🌟🎈 タンッと足がアスファルトを蹴り、肉体は軽やかにコンクリートの壁を駆け上がった。時折配管を掴み四肢のバランスを整え、出っ張りを爪先で捉え蹴り上げながらビルの上階へと登る。ワイヤーで吊り上げられているのかと思うほど簡単にやってのけるが、昇降器具どころかクライム道具の一つも持ち合わせていない。
ビル風に煽られて被っていたフードが外れた以外は何事もなくあっさりと屋上へと辿り着く。一息つく暇もなく、男はブルゾンの裾を翻し屋上の縁を蹴り空中へと躍り出た。自由落下する前に向かいのビルへ手が届きまた登り、建物の屋上から更に高いビルへと乗り継ぎ、高度を稼いでいく。
屋上に巨大な電光看板を掲げたビルにまで行けば、その下は人のひしめく繁華街だ。至近距離から照らされる蛍光ピンクに視界を少々焼かれつつ、最後にもう一度力強く跳ぶ。
着地点は近くのビルでなければ、もちろん地上でもなく、信号機の上だった。
真下には縦横無尽に道路が交差する大通り。今までのようなビルとビルの隙間とは比較にならない量の人と車が行き交う光景を見下ろした。信号の色が変われば交通の方向が変わり、また色が切り替わり。何度も繰り返される光景をただじっと眺め続けた。
男はおもむろに顔半分を覆っていたマスクを引き下げる。冷えた空気が晒された頬を撫で、形のいい鼻先を冷やし、唇を乾かした。
「——は、」
おおきく息を吸った。街のにおい。様々な飲食店の排気では食欲はそそられなかった。以前はそれにも多少の不快さはあっただろうか。
今日は、なにも感じなかった。
肉体の一部を機械化する、サイボーグ医療が一般的になった。欠損した肢体を補うために、コンプレックスを改善させるために。理由はそれぞれだが、身体すべてが生身の人間のほうがもはや少ないのではないか。少なくともこの国、このような大型都市では『普通』にあることだった。
天馬司も例外ではない。
不運にも大型トラックと衝突する大事故に見舞われ、車体と地面に潰され原型も留めていなかった両脚を切断した。無くなった太腿から下を補うために義足を付けるような感覚で機械化したのだった。
技師の腕と定着率も良く、なにより司の必死のリハビリが実り、サイボーグとなった脚を自身のものにして驚異的な脚力を手に入れた。アスリート向けの特殊モデルでもなく、ただ走れるだけの普遍的スペックを遥かに超えた力を引き出せる。
突如奪われた脚を取り戻し、経過も順調を通り越してまさに順風満帆かと思われた。
始めは指先の痺れからだった。霜焼けのような、少し触感が鈍ったような感覚に疑問を持ち、やがて疑問を抱かなくなった。
状況に慣れたからではなく、疑問を抱くという事そのものが無くなった。「ああ、」と、ただそれだけ。それに対する焦燥も悲嘆も、感じなくなっていた。
発端である指先は痺れどころか触覚すら無くなった。思い通りに動かせはするが、何かに触れても殆ど何も感じない。指の腹に針を刺して流血しても痛覚は朧げだった。
サイボーグ化の副作用として、生身の触覚や感情の起伏が希薄になる事が問題となっていると、話題に上がり始めたのはその頃だ。
脚を取り返した代償がこれか、と、司はこの状況に陥っても憤慨する心はなく、やはり「ああ、そうか」とだけ呟くのみだった。
メンテナンスに行くたび、日が経つごとに手の感覚は微弱になり、感情も希薄になり表情筋もほとんど動かさなくなった。なにも感じなくても諦めはしても焦ることはないだろう。頭ではそう思っても身体は違ったようで、司は無い心の赴くままにパルクールを始めた。
リハビリの一環でロッククライミングを取り入れていた経験が活きたのか、人間離れしか脚力と痛覚が消えた故に多少無茶できる握力でビル群を駆け回る。
まだ触覚が残っている肌で風を感じ、見下ろす人の様子を観察し、この街の空気を肺に満たして。なにか感じるものはないかと、本能の奥底では無意識のうちに求めているようで、今ではすっかり日課となっていた。
今夜も司は上空を駆ける。心が動くことがあるのか、なにか感じ取れるものはないかを探して。
屋上の縁に座り込み、脚を外にぷらぷらと投げ出していた。ビル群の明かりと、所狭しと設置された巨大モニターの光が空を照らし、星も月もかき消された夜空は見るのも無意味だ。地平線に下りるにつれて紫がかった色が滲んでいるか、もはやそれが夕焼けの名残りなのか夜景の反射なのかも判断がつかず、司はスゥと目を細めた。
今日もなにもないな。
顎に引っ掛けていたマスクを引き上げる。同時に、ふと向いていた反対側に顔を向けた。
