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    はちがつ

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    はちがつ

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    置いてぼりを食らったフライくんが二人を待つ話
    腐要素なし

     崩れた壁の隙間から、月明かりが漏れていた。冴え冴えとした光は、瓦礫の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。
    フライは慎重に歩みを進めた。
    冷たい光の中に人影を見つけて、息を潜める。身を低くして警戒したが、その影はよく知る男のそれだった。
    人影は足音に気付き、フライ君、と低い声で名を呼んだ。

    「隊長」
    「無事だったか」
    「はい。隊長も?」
    「当然だ。ここに追手はいない。だが音は立てるな」
    「レヴァンドロフスキは?」
    「まだ来ていない」
    「……そうですか」
    「待つのは夜明けまでだ」

    それだけ言うと、シュミットは壁に背中を預けて腕組みをし、目を閉じてしまった。もうこれ以上何も言うことはない、と示しているように。
    フライは、少し離れた場所で、同じように壁に背を預けた。
    もし、夜明けまでにレヴァンドロフスキが戻らなかったらどうするつもりなのか、とは聞けなかった。

    月光が静かに、むき出しになった石壁と、男達の肩を照らしていた。
    誰かを待つ時間というのは、何かに耐えている時間でもある。
    フライは妙な緊張を気を紛らわそうと、視線だけ動かし上官の様子を伺った。
    整えられた短髪と手入れされた口髭は、微動だにしない。彼はわずかにうつむき、目をしっかりと閉じたまま、部下の帰りを静かに待っている。
    その横顔には、揺るぎない信念、芯の強さがある。
    例え部下の一人が戻らなかったとしても、彼の気丈さが崩れることはないだろう。
    フライは、月の光に晒される上官の横顔を見つめた。
    太陽が辺り構わず、むやみに照らし出そうとする光だとしたら、月の冷たい光は無関心を貫き通しているようだ。
    どっちも嫌いだ、とフライは目を伏せる。

    街外れにあるこの廃墟が、合流地点だった。
    審問所を襲撃し、捕らわれていた異端者を解放した。
    シュミットが突破し、警備兵を引き付ける。手薄になったところで異端者を救い出す。レヴァンドロフスキが異端者を安全な場所へと誘導し、フライは追っ手を食い止めた。
    それぞれの使命を果たした後、ここで落ち合うことになっていた。
    馬車を引いて来るはずのレヴァンドロフスキが遅れているのは、予想外だった。


    「フライ君」

    ふいに名前を呼ばれて顔を上げると、目の前に剣が、突き出されていた。
    シュミットが、フライに剣を向けている――もちろん、鞘に納められたままの剣だ。ソードベルトから外した剣をフライに向けて差し出している。

    「様子を見てくる。少しの間、これを預かっていてくれ」

    フライが剣を受け取ると、シュミットは、すまんがこれも頼む、と羽織っていたマントをひるがえした。
    シュミットは、肩から外したマントをそのまま無造作にフライに向かって放り投げる。フライは剣を持ったまま全身で、大きな布を受け止めなければならなかった。

    「すぐ戻る……レヴァンドロフスキ君と共にだ」

    武装を解いたシュミットは背を向けて歩き出す。フライは彼の背中に向かって問いかけた。

    「隊長、剣を置いて行くんですか?」
    「剣など持っていたらかえって怪しまれるだろう。彼らは今ごろ血眼になって我々を探し回っているはずだ。その中にわざわざ襲撃した時と同じ装いで行くのは、いい考えだとは思わないね」
    「ですが何かあったら……」
    「君は私の身を案じてくれているのか? 頼りないと思わせてしまったかな。そうであるなら申し訳ない、君の上官として情けない限りだ。だが心配など無用だよフライ君。短剣さえあれば私には十分。君こそ一人で待てるのか?」
    「もちろんです」
    「よろしい。私達が……あるいは私かレヴァンドロフスキ君のどちらかが戻るまでここを動くなよ」 
    「了解です」

