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    はちがつ

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    はちがつ

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    転生したフラシュミ
    二度目の裏切りに挑むフライ君の話②

    #フラシュミ

     K駅を出た我々は、パブでジョッキを掲げて乾杯した。
    愛してやまない国産のビールを喉に流し込む。ウォッカもいいが、仕事終わりの一杯は、やはりビールがいい。いつも以上に美味いと感じる理由は、仕事を終えた後の解放感だけではないだろう。思いがけない時間を楽しんでいるからだ、彼と二人の時間を。
    胸の高鳴りを抑えられない自分に、思わず笑ってしまいそうになる。
    我ながら浮かれすぎだ。彼とは今日初めてあったばかりだというのに。だが彼とは運命的な出会いをしたのだから仕方ない……ほら、やはり私は浮かれている。冷静な第三者がいたら、私はさぞかし滑稽な存在に思えたことだろう。恋の始まりというのは、こんなものだったろうか。滑稽で馬鹿げていて楽しい。私は、浮かれた気分を隠しもせず彼に言った。

    「やはりこの国のビールは最高だ。他国の人間がどれだけ味がないだの馬の小便みたいだと揶揄しようが、私はこのビールが好きだ。こんなに美味い飲み物は、他にない」
    「完全に同意します」

    彼はそう言うと、ジョッキを傾けた。
    彼の骨ばった喉仏が上下に動く。おそらく無駄な筋肉がつかないタイプである体型の彼は、首筋が長く喉仏が目立った。彼の喉仏は、男の私から見てもきれいな形をしていた。
    駅で、彼の姿を見つけた時と同じだ。どうしても目で追ってしまう。見入ってしまったことを彼に気付かれる前に、私は髭についたビールの泡を拭い、髭の形を整えるふりをした。

    このパブレストランは、彼が選んだ。
    庶民的で気兼ねのない雰囲気もいいが、何よりビールの種類が豊富なのがいい。
    彼に店選びを任せて良かったと思う。
    私はk市には日帰りの出張でよく来ているが、ビジネスの相手と二、三度カフェで打ち合わせをした程度で、この街の飲食店事情に疎かった。
    彼はスマートフォンを操り、近場でめぼしいレストランを見つけだすと、この店がよさそうです、と迷うことなく提示してみせた。
    そればかりか彼は、このレストランはモバイルオーダーに対応しているから先に注文しておきましょう、と言って慣れた手つきで小さな画面を操作した。
    おかげで我々が店に到着して乾杯して間をおかず、温かい料理が運ばれてきた。小麦の皮で具材を包んだ伝統料理で、ビールによく合う。店も食事も、彼のチョイスは素晴らしかった。
    彼は、スマートフォンをテーブルの上に置き、指で画面をタップしながら言った。

    「追加で頼みたいものがあったら言ってください。注文しちゃうんで」
    「店内にいても、モバイルでオーダーするのか? 今、料理を持ってきてくれた店員に頼めばいいじゃないか」
    「システムがあるんだから活用しないと。店側だってその方が効率がいいんですよ」
    「使いこなすなあ……」
    「これくらい普通ですよ、出来ない方が困ると思いますけど」
    「デジタル技術に振り回されたくない。そういう性格でね」
    「そうはいっても、スマートフォンくらいは持っているんでしょう?」
    「ああ。不本意にも、ボスに持たされている」
    「あなたのボスに?」
    「業務連絡用だよ。だが積極的に使おうとは思わない。ほぼ使ってない」
    「連絡しなくていいんですか? 今頃あなたのボス、連絡ないって苛立ってるかもしれませんよ?」
    「ボスはいるにはいるが、私はボスに管理されているわけじゃない。それに今回の仕事は私に一任されていてね。逐一報告などしないのだよ」 
    「なるほど。あなたとボスの間には、信頼関係が成り立っているんですね」
    「うん、そうだ。ある程度の信頼は築けていると思う。ボスとの関係は働くうえで大切な要素だ、君もボスはいるだろう?」
    「ええ、いますよ。K市での仕事はボスの命令で来ました」
    「いいボスか?」
    「……さあ? 業務の命令も報告も、いつもメールだけで済ませるので」
    「それは……君には悪いが、あまりいいボスとは思えないな。メールのやり取りだけで指示したつもりになっているなら、怠慢だ」
    「いいところもあるんですよ、例えば無駄な会話をしなくてもいい、とかね」
    「メールに頼り切りな上司はどうなんだ? いや……私は情報通信技術というものに全く信用を置いていなくてね。便利なのはわかるよ。だが通信やシステムにトラブルが起きればすぐ機能不全になる。危うさを残した技術だ」
    「ですがもはや、ネットワークなくしては社会は成り立ちません。トラブルがあれば、俺らみたいなエンジニアに仕事が回ってくるわけですし」
    「そうか。君はエンジニアだったな。通信技術に携わっているのか?」
    「はい。あなたが信用しなくとも、そういう技術で生計をたてる人間はいるんです」
    「それはすまなかった。今日はトラブル対応か?」 
    「ええ、まあ……」
    「最近、K市でよく通信トラブルが発生していると聞く」
    「不正アクセスの件があったから、その対応もあって」

