秋は長雨中学三年生、秋口。
秋の長雨、という言葉もあるように、その日は一日どんよりとした空気が空一面を覆っていて、しまいには予報通りの雨が降り出していた。
その日はそんな天気だったこともあり、彰人は日が落ちるまでには冬弥との練習を終え、しっかりと家に帰り、明日のイベントに備えて休もうとしていた……はずだった。そんな平穏は姉の一声で簡単に潰されてしまったわけだが。
今、彰人の手に握られているのは傘と、それからケーキの入りの箱が入ったビニール袋だ。ご丁寧な二重包装は自分でやったもの。正確には、ビニール袋のメインは紙パックのジュースだ。要するに、姉によるいつもの理不尽だった。
一年ほど前に大きな衝突を起こして以来、すっかり父の存在を蛇蝎のごとく嫌うようになってしまった姉は、父と鉢合わせる可能性を尽く避けるし、彰人も無用な衝突で八つ当たりされるのは自分なので避けさせていた。結果として、玄関までに必ず通るいずれかの場所に父がいる時、姉は部屋から出ようとしない。けれど、その代わりにとばかりに、欲しいものがあるときには弟をまるで召使いのように扱うのだ。
今日も今日とて、チーズケーキが食べたい、という姉の命令により、金だけ渡され、家から放り出されてしまった。このことは母にも黙認されており、「あまり遅くならないでね」の一言で暖かく見送られてしまっている。無論、弱みを握られて仕方なくやっているわけではなく、この立場を受け入れているのは彰人自身の意思によるところもあるわけだが。
兎にも角にも、そういうわけなので彰人は雨の中、姉の使いパシリをこなすことになってしまったのだった。
「ったく、あいつは本当に弟のことなんだと思ってるんだよ」
夏の雨とは異なり、ざあざあとひどい音を立てないまでも、しとどに降り続ける雨はいまだ止む気配がない。彰人は誰に聞かれるでもない文句をひとりごちながら、購入したケーキを片手に帰り道を歩いていた。
そこで、今日練習で使っていた公園が、たまたま目に入った。
こんなことなら、どこか屋内にでも入って冬弥と練習を続けておくべきだったな、なんてことを考えながら昼間荷物を置いたあたりを見る。昼間の公園とは異なり、夜の公園は表情が違う気がした。そんな中、ぼんやりと街灯がベンチと、そこにいるひとかげを照らしている。誰、とは一瞬迷ったものの、途端にざわついた心が、それが今の今思い描いた人だと教えてくれたような気がした。
「……冬弥?」
その姿をそうだと認識するのと、体が動いたのはほぼ同時だったと思う。出会って大体一年ほど。どことなく独特な感性と思考回路を持つ相棒――冬弥と接しては、目の前にいる彼のことがよくわからなくなったり、なんとなくわかったような気がしたり、やっぱりよくわからなくなったり、というのを繰り返していた。
どうしてこんな雨の中? こんな夜に公園に? 傘もささずに? 何をしているんだ?
そんな疑問が泡のように浮かんでは空中にゆらりと漂っていく。とはいえ、口にできたのはただの一言で。
「お前、何してるんだよこんなところで」
「……彰人?」
けれど冬弥はといえば、そんな彰人のことなんて知ったことではないと言うように、ぽたり、ぽたりと濡れきった前髪から水滴を垂らしながら、いつもの仏頂面で声のする方へと振り返ったのだった。
「彰人はどうして、こんなところに?」
「それはこっちのセリフだ、傍から見れば色々おかしいのはオレじゃなくてお前だろ」
「……、なぜ?」
「なんでって、そりゃこんな雨の中で傘もささずに公園でぼーっとしてたら変だろ……体冷やすし、風邪ひくし」
「……そう、だな……確かに、そうかもしれない」
声をかけた冬弥はどこか虚ろげで、けれどもさほど体調を悪くしているようには見えない。その点には、ひとまずほっと胸を撫で下ろす。とはいえ、水を吸った衣類はやたらと重そうで、随分と長い時間傘もささずに外にいたことを理解するには十分だった。そのことに、彰人は思わず難しい顔になってしまう。
なにかあったのだろうか。いや、あったに違いない。けれど、それは自分が踏み込んでもいいことなのだろうか。
「……傘、は、忘れてしまって」
突然、ぽつりと言葉を置くように話しはじめた冬弥の言葉に、彰人は少し戸惑って、戸惑ったのを隠すように、ああ、と相槌をうった。それから、必死に頭を回転させて、恐らく自分の発した「変だろ」という言葉に対する弁明をおこなっているのだと気がつく。
相変わらずわかりにくい。そういうところは、やりにくい相手だった。
とはいえ、冬弥自身から、家族と、特に父と上手くいっていないという話も聞いていたから、その言葉でどこに傘を置いてきたのかは聞かずともわかった。置いてきたというか、持っていかなかったというか。
「コンビニで、傘を売ってるのはわかっていたんだが、財布も……」
