青年と犬 赤茶け、煤けた岩の大地に、月の光が降り注ぐ。太陽の光は熱すぎて命を奪うが、月の光は涼やかだった。だからこの辺りに生きる者達は、たいていは夜に移動する。
乾いた地平に影が二つ。一人の青年と、犬だった。少年と呼ぶには輪郭が鋭く、大人と呼ぶにはやや幼い。年齢の狭間で揺れ動く青年は、しかし着実な足取りで歩んでいた。黙々と、果てしない大地を俯きがちに進む。時折強く風が吹くが、それ以外辺りには彼の足音と、地をかくような犬の爪音だけが響いていた。
かたわらには、黒い犬が一匹いる。マズルの長い、かつての原種である狼を彷彿とさせる、いかにも犬然とした犬だった。しかし犬は、犬らしからぬ声で鳴く。
「ヒース、ヒースクリフ」
犬の声はいらついていた。言外に「いい加減にしろ」とでも言うような、それでいてなだめすかすような諦めがにじむ。ヒースクリフと呼ばれた青年は、一瞬強く目をつむると立ち止まった。
「俺はやめろって言った」
「オレは必要だと思った。実際必要だったし、だからこうしていま無傷で目的地に向かってるんだろ」
「でも、あんなやり方を続けていたら、いつかシノが壊れてしまう!」
ヒースクリフが叫ぶ。纏ったぼろ切れがはためいて、バタバタと音を立てていた。肩にかけたライフル銃が、ひょうひょうと風に鳴く。ヒースクリフはじっと、シノと呼ばれた犬を見つめていた。
シノは満足そうに言う。
「おまえを守って壊れられるなら、本望だ」
ヒースクリフの頭に、カッと血が昇った。
心のままに大きな声を出そうとして、ぐっと息を吸いこむ。吸って吐いて、また吸って、そのまま吐き出すことを二度三度繰り返す。
怒り以外の感情の存在を思い出して、ヒースクリフは口を開いた。地を這うような声音になってしまうことは仕方がない。
「……シノは、自分を失うことの意味を考えた方がいい」
「その方がおまえの望みに近いか?」
「とっても」
「なら考えよう」
満足そうに振られる尻尾を見て、ヒースクリフは複雑な表情をした。シノの役目は、人の役に立つことだ。ヒースクリフの役に立つことを至上の喜びにしているシノは、その表情の理由に思い至らない。しかしそうした矛盾が、どこか愛おしくもあった。
ともあれ、いまはただ足を進めるしかない。シノの頭をひと撫ですると、ヒースクリフは歩き出す。
ここにある怒りも愛情も、全部シノがくれたものだ。たまに忘れそうになるけれど、ヒースクリフはそれを大切にしていたかった。
*
しばらく進むと、目的地だ。砂埃と乾いた空気に覆われた、一面不毛な無の大地が広がっている。月の光だけが、白く祝福のように光っていた。
ヒースクリフが名前を呼ぶと、シノは当然のように鼻を動かす。丹念に地面を嗅ぎ回り、時折耳をそば立てて、様子を伺う。
ほんのひとときそうしていたが、不意にシノが顔を上げた。数メートル先に向かって駆けていくのを、ヒースクリフも小走りに追う。そしてことさら丁寧に嗅ぎつけると、見つけたとばかりに吠え立てた。
「ここだ!」
穴を掘る仕草は、いかにも褒めろと言わんばかりだ。ヒースクリフも笑顔で頭を撫でてから、同じく地面を探る。手足で砂を払えば、簡単にそれは姿を現した。
扉だった。今では珍しくなってしまった、重厚で堅固な鉄の扉。月明かりに冷やされたそれは、冷たく横たわっている。銃を傍らに置き、両手で掘り起こしていく。シノも器用に周囲を掘って、扉が石材のようなものに嵌め込まれているのを発見した。
なんとか全体を露出させる。それは幅二メートルにも満たない正方形だった。取手らしき物に手をかければ、なんとか動く気配がする。
「シノ、頼む」
「まかせろ」
次の瞬間、シノは人の姿をしていた。ヒースクリフよりもやや幼く見えるが、同じ年頃にも見える。砂漠を歩くには犬の姿が便利だっだが、扉を開けるなら人の形のほうが良い。シノはアシストロイドだ。
ヒースクリフが離れたのを確認して、シノは扉に手をかける。出力を上げて、腕の力を最大化した。
ミシリと音を立てて、扉は開いていった。すかさずシノは中の酸素濃度を測って、安全に降りられるか索敵レーダーを走らせる。
「いけるぞ。オレが先に降りる」
壁に埋め込まれたハシゴの強度を確認しながら、シノはゆっくり降りていく。数メートル下れば、行き止まりだった。暗視装置で危険物を確認してから、灯りをつける。広がっていた空間は狭く、シェルターのようだった。
シノの合図を待って、ヒースクリフも降りてきた。雑然とした室内を、今度はヒースクリフが探索する。
