「今なら杏仁豆腐に添い寝もついてくる!」
「……は?」
魈は匙をすくう手を止め、声のした方向へ視線を向ける。魈の右隣に腰を下ろしている少女は、視線が合うと嬉しそうに笑った。月の色に似た柔らかな髪が、少女の挙動にそって揺れる。まろみを帯びた頬は、少女がまだ年若いことを示していた。榛色の瞳をらんらんと光らせながら、少女は指をぴ、とまるで振り子のように降りつつ、胸を張ってもう一度言葉を続ける。
「今なら! 添い寝もついてくるんです! お得!」
「やったなあ、魈! 旅人が添い寝してくれるって!」
左隣から、まるで楽しげな声が聞こえてきた。右隣の少女が発する声とはまた違う、華やかな声音をしている。魈の左隣に腰を下ろし、チ虎魚焼きを食べながら嬉しそうにふふんと胸を張って見せる少女は、魈よりも一回り――いや、二回り以上、小さい。頭上に冠のようなものを掲げた少女は、まるで二人だけの秘密を口にするように、言葉を弾ませてみせた。
――望舒旅館の屋上、助けを求める人々の声を聞いて魔物を倒し、帰ってきたのがつい先ほどのことである。時刻は日が落ちてからそう経っておらず、魔物が活発化する夜まで少し仮眠を取るべきかと悩んでいたところに、「魈!」という自身の名を呼ぶ軽やかな声と共に、階段を駆け上がってくる音がした。
魈が視線を向けると、そこには思った通りの人物が二人居た。二人は、魈を見ると嬉しそうに笑いながら、お帰りなさい、と声をかけてきて――そうして、現在に至る。
「……意味がわからない」
「意味って……その通りだよ。だから、杏仁豆腐に添い寝もついてくるの」
「いらん」
「悪いなあ、魈! もう旅人の杏仁豆腐を食べちゃっただろ。だから返品は無理なんだ! 残念!」
残念、ではない。魈は眉根をきゅうっと押さえるように指先を動かした。頭が痛い、とはまさにこのことである。
なぜ、こんな、奇怪で、わけのわからない発言を繰り出すことが出来るのだろう。そもそも杏仁豆腐に旅人の添い寝がついてくる、とは一体何だ。人間のすることは最初から最後まで強引で、かつ意味不明でないといけない道理でもあるのだろうか。
「いらん」
「パイモンも言ったでしょ。返品は出来ません。今日は添い寝します」
「おい。そもそも、お前たちが食べろ食べろと、杏仁豆腐を持ってきたから――」
ぐっと額にしわを寄せて、魈は右隣の少女へ視線を向けた。少女――蛍は、痛いところを突かれたとばかりに一瞬だけ眉根を寄せたが、瞬きの間にそれらを拭い去ると、笑みを浮かべてみせる。いっそ怪しさを感じるくらいには、完璧な笑みだった。
「でも! 食べるのを選んだのは魈!」
「……添い寝がついてくると知っていたら食べなかった」
「嘘だぁ。魈、オイラ知ってるんだぞ。魈が、旅人の作った杏仁豆腐、大好きだってこと! 添い寝がついてくるって知っても、絶対食べてた!」
左隣の少女――パイモンが、指を振りながら言葉を続ける。断言するような口調に、魈は軽く顎を引いて、それからゆっくりと首を振る。
何が何でも、添い寝をするつもりらしい。思わず呆れが表情に滲むのを止められず、魈は首を振った。こういうときの頑なさは、付き合いの中でなんとなく理解している。
「……そもそも、急に添い寝だと。何が目的なんだ?」
「添い寝に目的……? 添い寝に目的というか、添い寝が目的というか」
「なあなあ、知ってるんだぜ、魈! 最近よく眠れてないんだろ?」
蛍の言葉を続けるように、パイモンが指を振る。まるでだだをこねる子供に言い含めるような顔つきで、パイモンの視線が魈を捉えた。
「……寝てる」