    彼の言う不正アクセスとは、ここ最近K市で起きているちょっとした事件だった。
    K市内の、複数の施設の重要システムに外部からのアクセスがあったことが確認されたのだ。観光都市でもない小さな地方都市であるK市の行政機関や病院、金融機関に、なぜ不正アクセスが集中したのか、今のところ不明だ。
    情報が流出した、もしくはデータが改ざんされたなどの被害はなく、単なる愉快犯のイタズラ目的、というのが大方の見解だった。

    「また不正アクセスがあったのか?」
    「いえ、システムのトラブルです」
    「そうか……トラブルの原因は?」
    「……バグみたいなものです」
    「復旧したのか?」
    「……一応は」
    「そういうのは全部、ボスに報告するのか?」
    「はあ……」
    「そういえば、君のボスは、君が熱心な信徒だということを知っているのか?」
    「……なんでそんなこと聞くんですか?」
    「信仰を持っていれば、仕事と矛盾を感じることもあるかもしれないと思ったんだよ、君のボスはそういうことに対して、きちんと配慮があるボスか?」
    「別に矛盾なんか感じないですけど……」
    「そうだな……例えば日曜礼拝とかはどうだ? 信心深い君なら行くだろう? サーバートラブルで呼ばれたら、どっちを優先するんだ?」
    「なんか……さっきから質問多くないですか?」
    「え? そうだろうか」
    「自分が知りたいことばかり、次々と聞いてくるじゃないですか……あなたの質問には、もう答えたくないです」
    「……何か気に障ったのか?」
    「ええ、気に障りましたね」

    突然、彼は冷たく言い放った。
    素っ気ない態度で、私の方には見向きもしない。
    私の頭の中にはクエスチョンマークが飛び交っていた。訳が分からない。
    どうやらまずいことに、私は彼の機嫌を損ねてしまったらしい……
    何でだ?……何がまずかったんだ? 
    やばいかもしれない、と思った時には、もう遅い。彼は冷ややかな空気を纏って私を遮断した。私の存在などきれいさっぱり消し去ったかのようだ。私はただ、冷淡な彼の横顔を見ているしかなかった。
    頭の中で会話を思い返す。何が彼の機嫌を悪くさせたんだ……。

    「……すまない、せっかく飲みに来たというのに仕事の事ばかり聞いてしまって……」

    なんとか口にしたのは、そんな言葉だった。いかにも間の抜けた気の利かない面白味のない男が言いそうなセリフで、自分でも頭を抱えたくなった。
    彼はジョッキに残ったビールを一気に飲み干すと、私に視線だけ向けて言った。

    「そういうことじゃないです」
    「……すまん、何がダメだった? 分からん……」
    「あなたが知りたがってばかりいるからですよ」
    「……それがダメなのか?」
    「あなたはもう、俺がどういう職業か知ってる」
    「ああ。君はエンジニアだ」
    「それに、俺が信仰を持っているってことも知ってる」
    「ああ……熱心な信徒だと、君自身がそう言った」
    「ええ、そうです。信仰心がある、というのは俺という人間を知る上ですごく重要な部分だ。あなたは、俺の重要な部分も知っているし、俺の仕事のことも知っている。なのに、俺はあなたのことを何も知らない。それどころか、あなたは自分の知りたいことを聞くばかりで、何も教えてくれない」