かつて食料だっただろうパッケージや、なにかカラカラに干からびた生き物の破片が散らばっていた。あとは電源のないコンピュータ類と、旧世代の液晶モニタがいくつか。いまでは触覚ホログラムが主流になっているから、ヒースクリフは機械そのものに興奮してしまう。許されるなら、全部持ち帰って解体したい。
「ありそうか?」
「ああ、うん。ちょっと待って」
シノの言葉に我に返って、ヒースクリフは手を動かした。キャビンやクローゼット、デスクの下も覗き込む。シノが鼻を動かしているとーー人型でも嗅覚は鋭いーー、床に何やら空気の流れを感じる。すぐさま床を調べれば、小サイズの床下収納を発見した。
「ヒース!」
二人で覗き込んで、床下収納を開いていった。隠すように埋め込まれた収納はさほど大きくない。電源が機能していた頃は使えただろうセキュリティは、いまでは劣化したセラミックのおもちゃでしかなかった。中身を傷つけないように破壊しながら、破片を取り除いていく。
最後に出てきたのは、アルミ製のケースだった。ヒースクリフが慎重に、しかし高揚した様子で開いていく。
「やった……!」
思わず歓喜の声が出た。ケースの中には、マナプレートが仕舞われている。キラキラと光るそれは、大きな傷も不具合も見当たらない。地球の荒廃と混乱で失われたハイテクノロジーの大部分は、今はこうしてトレジャーハントのように手に入れるしかなくなっていた。
ヒースクリフはケースを丁寧に閉じると、すぐさま荷物入れに格納する。
「良かったな。これでカルディアシステムの調査が続けられる」
「シノのおかげだよ。この廃棄シェルターがハズレだったらどうしようかと思ってた」
「そのときは、オレの鼻でまた探してやる」
そうして、シノが得意げな顔をしたときだった。ひくんと鼻が震えて、次の瞬間には臨戦体制をとる。空気の変化を感じったヒースクリフも、同じく銃の安全装置を外した。シェルターはしんと静まり返っている。
「ヒース、とにかく地上に出るぞ」
「さっきの仲間かな?」
「かもな。匂いが似てる気がする」
喋りながら、全速力で地上を目指す。梯子に手をかけていると、そのうち周囲の壁が震え出した。瞬時に計算したよりも速い移動速度に、シノが大きく舌打ちをする。
「急げ!」
なんとか地上に飛び出した瞬間、地面が大きく動いた。
轟音と砂塵を撒き散らしながら、シェルターの外壁が砂に還っていく。鉄製の扉を飲み込むように、何かが土から現れた。
「砂蟲!」
ヒースクリフの言葉に反応するように、巨大な生き物はこちらに頭部を向けていた。
四メートルはあろうかという巨体は、触角のないナメクジのようだった。おそらく頭の部分には大きな口が開いていて、穴を塞ぐようにびっしりと鋭い歯が密集している。バキバキと音を立てながら扉を咀嚼すると、威嚇さながらに咆哮をあげた。怪物の触れた地面は、すぐに粒子状になっていく。
砂蟲は、岩の大地を支配していた。いつの間にか地球に出現したその生き物は、何でも食べたし破壊した。巨躯を動かすためには膨大なエネルギーを必要とするのか、あらゆるところに現れ、餌にしていく。
そして何より厄介なのが、その体表の性質だった。触れる物全てを、砂にしてしまう。プラスチックだろうが鉄だろうが、関係なく粒子にし、粉砕してしまう。おかげで粉塵に弱い光学レーザー兵器は力を失って、数々の街が砂に沈んだ。先ほどまでいたシェルターも砂の塊になっているだろう。彼らは土の中を移動して、微弱な音や振動を頼りに獲物を探す。地下シェルターが廃棄されたのも、砂蟲の被害を避けてのことだった。
だからヒースクリフは砂蟲を警戒しながら、まだ砂に帰していないかつてのハイテクノロジーや遺物を探し集めているのだ。シノと暮らすこの世界を、より良いものにするために。
「さっきの個体よりデカいな。親子だったか?」
「どっちでもいい! さっきみたいな無茶は許さないからな!」
「オレはオレが必要だと思った判断をする」
「おい、シノ!」
ヒースクリフの静止を振り切って、シノは砂蟲に突っ込んでいく。ヒースクリフは内心舌打ちをしながら、援護するように銃を構えた。一発、二発と砂蟲の胴体に命中させるが、触れたそばから全てを砂にしていく生き物だ。銃弾も砂になってしまう以上、気を引く程度のことしか出来ない。
砂蟲の咆哮をいなして、シノは口に向かって飛ぶ。体表は触れるだけで砂になるが、口だけはその限りではない。だからどうにか大口を開けさせて、その中身を外気に触れさせる必要があった。
「口を開けろ、デカブツ!」
シノは器用にその歯に乗り移る。鉄をも砕く顎には、もちろんシノの身体だってひとたまりもない。しかしそこから喉奥に向かって攻撃するのが、最も効果的な戦い方だった。
「ヒース! いまだ!」
「クソ!」