    去ってゆく背中を、フライは見送った。シュミットはあっという間に、街へと続く夜道の向こうへと消えた。
    上官のマントを汚さぬよう、丁寧に折りたたんで胸に抱えながら、フライはシュミットとの会話を反芻する。
    イラつく会話だった。
    相手が部下であろうと敵であろうと、シュミットは変わらず折り目正しく話す。その話し方は回りくどいものの、皮肉や冷たさはない。
    だが、あの言い方……はっきりと上官と部下の立場の違いを言い渡されたみたいだ。
    フライは、手元に残されたシュミットの剣を見た。
    鞘に納められたままでもその鋭さが分かる。細く真っすぐな刀身。それにクロスガード。重量こそ感じられないが、何人もの命を刈りとってきた剣だ。
    シュミットの信念と誇りが宿っている。
    ――その剣を俺に預けるとはね。
    フライはそっと刀身を持ち上げて、月の光にかざした。銀の光の中、それは紛れもなく十字架の形となる。
    しばらくそのシルエットを睨み付けた後、フライは鼻先で笑って剣を下ろした。
    上官が部下に剣を預ける、軽々しく、何のためらいもなく。
    しかしそれは、けっして信頼の証ではないのだ。

    異端解放戦線の隊長は、豪気さと共に慎重さも併せ持つ。有能な部下であるはずのフライにも、そう簡単には全てを明かさない。この任務だって、解放した異端者を匿う安全な場所がどこなのか、フライには知らされていなかった。それだけじゃない。
    例えばボルコの部隊が任されている物資の輸送先。例えば組織長の居場所。
    任務遂行の水面下で一体何が進められているのか? 今だにフライには何も、情報がおりてこない。
    ――用心深いな。あの男には随分、尽くしたつもりなんだが。
    いつも寄り添うように控えていても、フライは時折、シュミットの警戒を手に取るように感じ取ることがある。
    先ほどの言い方一つとっても、あの男の領分にはそう簡単に入れないのだと思い知らされる。
    確かに、剣を預かるだけの信用は得た。だがそれはまだ、与えられた役割を忠実にこなす部下としての評価にすぎない。奴にとって俺は単なる使えるコマというわけだ。それは信用であっても、信頼ではない。
    フライは舌打ちをする。
    ――奴が命令するのなら俺は、這いつくばってどんな場所でも舐め回してやるというのに……何を差し出せば奴の信頼を得られる? あの男の心まで絡め取るには、何が必要だ?
    気づけば、苦々しい思いでシュミットの剣を強く握り込んでいる。
    クソ、とフライは悪態をつく。
    レヴァンドロフスキを探しに行ったシュミットの背中が思い出されていた。
    もし、戻らなかったのがレヴァンドロフスキじゃなくて俺だったら、とフライは考える。もしそうなら、シュミットは俺を探しに行くだろうか。
    フライ君が戻らないのなら、それは運命だ。そんな一言で終わらせるんじゃないだろうか――思わず、自嘲の乾いた笑いが出る。

    ふと足元を影がよぎった気がした。
    視線をやると、土埃を揺らして瓦礫の下を何かが這っている。
    蛇だ。
    時折、チラチラと鱗に月光を反射させながら、蛇が一匹、音もなくするすると進んでいく。
    フライは、上官のマントと剣を脇に抱えたまま、短剣に手をかけた。突けばすぐ殺せる。
    だがフライは、動かなかった。
    殺す理由など見つからない。ただの蛇だ。
    殺すよりも見ていたい、瓦礫の隙間を音を立てず這っていく蛇の動きを。
    見つからぬように気取られぬよう、蛇は地を這って進む――俺みたいだ。そっくりだ。
    気配を立てずに、終わりまでじわじわと這っていく。背信を隠して狡猾に。嘘ならいくらでもつく。シュミットが隙を見せるまで、組織が壊滅するその時を狙って、俺は蛇のように這う。
    フライは、蛇が闇の中に消えていくのを見守った。
    シュミットの剣を強く握り込んで、信念に強く祈る。
    ーーあいつらを消す。信頼など必要ない。シュミットが俺の裏切りを知ったとしても、奴は怒りも嘆きも見せはしないだろう、俺たちの間に信頼などないのだから。ただ鋭い眼差しで俺を見るだけだ。