    彼は私をじっと見据えていた。彼の黒い瞳は深く沈んでいて、表情が読み取れなかった。

    「俺があなたについて知ってることと言えば、スマホの操作が苦手なのと、ボスとの関係は良好、くらいです。ちょっと釣り合わない気がします、今の時点であなたが俺について知っていることと比べたら……あなた、何者なんです?」
    「私は……」
    「俺に色々聞くならせめて、あたながどんな職業に就いているかくらいは教えてほしいですね。人に言えないような職業の人間と、酒を飲み交わしたくない」
    「私は……私の仕事は……セキュリティだ」
    「セキュリティ? 何の?」
    「……情報だ」
    「つまり、セキュリティエンジニアというわけですか? なんだ、同業種じゃないですか」
    「……私は、エンジニアではない。が、対策を任されている」
    「対策?……ああ、例の、不正アクセスの件ですか?」
    「……ああ、そうだ」

    例の不正アクセス。
    最近K市で頻発している、小さな事件。
    それこそが、私がこの街に派遣された理由だ。
    表向きは不正アクセスの調査だが、この任務の本当の目的は別にあった。その一つは、ある機密情報を守ることだ。
    私に依頼があったのは、K市のとある研究所。古い研究所だから存在自体あまり知られていない。今回の不正アクセスも、研究所は対象外だったらしくネットワークにそれらしい痕跡は確認されなかった。
    だがこの研究所で密かに研究されていることは、重要かつ世間に発表できないものなのだ。被害はなかったとはいえ、研究所と同じ地域でサイバー攻撃があったのなら、例え愉快犯のいたずら目的であろうとも、何かしら防御の対策を講じなければならなかった。
    そんな事情を抱えていた私は、自分の職業について話題にするには、少し慎重になる必要があったのだ。

    「気をつけるべきですね」

    彼がそう言ったので、私は身構えた。見透かされているのかと思った。私はジョッキのビールを飲み、動揺をごまかして言った。

    「気をつけるべきとは?」
    「あなたなら分かるでしょう」
    「……何のことだ?」
    「セキュリティ対策の強化ですよ。今日トラブルに対応した件がまさにそうでした。検知システムを新たに導入したせいで、システムのパフォーマンスが悪くなってるんですよ……それが原因のトラブルで。そういうのが多いんですよ、最近」
    「……なるほど」
    「あの不正アクセスがあったせいで、どこも対応に追われてます。特に被害はないんですがね、イタズラ目的だろうし」
    「ああ……」
    「あなたが何故、通信情報に関わる技術を信用しない、と言うか、なんとなく分かりましたよ。情報セキュリティに携わるあなただからこそ、脆弱性もリスクもよく知っている、というわけですね」
    「……まあ、そう思ってくれて構わない……」
    「……別に俺は、あなたの職務内容について詳しく知りたいと思っているわけじゃありません……」

    彼はそう言いながら、ごく自然に私に身体を寄せたので、私たちの距離は一気に近くなった。もちろん物理的な意味で近づいたということだ。彼の体温を感じるほどに近い。彼は私の耳元で囁いた。

    「俺が知りたいのは、あなた自身の事だ。何に喜びを感じ、どんなことで傷つくのか、そういうことが知りたいんです」

    知りたいのは、私の方だったのに。
    胸がヒリヒリと痛い。彼の言葉も彼の視線も、胸に痛かった。
    彼の瞳が、すぐそこにあった。表情を読み取らせない目だが、私はその目を見つめた。まるで恋人同士みたいに近い距離だった。
    彼と私は、恋人同士のように見つめ合っていたが、恋人同士が醸し出すような甘い空気はなかった。
    あるとしたら、一種の緊張だ。
    自分をどこまで明らかにできるのか、距離を測っているような探り合いをしているような。彼の言う通り、私は彼に何も開示していない。

    駅で彼と出会った時のことが思い出される。
    美しい出会いだった。
    懐かしさを覚える旋律がかすかに聞こえて、彼が眩い夕日に照らされて私の元へとやって来たあの、美しい瞬間。運命だと思ったあの瞬間。
    初めて会ったにも関わらず、私は彼のことを知りたいと思ったし、彼と共に過ごす未来のことさえ思っていた。思い描いていた未来では、私たちは、なんの抑制もなく心を開いていた。
    これが運命なら、彼との出会いが、神の与えてくれたものなら、そんな未来が待っているはずじゃないのか……。

