雪隠れの剣仙江湖の奥、四方を氷雪に閉ざされた山岳地帯。
ここに居を移して幾数年、温客行と周子舒は世を離れ、剣仙としての静かな余生を送っていた。
雪は絶えることなく降り続き、空気は凛と澄んでいる。
世の塵を捨てた者にとって、この冷たさはむしろ心地よい。
老温は氷を割り、清冽な泉の水をすくって阿絮のもとへ戻った。
「阿絮、氷雪を汲んできたぞ」
阿絮は、口元に微笑を浮かべて答える。
「……そればかりだな、もう幾年も」
老温は阿絮の傍らに腰を下ろし、寄り添うように座る。
「たまには鍋が食いたいな」
阿絮も同じ思いだったのか、くすりと笑った。
「思い出すな。夜市で、馬鹿みたいに酒を飲んで、鍋を囲んで……お前が俺の皿に、辛いのばかり入れてきて」
「阿絮が煽ってくるからだ」
「……楽しかった」
雪の夜、剣仙の二人はただ寄り添い、記憶の中の温かな鍋を思い出していた。
俗世の味は遠く、氷雪しか口にできぬ身となったが、不思議と腹は減らない。
だが、あの頃のぬくもりは、心の奥底に今も残っている。
老温は阿絮の肩をそっと抱き寄せ、静かに囁いた。
「いつかまた、どこかであの鍋の匂いが嗅げる日が来ると思うか」
「そんなもの、この世に無くとも構わん。お前がいれば、それでいい」
雪はしんしんと降り続き、空気は凍てついていく。
けれど、二人のその胸の内だけは、かつての熱とぬくもりで満たされていた。
──剣仙になろうと、阿絮の隣にいれば、私の心はいつだって春だ。
と、老温は心の内で呟き、阿絮の頬にひとつ、雪のように淡い口吻を落としたのだった。