    シュミットの身体を、地面に押し付けて乗り上げる。
    膝で逃げ場を奪い、剣を胸に沈める。奴の心臓がびくびくと震えるのを、剣が伝える。哀れなほど小刻みに震えている……。
    俺の裏切りを知ってもあんたは冷静なんだろうな。せめて肉体の痛みを、じっくりと味わえよ。俺は奴の身体を裂いていく。
    痛みに顔を歪めて奴は言うだろう――全ては偽りだったのか、フライ君。

    壁に背を預けたまま、フライは静かに息を吐き出した。
    自分でも不思議だと思うのだが、シュミットを手にかける想像をすると、気持ちが落ち着く。優しい気持ちになれる。世界を丸ごと抱きしめていられそうだ。何度でも想像したい。
    ふと、あの蛇のことを思い出した。瓦礫の下をするりと滑るように進んで行ったあの冷たくしなやかな身体。
    蛇は獲物を噛み殺さない。自分の身体を巻きつけてじわじわと締めあげる。抱きしめながら、静かに命を奪う。
    あれはきっと、殺しているんじゃなくて愛しているんだ。
    身体の内側で命が消えていくのを感じるーーそれはどれほどまでに、獰猛で甘美なんだろう。
    殺す為に抱きしめる。命が消えていくのを身体で感じる。その時蛇が思うのは、残酷さでも冷酷さでもない。ただ静かな幸福なんだ。

    ーーなあ、シュミット。俺があんたを殺す時、俺はあんたに対して初めて優しい気持ちになれそうだよ。愛してるみたいに。

    フライは、シュミットが残していった剣とマントを、大切なもののように抱えなおした。
    頬を月の光が撫でていくのを感じながらフライは、シュミットとレヴァンドロフスキが戻るのを待った。




    どのくらい、時間が経ったのか。
    合流地点の廃墟にいるのは、まだフライだけだった。
    夜空の月は、位置を刻々と変えている。
    やはり何かあったか。
    フライは、シュミットとレヴァンドロフスキが戻らない理由を考えていた。
    考えられる理由はいくつかある。
    例えば異端者を匿っておく場所が、すでに教会側の手に落ちていたとか。隠匿場所が街の中であればその可能性は高い。
    今回の救出任務でフライは、レヴァンドロフスが異端者を安全な場所に誘導できるよう、審問所の門扉の近くで、追手を食い止めた。二人ほど殺した。

    レヴァンドロフスキ、あの間抜け野郎。あいつは罠にかかったんじゃないのか?
    隠れ場所がすでに教会側の人間に知られていたとしたら……様子を見に行ったシュミット共々、待ち構えていた警備兵に滅多刺しにされ、何本もの剣で串刺しにされているかもしれない。
    だとしたら、とても残念なことだ。奴らを殺すのが俺じゃないとは。

    しかしフライはすぐにその考えを打ち消した。
    あのシュミットとレヴァンドロフスキが、そう簡単に教会の警備兵に捕まるか? 今回襲った審問所には警備兵だけが配備されていて、騎士団はいなかった。
    嫌な予感が、胸をかすめていた。

    何故二人とも、戻らない?

    ぞわりと、背中に嫌な感触が走った。
    思わず身震いして振り返るーー誰もいない。崩れた壁から入り込んできたのは、隙間風だ。

    ……ある疑念が、胸に生じ始めていた。
    生じ始めていた、というのは違うな、とフライは思う。それはずっとある。フライの胸の奥に、いつもある。
    シュミットの横に立った時から。この組織に入った時から。いつも胸にある疑念。

    ーー俺の正体が、見抜かれたのではないか?

    カラリと乾いた音がした。
    風で瓦礫が転がったのをフライは横目で確認した。ただの物音なのに、やけに大きく響く。

    ーー罠にかかったのは、俺なのか?