    ふと、この微妙な緊張感を抜け出すように、彼が柔らかく微笑む。
    彼は肩をすくめ、冗談めかして言った。

    「やはり、あなたという人間を知るには、セックスするのが一番手っ取り早そうですね」
    「……言っただろう。出会ってその日のうちに、そういうことはしない主義だ」
    「残念です。あなたのかわいいところ、たくさん見たかったのに」
    「……どういう意味だ?」
    「そのままの意味ですよ。セックスしたら、きっとかわいい反応するんだろうなと思って」
    「私をよく見たまえ、髭を生やした男だぞ」
    「ええ、分かってます、かわいいですよ。俺のタイプなんです、あなたみたいな男は。特にその髭が好きです、というか、そそりますね」

    同性から面と向かってそういうことを、あけすけに言われたのは初めてだった。いや、異性からだってこんな風に言われたことはない。そそる? 私が? 髭が?
    正直、何と返していいか分からず、私はまごついて返した。

    「君の……その、性的嗜好は…同性に向けられているが、それは……宗教とは矛盾しないのか?」
    「ああ、それは……」
    「あっ……すまん。また質問してしまった」
    「いえ、その質問には、ちゃんと答えますよ。そうですね、矛盾はしません。なぜなら聖書の教えにあるからです、愛こそが重要なのだと。大切なのは愛があるかどうかであって、同性愛であれ異性愛であれ、そこに違いはないはずです」
    「うん、そうか……私は、聖書を読まない人間だが、その教えは素晴らしいと思うよ」
    「……ええ。ですよね」
    「重要なのは愛、その通りだ。愛こそが全て……笑っているのかね」

    私は真面目に会話したつもりだったが、彼は肩を震わせて笑っていた。多分、髭のくだりから、彼は笑いを堪えていた。
    彼は、楽しんでいるのだ。私の反応を試して遊んでいるのは間違いなかった。
    まあいい。探り合いをして微妙な空気になるよりはずっとマシだ。むしろ彼が楽しんでいるならば、もっと楽しませてやりたいほどだ。

    「すみません……なんだか笑えてしまって。あなたと愛について話すこの状況がもう……俺的に面白くて」
    「私が愛を語るのが、おかしいかね? ならばいくらでも語ってあげよう」
    「勘弁してください」

    彼は堪えきれず、声を出して笑った。
    正直、彼の笑いのツボはよくわからない。笑うというのは場合によっては単に可笑しいだけでなく、複雑な感情が入り混じっているものだし、真意を隠すために笑うこともあるだろう。
    しかし彼が楽しそうに笑えば、私は嬉しいのだ。
    ところで、と私は言った。私だって、彼に何も打ち明けないでいるつもりではない。

    「……君に確認しておきたいことがある」
    「何ですか?」
    「その……私はそんな感じに見えるか?」
    「は? そんな感じとは?」
    「だからその、君から見て、私はそう見えるのか? 君と同じように性的嗜好が同性に向かうような、そういう男に」
    「見えますけど? あなたは、男と関係を持って男に組み敷かれ、男に押さえつけられて男に奥まで突き上げられたい男に見えますけど。違うんですか?」
    「……今まで恋人といえる人は、全て女性だった」
    「あなた自身、自分がどういう人間かまだ知らないだけだ。あなたは男を欲しがる男なんですよ」
    「自分がどういう人間か、自分でよく分かっているつもりだが……しかし言われてみれば確かに、今までの恋人は全て女性だったが、浮気相手は男性だった」
    「……は?」
    「君の言う通りなのかもしれないな。滲み出てしまったのだろう」
    「ちょっと待ってください。浮気? あなたが?」
    「幻滅したか?」
    「ええ、割と」
    「人が持つのは良い面だけではないと知っておいた方がいいぞ。私のことを知りたいんだろ? 一面だけで評価しようとするのは、それこそリスクがある」
    「なんで開き直ってるんですか? 最悪だ」
    「ああ、まさしく最悪だった。当時付き合っていた女性にも浮気相手にも酷いことをした。私は、確かめたくて……自分が何を求めているのか。その結果、最悪な事態を招くことになった」
    「自分の性的嗜好を確かめるために、浮気したということですか?」
    「そういう認識で合っている」
    「クソ野郎じゃないですか」
    「反論はしない。君のいう通り私はクソ野郎だ」
    「……で? 自分がクソ野郎でゲイって自覚した後は何人の男と寝たんです?」
    「もう誰とも寝ない、と誓ったよ」
    「……」
    「恋愛もセックスも自分の人生から排除した。まあ、諦めたと言った方がいいか」
    「なぜ……?」
    「愛のない行為は虚しいだけだと分かったからだ。駅で話したことを覚えているかね? セックスは目的じゃなくて手段だと言った」
    「ええ、そんな話しましたね。あなたは確かにそう言った。あなたにとってセックスは何の手段なんですか?」
    「愛だよ」
    「は?」
    「愛し合うための手段だよ。心の底から愛する人と愛を交わす。そういうセックスはたった一度でも人生を変えるほどの意味を持つ。一生、忘れられないほどの」
    「……忘れられない……?」
    「ああ。だから私は本当に、心から愛したい人、そんな運命だと思える人が現れるまでは、恋愛もセックスも、自分の人生には不要なものとすることにしたんだ」
    「……」

