ディミレト 夕食を終えたベレトはその足でべレスの部屋に向かうことにした。明日には青獅子学級の生徒たちとベレスは討伐に向かうと聞いている。その前にどうしても姉の顔が見たかったが、ベレスは訓練場に姿を現すこともあれば、生徒を誘って食堂にいたり、誰かの頼みごとで奔走していた。今日も不在なのか、ベレスに充てがわれている寮の二階の部屋からは物音一つしない。ベレス、とベレトが部屋に声を掛けてみると、扉が軋みを上げて開いた。
「ベレト。なにをそんなに驚いているの」
扉からのぞいた同じ色の瞳が、微笑んだ。
「よかった。またいないかと思った」
「ちょうど戻ってきたところだよ。さっきまでカトリーヌたちと話をしていたから」
ベレスが半身を開いて中へ促すのを、ベレトは大人しく従った。
部屋に漂う柔らかな甘い香りは、いつもベレトが身近に感じていたものだ。机の上に積み上げられた教本や、壁に雑然と張り付けられた書類が彼女の息つく暇もなかった数日を思わせた。
ベレスがベレトの手を引いて寝台に腰掛けさせる。自分と同じように寝台の上に畳まれている夜着を見て、昔を懐かしく思った。子供の頃は、畳んだ服をそうやって枕元に並べて寝ていたのだった。
「ディミトリから聞いたんだね」
ベレトはわずかに目を見開いた。どうして言い当てられたのだろう。聞きたかったが、ベレスはすべてお見通しのような気がしてベレトは言い淀んだ。ディミトリと親しくしていることはベレスにはまだ話していなかったが、姉は昔からベレトの機微に敏いところがある。
「今度、青獅子学級で賊退治に出かけること、もう聞いたんでしょ」
自分と同じ瞳にすべてを読み取られてしまいそうで、ベレトはそっと目を伏せた。隠すことでもないのに、彼とのことを説明するのは躊躇われた。
「大丈夫、ディミトリに怪我はさせないよ」
「ベレスに気を付けてと一言伝えておきたかっただけだ」
「そうなの? ありがとう。でも、ディミトリのことは大丈夫だよ」
「彼だけじゃない。皆のことが心配に決まっている」
子供っぽいと思いながらも、つい素っ気ない物言いになった。
「誰も欠けることなく帰ってくるから安心して。今回もカトリーヌたちが同行してくれることになったし、賊が逃げ込んだ場所も下調べしてある」
そう言ってベレスが握った手に力を込めた。ベレスとこうしていると、ディミトリと手を繋いでいるときとはまた違った安心感が胸に染み出してくる。ベレトのものより小さくて細い手なのに、誰よりも頼もしく感じられた。
「あぁ、ベレスを信じているが心配だったから。気を付けて」
ベレスは答える代わりに空いている方の手でベレトを抱き寄せた。柔らかな身体がベレトを優しく包み込む。華奢ながらしっかりと筋肉のついたしなやかな身体からは、馴染みのある甘い香りがした。姉の香りに包まれると、いつものように深い安堵感が体中に広がった。
「こうしていると子どもの頃に戻った気がする」
抱擁を返しながら、つい笑みがこぼれた。
「そうだね。昔からベレトとこうしていると安心できた。ベレトを抱きしめると温かくてとても落ち着くんだ。ジェラルトにまた、もう大人なんだからいつまでもくっついてるなって言われちゃうかな」
「そうだな。ジェラルトが居たらきっとそう言う」
小さく笑う気配に首筋が擽られる。背中に回された手がゆっくりとベレトの背を往復した。
「でも、ジェラルトにこうすると嬉しそうにするよ。ベレトもたまにジェラルトにかまってあげて。ガルグ=マクに来てからなかなか一緒にいられないから、淋しいのかも」
「どうだろう。自分が急に抱きついたら、子どもみたいだ、どうしたんだってジェラルトに笑われそうだ」
「ジェラルトは喜ぶよ。それに、こうして抱き締めているとベレトも心が安らぐでしょ」
「うん」
二人はしばらくそうやって抱き合っていた。こうしているとこのまま一つに溶け合ってしまいそうな気がしてくる。ベレスはゆっくりと腕を解くと、慈愛に満ちた眼差しを向けて言った。
「きっと戻って来る。皆のことは任せて」
*