ヒースクリフは砂蟲に向かって、音響弾を投げた。空中で爆音と振動が響いて、砂蟲が苦悶に体を揺らす。そして大きく口を開けた。すかさずシノが滑り込む。
さっきはこれが上手くいった。飛び込んだシノを見て悲鳴を上げたヒースクリフの声に驚いたのか、砂蟲はシノの攻撃を受けて爆発した。
しかし個体が違えば、戦い方も違う。飛び込んだシノを待つことなく、今度の砂蟲は口を閉じた。当然、鋭い歯にシノの身体は巻き込まれた。嫌な音がして、腕が引きちぎれる。
「シノ!!」
さっきから、名前を呼んでばかりだ。そして何をすることも出来ていない。引きちぎれた腕が飛んできて、ヒースクリフは半狂乱になった。とにかく砂蟲の気を逸らそうと、旧式のライフル銃を連射する。砂蟲は気怠げに体を回して、ヒースクリフに向き直った。
次の瞬間、動きを止めた。そしてあっという間も無く、砂蟲は膨張し、爆発する。まるで中から電子レーザーでも浴びたかのように。
「ヒース! やったぞ」
呆然と立ちすくむヒースクリフの前に、砂蟲の体内からシノが飛び出した。左腕が引きちぎれている以外は、特に傷もないらしい。むしろ笑顔で、誇らしそうですらある。落ちている腕を拾いながら、シノはヒースクリフの元へと駆け寄った。
周囲には吹き飛んだ砂蟲がバラバラと降り注いでいる。焦げたような煙のような、物の焼けた臭いが辺りに充満していく。
「さっきも上手くいったんだが、どうやらアイツらの体内は砂埃や空気中の微粒子が少ないらしい。中からマイクロ波を当ててやれば、多分どの個体も吹き飛ぶぞ」
「お、おまえ……! 砂蟲の前に、おまえの腕が吹き飛んでるじゃないか!!」
「でも助かっただろう」
「そうだけど!」
これが腕だったから良かったものの、胴体や頭だったらどうしたと言うのだろう。というか、毎度砂蟲の中に飛び込んでいくシノを見せられるこっちの身にもなってほしい。ヒースクリフは泣きそうになっていた。
「こんな戦い方、いつか絶対壊れるからやめろって、さっき言ったじゃないか!」
「なんで。あいつを吹き飛ばしたのに」
「だから、シノの無傷じゃ済まないからだろ! おまえの修理をする俺の気持ちにもなってよ」
コードや関節が剥き出しになっているシノの身体に、ヒースクリフはこわごわ触れる。アシストロイドの設計上、痛覚センサーは切断可能だから、シノも痛みは感じていないはずだ。しかしヒースクリフにとって、この有様は心が痛む。
そんなヒースクリフの様子を見て、シノは不満げな声をあげた。
「でもおまえ、オレの手脚を付け替えるとき、少し興奮してるじゃないか」
シノの指摘に、ヒースクリフは固まった。
興奮? 何に? いや、確かに機械をいじるのはヒースクリフの趣味であり研究だ。しかし大事な友達だと思っているアシストロイドの、言うなれば部品交換に、いったいどんな興奮があるというのだろう。新しい機能を付けたり、より機構を改良したりはもちろんシノの望みでもあるけれど、ヒースクリフ自身の楽しみでもあるには違いない。でも、だからと言って、そんな
「ほら」
押し黙り、ぐるぐると考え始めたヒースクリフにシノは笑う。仕方がないな、オレのマスターは。そんな喜びや甘やかしが、シノの表情には滲んでいた。
「…………馬鹿」
「オレは犬だ」
「そういう意味じゃない」
「オレはおまえの犬で、アシストロイドで、それで幸福だ」
「もっと馬鹿だ」
「そう作ったのはおまえだ」
「そ、うだけど……」
シノの言葉に、ヒースクリフは何も言えなくなってしまった。認めよう。ヒースクリフはこの幼い頃からの友人の、メンテナンスに確かに興奮を抱いている。だって、好きなのだ。シノも、シノを作り上げる作業も。
「シノの怪我を悲しまない理由には、ならないよ……」
「それならもっといい性能のボディを作ればいい。頼りにしてる」
「うぅ……」
なんだか上手く言いくるめられている気がする。腕が吹き飛んだ瞬間の恐怖も悲しみも本物なのに、シノの手にかかればフィクションのように思えてきた。笑い話にしてしまえるのなら、それはそれで幸福ではあるのだが。
「お、夜が明けるな」
シノの言葉通り、地平線の彼方から太陽が顔を出す。このまま地表にとどまり続ければ、今度は暑さでやられてしまう。早急に日を遮れる場所へ移動しなければならない。
「ヒース」
シノに名前を呼ばれて、ヒースクリフはもう何でもいい気持ちになってしまった。シノのマスターはヒースクリフだ。シノの言う通り、今度は壊れない腕を作るしかない。
「俺は、シノのことを大切にしたいんだからな」
「だったら、大切に使ってくれ」
仕方がないから歩いて行こう。シノを壊さなくて済む未来まで。
ヒースクリフは決意を胸に、シノの体を抱き寄せた。