    彼はまた、笑うのかと思った。
    おおげさですね、セックスにそんな理想を求めるなんて夢見がちだ、なんて言って。口の端を上げて少し冷めた目つきで、さも、馬鹿な話を聞いた、みたいに。そんな風に笑い飛ばしてくれて構わなかったのに。
    だが、彼は目を伏せて静かに、そうですか、と言っただけだった。

    その時、彼のスマートフォンが通知を知らせた。
    彼は、画面をタップして確認すると、軽くため息をついた。

    「ボスからです。俺はこれからL市のD地区まで行かなきゃならないらしいですよ」
    「L市まで? 今からか?」
    「ええ、明日の朝にはL市に着くようにと……夜行列車で行くかな……」
    「k駅に夜行列車は来ないぞ」
    「ええ、今からすぐS駅に移動すれば、S駅発の22時過ぎの夜行便に間に合う。明日の朝6時前にはL市に着く」
    「急な話だな……君じゃなきゃダメなのか? 君のボスに行かせたらいいじゃないか」
    「人手不足でしてね。まあ、人使いが荒い職場なんで、人員はすぐいなくなってしまうんですよ。しょうがないです」
    「行くのか……?」
    「仕事なんで……すみません。もう行きます。少しの間でしたけど、あなたと過ごせて楽しかったですよ。あなたは? この後どうするんですか? K市に宿泊するんですか」
    「君を送った後に考える……駅まで送るよ」

    私達は、パブを出て駅までの道を歩いた。
    日が落ちてしまえば外気は肌に冷たく、コートがないことが悔やまれる。駅に向かう道だと言うのに、ほとんど人は歩いていなかった。
    これが自然の中ならまだしも、ビルや商業施設がたち並んでいるのに、街灯の灯りもまばらで人の気配がないというのが、地方都市ゆえの寂寥感を感じさせた。
    冷気に晒されて私たちは、何となく寄り添って歩いていた。お互いの体温を感じるほどの近い距離だ。つい数時間前に出会ったばかりなのに、まるでずっと昔からの恋人のように寄り添っている。
    彼の隣で私は何も言えずにいた。もちろん、言うべきセリフは分かっている。
    ーーまた、会えるだろうか? 会いたい、連絡先を教えてくれ。
    そんなセリフだ。だが、私は言えなかった。
    彼に拒否されるのが怖かったからだ。大事なことほど言うのが怖い。
    運命的な出会い、なんて思っているのはきっと自分だけで、彼にとっては何の意味もない、ただの暇つぶしの時間かもしれない。
    パブで話している時に、もっと懸命に伝えたらよかった。出会った時から君にどうしようもなく惹かれている。君と別れがたいのだと。
    手を伸ばせば届く距離なのに、私は彼を引き止められずにいた。

    k駅が向こうに見え始めた。
    人間の技術を結集して建てられた、近代的建造物。大きなガラスパネルを配した建造物は、屋内の照明のせいで発光しているように見えた。宇宙ステーションみたいだ。私は光を放つ駅を眺めながら言った。

    「君がL市に着く頃には、きっと夜明けの時間だ」
    「ええ、そうですね」
    「朝日を見るといい」
    「……夜行列車の中から……?」
    「ああ、運が良ければ、地平線の向こう側から登り始める朝の光が見えるだろう。夜行の車窓からみる朝焼けは、また格別なものがあるんだ。大地の上の移動を感じながら、荘厳な朝の光に照らされる……時間という概念を忘れるような、神秘的で素晴らしい瞬間だよ。ただただ、圧倒されて、感動する。世界は美しいんだと実感する。君がその素晴らしい眺めて微笑むことを祈ってーー」
    「そんな顔しないでください」