雲のかかった月がぼんやりと青白く霞んでいる。ディミトリたちが出立してから五日が過ぎようとしていた。予定では一昨日戻って来る筈だったが、それが何を意味するのか士官学校内にも重苦しい空気が漂い始めている。エーデルガルトなどは討伐隊に姉のいるベレトに、大方誰かが足を挫いて遅くなっているのよ、騎兵を連れて行かなかったのかしら、と慰めてくれた。
ベレトは横になったものの、何度も寝返りを打つばかりで上手く寝付けずに結局起き上がった。心は晴れない。ジェラルトは難しくない仕事だと言っていたが、討伐部隊が戻らない事実に楽観的な要素は一つも残っていないように思える。無事に帰ると約束した姉の微笑みと、見送った生徒たちの勇ましい姿を思うたびに心が乱れた。
ベレスとディミトリが約束してくれた言葉を、ベレトは縋るように胸の中で何度も思い出していた。ベレスは傭兵稼業で野戦にも心得がある。戦いで不意を突かれることはないと思うが、大半の生徒はそうではない。心配いらないと言ってくれた青年のあの明朗な声が無性に聞きたかった。ベレトを先生と一途に呼んでくれる声が慕わしい。
窓の外の静かな月明かりを浴びた山裾を見つめる。遠くから行軍の隊列が黒く浮かび上がってはこないかとベレトは目を凝らしたが、何も捉えられぬまま空ばかりが白んでいく。結局ベレトは眠れぬまま夜を明かした。
今日こそ戻ってくるだろうか。
不安な思いを抱えたままベレトが一日をやり過ごしていると、午後のぬるい風が吹く頃になってにわかに士官学校内が騒がしくなった。ベレトは興奮した生徒たちに早く早くと市場に連れて行かれた。なんだろうと思っていると、いつもは固く閉ざされている木製の頑丈な門が上がり、帰投の旨を告げるべく駆けてきた騎兵を衛兵が出迎えているところだった。門の向こう、大修道院に続く往環に、整然とした隊列の影が武具に陽をきらめかせながらゆっくりと近づいてくる。集まりつつある群衆に、全員無事だそうだ、と囁き声が伝わり安堵の波が広がっていく。
峻険なオグマ山脈を背に道を上ってくる影はやがて輪郭がはっきりと分かる距離になり、人垣越しに全員の無事な姿を自分の目で捉えたときベレトはようやく胸を撫で下ろした。帰還した生徒たちに疲労の色は見えるものの、見た限り負傷者はいない。フェリクス、アッシュは思わぬ歓迎に戸惑っている様子で、シルヴァンなどは愛想よく手を振り返していた。
目の前を実り豊かな小麦畑のような髪の青年が通り過ぎる。何かを探すように周囲を見回していたが、彼らしく背筋の伸びた凛とした姿に変わった様子はない。ベレトはそっと息を吐いた。さぞ疲れただろう。今はただ休ませてやりたかった。
「先生、さあ早く声をかけてあげて」
帰投した部隊に手を振って迎えていたドロテアが人をかき分けるようにして戻ってくると、ベレトの腕を引いて誘った。同行した兵士たちの、大修道院の門を無事に潜れて虚脱したような様子にわざわざ声をかけに行くのは憚られた。殿を務めていたベレスが馬に揺られながら通り過ぎようとして、ベレトは姉に向かって軽く手を上げた。同じく弟を見つけたベレスがにこやかに手を振り返してくる。
ベレスもディミトリも皆戻ってきた。そっと胸に手を当てると、そこに居座っていた重苦しさがいっぺんに融けて不思議なほど穏やかな気持ちになっていた。
「皆無事だった」
「良かったわね、師」
誰にともなく呟いた言葉を、横にいたエーデルガルトが拾い上げた。いつの間に来ていたのだろう、と思いかけて、それほど前方に気を取られていたのだとベレトは狼狽えた。傭兵として生業を立てていた頃は、平時でさえ人の気配に気づけないことなどなかったのに。
「恋しい人がいるとき、人はそんな顔をするものなのね」
エーデルガルトはそう言って感慨深げにベレトを眺めた。
「あらエーテルちゃんもそういう話に興味が出てきたの?」
「茶化すのはやめて。ただ師もそんな表情をするのだと思っただけよ」
「確かに最初のころに比べて変わったと思うわ。感情が豊かになったというか。いい変化よ、先生。離れていても恋い焦がれるなんてまるで歌劇の物語のようねえ」
楽しそうに笑うドロテアの横でベレトは押し黙った。顔に出していた自覚はなかったが、簡単に他人に感情を気取られるようでは戦いの場でも次の一手を簡単に読まれてしまう。彼は自分が腑抜けになったような気がした。
