ディミレト「いい香りね、師」
抜けるような白い頬に赤みがさす。満足気に紅茶の香気を楽しむエーデルガルトに、ベレトは口元をほころばせた。修道院に来るまでは茶葉の知識などなかったのに今では茶葉を蒸らす絶妙な時間を見極め、ベルガモットの上品な香りも楽しめる。ベレトは茶会に生徒を招いては日頃の頑張りを少しでも労おうとした。級長のエーデルガルトは学級をまとめてくれて普段から世話になっている。今日はこれまでの感謝の気持を伝えたくて、彼女を招いたのだった。人気のフレスベルグブレンドは手に入らなかったが、彼女はこのさわやかな香りを楽しんでくれたようだ。
「気に入ってくれてよかった。大切なきみに喜んでほしくて選んだんだ」
まぁ、とエーデルガルトの唇が上品な笑みを象る。
「あなたにそんなことを言われたら、みんな簡単に舞い上がってしまうでしょうね。でも…」
そっとカップを置くと、彼女はやや声を落として菫色の瞳でベレトを見つめてきた。柔らかさに混じる淡い酸味が舌に残る。気に入らなかったろうか。違うお茶を淹れ直そうかと提案する前に、エーデルガルトはゆるく首を振った。
「そういうことは特別な人にだけ言うものなのよ、師」
「そうなのか?」
尋ねれば、答える代わりに彼女はきゅっと唇を引き結んだ。
「もちろん嬉しいわよ。あなたが私のために選んでくれたというのだもの、嫌なはずがないわ」
「きみを大事に思っているよ、エル」
教師として不慣れなベレトを、エーデルガルトはことあるごとに励まし助けてくれた。彼女の温かい心が寄り添ってくれなければ、教師の仕事を続けられていたかわからない。
「ふふっ。ありがとう。でも、これで噂の原因がわかった気がする」
噂。なにか不名誉な評判が修道院に流れているのだろうか。困惑するベレトを、エーデルガルトはじっと見つめ返した。
「青獅子の級長、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドのことよ」
「ディミトリ…」
その名前を聞くと胸が騒いだ。あれから、ふとした瞬間にベレトは彼が向けてくれたまなざしを思い出した。そのたびに、ベレトを先生と呼ぶ彼の朗らかな声が鼓膜を潤し、満たされた気分になった。けれど、その噂話とやらに自分とディミトリがどう関係あるのだろう。
「彼に想いを伝えたそうね、師。私の耳にも入ってきたわ」
思わぬ言葉にベレトはカップを口に運びかけた手を止めた。
「見ている人がいるの」
咎めるでもなく、鈴を張ったような瞳はただベレトを見つめた。
「ディミトリに…自分が?」
何のことを言っているのかわからず、ベレトはいつものようにエーデルガルトに教えを請うた。ベレトが困ったときはエーデルガルトは級長らしく率先して手を差し伸べてくれる。けれど、水を差し向けたのは彼女の方なのに、菫色の瞳はおののきに耐えるように小さく揺れた。
「わ、私がこういうことを言うのはおかしいと思うでしょうけど、ごく一般的な恋愛関係にある男女が気持ちを伝え合うものなのは私でも知っているわ」
恋愛沙汰には縁のないベレトは他人事のように彼女の話を聞いていた。士官学校には年頃の若者が集まっているせいか、顔を寄せ合えば自然と恋愛話に花が咲く。ベレトは話を振られても助言できる経験もないのでただ聞き役に徹するだけだが、目を輝かせて夢中になるさまを見ているのは楽しかった。彼女との間にそういう話題が上がったことはないが、エーデルガルトも意中の相手がいるのだろうか。ベレトが先を促すように黙っていると、小造りな唇がもごもごと動いた。
「ほら、付き合っていれば言い合うでしょう、…好き、とか、愛してる…とかそういうようなことよ」
まるでエーデルガルトが愛の言葉を囁かれたようにぱっと頬を染める。いつも取り澄ました彼女が、普通の少女らしく狼狽えるのは珍しかった。
「…だから、ディミトリに言ったんでしょう、師」
菫色の瞳に急かされて、ベレトは慌てて青年とのいくつかの場面を振り返った。ディミトリと過ごした時間はそう多くない。想いを伝えた、とは…多分あれのことだろうか。ベレトは困ったように眉尻を下げた。確かにディミトリに好きだと言ったが、想いを伝えた、とは微妙に違う気がする。
「そういうことを言ったかもしれない…。ディミトリと話していて、彼を好きだと思った。だからそう言ったんだ」
薄紫色の視線の強さに挫けるように自然と語尾は弱くなった。