    フライは去っていった上官の背中を思い出した。
    ここを動くなよ、奴はそう言った。
    あの二人は、任務の前から示し合わせていたのかもしれない。俺をここに残したのは、俺を切り捨てるためか?
    フライは、シュミットの姿を慎重に思い返す。
    様子を見にいくと、暗闇に消えたシュミットの背中。
    壁に背を預け、不自然なほど無言だった横顔。
    部下の立場を弁えるよう、暗に伝えてきた時の眼差し。

    全て、何もかもを断ち切っていく遠さがなかったか? 
    あの時奴は既に俺を見切っていたとしたら……? 

    いや、まだ剣がある、とフライはシュミットの剣を強く握りしめた。
    剣があるじゃないか。マントも。シュミットは俺に預けていったんだ。なら奴は、レヴァンドロフスキと戻るはずだ。

    ーーだが、これも、剣を預けたのも、俺を油断させるためのものかもしれない。全ては、俺を断ち切るための。

    疑い出せば、キリがない。
    こうした疑念はタチが悪い。浮かんでは否定し、否定すればするほど、その考えは頭の中に居座る。バレたんじゃないのか、いや、そう判断するのはまだ早い……堂々巡りだ。本当のことなんて分からない。

    フライは壁に背をつけたまま、ずるずると座り込む。

    ーー全ては偽りだったのか、フライ君。

    あの男を殺す時に聞くはずだった言葉が、頭の中で空虚に響いた。

    俺が、俺のタイミングで、俺の意思で。あんたを裏切るのに。
    俺があんたを。ちくしょう。
    屈辱を知るのはあんたの方だ。

    瓦礫に囲まれた廃墟を、月明かりが照らしていた。
    今夜の月は夜に影を作るほど、冴え冴えとしている。どこを見ても死んだような場所だ。何もいない。いるのは蛇だけだ。

    俺はここで、どれだけの時間を過ごせばいい、いつまでこの時間に耐えればいい。なあ、何で戻ってこない……

    ーー全ては偽りだったのか、フライ君。

    頭の中で、その言葉だけが呪いのように繰り返される。
    廃墟の中を冷たい風が吹きぬける。それはフライの耳元で、不吉な音となる。
    飼い慣らせよ、とフライは自分に言い聞かせる。猜疑心、苛立ち、不安。俺は今、こんなものに囚われている。奴ならこんなものに振り回されない、シュミットなら。飼い慣らせよ全部。神のために出来るだろ……。
    やがて、風の音さえも吸い込んでしまうような静寂が訪れた。

     



    耳障りな音が近づいた。
    重く引きずって、軋みながらこっちに向かってくる。
    フライは瓦礫に囲まれた場所で蹲りながら、その音に耳を傾けた。近づいてくるのが何なのか、判別は容易だった。馬車だ。あれは馬車の音。
    待ち望んだその音は瓦礫のすぐ近くで止まり、足音が聞こえてきた。

    「おーい! フライ、いるかあ?」

    廃墟に響き渡ったのは、場違いなまでに能天気な声だ。

    「あれ、フライは? おーい、いるかあ? フラーイ、どこいった? 返事しろー! へばってんのかあ?」

    フライはのろのろと身体を起こす。待っているふりの時間が、ようやく終わる。
    騒々しい声にイラついたから、返事はしなかった。
    瓦礫の向こう側に、フライを探すレヴァンドロフスキの姿を認め、睨みつけた。視線を感じたレヴァンドロフスキがフライに気づき、満面の笑みを広げた。

