな――!
「たすけて……! たすけて――!」
喉が震える。何か――なんでもいい、護身術でも学んでいれば良かった。それか、そう。不意に高校の時の、同級生の姿が思い浮かぶ。
――魔法、とか――。
瞬間、頭上を何かが飛んでいった。私の肩を押さえていた男性が、消える。え、と小さく息を漏らしたと同時に足下を掴んでいた力も、消えていった。何が。何が起こっているのだろうか。もしかしてこれは、助かったと思っても良いのだろうか。
痛む肩を必死に動かして、上体を持ち上げる。少し離れた場所に、男性が立っていた。
ゆったりとしたローブのようなものを着用しているようである。フードから落ちる影のせいで、顔の造形がほとんど確認出来ない。腰の辺りを紐のようなものできゅっと縛っており、足下を覆うサンダルが、地面をこすって微かな音を立てる。
誰だかわからないが、とにかく人である。しかも、多分、助けてくれたのだろう。感謝を、まず、言わなければならない。
喉が渇く。私は必死になって口を開いた。
「す、すみません。あの、――」
「おい。草食動物」
ありがとうございます。声が喉からこぼれ落ちるより先に、静かな声が遮るように響いた。低い声は、どこかで聞いた覚えのあるような、そんな響きをしている。男性はゆっくりと近づいてくると、私の側に膝を落とした。フードを、日に焼けた指先がそっと取る。
緑の瞳と、目があった。するりとした輪郭に、通った鼻筋、薄い唇。太陽に愛された肌の色、額にかかる少しだけ長い茶髪。頭上には、小さな、丸い耳があった。それが、微かにひくひくと動いて、私の方に向いている。
もの凄く、見覚えが、あった。
「……れ、レオナ先輩……?」
様々な言葉を飲み込んで、それだけ言う。男性――レオナ先輩は、返事でもするように、一度だけ小さく鼻を鳴らした。
「ひ、一人でも歩けます」
「うるせぇ。足を怪我してるなら、おとなしく従え」
散々な言いようである。あの後、すぐに私にローブをかぶせたレオナ先輩は、そのまま私を背負うと立ち上がった。恐らく護衛の人だろう、レオナ先輩から一拍ほど遅れて場にやってきた獣人属の男性に「男二人。捕らえろ」とだけ告げると、そのまま歩いていく。男二人、というのは確実に私を襲ってきていたあの二人だろう。頭を巡らせて見れば、二人は壁に叩きつけられたのか、気絶しているようだった。ぐったりとした体を、護衛の人が慌てて捕まえに行くのを眺めつつ、慌てて一人でも歩けることを伝えたのだが、結果はなしのつぶてである。こういうときのレオナ先輩はてこでも動かない。私は小さく息を吐いてから、首元に手を回した。
……一人でも歩ける、が、足が痛いのは確かなことだ。ここはもう、存分に甘えさせてもらうことにしよう。
「……すみません、ありがとうございます」
「それより、お前、どうしてここに居るんだ」
「それは私が聞きたいというか――そもそも、ここはどこなんですか?」
問いかけると、レオナ先輩は小さく笑った。私があんなにも出るのに苦戦した路地を難なく抜ける。人通りの多い場所に出た。きちんと整地されており、足下は石畳が敷かれている。広い街道に、軒を連ねるようにして屋台が並んでいた。先ほどまで居た場所とは大違いである。
「ここは夕焼けの草原、その辺境――国境に近い場所だ。名前を言ってもお前はわからないだろうから、後で地図を見せる」
「夕焼けの草原……」
あまりにも聞き知った国名だった。私は小さく息を吐く。
昔、といっても、そこまで遡るほど昔では無いのだが――私は、違う世界に飛ばされたことがある。そこは私が住んでいる世界とは違って、様々な種族、それこそ妖精や人魚といったファンタジー色溢れる種族や、人間の耳の代わりに獣の耳を頭の上につけた、そんな人たちが当然のように存在する世界だった。そんな風にファンタジーな世界だからか、もちろん、更にファンタジーな要素が存在していた。その最たるものが魔法だろう。