「そうだとしても、せめて屋内で雨宿りとかすればよかったんじゃねぇの、それこそお前が今言ったコンビニとかさ。わざわざ、こんなところに風邪ひきに来なくても」
「それは、」
彰人の疑問に、冬弥は気まずそうな声色で言い淀んだ。歌っている時とは異なる淡々とした声は、それでも下手をすれば、微塵も仕事をしてくれない彼の表情筋よりもずっと感情表現豊かだ。今のは、それがわかっていたけれども出来なかった、という声。
彰人が次の言葉を待っていると、やがて冬弥は観念したように続けた。
「……眩し、くて」
は? と条件反射で声が出そうになって、なんとか飲み込む。正直、意味がわからなかった。
夜は照明が眩しいということだろうか、そういうことなら彰人にも少しだけ、わからないでもない。けれども、それが冬弥が屋内――たとえばコンビニ――で雨宿りすることを避ける理由になるとは思えなかった。
「眩しいと……自分がそこにいてはいけないような気がしてしまう、から」
彰人が何か言う前に、冬弥が続ける。その言葉で、ようやく彰人は合点がいった。というのも、冬弥は以前にも、そのようなことを口にしていたことがあったからだ。
曰く、冬弥には眩しいと感じる場に自分がいることで、なにやら罪悪感を覚えることがあるらしい。彰人にはその感覚は理解できなかったし、だから、聞いても意味がないだろうとその理由を聞いたことはないけれど。もちろんその眩しいというのは、照明の明かりがどうとか、そういうことではなく、冬弥の内側にある感覚的な話だ。
「それで、ここへきた、と?」
「……どこへ行けばいいか、わからなくなってしまっていた」
冬弥にとっての世界はとても狭い。同い年、まだ中学生の彰人が言えたことではないけれど、そんな彰人よりもずっとずっと狭い。だから、こんな小さな街の中でも、こんな風に迷子になってしまうのだろう。
そう言われてみれば、冬弥の瞳はどこか道にでも迷ってしまったかのように所在なさげなようにも見えた。実際のところ、確信は持てなかったけれど。
冬弥、と名前を呼んでみて、けれど、次の言葉が出てこない。何を言うのが正解なのだろう、道を示すなんて高等な真似は彰人にはできなかった。自分だってまた、子供でしかない。かといって、一緒に迷ってやるとも言いきれなかった。今冬弥のいる場所がどこなのか、普段なにひとつそんな話をしない彰人にはわからなかったから。
そんな不自然な静寂がふたりを包む中、ふいに、かさりとビニール袋が無機質な音を立てた。
「それ……」
「え、あー……これは絵名……姉貴の、」
無音に雨の音がひとつの傘を弾く音だけが聞こえている中で、ビニール袋の擦れる音はやたらと大きく響いてしまう。当然、それは近くにいる冬弥の耳にも。冬弥が指をさして僅かに小首を傾げるのに気がついた彰人は、ああこれか、と水滴をいくつか弾いたビニール袋を軽く掲げた。
中にあるのは、チーズケーキがふたつに保冷剤、最近姉のよく飲んでいるアップルティーの紙パック、それからストローとプラスチックのフォーク二本。チーズケーキのひとつは自分用で、残りのものは家で待っている(何事もなく大人しく待っていてほしい、という願望込みの想定だが)姉用だ。
それを見るや否や、冬弥はバツが悪そうに眉を下げた。
「すまない、引き止めてしまって」
「別に。声掛けたのオレだし」
でも、お姉さんは彰人の帰りを待っているんだろう、なんて言い出す冬弥は本当に申し訳なさそうにしゅんと声を落とす。その姿は、姉の傍若無人っぷりを切々と語りたくなった彰人に、そんな気力もなくさせてしまうほどのもので。彰人は、冬弥のその表情がひどく苦手だった。
再び沈黙がおりて、気まずい空気が流れる。
この長雨みたいに停滞してしまった空気に、彰人はあっという間に耐えられなくなってしまった。はあ、とため息をついてがしがしと頭を掻く。
「ったく、しょうがねーやつ」
「え……っあ、あきと……っ!」
随分と冷たくなっている冬弥の手をがっと乱暴に掴んで傘の内側に引き寄せた。それから、戸惑う冬弥をよそに、そのまま歩き出す。
「急にどうしたんだ」
「あーあーうるせえ、黙ってついてこい」
「だが、行先くらい……っ」
「オレんち!」
冬弥は、突然のことに狼狽してはいるものの、強く抵抗する様子はなかった。されるがまま、彰人に手を引かれてはつられるように歩く。途中、くしゅん、と音がして、彰人が視線だけ冬弥の方に向ければ、それに気がついたのか冬弥はあからさまに視線を逸らした。音の出処は冬弥で間違いないようだった。
それからはお互い無言で、数分も歩けば目的地の玄関前まで着いてしまっていた。
ただいま、と傘を閉じて玄関の扉を開けると、母が「遅かったわね」と、ぱたぱたスリッパの音をたてながら現れる。それから、彰人の斜め後ろにいる濡れ鼠を見て、驚いたように目を見開いた。