ディミトリの持つ若さゆえの真っ直ぐさ、情を向けることを躊躇わない大らかさがいいと思った。ベレトにはない部分だから、なおのことまぶしく映った。
その様子を見てどう捉えたのか、エーデルガルトはやっぱり本当なのねと悄然と頷いた。
「あなたは私の…、いえ、私たちの師だもの。耳にしたときは本当は少しばかり面白くなかったけれど、私にあなたの気持ちを否定する権利などないわ。それで、早速ヒューベルトに調べさせたの」
「ヒューベルトに? なにを?」
なぜ黒鷲学級の参謀役の名が出てくるのか。ベレトは目を瞬かせた。
「ディミトリの女性遍歴に決まっているでしょう。…いえ、こういう場合は男性遍歴というのかしら。まぁどっちでもいいわ。とにかく、誰であれ師を弄ぶようなことはあってはならない。たとえ王太子の称号を持つ者でも、そんなことは許されないの」
先ほどまでしどろもどろだったエーデルガルトは、いつもの明敏さを取り戻していた。
「それで、ヒューベルトに命じたのよ」
従者の名前が真実の裏付けになるとでもいうように、エーデルガルトは誇らしげに顎を持ち上げた。
*
夜着に着替えたベレトは寝台に横になってフォドラの歴史書を読んでいた。生徒たちが一般教養として身につけている知識をベレトもきちんと頭に入れておきたかったのだ。これまで輪郭しか捉えていなかったセイロス教が半島に根付いた過程や英雄戦争後の滔々とした世の趨勢。けれど、昼間の疲れのせいか、文字を追っているうちに何度も船を漕ぎそうになって、ベレトは諦めて本を閉じた。そろそろ燭台の明かりを消そうかと思った頃、扉を控えめにノックする音があった。
「…先生、俺だ。ディミトリだ」
どこか切羽詰まった声に扉を開けると、青年が神妙な面持ちで扉の前に佇んでいた。
「少しだけいいか」
寮監の部屋を遅くに訪れたディミトリは、まだ制服姿のままだった。わざわざ部屋まで、それもこの時間まで待っていたのならば聞かれたくない話だろうとベレトは頷いて中へと招いた。
「入って。ほら」
促されておずおずと入ってきたディミトリは上掛けのめくれた寝台に気付き、申し訳なさそうに頭を垂れた。
「なんだか顔色が悪い、ディミトリ。どうしたの。昼間では話せないことだった?」
ディミトリはそれには答えず、じっと見つめて、先生、と呟いた。ディミトリの追い詰められた様子にベレトは首を傾げた。いつも鷹揚に構えている彼の、余裕のなさそうな姿は初めて見る。
「お前は俺に好きだと、そう言ってくれたな」
唐突に口火を切ったディミトリに、ベレトは素直に頷いた。
「あれは、本当にお前が俺を…?」
昼間のエーデルガルトとの会話をなぞっているようだった。彼女からは誰かれかまわず口説くのはだめなのだと釘を差されたが、口説いたつもりは…と否定したところで既によからぬ噂が立っているというのだから、分が悪いのはベレトだった。あなたの言葉ならば簡単に心盗まれる人間がいるのよ、と言うエーデルガルトの話を腑に落ちないながら聞き入れたベレトだったが、ベレトとディミトリの二人が恋人同士だという噂は理解に苦しんだ。どうしてそうなるのだろう。ベレトが伝えたかった友愛や親愛の意味は周囲の好奇心に拭い取られてしまった。
「…でも、ああいうことは軽々しく口にすべきではなかったと思っている。誰かに聞かれていたらしい」
そのようだな、とディミトリは苦笑した。
「自分が誤解を生むようなことをしてしまったせいで、その様子ではきみにも迷惑をかけたみたいだ」
「いや、嬉しかったよ」
ようやく肩の力が抜けたようにディミトリの口元に笑みが浮かぶ。それだけでベレトの胸はじわりと温もった。
「きみはああいうことを言われ慣れているんだな」
「え?」
あの時、さして驚きもせずディミトリはベレトの言葉を受け止めてくれた。それに、彼がある時期女性を口説いて回っていたというのはエーデルガルトから聞いていた。ディミトリも年頃だ。おかしな話ではない。それに、彼のような見目麗しい若者から誘われたら誰だって夢中になるだろう。ヒューベルトはよくそんなことまで忠実に調べたものだと感心したのだったが、ベレトの淡々とした口調にディミトリは慌てたように首を振った。
「誰かになにか聞いたのか? …そうなんだな。違うんだ、俺は本当に色恋には縁遠い。だから、そのことは少し誤解がある…、元はと言えばシルヴァンに焚き付けられ…いや、シルヴァンだけのせいには出来ないな…。とにかく、彼女たちには誤解させてしまったが、何もなかった。本当だ。話せば長くなるのだが…」