そう、その世界には『魔法』が、まるで当然のように存在していた。人々は生まれた時に『魔法力』というものを授けられており、それを駆使することで魔法を行使することが出来るのだ。無論、その魔法力にも量の多寡が存在し、多ければ多いほど優秀な魔法士になれるという話であった。無論、少なくとも技巧を磨くことは出来るが、それでも優秀な魔法士への道は幾分か茨で覆われてしまうことになるだろう。
そんな世界に、魔法力ゼロ、しかも魔法なんて存在は二次元でしか見たことも聞いたこともない私が、半ば強引に引っ張り込まれたから大変である。しかも、引っ張り込まれた場所が場所だったのだ――。
「……ナイトレイブンカレッジのみんな、元気ですかね」
「元気だろ。ぴいぴい、草食動物らしくわめいてるんじゃねえか」
言い方に少しだけ笑う。けれど確かに聞いておいてなんだが、私もみんなが元気じゃない姿を想像することは出来なかった。
ナイトレイブンカレッジ。私が引っ張り込まれた世界――ツイステッドワンダーランドにおいて、優秀な魔法士を輩出する場として名高い学校だった。
そこに、私は、居た。――一人の、入学生として。
魔法も使えないのに、魔法が得意で、優秀な魔法士になることが約束されているような、そんな人たちと肩を並べて授業を受けることになったのだ。ほとんど裏口入学みたいなものである。いや、裏口入学なんて言葉で言い表すことが出来ないくらい、あり得ない入学だった。
「想像出来ます。ああ、本当、久しぶりですね」
「――たった三年で、何言ってやがる」
レオナ先輩が小さく笑う。たった三年、けれど、凄く長い、三年だったと思う。
「ハッ。あれだけ盛大に見送られておきながら、また戻ってきて、お前は一体何のつもりなんだよ」
「それは、私にもなんとも……」
私も、戻るつもりはなかったのだ。けれど、いつのまにかここに居た。ひどい目に遭ったことを今更ながら実感して、一瞬だけ体が震える。あのまま、レオナ先輩に助けられなかったら、どうなっていたかしれない。嫌な未来がぶわっと脳裏に浮かんできて、私は必死になってそれを打ち払った。やめよう。嫌なことを考えるのは、辛くなるだけだ。
私の精神の攻防に気づいたか気づいていないのか、レオナ先輩は着々と足を進め、街路を抜けた。少しだけ大きな建物に辿り着く。店頭には文字の書かれた看板が掲げられているようだが、読めない。
「ここは……」
「宿だ。借り受けている」
出入り口には、獣人属であろう女性が二人立っていた。精悍な体つきをしており、私と、レオナ先輩の姿を見て一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに無表情へ戻ってしまった。
「帰った」
「お帰りなさいませ、レオナ様」
女性の一人が恭しく頭を下げる。それにもう一人が続いた。レオナ先輩は二人を一瞥だけすると、そのまま室内へ足を踏み入れる。豪華そうな絨毯が、踏みしめられる度にぎゅ、ぎゅ、と音を立てるのが聞こえた。
室内には、人が少なかった。ただ、全員がほとんど何かしらの武器を携帯しているのが見える。レオナ先輩は先ほど『宿を借り受けている』と言っていた。ならば、この人たちはレオナ先輩の護衛なのだろう。
二階への階段を上り、奥の部屋まで向かう。取っ手に触れると、扉の上部につけられていたベルが微かな音を立てた。それと同時に、かちゃり、と小さな音が耳朶を打つ。恐らくカギがかかっていたのだろう。あのベルはオートロックの役割を果たしているのかもしれない。
取っ手を引くと、内装があらわになる。大きな部屋だった。窓が点在し、それらの内のいくつかが開け放たれている。二人は優に眠れるだろうというような大きなベッドに、豪華な装飾の凝られたテーブル。そこには数枚の紙が乱雑に置かれていて、まるで重石のようにペンが重ねられていた。
