週末、早朝。
シャッという音と共に開けられたカーテン。眩しい日差しに思わず眉を顰める。
「おはよう。いい朝日だぞ」
何時だよ、まだ早いだろ、くそ……。
昨日の夜は遅かった。というか帰った時にはもう日付が変わっていた。就寝9時半の恋人はすでに熟睡。
俺はもう、限界だった……仕事の疲れだ。チャットツールの未読が増えていく。返信しているそばから新着メッセージが届き、オンライン会議のウィンドウが気がつけばいくつも開きっぱなし。その中の小さい画面に映った自分の顔はゾンビかって言うくらい酷い。
プライベートもストレスフル。実家から連絡が来て何事かと思えば「早く孫の顔見たい」圧。恋人の、週末どっかいく?という無言のお出かけ期待顔も、今の俺にとってはちょっとしんどい。さらには妹の既読無視。
あらゆるストレスが積もりに積もって、やっとの週末。
絶対何もしない、と決めていた。俺が俺らしく回復するために、俺は俺を休息する。
なので。
早朝の日光浴を終えたばかりの恋人に俺は言った。今日の俺は、疲労マックスでやる気ゼロなんです、をたっぷりと表情に醸し出して。
「俺は……今日、ずっと寝てます」
「こんなにいい天気なのに? どこにも行かずにか?」
静かな返答だけど、びしびしと伝わる彼の不満。
分かってる……出かけるつもりだったのは。
それは分かってんだ……分かってんだけど……今日は勘弁してください。色々と回復の時間が欲しい。俺は恋人に言った。
「今日、俺は存在しないものと思ってください」
「存在しない? 君が?」
「俺のことは空気だとでも思ってください。空気です、俺は空気」
ほう、と彼は片方の眉を上げた。
「なるほど、君を空気として扱えと? 念の為確認するがそれは、プレイの一種か?」
「違います」
「君が望むなら、私はそういう類のプレイだってやってもいいんだぞ」
「違います、違いますって……ええっと。プレイとかじゃなくて……俺は疲れてるだけです。何もしたくないんで、一日放っておいて欲しいだけなんです」
「そうか。ならば君の要望に答えよう。だが、君の空気発言は、何か奇妙な感覚を呼び起こすな……私は現実と虚構の間に迷い込んだ気分だよ。恋人が目の前にいる。だが私の恋人は、自分は不在だという。彼の実存は一体どこへ行ってしまったのだろうか?」
めんどくさい。
悪いけど今日は、そういうの勘弁だ。マジで放っておいてくれ。俺は枕に顔を押しつけたまま言った。
「ただ、静かに過ごしたいってだけの意味なんですけど」
「レヴァンドロフスキ君」
「はい」
「なんと。空気が返事した」
「もう〜…遊ばないでください。今日は俺、そういうの反応しないんで。一日ずっと寝てるんで。お互い自由に過ごすってことでお願いします」
俺は毛布の中へと潜り込んだ。
今日はここから一切出る気はない。それぞれに過ごす週末だってあるだろう。いい大人なんだしさ。
彼は毛布の上から、俺の背中をぽんぽんと二回軽く叩いた。
「承知した。存分に休息を取るといいよ、レヴァンドロフスキ改め空気君」
……理解が早くて助かります、恋人よ。
その後俺が毛布の中で聞いたのは、寝室を出ていく足音。
しばらくしてキッチンからの物音。ガタン、バタバタと音がしたが、俺は目を閉じた。今日は何もしない。あの人はポンコツじゃない、メシだってなんとかするだろう、大人なんだし……俺はまた、まどろみへと落ちていく……
そんな感じで俺たちは過ごした。
それぞれ別に。
食事もそれぞれのタイミングで。こういう時お互いに干渉しない。彼は、朝からしっかりと食事をとり、俺は寝てた。
俺がベッドから出たのは昼過ぎ。
のろのろと這い出して、それでもまだダルい。
ヨーグルトでも食べるか、と冷蔵庫を開けると彼が一言。
「知らなかったよ。空気でも冷蔵が開けられるんだな」
俺は寝過ぎで頭がぼーっとしてて、ああ、とかはい、とか曖昧な返事でやり過ごす。
彼は肩をすくめた……肩をすくめる?
