君のため、私のため 猪野はその日、任務を終わらせ事務室に報告書を届けに行こうと高専の廊下を歩いていた。
ここの角を曲がれば事務室だ、と歩を進めると、曲がった瞬間に何かにぶつかる。
「いっ…すみませ、」
「おっと…なんだいキミは?…おや、よく見れば猪野家のところのご子息じゃないか」
謝ろうと見上げると、スーツを着た中年男性が5人ほど。
何故自分の名前を知っているのか。考えていると先程ぶつかった人が話しかけてくる。
「はじめましてかな?私たちは高専の上層部のものだ。キミのことは聞いているよ、猪野琢真くん」
貼り付けたような古参臭い笑みを浮かべる上層部の男に、猪野は軽く会釈をする。
「いやぁ、それにしても聞いた通り、本当に可愛い顔をしているね。若いっていいものだ」
ずいっと近づいてくる男に後ずさりすると、他の男たちが周りを囲んできた。
何の用だ?と思っていると、後ろにいた男にニット帽を取られる。
「なっ、なにすっ…」
「へぇ、これで瑞獣を降ろすのかぁ。ふむ…今はこれは厄介だ。預からせてもらうよ」
「はぁ?なに…ひっ!?」
後ろを振り向くと、反対側からおしりを触られる。
ゾワッと鳥肌が立った。
「ほう、尻もなかなかの弾力だ。ずっと触っていても飽きないな」
「なっ、に、気色悪ぃこと言ってんだ!」
「おや、いいのかいそんなこと言って。キミの尊敬している…七海といったか。あの人がどうなってもいいのかい?」
振り払おうとする手を止める。
自分がどうにかなるのはどうでもいい。厳しい任務を押し付けられたって、昇格を邪魔されたっていい。だが七海に被害がいくのはどうにも我慢ならない。上がどうするつもりかは知らないが、七海に何かをしようとしている以上、下手に抵抗が出来なくなってしまった。
猪野は黙って、お尻を撫でる手を受け入れる。
「いい子だねえ。聞き分けのいい子は嫌いじゃない」
その間にも他の男が胸や腰を触ってくる。吐き気がしそうなほどの気持ち悪さに、ギュッと目を閉じる。
「…何をしているんですか」
尊敬する人の声が、猪野の耳に響く。
固く閉じていた瞳を開き、男たちの間からその姿を目で捉える。
「っ、な、七海サン…!」
「猪野君、大丈夫ですか?何があったのか…」
「これはこれは。呪術界から逃げ出し一般企業で働いていたにも関わらず、また出戻りぬくぬくと一級呪術師としてご活躍されている七海建人さん。誤解しないでいただきたい。これは挨拶ですよ。名家ご出身の猪野様に、改めて私たちの事を知っていただきたく」
つらつらと七海を非難する言葉を浴びせる上層部の言葉を、七海は無表情で受け止める。
「なっ…てめぇ七海サンにっ…!」
食ってかかろうとする猪野の腰を男が引き寄せる。
本当は殴って撤回させたかったが、先程の男の言葉を思い出しそれが手を止める。
「確かに…私は一度呪術界から逃げました。あなた達のようなクズがいるからです」
「ぐっ…。ほう、そんなことを言えるとは。ですがいいんですかねぇ?上層部に楯突くということは、あなたも、この子の立場も危ぶまれますよ?」
「て、めぇら、俺が大人しくしてれば七海サンに危害は加えないって…!」
「猪野君、大丈夫ですよ」
「っ、でも…!」
「猪野君」
こちらへ、と言われ、猪野は男の手を振りほどき七海の傍へ行く。
七海は猪野の手を引き、自分の背後へ下がらせた。
「私がどうなろうとどうでもいいです…が、猪野君にしたことについては、然るべきところに訴えさせていただきます」
「はっ、証拠もないのにどうやって…」
明らかに冷や汗をかいているが、周りを囲って隠していた自信で吐き捨てる。
七海は小さくため息を吐くと、ポケットからスマホを取り出した。
「証拠ならあります」
「は…?お前、それどこで、いつ…」
「猪野君には申し訳ありませんが、声をかける前に写真を撮らせていただきました。ちょうど触っているところが撮れましたので、証拠としては十分だと思いますが」
「うぐ…っ、わ、分かった!お前にも、そいつにも何もしない。だから、訴えるのは考え直してくれ。頼む」
遂に口調が乱れ始めた上層部に、七海は2度目のため息を吐く。
「…猪野君、どうしますか?」
「えっ…あ、今日は、もういいっす…七海サンの無事が確保できれば、それで…」
「全く君は…。分かりました。今日は見逃します。が、次はないと思ってください」
そう言うと、七海は猪野の手を引っ張り横を通り過ぎる。
男曰く、その時に見た七海の目は、人を殺すんじゃないかというほど鋭かったという。
「猪野君、とりあえずここで休みましょう」
「うす…」
七海と猪野は、術師がよく使う休憩室にいた。
設置されているソファーに猪野を座らせると、七海も隣に座り寄りかからせる。
「…大丈夫、ではありませんね。落ち着くまでこうしていなさい」
「ありがとう、ございます…。あの、七海サン」
「はい」
「俺、その…」
「分かっていますよ。大方、あの人たちに脅されたんでしょう。私の立場を守りたいなら、大人しくしていろと」
さすがと言うべきか、猪野が言われたことをまるで聞いていたかのように話す。
「私のことを考えていてくれたのは嬉しいのですが、私は、あなたの心に深い傷がつくことのほうが許せない」
「…すみません」
「…いえ、すみません。怖い経験をした人に話すことではありませんね。責めている訳では無いのです。私が独占していると思っていた猪野君の体が、他の輩に触られていたと思うと、腹が立って仕方がない」
七海は引き寄せた猪野の頭にキスを降らせる。
そして通り過ぎざまに取り戻したニット帽を被せると、優しく抱きしめる。
「…今日は、私ももう終わりなので、猪野君さえよければ一緒に帰りましょう。猪野君、この後予定は?」
「ないっす。…あ、でもこれ出しに行かないと…もう帰ったかなあの人たち…」
猪野がずっと持っていた報告書に目を落とす。
また上層部と顔を合わせるのかと思うと、気が重く感じる。
「私が出しますよ。猪野君はここで待っていてください」
「…ん…ありがとうございます…」
七海は猪野の頭を軽く撫で、報告書を出しに行く。
数分後、七海が戻ってきた。
「見てきましたが、もう居ませんでしたよ」
「良かった…はぁ…疲れた」
「お疲れ様でした。もう帰りますか?まだ休んでいますか?」
「や、もう帰るっす」
「そうですか。では行きましょう」
猪野は立ち上がると、差し出された七海の手を握り高専を後にした。
七海の家でお泊まりをした猪野は次の日、絶好調の状態で任務に挑めたという。