レオナ先輩は私をソファーの上に下ろした。体が沈みこむような、そんな感覚に慌てている内に、彼は踵を返し、すぐに何かを持って戻ってくる。テーブルの上に置かれたそれらは、消毒薬の類いだった。
レオナ先輩は私を一瞥だけすると、そのまま消毒液を指さした。自分でしろ、とでも言うような表情である。怪我はしていないはず、と思いながら自分の体を再度見回してみると、足の表面に細かな傷が出来ていることを発見した。全然気づかなかった。痛みも無かったのに、気づいた瞬間からつんと刺すような痛みが滲んでくる。ありがたく消毒液を使わせてもらうことにしよう。
消毒薬を手に足下の治療をしていると、レオナ先輩はじっと私を見てくる。私がもたもたと治療していると、それを見かねてか、彼は小さく息を零して「貸せ」とだけ言った。言葉を返すよりも先に、消毒薬や包帯がレオナ先輩の手に渡る。床に膝をついて、彼は私の怪我の治療を始めた。手際がとてつもなく良かった。
「すみません、ありがとうございます」
「お前に任せていたら日が暮れる」
「それは本当、ごもっともで……」
レオナ先輩は軽く首を振って、「お前はどうしてあんな場所に居た?」とだけ続けた。それはむしろ私が聞きたいくらいである。気づいたら居た、としか言い様がない。
「三年ぶりに戻ってくるにしても、もっと良い場所があるだろうが。まさか、人通りの少ない裏路地に戻ってくるとはなァ」
「……いや、本当、そうですね」
三年ぶり。言葉を口の中で繰り返して、私は小さく笑う。――ちょうど、私が二年生の時。つまりはレオナ先輩が卒業する間近の時期に、私はツイステッドワンダーランドを去ることになった。来たのだから戻る方法だってあるはずだろう、と学園長をせっついていたことが、功を奏したのである。ほとんど涙ながらの別れだった。お別れを言い合って、世話になった相手に礼を告げて、そうして、満を持して元の世界に戻ったはず、だったのだが。
まさか三年後、またツイステッドワンダーランドに来ているだなんて、昔の私は思いもしなかっただろう。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
レオナ先輩の指先が、足から離れる。どうやら手当が終わったようである。彼は私を見上げるように眺めてから、薄く笑った。少しだけ意地の悪い、そんな笑い方だった。
「……草食動物にしては殊勝な態度だな。別に、助けるつもりはなかった。ただ――」
そこまで口にしてから、レオナ先輩は口を閉ざした。何かを言うべきか、言わないべきか、そういうような間を置いてから、静かに首を振る。……ただ、なんだろう。少し気になるが、きっと問いかけても答えてはくれないだろう。私は小さく息を吐いて、「それでも、……です」とだけ続けた。
手当してもらった足を見る。――売る、と言っていた。レオナ先輩が助けてくれなかったら、どこかへ連れて行かれていたかもしれない。そうなったら、どうなっていたのだろう。全く想像がつかないが、ろくなことにならないことだけは、確かだっただろう。今更になって、手の先がしびれるような、そんな震えを覚える。体にぐっと力が入って、一瞬呼吸が狂う。泣きそうだ、と思うと同時に視界がじんわりと滲んだ。ず、と鼻をすすると、レオナ先輩が無言でティッシュを差し出してきた。ありがたく受け取る。
様々な感情が滲む。喉の奥がきゅうっと絞られるような、そんな心地を覚えた。何か吐き出さないと、心臓が破裂して、そのまま止まってしまいそうだ。
「――わ、私。レポート書いてたんです」
「……へえ」
「大学生になって、色んな講義を履修してて、それで。レポートの採点が成績へ反映される率が高いから、きちんとやらないといけなくて……そ、それで、寝たら」