    途中で彼が私の言葉を遮って言った。

    「そんな、寂しい顔。たまらなくなる」

    彼はそう言うと、私を掴んで引き寄せた。
    突然のことだった。背中に彼の腕があって、彼に抱き締められているのだと気づいた。彼は私を抱きしめていた、何も言わず、強い力で。しがみつくみたいに。
    私も彼を抱きしめ返したかったが、彼が子供みたいに身体全身で抱きついてくるので、身動きが取れなかった。
    あやすように、彼の背中をそっと撫でる。本当はもう彼と離れたくなかった。
    離れたくなかったし、この時の私たちを隔てているものは何もなかった。物理的にも精神的にも。
    彼が私を強く抱きしめていた腕を解く。
    その後、私たちは少しだけ見つめ合い、キスを交わした。恋人のように。愛し合う恋人なら、ここでキスをするのは自然の流れだろう。私と彼は恋人でもないし、友人でさえなかったが、そうした。そうするのが自然だった。
    私たちのキスは、愛し合った恋人が別れを惜しんでするような情熱的なキスとは言えなかった。昂まりに任せて舌を絡ませるとか、体を弄り合いながら、とかそういう類のものじゃない。ただ静かに唇を合わせているだけのキスだ。ゆっくりと落ち着いて触れ合っていることを噛み締めていた。
    世界から切り離されて、彼と二人きりでいるみたいだった。一種の恍惚状態ではあるが、没入しているのは、唇を合わせるという行為ではなく、互いの存在そのもので、二人で海の底みたいな深いところへ沈み込んでいくような、そんなキスだった。
    長い間のような気もするし、あっという間だったような気もする。時間の感覚も消失してしまうような、そんなキスを私達は交わした。
    唇が離れた後も、私達は余韻を味わうように頬を擦り合わせた。
    名残惜しくて、私は顔を彼の頬に触れ合わせたまま言った。

    「……また会えるか?」
    「さあ……どうでしょうね」
    「……また会いたい。君ともっと話がしたいんだ」
    「こういう場合、普通なら連絡先交換するんですけど。メール嫌いなんでしょう?」
    「……ああ」
    「……じゃあ、こうしませんか? 次に会えたら、連絡先を教え合うことにしましょう。名前を明かすのもその時に」
    「次に?」
    「ええ、運命に任せましょう。俺とあなたの間に特別な結びつきがあるとしたら、きっとまた会える……俺は会えるような気がしていますよ」

    彼はそっと私から体を離す。じゃあ、とだけ言って私の前から去って行った。あっけない別れだった。
    暗がりの中、光を発する駅へと向かう彼を私は見送った。
    運命は、再び私たちを引き合わせてくれるのだろうか。私は彼の背中を見つめていた。彼の背中は、どんどん遠ざかって行く。駅に近づく頃、彼の姿は見えなくなった。




    §


     大規模都市のL市の郊外であるD地区は、俺が属している組織の隠れ拠点がある場所だ。
    あの人の元を去ってk駅に着いた俺は、電車を待つ間スマートフォンでボスに連絡を入れる。

    ーー研究所のセキュリティ対策チームのリーダー格の人物との接触に成功しました。今のところ不正アクセスの調査をしているようです。

    返信:次はどう仕掛けるつもりだ?

    ーー再びK市の主要機関のメールサーバーに侵入し、今度は単なる不正アクセスだけではなく、メール障害を起こします。研究所は直接狙いませんが、二次被害的に研究所のネットワークまで影響を及ぼすようにします。

    返信:研究所の情報は、いつ入手できる?

    ーー慎重にやるんで。また連絡します。


    人使いが荒く結果だけを求めるボスとは、例え画面上であってもやり取りをしたくなくて、早々に報告を切り上げた。
    やっと、あの人をおびき出すことが出来た。まだ始まったばかりだ。これから本格的に仕掛けていかなくてはならないというのに。すぐに目的のものが手に入るわけがない。
    K市で起こった目的不明の不正アクセス。行政機関はじめ複数の施設で確認され、実害がなく愉快犯のいたずらだとされた例の件は、俺が仕組んだことだ。
    全ては今日、あの人と接触の機会を持つためだ。
    彼の所属する組織が、例の研究所と繋がりを持っているのは確認済みだ。
    あの人は、必ず現地に調査に来ると踏んでいた。フィッシングで乗っ取ったアカウントから手に入れた情報を元に、この計画を立てた。彼のスケジュールも、ほぼ把握している。

