ラギ監 今日は朝からついていなかった。
どうしてか携帯のアラームが鳴らなくて、折角の休日なのに寝坊をしてしまった。今日は賢者の島に広がる市街地へ遊びに行くつもりで、前々から色々と予定を立てていたのに、である。
朝から時間をロスしてしまったので、いくつかの予定は諦めて、それでも折角だし買い物くらいは、と少しだけおしゃれをして外へ出たのが運の尽きだろう。
本屋へ行って、好きな作者の新刊を買おうとするものの、売り切れていたり。美味しそうなケーキ屋さんがあったので入ってみたら、目の前で目当てにしていたガトーが売り切れてしまったり。靴擦れが起きて慌てて絆創膏を購入する羽目になったり、散々だった。
それだけでは飽き足らず、帰り道、前日の雨もあり、ぬかるんだ地面は、簡単に足を取った。あっと思った時には水たまりへ自らダイブしてしまい、衣類が汚れた。バイトして手に入れた一張羅が見るも無惨な姿になってしまって、それだけでもう心がハンマーで殴られたかのようにベコベコになってしまった。
最低で、最悪の日だ。見なかったけれど、今日の占いでは最下位を取っていたのかもしれない。さすがに泥にまみれた衣服を着たまま、街を散策することも出来なかったので、家路につくことにした。オンボロ寮までの道の途中、転々と点在する木々が、足元に影を落としている。
せっかく、休日を楽しもうと思って外に出たのに、散々な目にあってしまった。汚れた部分へ視線を落として、小さく息を吐く。
落ちるだろうか、この汚れ。落ちなかったら、少し――いや、結構、辛い。
なんだか嫌なことが続いたからか、少しだけ心がじくじくと痛む。それを振り払うように深く呼吸した、瞬間。
「あれ。監督生くん。どうしたんスか、ジャージのまんまで」
上から声が振ってきた。
慌てて声のした方向へ視線を向ける。けれど、そこには少しばかりオレンジ色を滲ませた空が浮かんでいるだけで、誰も居ない。思わず、えっ、と声を上げると、「こっちこっち」と軽快な声が飛んできて、声の主が姿を現す。――木の上から、降り立つような形だった。
「ラギー先輩。木に登っていたんですか?」
「そうそう。ちょーっとヤボ用っていうかね」
木の上にどんな野暮用があるのだろうか。疑問がそのまま表情に出ていたのだろう、ラギー先輩はからから笑うと「動物言語学の練習してたんで」と続けた。なるほど。恐らく鳥と話していたのだろう、木々からは鳥の鳴き声がちらほらと聞こえている。
「練習してたらさぁ、ほら、監督生くんが通りがかったから。普段通りなら全然気にしないんだけど、今日はゴーストでも背中に乗っけてる? って感じに見えたからさぁ」
「そ、そんな風に見えましたか?」
「見えた見えた。だから、会話を打ち切って降りてきたってワケ」
ラギー先輩はそこまで軽快に言葉を言い切ると、私をじっと見つめた。そうして、すぐに衣類の汚れに気づいたのか、目を丸くする。
「これは……やっちゃったんスねぇ」
「……やっちゃいました」
ラギー先輩は軽く瞬いて、それから私を見た。なんだか一瞬、泣きそうになる。今日あった色々なことが頭の中を駆け巡って、喉の奥が熱くなるのを感じた。
「何があったんスか?」
言葉の代わりに涙が零れかけて、慌てて下を向く。私は目元を軽く指先でこすって、今日あったことを話した。
ラギー先輩は私の言葉に相づちを打ちながら、「大変だったんスね」と息を零すように続けた。そうして、そっと手に触れてくる。
「擦り傷」
「えっ」
「地面に手、ついたんでしょ。傷出来てるんで」
ラギー先輩は言うなり、不意にポケットの中をごそごそと探った。そうして小さな――絆創膏のようなものを取り出す。
「このまま貼ったら汚いし。ちょっと待って」
「えっ」
片手に絆創膏、片手にマジカルペンを手に、ラギー先輩は小さく笑う。そうして、私の目のまでゆるくペンを振って見せた。魔法石が光を帯びて、空中に小さな泡のようなものがとぷん、と現れる。それはふよふよと球体の形を保ったまま、私の手の平に吸い付いた。汚れが一瞬で水の中に移る。
「えっ?」
「さっきから驚きすぎでしょ」
ラギー先輩が息を零すように笑って、もう一度ペンを振る。すると、私の手の平にひっついていた水の塊がとろりと剥がれて、そのまま地面に落ちていった。小さなシミのようなものが、ぱしゃりと地面に広がる。
「凄い」
「これは水魔法の応用、生活魔法ッスね」
「生活魔法……ですか?」
「そうそう。まだ一年では習わない類いのやつ。色々、面倒な操作が必要なんで」
ラギー先輩は息を零すように笑うと、私の手を取った。少しだけ汚れていた傷口が、すっかり綺麗になっている。その上に、絆創膏がぺたりと貼られた。
「手の平だし、簡単に取れるだろうけど。応急処置みたいなかんじで」
「ありがとうございます」
「良いッスよ。お礼にドーナツ一個貰えたら、全っ然」
そういって、ラギー先輩は少しだけ考えこむような間を置いて、「やっぱり二個」と言った。それからすぐ、ペンを振るう。とぷりと水滴が浮かんできて、それらが私の衣類に張り付いた。じわ、と水滴の中に汚れが吸い込まれていくのが見える。それらは泥汚れを綺麗に吸い取ると、先ほどと同じように地面へ落ちていって、弾けた。
「服が」
声が震える。さっきまで、あんなに汚れていた服が、一瞬で綺麗になってしまった。
「これは生活魔法の応用、洗濯魔法! まあ普段は使わないんスけど。大体の服は普通の洗濯でどうにかなるしね。今回は特別ッスよ!」
だから、とラギー先輩は小さな声で言葉を続ける。
「笑ってよ、監督生くん」
喉がきゅう、っと窄まるのを感じた。色々な言葉が心の奥底から溢れてきて止まらないような心地を覚える。
魔法は、無制限に使えるわけではない。使う度にブロットが溜まっていく。だからこそ、むやみに使い過ぎてしまうと、後から大変な目に遭ってしまう。
ラギー先輩だってそれを知っていて、だからこそ、普段の洗濯には魔法を使わないのだろう。けれど、それでも、――私に、魔法を使ってくれた。
ドーナツ二個と、私が笑うことだけを、条件にして。
今日は朝から最悪の日だった。いやについていなくて、本当に悲しいことばっかり起きた。でも。
「ありがとうございます。ドーナツ、沢山作りますね」
「ええっ。二個で良いんだけどなぁ。まあ、貰えるものは貰うんスけど!」
終わりが良かったら、今日一日もなんだかそこまで悪くなかったな、なんて思えてきて、私は笑った。