    「おっそこにいたのか。返事くらいしろよ。てっきり瓦礫に潰されてんのかと思ったぜ」
    「……声でかいよ」
    「だってお前返事しないからさあ」

    隊長は? と聞く前にレヴァンドロフスキの背後から、もう一つの足音が聞こえてきた。

    「レヴァンドロフスキ君。大きな声をだすと馬がまた怯えるぞ」
    「あ、そうっすね」

    フライ君。と、上官はフライの名を呼ぶ。
    何も変わった様子はない。いつもの落ち着いた低い声。まだバレていない。バレるはずがない。

    「待たせてしまったな」
    「隊長。無事でよかったです……レヴァンドロフスキも」
    「おいおいフライ。今お前、俺のこと、完全にそういやお前もいたなって感じで言っただろ」

    レヴァンドロフスキの軽口に、安堵を覚える自分が腹立たしい。ついさっきまで、精神を占めていた猜疑心、それが簡単に霞んでいくなんて……湧き上がる安堵を自嘲で抑え込もうとして、フライの顔は少し歪む。
    預かっていた剣とマントを手渡すと、シュミットは言った。

    「フライ君。ちゃんと待ってて偉いぞ」
    「俺は子供じゃないです」

    思わず反射的に返してしまってから気づく。子供扱いされて子供のような反応をした。内心、舌打ちする。不意打ちだ、こんなの。
    褒められてよかったなフライ、と背後でレヴァンドロフスキが笑うのも気に入らなくて、死ね、と呟いた。シュミットは、相変わらず眉毛ひとつ動かさない。

    「では次に似たようなことがあれば君に行かせよう。大人として責任を果たしたまえ」
    「当然です……ですが、何があったんです?」
    「蛇だよ」

    蛇。
    一瞬言葉に詰まって、ぎくりとした。
    瓦礫の下を這っていったあの蛇が蘇る。蛇……フライが自分の姿を重ね合わせたあの生き物。信用ならない舌をちらつかせ、身をよじりながら這って進む蛇。猜疑心に満ち、狡猾に嘘をつく。
    フライの僅かな動揺に気付いたのか、シュミットが少しだけ眉を顰めてフライを見た。見極めるような視線に、フライは耐えた。
    レヴァンドロフスキが、シュミットの後を受けて説明した。

    「異端者はちゃんと安全な場所に送り届けたんだぜ? その後のことだよ。ここに向かう途中、馬車の車輪に蛇が絡みついてさ」
    「蛇が……?」
    「ああ、蛇だよ。自分から巻きついて車輪に絡んでさ、車輪に巻き込まれて押しつぶされて、死にやがった」
    「……そんなことがあったのか……」
    「馬車を動かした時、ブチブチって嫌な音がしたんだよなあ。見にいったら蛇の肉が飛び散ってさ。肉片が車輪にへばりついてるんだ、これを剥がすのがまた面倒で。蛇の血もベッタリだし。あの蛇……自分から巻き付いてきて、ぐちゃぐちゃに潰されて死ぬなんて……なあ? 哀れだよ、見苦しいほど。でも可哀想なのな馬だ……怯えちまって、動こうとしないんだ。それで立ち往生したところに隊長が来てくれた。二人で何とか馬をなだめてようやく着いたんだよ」

    フライはレヴァンドロフスキの話を、俯いて聞いていたーー自分から車輪に巻きついて体を引き裂かれた蛇。馬鹿なやつ。死んで当然だ。

    シュミットの深く探るような視線を、感じていた。
    何かに気づいたのか、思うところがあるのか、シュミットの視線はまだフライの横顔に注がれている。
    気を緩ませるな、いつも通りでいろ、とフライは奥歯を噛み締める。
    フライ君、とシュミットが静かに言った。

    「ここにも、蛇がいるな」
    「……そうですか……?」
    「いただろう蛇。君は見なかったのか?」
    「……さあ……」

    喉の奥で息を飲み込んだ。
    まさか俺の正体に気づいたという訳でもあるまい。蛇の話なんてやめてくれーーあんたは蛇の何を知ってるというんだ?