……彼は肩をすくめ、あらぬ方向を見て言った。俺じゃなく宙を見つめて。
「空気になった君へ。聞こえるかい? 私は少し、出掛けてくるよ」
彼は、もうすでにお出かけ用の身なりを整えていた。きちんとしたシャツにきちんとしたジャケット。髪の毛も髭も決まってた。
家を出る時彼は、夕方には戻る、と言った。
彼が出ていき、ドアが静かに閉じていくーー
バタン、とドアの閉じる音と、残された俺。
俺はボサボサ頭で、手にヨーグルトを持って、ぼんやりとしたままだった。
ドアの向こうに消えた背中と、肩をすくめた彼の仕草が、妙に気になっていた。
肩をすくめる。
彼がそういう仕草をする時っていうのは……それはつまり……彼が、俺たちの間に何かしらの距離を感じてる時なんだ。
心臓がキュッと音を立てたような気がした。
夕方まで、彼は帰らなかった。
俺はソファに沈み、毛布にくるまってスマホを見ていた。晩飯用にレシピを検索。料理、簡単、早い、で出てきたコンテンツをスクロール。
でも俺の頭の中は、肩をすくめた彼と、玄関を出て行った彼の背中で一杯だった。
確かに必要だった、俺には。何もしないという休息が。何かと世話焼きがちだと自覚している俺が、切実に望んだ休息。
そして俺は何もしないという休息を手に入れた、彼と関わらないことで。
天井を見上げる……。
あの人の優しさに感謝してる。そっとしておいてくれたことに。こういう、独り時間っていうのは本当に貴重で、あの人は俺のしんどいモードを分かってて、余計なことを言わず、察して干渉せず……。
肩をすくめた仕草とあの背中。
なんか、なんか……俺はあの時、本当に空気にされた気分だった。
カチ、コチ、と時計の音が、妙にでかく響く。
圧の強い彼がいない部屋はこんなにも広い。
別に彼を外出させてしまったことが、悩ましいほど後ろめたい、というわけじゃなくて。
あの人は自分の意志で外出した。それはあの人の優しさで。
でも心配してるとか、ごめんなさいというべきか、とか、甘えたいのか甘えてほしいのか……いろんな感情がぐるぐると俺の中で渦巻く。
ああ、わからん、と俺はベランダに行って、彼の植物の葉を撫でた。スネークプラントとも呼ばれるその植物は、葉の形が蛇に似て長い。彼はこの植物に、アサヒという名前を付けた。日本語で太陽かつビールという意味らしい。
朝の光に包まれて、アサヒ、水だ、と水をやるときの彼は美しい。
彼は朝の光が美しいと言うが、俺はあの人が美しい。
アサヒ、と俺は長い葉を撫でた。
……早く帰って来ねえかな、寂しいよな。
あの人も、こんな気持ちになることはあるんだろうか……少しだけ肌寒い、みたいな。なんかひんやりしてるのに羽織るカーディガンがない、みたいな。
そして俺はまた寝てしまったらしい。
気づいた時には、もうすっかり日が暮れていた。
コーヒーの香りが鼻をくすぐる。
ソファに横たわっていた俺の身体にはブランケットが掛けられていて……目に入ったのは、彼の背中だった。
彼はマグを片手に窓の外を眺めていた。
背中……俺はいつも彼の背中を見てるような気がする。ずっと前、はるか昔から。そんで、その背中に随分無理させて来ちまったような気がする。
帰ったんすね、とその背中に向かって呟く。彼は振り返り、大げさに眉を上げてみせた。
「空気になった恋人が起床したようだ。カフェインという名の接触を試みよう」
彼はそう言うとキッチンへ向かう。コーヒーを淹れにだ……俺の為の。
少しして、彼は戻って来る。湯気の立つ俺のコーヒーを持って。
俺は、彼の行動をずっと目で追っていた。見つめることで噛み締めている、彼がこの部屋にいる。
彼は、去年俺たち二人でDIYで作ったサイドテーブルにマグを置いて言った。
「まだ恋人は空気中にいるらしい。反応はない。切ない」
はは、と思わず笑いが漏れた。全然切ないって顔してねーよ。
来てください、と彼の手を取ってソファの横に座らせて向き合った。