視線の先には、パラパラと僅かなプロペラ音を発しながら浮遊しているそれ。卵型に二つの突起を生やした、おそらくはネコをモチーフとしたデザインのドローンが司をじっと見つめているのだ。
「——なんだ、おまえ」
いつからいたかは知らないが、ウロウロと司の様子を伺っていた。邪魔をしないようバレない程度の距離をあけて、ただ本気で隠れて見張ろうとは思えないほど目立つデザインのチグハグさが、ますます目的の考察を困難にさせる。
見つかった!? とでも言いたげにビクッと機体を揺らし、本当に小動物が生きているような動きを見せたドローンは、今度はその距離を詰めてきた。バレたからには堂々と見てやろうという図々しさで、司の周りをぐるぐると回り遠慮なく観察を続けられた。
「どこだ」
司はやはり無表情で平坦な抑揚で問えば、ドローンは滑らかに司から離れ、ビルの下へと降下していく。身を乗り出して見下ろせば、脚の真下には世界的にも有名なスクランブル交差点がある。サイボーグ化して形状様々な人が無秩序に行き交うなか、彼はいた。
立ち竦む彼の元に、視線は司を見上げたままのドローンが降りて辿り着くとほぼ同時に、男は顔を上げた。迷うことなく視線はしっかりと司を捉えていた。
「——、」
目と目がかち合った。
ターコイズブルーをアクセントに紛らせた紫色の髪を揺らす彼。司と同じように目から下は黒いマスクに覆われているが、司と違って硬質なそれは機械なのだろう。
司は、感情の希薄そうな彼の双眸を、きれいだ、と思った。視線が絡んでからひどく惹かれて外せない。トクトクと心臓の鼓動がやけに近く聞こえる。
いつだったか、街から離れて少しした自然公園で見上げた月の色にそっくりだ。
澄んだ空気の中で見た満月にすらなにも思わなかった自分が、瞳を見ただけでこんなにも感情を揺さぶられている。
ネコのドローンが、司を見上げながら今度は男の周りをぐるぐると回り始めた。「ぼくだよ!」とでも言いたげに。やはりドローンで観察していたのは彼らしい。突如として生まれた感情にも興味はあるが、まずはこちらを見ていた真意を問い質さねば。
タンッと足が屋上の縁を蹴り、ビルの壁を経由して軽やかにアスファルトへ降り立った。
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身体の一部を機械化するのが当たり前となった世界。治療や整形に近い感覚
最近、機械化の範囲や箇所、メンテナンスの際に副作用として生身の感触が弱化されていき、感情すら希薄化されていく事が発覚し問題になりつつある?
司
事故に遭い両脚を切断、太腿の下が機械化した。
リハビリの成果か文字通り人間離れした脚力を手に入れるが、副作用で指先の触覚が弱化し、感情の起伏も薄まっていく。
心の奥底ではまだ自身の人間らしさを求めているのか、街中を縦横無尽に跳び回りそこで見下ろす人々の様子を見たり空気を吸い込んで心に何かしらの変化がないか、感じ取れるものはないか、と確認することが日課となる。
類
口元がマスク形状の機械化した青年、おそらく司と同い年と思われる
司以上に感情の希薄化が進み、発声も殆ど無くリアクションするのは稀。
彼が遠隔操作している猫のドローンの方が何言ってるのか解ると言われるほど。
実は違法とされている脳の一部機械化が施されており、脳から直接ドローンを操作している。たぶんサイボーグ技術の実験体だか違法治験だかの産物。
実験の際に知識、記憶、感情を埋め込められ、どこからどこまでが生身としてのものか、人工的に植え付けられたものなのかが解らなくなっている。
元々頭がいいので適応も吸収も早く、司と出会ってからはますます色んなことを感じ取って取り込んで、時には詰め込みすぎて暴走する。
無自覚に好意を持っているが類にはもちろん、司もこの感情がイマイチ解らず、ふたりして感情を持て余してる。
本人の記憶にないが、かつて実験体にするために誘拐された天才。抵抗手段として噛みつき、また舌をかみ切るなどの自害をできないようにと無力化する為に口周りを機械化された。
背中、脇腹、太腿とか、服に隠れた部分も機械化されていたり?
相当でかい事故に遭ったという偽記憶を植え付けられてる。司と関わって無くなっていたはずの感情がうまれ、芋づる式に植え付けられていた記憶とは違う本来の記憶も蘇ってきて困惑し、己の境遇を思い出すようになってきた。被害者とはいえ違法技術の一端を担ってしまった自分の体を醜いと思うようになり、司の隣にいてはいけないと逃げるようになってしまう。
ここからの展開は考えてない