「きみも出迎えに来たんだろう、エーデルガルト」
「私が? なぜ」
エーデルガルトがことさらぶっきらぼうに返してくる。口ではそう言うが、面に出さないまでもエーデルガルトも青獅子学級の生徒たちを気にかけていたのだろう。行かなくていいの、と泰然と腕組みをしながらも問いかける目はおもいやりの光があった。
「ドロテアの言う通り声をかけてあげたらいいわ。ずっと心配だったんでしょう。授業中でさえ集中力を欠いていたように思うわ」
「誰かを思ってぼんやりと物思いにふけるなんて素敵ね。私もそんなふうに思える相手がいればいいんですけど」
「ぼんやりしていたつもりはなかったんだが…」
確かに、つい物思いにふける瞬間はあったかもしれない。教える身としてきちんと彼らに向き合わなければいけないのに、ここ二日ばかりエーデルガルトたちの前に立ちながら別のことを考えていたのは事実だ。教鞭をとると決まった日から自分なりに身を入れていたつもりが、彼は自分が情けなくなった。
「すまなかった。きみたちに対して誠実ではなかったな。気づかぬうちに自分は腑抜けていたらしい」
「先生ったら。誰かを想えば皆そうなるんです」
「えぇ、師は大げさよ。責めているのではないの。当然のことだわ。それとも、師は私が帰らなかったら心配してくれないのかしら」
「心配するに決まっているだろう。エーデルガルト、そういう縁起でもないことは言わないでほしい」
「ふふ。でも、他でもない大切な人が怪我でもしたかと思えば、あなたが落ち着かなかったのも無理はないわ。さあ行ってきたら。次の授業に少しくらい遅れたとしても級長の私が皆をまとめてみせるわ」
形のいい唇が弧を描く。彼女らしい不器用なやさしさとドロテアの愛情深い眼差しに後押しされ、ベレトは雑踏をかき分けて隊列に追いすがった。
「ベレス、おかえり。きみたちが無事で良かった」
「心配をかけたね。約束通り皆怪我はないよ。ただ少しくたびれているだけ」
修道院暮らしで身体がなまっていたみたい、とも付け加えた同じ色の瞳が明るく瞬く。その輝きだけで不安に萎れていた心は癒された。ベレスはそうやって笑顔を見せてくれたが彼女も疲れているのだろう、声にいつもの張りはなかった。
「帰り道に山賊に襲われている人たちに出くわしてね、助けて村まで送り届けてきたんだ。来た道を戻ることになってそれで遅くなった」
二人とも体力には自信はあったが、賊の仲間が追ってくるかもしれないと道中警戒をしただろうし、村人の護衛をしながらでは気が張り詰めていたはずだ。ジェラルトたちと商人を街から街へ護衛した経験があるが、戦いに不慣れな者の予想のつかない動きを見守りながら剣を振るわなければならない場面もあり骨が折れた記憶がある。
「疲れただろう。ゆっくり休んで」
「ありがとう」
姉はこのままセテスに討伐の結果の報告に行くと言い、ベレトは彼らの後ろ姿を見送った。
ベレトは姉が誇らしかった。ベレスのように、自分もやるべきことをやるだけだ。今度は自分が精一杯生徒たちに向き合おうという気力が湧いてくる。
踵を返したベレトの前に、先に戻っている筈のエーデルガルトとドロテアが待っていた。薄紫の瞳が気難しく眇められる。
「いいの?」
「あぁ。次の授業がある。教室へ戻ろう」
エーデルガルトは優美な眉を怪訝に持ち上げた。その人形のように可愛らしい顔は固まって小さな唇が何かを言いかけてわなないている。ドロテアは驚いたように口を開けたままだ。
「皆をまとめてくれるんだろう、エーデルガルト。早くしないと遅れてしまう」
「そうじゃないでしょう…。私にここまで世話をさせておいて一体どういうことなの」
はぁ、とエーデルガルトは盛大なため息を吐くとゆるゆると美しい髪を振った。
「本当に、いいの? もっと、こう、」
「無事は確認した。戻ってきたのだし、生きてさえいればいつでも会える」
「先生、それはそうでしょうけど」
「極端過ぎるわ…。でも…その様子では今度は授業に身が入りそうね、師」
「もちろんだ」
なぜか困ったように微笑む二人に笑みを返しながら、ベレトは大きく頷いた。教室に向かうベレトの足取りは、今朝よりも軽くなっていた。
*