彼と目が合っている。目が合っているだけで、息が詰まるほどの思いが胸を駆け巡る。本当、まじで勘弁だぜこんなの。ときめきってやつじゃん。
恋人は相変わらず、きりりとした表情。
でも俺には分かってる。俺たちの間の、こういう瞬間が好きだ……硬さが解けていく瞬間。それはこの人も同じだと思うんだけど。
「今日はありがとうございます……俺を放っておいてくれて」
「礼には及ばないよ。なんてことないさ。私は君に対して何もしないという行為をしていただけだ……調子は戻ったかね?」
「はい、十分な休息が取れました」
「なら良かったよ。君のやつれた姿には心打たれるものがあるが、回復して欲しくてね」
「……どこ行ってたんですか?」
「市内をあちこち、色々回った、君と行った場所や君と行きたかった場所なんかを一人で歩いた。その間ずっと私は考えていた」
「何を?」
「空気中の君についてだよ。君の発言のせいだ」
「はあ……すんません。変なこと考えさせちゃって」
「やはり君の気配は、君がいないと掴めないと分かった。私は外を歩いてる時、君を思い描いてみたんだ。空気中に君がいてあたかもそこに存在しているように。だが、うまくいかなかった。儚くもすぐ薄れてしまう」
「儚くてすみません」
「君の確かな存在を感じるには、空気なんて曖昧すぎる、ということだ」
「それは……」
分かりにくい言い方してるけど、それはつまり、寂しかったってことですよね? 俺と同じく。
何か言うかわりに、俺はそっと彼を抱きしめる。
今日、この人とささいな事で距離を感じた。思うに、こういう寂しさっていうのは、人間に付き物だ。特にこの人みたいな優しさをそっと差し出す人には。
分かってほしい。俺の大事な人なんだ、あんたは。寂しい思いさせてごめんなさい。俺も寂しかったっすよ。俺は力を込めて彼を抱き締めた。
「……で、今の君は? もう空気でいるのはやめて私の恋人に戻ったのか?」
「もちろんですよ」
おかえりレヴァンドロフスキ君、と彼は俺の肩に腕を回す。
おかえりはこっちのセリフなんだが。
ハグしたまま彼は言う。
「恋人に戻った君に頼みがある」
「なんすか? 晩メシ?」
いや、と恋人は俺の耳元に唇をよせる。耳に髭があたってかゆい……彼は言った。
「空気ではない君の質量を、感じたい」
俺の質量……?
彼の目が俺を見つめていた。言ってやったぞ感でドヤ顔の俺の恋人。なんかムラっときたんだけど。
これって……俺は彼の目の奥にあるものを確かめる。彼は俺の背中に手を回して俺を引き寄せた……これって誘ってる?
ソファの上で、俺は彼に覆いかぶさっていく……目の奥を探りながら。
だけど俺の方が先に目を閉じてしまった。
髭の下でわずかに開かれた唇に触れたかったから。
キスをした。俺たちが恋人であることを確かめるようなキス。ゆっくりと慎ましく舌は入れず、唇の形を確かめ合う。丁寧だけど軽めのキス。でも俺のペニスは硬くなりました、はい。
誘いのお返しとばかりに彼の耳たぶを食みながら、いやらしい声を作って囁く。
「俺の質量、どんな風に感じたいんですか? いつから感じたかったんですか?」
AVかよ。我ながらアホなセリフ。
ほら、彼も目を細めて髭をプルプル震わせてるじゃないか。これは笑うの我慢している顔。かわいい。俺は彼を笑わせるのが好きだから、AV男優ごっこを継続する。彼の首筋に唇を這わせる。手は彼の身体を這っている。
「俺の下で、重力ごと感じたい?」
んふふ、と彼は堪えきれず笑った。やっぱかわいい。ああ、俺の負けです。勝ったことないけど。俺だけが……俺だけが、知っている顔で彼は言った。目元に艶を滲ませて。
「ああ。そうだともレヴァンドロフスキ君。君の下で君を感じたい。おいで。君の質量を受け止めるよ」
ーーナカで受け止めてくれます? 俺もう完全にその気っすよ。
早くこい、と彼は愛の万有引力で俺を引き込んだ。