「嘘だ。この前、璃月まで送ってくれるって時、五回くらい木に頭をぶつけていたじゃない」
何かしら反論をしようとして、魈は口を閉ざした。蛍の言うことは真実で、実際、魈はそのような失態を先日さらしてしまった。あの時は――少し、寝付きが悪い日が続いていたのだ。今はそうでもない。ちゃんと休息を取る時は取っているし、眠れる時間は寝ているつもりだ。
「……あの時と今は違う」
「それでもだよ」
蛍がかすかに眉根を寄せて魈を見る。心配げな表情が、ありありと滲んでいるのが見えて、魈はどことなく居心地が悪くなった。そういう表情をさせたいわけではない。だが、実際、自分の行動が蛍やパイモンを心配させることに繋がってしまっている。
「実はね、魈」
「……なんだ?」
「私は凄いの」
蛍が、ぐっと魈に体を寄せてくる。思わず身を引きかけるが、反対側をパイモンで固められているため、逃げることは出来なかった。
「近い」
「凄いんだよ!」
「そうそう。旅人はすごいんだぜ!」
魈はかすかに眉根を寄せた。恐らく、何が凄いのかを尋ねないと、次に進まない。逃げられることも出来なければ、拒否することも出来ないのだろう。そもそも、両隣を二人に固められた時点から、この場の主導権は二人に奪われていたのかもしれない。
聞きたくない――が、聞かなければ、この状態は、終わらない。魈は蛍の肩に軽く手を置いて、「何がだ」とだけ続けた。これ以上近づかないように、という制止の行動のつもりだったが、蛍は全く違うものに受け取ったらしい。肩に置いた手をがっしりと握られる。
「おい」
「実はね、私の側で寝た人は、もう、凄く凄く寝ちゃうんだよ」
「……。……うさんくさい」
「う、うさんくさくないよ。本当だよ。ねっ、パイモン」
蛍が慌てたようにパイモンへ視線を向ける。それを受けてか、魈の背中から、やはり慌てたように同意をする声が響いてきた。
「そうそう。本当に、凄いんだぞ、旅人の隣は! オイラなんてもう、一瞬で眠っちゃうくらいで!」
「そうそう! ほら! うさんくさくないよ。一度体験してみてよ!」
「そうだそうだ! 木に頭を五回もぶつける前に!」
「凄いんだよ本当に、魈も一瞬で眠っちゃうよ!」
――なんで、こんなに必死なのか。まるで怒濤のように投げかけられる言葉の数々に、魈は眉根を寄せた。魈が眠れていない。ただそれだけの話だ。ただ、それだけの話――なのに、蛍もパイモンも、必死に言葉を重ねてくる。放っておけば良いのに、放っておこうとしない。
ああ、と魈は小さく息を吐いた。知っていた。この少女は、目の前の誰かが倒れることをよしとしない存在なのだと。自身も別れてしまった双子の兄を探すため必死なのに、そのくせ誰かが困っていると手を貸しに行く。
「……うさんくさい」
「う、うさんくさくないってば。あの、でも、魈、本当に最近眠れてないでしょ?」
蛍がかすかに首をかしげて、魈を見つめる。榛色の瞳がかすかに揺らぐのが、魈の視界に映る。うさんくさいことを並べ立て、なおかつ、ものすごく強引に話を進めようとしているが、その奥底には魈に対する心配や、気遣いがあるのだろう。蛍は魈と視線を合わせた後、かすかな不安をその瞳から振り落とし、胸を張って見せる。
「とにかく、今日、絶対、添い寝するからね。今から多分仮眠を取るでしょ?」
「いらない」
今度こそはっきりと、魈は首を振る。だが、蛍はどうにも譲らないらしく、食べ終わった皿を手に取ると、「部屋に後で行くからね!」というなり、駆けだしてしまった。その背中が厨房の方向へ消えていくのを眺めながら、魈は小さく息を吐く。
本当に、なんというか、理解の出来ない存在だった。