寝たら、居た。前の時はまだ、来た理由があっただろう。魔法学校に入学する、という理由だ。けれど、今回はどうだろうか。目覚めた時にグリムのような存在が側にいるわけでもなく、学園長だって居ない。
「どうして……来たんでしょうか……」
理由が一切わからない。それが、怖かった。ティッシュで必死になって涙を拭くが、なかなか止まりそうにない。久しぶりの再会で、こんなに泣かれてしまってはレオナ先輩も困るだろう。早く止めなくちゃ――。
「……ここには俺だけだ」
静かな声が耳朶を打った。
「お前を傷つける存在も、お前を苦しめる相手も、居ない。俺の側に居る限り、お前を守ってやるよ」
多分、慰めてくれているのだろうと思う。思わずぽかんとしてしまうと、レオナ先輩が少しだけ笑った。変な顔、と笑う声が耳朶を打つ。静かで、穏やかな声音だ。それだけで、どうしてか、胸の内に巣くう恐怖や様々な感情が、ゆっくりと解けていくような気がした。
レオナ先輩が、側に居る。それだけで、どうしようもない心強さを感じた。
「レオナ先輩……、……ありがとうございます」
「どういたしまして。それにしたって、ここに来た理由、な」
レオナ先輩は小さく息を吐く。そうして、ソファーの手すりに膝をついて、体勢を軽く崩した。
「それは俺にもわからねぇが――、お前が戻れる魔法自体は、三年前に発見されてるだろうが。またそれを使えば良い」
「……それは、本当にその通りなんですが……。ただ、確か、貴重な品物を使っていたはずで」
そう、帰る間際、学園長に「私の秘蔵の! 品物を使って! 帰るのですから!」と何度も念押しされた思い出がある。エースやデュースと共に値段を聞いたが、本当に目玉が飛び出るような値段だったことだけは確かだ。それをまた集める、だなんて無理だろう。そもそも、マドルすら持っていないのに。
ぎゅっと拳を握る。レオナ先輩は小さく息を吐いて「だが、集められる」とだけ続けた。
「マドルさえあればなァ。――で、草食動物」
レオナ先輩は唇の端を持ち上げて笑った。「お前は俺の手足になるつもりはあるか?」
「……え?」
「居場所がない。帰る方法はあるが、マドルもなく、戸籍もなく、職も無い」
改めて言葉にされるとほとんど詰んでいる状況である。う、と喉の奥から声を出す。レオナ先輩はおかしげに表情を崩すと、「だが、お前は幸運だった」とだけ囁くように続けた。
「俺は今、俺の手足になれるような存在を探していた。――草食動物、その手を、その足を、俺のために差し出せ」
レオナ先輩はそう言うと、ゆっくりと私に指先を伸ばす。手入れされた指先は、陶磁器めいた美しさを宿していた。
「そうすれば、いつかは帰れるようになるだろうよ」
ティッシュで涙を拭いて、私はレオナ先輩を見る。どうしてかは、わからない。けれど、どうやら、レオナ先輩は、私に職を与えようとしてくれているのだろう。レオナ先輩の手足となって働く、という職務を。
私は小さく息をのむ。訳のわからない状況だ。勝手に、かつ唐突に異世界に呼び出されて、しかも呼び出された理由さえもわからないまま、この世界で過ごすしかない。本来なら、野垂れ死にしていても仕方無かったし、それこそ、どこか遠くへ売られていても、仕方無い状況だったのだ。
――私は、きっと、幸運だった。二度目の異世界転移で、レオナ先輩に助けられ、また生きる術を示されたあたり、特に。
「……私、帰りたいです」
差し出された手を取る。
「手足になります。……ならせて、ください。レポートの続きも書かなくちゃいけないし」
しっかりと言葉に出すと、レオナ先輩は小さく笑った。契約成立だな、という言葉が耳朶を打った。
「期限はお前が帰るまで。――俺の手足として働け、草食動物」
紡がれた言葉は、楽しげに揺れていた。