    俺の目的は、あの人が属する組織と研究所が隠し持つ情報を盗み出すことだ。
    既に、研究所のセキュリティは、かなり高度なものが構築されている。
    先日の不正アクセス、研究所には仕掛けてないが、彼は専門のセキュリティチームを組んでさらに、多層的で複雑な防御を作り上げるだろう。
    最初から、研究所のサーバーに侵入するなんて無謀なことは考えてない。
    一番可能だと思えるのは、内部関係者を通じて研究所ネットワークに侵入する方法だった。そのために俺は、あの人に接触を試みた。
    むろん、俺の目的を知ったら、彼は俺の存在ごと消してしまうだろう。
    そうなる前に彼を騙して裏切って情報を盗み出す。
    俺は、また裏切る。
    そのために、あの人に近づいた。

    k市という地味な地方都市の古い研究機関、そんなところで密かに重大な研究が進められているらしい。その研究がどういうものか俺は興味はない。が、最新の技術に関わるようなもので、その情報は厳重に隠されている。
    秘密裏に進められている研究だが、こういうことに組織のボスは鼻が効いた。いわゆる、金の匂いだーー金のためだった。
    俺が今いる組織は、そういう組織だ。ヤバい事に手を伸ばして金儲けをする、そういう組織。
    今回も、研究所から最新技術に関する情報を盗み出し、それを高額で売る。信念も何もない。ただ汚いだけの仕事だ。今の組織に拾われて、俺はそんなことばかりしている。
    600年前の過去に裏切りという罪を犯した俺は、きっとこんな人生がふさわしい。神は、俺を許さないつもりだ……過去も現在も、俺のしていることは愛を説く教えと相反することばかりだ。俺は生きている限り、きっとその矛盾の苦しみから逃れられない。そういう運命なんだろう。

    S駅行きの電車がホームに到着したので、俺は乗り込んだ。
    唇にまだ、あの人の感触が残っていた。
    抱擁もキスも、あの人に俺という存在を印象付けるためにしたことだ。運命、なんて言葉を使って取り入った。あの人は、そういうのに弱いから。それだけだ。
    次に彼と接触する日も、全て俺の計画の中にある。スケジュールは、ほぼ把握している。運命の再会を演出して、あの人の前に俺は現れる。彼が、どんな顔をするか目に浮かぶ。一見、表情は全く変わらないが、目だけを強く輝かせて俺をじっと見つめるだろう……。
    S駅までの電車は夜行ではないから、車内灯は明るいままだった。
    車窓の外を見ようと思っても反射で何も見えず、映るのは自分の顔だけだ。表情を失くして疲れ切った男の顔が映っている。信用ならない男の顔、一番見たくない顔だ。
    俺は目を閉じる。目を閉じて、あの人が言ったことを思い出していた。
    忘れられないほどの、と彼は言った。
    セックスは愛し合うための手段で、たった一度でも人生を変えるほどの意味を持つのだと、そう言った。一生、忘れられないほどの……馬鹿馬鹿しいよ、本当に。
    600年前に俺たちがしたことは? 一度だけの関係、あれに意味なんかなかったんだな。身体の熱を与え合って寄り添っても、ただその場限りのことだった。俺たちはただ、目の前の現実から逃避するためにしただけだ。現に彼は何も覚えていない。きれいさっぱり忘れて、それきりだ。
    俺も早く忘れてしまいたいよ。人生の一部を、あんな風に自分以外の人間と分かち合ったあの瞬間、自分の人生を憎まなかったあの瞬間を。

    S駅で俺は、夜行列車に乗り換えた。
    あの人が言うように、この夜行列車がL市に着く頃には、朝日が昇るだろう。あの人もどこかで夜明けを迎えて朝日を浴びるはずだ。

    隊長……あなたは今も、朝の光が好きなんですね。
    俺は昔も今も、夜が明ける前の時間が好きです。全てが暗い青の色と静けさに包まれたあの時間が好きなんです。朝の光は俺には眩しすぎるんです。

    L市へと向かう夜行列車は、ゆっくりと発進した。
    裏切りの瞬間は、刻一刻と近づいている。


    続く
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