雪に紫煙、肌に脂 雪は嫌いだ。
月島軍曹は集落の外れから、遠く続く雪景色を睨んでいた。白く伸びる平原、岩肌を覆い尽くす氷。ポツポツと禿げ上がった樹木と、針葉樹の林が少しずつ広がっている。
次の町へと向かう途中、近く日暮れという頃に見つけたほんの小さな集落は、手持ちの日用品と引き換えに一晩の間借りを願うと快く頷いてくれた。ともすれば、いくつかの労働も期待されてのことだろう。
杉元達は夕食の足しにするため、案内人と連れ立って近くの森へと入っていった。まだ日もあり、即座に身の危険ということもないはずだ。
薪集めを命じられた月島軍曹は、大方の作業を終えていた。暇という程ではないが、手持ち無沙汰ではある。こんな時に雪ばかりの荒涼とした景色に支配されていると、鬱屈とした気持ちになってくる。雪に閉ざされた日本海も、雪に苦しめられた戦場も、思い出すたびにはやく春が来ないかとため息まがいの息を吐いた。呼気が白く滲んで、いっそう寒さが身に染みる。
月島軍曹は荷から煙草を取り出すと、火を灯した。煙を深く吸い、肺を満たす。大きく煙を吐いたところで、鋭く名を呼ばれた。
「月島ァ!」
同じく薪集めを命じられていたはずの鯉登少尉は、しかしほぼ手ぶらで戻ってきた。手には言い訳程度の薪が握られているが、脚元の様子から歩き回っていたことはわかる。
「なんだ煙草とは、怠けおって」
「自分の仕事は終わったからですよ。少尉殿こそ、全然捗っていないご様子ですが」
「む! 私は今後の進路の視察をしてきたんだ! 明日も晴れそうだ」
誰もそんなことは頼んでいないのだが、とは月島軍曹も口にしない。ここ数週間の道程で、この若者の意欲ばかりは感じていた。意欲ばかりではあったが。
今度はため息を混ぜて、息を吐く。鯉登少尉はやや不満げに、月島軍曹が喫煙する様子をじっと見ていた。
「……何か」
「私も一本もらおうか」
「はぁ」
急に何を、と思わないではないが、鯉登少尉はいつも急だ。紙巻きタバコが珍しいわけでもなかろうに、注視されるのは居心地が悪い。座りの悪さからふと鯉登少尉も懐に持っていたことを思い出して、ご自身のがあったでしょう? と問いかけた。
「先ほど集落の人間と、夕食の一部と交換してしまった。町に着いたら戻してやる」
尊大な言い方をしているが、鯉登少尉がそれほど喫煙に熱心だった記憶がない。不審に思いつつも取り出してやれば、鯉登少尉は軽く笑う。
「私も嗜む程度だがな。月島が呑んでいるとうまそうに見えたから、久しぶりにどうしても吸いたくなった」
そう言って、さしてありがたくもなさそうに月島軍曹の手から煙草を取り上げた。咥えたまま、火を探す。そして月島軍曹の口元に目をやると、なんの気無しに言った。
「ちょうどいい、火をもらうぞ」
無造作に顔を寄せるものだから、月島軍曹のほうが面食らってしまった。拒否する暇もなく寄せられる口元に、咄嗟に息を合わせる。束の間、呼吸音が混じり合って、その間に炎が移っていった。
鯉登少尉は吸って、吐く。紫煙が二筋、冷たい外気に伸びていく。
この人は、こんな風に他者に近づく人だっただろうか。月島軍曹の中で問に応えが出るほど、鯉登少尉のことを知っているわけでもない。
困惑に言葉もない月島軍曹を、普段の沈黙と取ったのだろう。鯉登少尉は聞かせるでもなく、他愛無い語りを始めた。
「私の父上は葉巻をやる方でな。よくこうして気心のしれた部下たちと、客間でふかしていたのだ」
「そうですか」
「その影響か、私も葉巻のほうが馴染みが深い。しかし士官学校ではそんなことも言ってられんからな」
いつの間にか煙草も覚えた、と語る横顔は年相応にも見えるし、尉官然としているようにも見える。不思議な人だ、と月島軍曹は思う。戦場にありながら、その目に光が宿っているように見える。戦場の質の違いだとでも言うのだろうか。いや、殺し合いの場には違いがない。
そうして幾分煙草が短くなった頃、急に鯉登少尉が声を上げた。キェエ! という叫びは、いつもの猿叫に近い。
「急になんです」
「おまえ、手が粉をふいているではないか!」
驚愕の目で見られた先には、煙草を支える月島軍曹の手があった。かさかさと乾燥した様子は、もはや咎め立てするようなものではない。通常通りである。
「それが何か?」
「キェエ! 乾燥したら切れて痛いではないか! そんなことも気にならんのか!」
そう言って、懐に手をやっている。すぐに小さな容器を取り出すと、月島軍曹の手を無造作に引いた。指先ですくった中身を、遠慮なく手の甲に乗せる。
「なんですかこれ」
「馬油だ! 九州ではよく使う。肌の乾燥にと、母上が持たせて下さった」
そんなだから荷物が多いのでは、という言葉を飲み込んで、月島軍曹は気のない返事をしながら手にすり込んでいく。鯉登少尉も同じく指先に取ったそれを、手本のように手に揉み込んでいた。白く固まっていた油脂は、手の温度にゆっくりと馴染んで染みていく。ベタベタとして、独特の匂いがなんとも慣れ難い。
すり込んでいくうちに、口元の煙草がかなり短くなっていることに気がつく。もったいない。いくらも吸わないうちに、集中力を削がれてしまった。鯉登少尉のそれも同じく短くなっていたが、本人は気にした様子もない。まあ、次の町で返してくれると言うのだから、その言葉には甘えるつもりではあるが。
「ほら、ややマシになったではないか。まったく、少しは自分のことに頓着しろ」
これだから兵卒上がりは、とでも言わん態度にムッとするものの、確かに馬油の馴染んだ肌はヒリヒリとは傷まない。鯉登少尉は煙草を捨てざまに、また必要になったら言えと念を押した。果たしてこれが戦場でどれほど持つものかと、月島軍曹はそんなことを考えていた。
後日到着した町で、約束通り鯉登少尉は月島軍曹に煙草を返した。借り受けた一本に対して、ひと箱と実に気前のいいことである。傍らには小さな容器が添えられていた。本当は馬油を手に入れたかったそうだが、樺太では手に入らず、何らかの生き物の油脂らしい。
それを月島軍曹が利用していたかは不明だが、常に懐に忍ばせていたというのは風の噂だ。