シルヴァンはゴーティエ辺境伯の次男坊で、多くの女性と浮名を流していると聞いている。ディミトリはシルヴァンとの会話から始まったことの顛末を早口で話し終えると、俺は戦うこと以外は全てが不器用なんだ、と自信なさげに肩を落とした。
「先生が俺に好きだと言ってくれたとき俺はよく考えもせずに答えたが、あとで、それではまるで先生の告白を流したようだ、まともに取り合っていないとシルヴァンになじられてな…」
双眸に迷いが過る。恋愛巧者から指摘されたせいか、ディミトリはひどい過ちを犯したかのように思い悩んでいる。エーデルガルトの言うとおり、やたらと好意を口に出すものではなかった。
「きみはあんな言葉をからかわなかったじゃないか。それなのに自分の軽率な行動のせいできみがそんな思いをしたなんて」
「俺はたしかに先生のことが好きだから俺も好きだと言ったが、お前の求めていた言葉はその、そういう意味とは…少し違うだろう?」
「何もきみが気に病む必要はないよ、ディミトリ。自分の不用意な発言のせいで嫌な思いをさせてしまったようだ。すまない」
「いや、俺はお前が好きと言ってくれて本当に嬉しかったんだ。それで、もう一度よく考えた」
青い瞳がひたと据えられる。見え隠れしていた戸惑いは消えていた。
「俺は無粋で男女のことには疎い。ましてや男同士のことなど…。だが、お前の言葉は嬉しかった。だからこそ改めて考えて、お前の気持ちに応えてやりたいと思った」
言いながらディミトリは一歩距離を詰めた。騎士が忠誠を誓うみたいにベレトの左手を恭しく取り、そっと包み込む。温かく、繊細な造りながらベレトのそれより一回り大きい手。自分から仕掛けておきながら、ディミトリが窺うように視線を投げてくる。遠慮がちで控え目な仕草だった。
「…お前の望むことがこういう触れ合いなら、俺にも与えてやることが出来る」
生真面目な彼らしく悩んだ結果、ベレトの手を取ることを選んだディミトリの瞳の中で燭台の明かりが踊っている。目が眩むような光を見た気がして、ベレトは小さく息を呑んだ。酒を口にしたときのようなささやかな温もりが湧き上がって、瞬く間に胸いっぱいに膨らんでいく。
「俺に出来るのはこれくらいだが、かまわないか」
ディミトリが目顔で問うてくる。ベレトは何か答えようとしたが、心地よい酔いに全ての考えが押し潰されてしまって言葉にならなかった。やんわりとした力で握られた手に促され、ベレトはただ頷いた。目の前の真剣な表情がぱっと花開くように明るくなる。
「お前を大切にするよ、先生」
*
青海の節も半ば、午後の柔らかな風に頬を撫でられ、ベレトは高い空を仰いだ。こういう日は草原に寝そべるにも、日なたで温まっている猫を撫でてやるにもちょうどいい日和だ。
のどかな陽気に誘われて、ついあくびが出そうになる。ベレトはさっきまで戦術の授業で過去の戦を例に地の利の使い方や野戦の心得などを説いていたのだが、その疲れが出たらしい。
そんなベレトの足元に猫たちが優雅に尾を立ててまとわりついてくる。体を撫でてやると喉を鳴らし、腹を出して催促する。かれらの気ままさが羨ましい。ザラリとした舌の感触を味わい、存分に彼らを甘やかせてやりたいところだが、今は資料を返さなければならない。それに、明日の授業で参考にする本も探さなければ。
鳴き声を振り切ろうとして、向こう側からけぶるような金髪の青年がやってくるのが見えた。なにかあったのか、友人と何事か熱心に話し合っている。真剣な横顔に惹き寄せられた。
その水際立った容貌に呑まれたように惚けた後、シルヴァンとフェリクスとの話が終わるのを見計らって、彼の名を呼んだ。
「ディミトリ」
「先生っ」
ベレトに気付くと、ディミトリの凛々しい輪郭がほどけて笑顔がきらめく。その笑顔にベレトはいつだって簡単に魅了された。どうして自分はここにいるのだったか忘れてしまうほどに。
「…猪、貴様」
「どうしたフェリクス」
笑顔をはためかせるディミトリの横で、フェリクスが不機嫌な渋面に固まった。
「お前はいつから犬になったんだ。情けない。…おい、まさか自分で気付いていないのか。尾を振っているのが見えるようだぞ」
「まあまあフェリクス。先生相手じゃ仕方ないだろ」