    「もし、今度蛇を見かけたら……」

    シュミットの目はまだ、フライをじっと見ている。

    「蛇を見かけたら……? 殺しますか?」
    「ああ。当然だ」

    内臓を鷲掴みにされたような思いだった。落ち着け、たかが蛇の話だ。なのにまるで、死刑宣告を待っているような気分だ。
    あの言葉がまた蘇るーー全ては偽りだったのか、フライ君。
    俺があんたを殺す日。それは俺があんたに殺される日でもある。
    シュミットは言った。

    「蛇を殺したら、皮を剥いで食おう」
    「は?」
    「食うんだよ」

    唐突な話の流れに、驚いたのはフライだけじゃなかった。
    え、蛇食うんですか、とレヴァンドロフスキが素っ頓狂な声を出す。

    「皮を剥いで焼いてな。案外うまいぞ。蛇の食い方は昔ボスに教わった」
    「ボスに……?」
    「自然は雄大だが同時に厳しくもある。時には一人で荒地を彷徨い、野生動物を食することもあるだろう。自然界で生き抜くための基本だ。君たちも覚えておくといい」
    「食えるんですね、蛇……」
    「食える。飢えたら何でも食おうという気になるさ。実際、美味いぞ蛇は。野生味があって歯ごたえもいい。野生の動物を捕獲し食べること、それは単なる栄養補給を超えたものがある。深く根源的な行為だ。自然の中では人間など、その恵みによって生かされている小さな存在に過ぎないと、君たちも知るだろう。そして、全てを超越する偉大なる自然に改めて驚嘆する。素晴らしい、と」

    自然を語って満足したのか、シュミットは得意げに髭を摘んだ。
    フライは、苦笑いとともに息を吐き出すーー何だよ、それ。やはりシュミットの考えることは読めない。それはどこか呆れさせ、不安にさせ……そして少しだけずるい。

    「マジっすか。ほんとーに美味いんでしょうね。俺、蛇を食うなんて信じられないんですけど。なあフライ。そう思うだろ? 蛇だぜ。隊長。蛇食って不味かったら責任とってくださいよ」

    レヴァンドロフスキの無駄な騒がしさが、懐かしいもののように思えるのが、まさに、まさに滑稽だ。




    廃墟を、月の光が照らしていた。
    馬も落ち着いたようだから移動する、とシュミットは宣言した。
    いつものように、馬車の御者を務めるのはレヴァンドロフスキだった。
    出発前、レヴァンドロフスキは馬の首筋を丁寧に懸命に、あやすように撫でていた。
    女を抱く時も、あんな優しい手つきをするんだろうかとフライは思う。
    馬車の荷台で、いつものようにシュミットの隣に腰を下ろしていた。
    馬車が動き出してから間を置かず、シュミットが言った。

    「フライ君。少しだけ身体を預けるぞ。いいか」
    「……はい」

    すまんな、夜明け前に起こしてくれ、とシュミットは、フライの肩に重みをかける。
    その動作に、ためらいはない。剣を預けた時と同じだ。何のためらいもなく、軽々しく身体が触れる。
    シュミットはもう目を閉じてしまった。触れた肩から体温が伝わる。
    フライは身動きができなかった。
    すぐ近くの、シュミットの横顔。睫毛の影が目元に落ちていた。
    シュミットのまとう匂いが、陽の光を感じさせるのは、やはり気のせいなんだろうか。
    フライ君、と目を閉じたままシュミットは言った。

    「……このままでいてくれ」

    低く落ち着いた上官の呟きに、フライは何も答えることができなかった。
    忠実な部下のままで?
    今だけの休息として?
    ーー馬鹿馬鹿しい。意味など考えても無駄だ。

    ふと、フライは蛇のことを思い出した。
    あの蛇はどこに行ったんだろう。瓦礫の中、這って暗闇に消えた蛇。
    あいつも何処かの馬車の車輪に巻き付いて、ぐちゃぐちゃに潰されてしまうんだろうか。脳裏に、瓦礫の下をするすると、這っていった蛇が浮かび上がり、同時にあの言葉がこだまする。冷たい声がフライに言うーー全ては偽りだったのか、フライ君。
    肩の重みを感じながら、全ての思考を葬り去ることが出来たらどれだけいいか、とフライは目を閉じた。

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