呆れたように嘆息したフェリクスの肩を、シルヴァンが宥めるように引き寄せる。触るなと邪険にされてもシルヴァンは慣れたものだ。
きみは犬になったのか、とベレトが問いかければ、ディミトリは、フェリクスが冗談を言うのは珍しいなと笑い、フェリクスの眉間の皺はいよいよ深くなった。言葉を交わすのすら煩わしいとばかりにフェリクスが舌を鳴らす。へそを曲げた子供をあやす要領で、シルヴァンは不満の矛先をさらりと逸らした。
「今日はとことんお前の鍛錬に付き合ってやるんだったよな、フェリクス。殿下、そういうわけで先に行ってます。あ、俺らは勝手に始めてるんで急がなくて良いですからね。先生失礼しますよ」
「あぁ、後から行く」
シルヴァンは、それじゃ、と器用に片目を瞑ってみせると、友人の腕を取ってそそくさと去っていった。きみも行かなくていいのか、そう尋ねるより早く、ディミトリがベレトの抱えていた本に目を留めた。
「まだ仕事か?」
ベレトは腕の中の重さを思い出したように資料を見やった。
「いや…少し明日の準備をしておこうと思っただけだ。きみは? シルヴァンたちを待たせては悪い」
「あぁ、訓練しようかと思っていた。五日後に盗賊の討伐に出るとさっき先生から説明があったんだ。みんな今から気合が入っている。だが、せっかくお前に会えたんだ。シルヴァンにもああ言われたし、急ぐことはない。書庫に行くならそこまで手伝おう」
「いや自分は大丈夫だ。それよりきみは約束があるだろう」
「やりたいんだ、先生」
まろやかに青い瞳を細められるとベレトはいつも落ち着かなくなる。いいのにと遠慮したが、結局、彼のしたいようにさせることにした。
「じゃあお願いできる?」
差し出した本をディミトリが嬉しそうに小脇に抱える姿は微笑を誘った。ディミトリは大切にするとベレトに約束したとおり、いつもベレトを気にかけ、親切にしてくれた。一線を引かなければと思いながらも、最近では彼との時間を優先している自覚は薄っすらとあった。ガルグ=マクでの生活に慣れてきて、気が緩んできているのだろうか。
「五日後か。もうすぐだな。マグドレドの残党と関係あるのか」
「先生はただ山岳地帯に出没する賊の掃討だと言っていたが。こちらにはアッシュもいるから伏せたのかもしれないな…。だが、どちらにしろ俺たちはこれまで十分に鍛錬を積んでいるし、先生がついている」
言外に心配を滲ませたベレトに、ディミトリは力強く頷いた。実力に裏打ちされた自信が頼もしく響く。確かに、ベレスの采配と彼らの今の実力があれば心配は要らないだろう。それでも、ガスパール城主の鎮圧の際には濃霧が発生して視界の悪い中での戦いだったと聞いている。どうしても声は強張った。
「前節の戦いから間もない…。マグドレド街道では怪しげな術を使う魔道士もいたそうだし、十分気をつけてくれ」
「…あのときは正道のためだと利用され、刈り取るしかなかった民兵もいた。挙兵したと言っても、ロナート卿は御しがたい野心の持ち主などではなかったのに。今でも、なにか別の方法があったのではないかと思ってしまう」
「ディミトリ」
「あぁ、いや、すまない…。どうしてもそんな考えが離れないんだ。だが、討伐の件は任せてくれ。大丈夫だ」
無事に任務を遂行してみせる、と保証するディミトリの声は力強く、ベレトはそれ以上言い募るのをやめた。戦略に長けたベレスが彼らを率いるのだから、まず間違いはないはずだがとうしても気にかかった。時々、ディミトリの明朗さの中に潜んでいる陰りが心配だった。いつかそれが溢れ出て、彼が溺れてしまないだろうかと。
「大丈夫だと言ったろう、先生。心配いらない」
手の甲に、隣を歩く青年のそれが触れる。はじめの頃、籠手が派手にぶつかり手を引っ込めると、ディミトリが懲りずに手を伸ばしてくるので困惑したものだが、意図的に触れているのだと気付いた今は、籠手からのぞく指先に指が絡んでくるのを許していた。猫が鼻先を擦り寄らせて甘えてくるのにも似た、ささやかな触れ合い。じゃれるように指先をなぞる動きに身を任せていると、そのうちに節くれだった手がそっとベレトの右手を包み込んだ。
やさしい温度に自然と唇がほころぶ。すいと目を向ければ、ディミトリの嬉しそうな笑みにかち合った。指と指を絡めるようにして手を繋ぎながら、束の間、ベレトは快い充足感に包まれた。
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