「え、え……? 一応確認するけどお友達、よね?」
「ああうん、そんなとこ。タオルとか持ってきてくんねえ?」
「ええ、もちろん。お風呂も沸かしてあるから入っていきなさいな、そんなに濡れていると寒いでしょう?」
普段ならこういうとき、冬弥はいかにもな育ちの良さで、とても丁寧な挨拶をする。けれど、今日はずっと無言で、彰人達のやり取りをどこか他人事のようにぼうっと見ていた。どうやら、歩いている間にすっかりスイッチが切れたらしい。
「おい、冬弥……冬弥って!」
「っ、わぷ……な、何だ……」
「なんだ、じゃねぇよ。とりあえずジャケット脱げ、重いだろ」
タオルを投げて、代わりに、上着を渡すように彰人が手を差し出す。うわぎ? と疑問符を浮かべながら頭からタオルを被った冬弥は、しばらくそうしていたかと思うと、ようやくそれが自分のためにあるものだと認識したのか、そっとタオルに触れた。
これは駄目だな、と判断し、冬弥に近づく。「う、わ、ぎ!」ともう一度聞こえるように声を上げて、冬弥のジャケットを引っ張ると、ようやく冬弥はそれに気がついたらしく、謝りながら羽織っていたそれをいそいそと脱いで彰人に渡した。
あらかた濡れている部分を拭いて、というより拭いてやって、今度は冬弥を風呂場のある方へと引っ張る。
「服はそこの籠、オレは着替えられそうなもん持ってくるから」
「え、あ……だが、そこまでしてもらうわけには」
「なに、風邪ひきてーの」
「そういうことではないが……」
「そ。悪いと思うんならさっさと入ってくんねぇ?」
困ったように立ち竦む冬弥に、やや苛立ちを含ませて告げる。冬弥も自分が何か言う立場ではないと判断しているのか、それ以上は何も言わず、「すまない、わかった」と小さい声で返答し、大人しくシャツを脱ぎ出した。風呂には入ってくれそうだというのを確認したところで、彰人は脱衣所の戸を閉める。向かう先は自室だ。背格好は冬弥の方が大きいが、そうは言っても大した差ではないし自分の服も入るだろう。
クローゼットを開けて、その中でもややオーバーサイズ気味の服をいくつかピックアップする。普段な冬弥の好みを聞くところだけれど、今は緊急時。冬弥の好んでいた色やデザインを思い出しながら一着を決めた。緊急時、とはいえあまり適当なことはしたくないのだ。ひとまずこれでいいか、と決めたところで部屋のドアをコンコンと叩く音がした。
「彰人、今いい?」
「よくねぇよ、こっちは忙しいんだ」
「はあ? まあいいや、入るわよ……ってどうしたのこれ」
彰人の制止も聞かず、絵名が扉を開ける。開けて、自室のベッド上にいくつも服を並べている状況に目を白黒させた。
「……よくねーって言っただろ」
「忙しくなさそうな声で忙しいって言われてもね」
勝手に入ってきて悪いとは思わないらしい。悪びれる様子もない絵名に彰人は嘆息しながら、冬弥に貸さない分の服をクローゼットに閉まっていく。
「で、何してるの?」
「見りゃわかんだろ、服選んでんだよ。あと、今日はもうこっち来んなよ」
「別にそう頻繁に来てないでしょ」
来てるだろうが、という文句はぎりぎりのところで飲み込む。それよりも冬弥だ。このままだと着る服がない。お前も早く出ろ、と絵名を部屋から追い出して、自分も部屋を出る。そのまま脱衣所まで戻ろうとしたところで、再度絵名から声をかけられた。
「あー……そういう……ねえ、彰人」
「なんだよ、ケーキならさっき部屋の前に箱ごと……」
「やっぱり最近体重気になってるし、ケーキはいいや。飲み物だけ貰うから、食べておいてくれる? あんたならふたつくらい余裕でしょ?」
そういうと、絵名はチーズケーキがひとつ入った箱を押し付ける。彰人が何か言い出す前に絵名はそそくさと部屋に戻って行った。
「あ、おい……! ったく、なんなんだよ……」
買いに行けと言ってみたり、やっぱりいらないと言ってみたり、まるで暴君だ、知ってはいたけれど。本当に弟をなんだと思っているのか。
そう思いつつ、ケーキと冬弥に持っていく予定の服を交互に見遣る。はた、とひとつの推測がたってしまった。これはもしや、ひょっとして、ひょっとするのだろうか。
(……いや、ないない、絵名に限ってそんなこと)
とはいえ、万が一の可能性がある。彰人は、自室の隣にある閉じられた絵名の部屋の前で、戸を開けることはせずに続けた。
「買いに行ったのはオレなんだから、礼は言わねーぞ」
返事はない。まあ、聞こえていないのなら、それでもいいのだけれども。
***
「すまない、こんなに色々と」
「別に、相棒なんだからこのくらい気にすんなって」
それに、明日はイベントもある。小さい箱ではあるが、かといって万全の状態で挑まない理由はない。もちろん、その万全の状態に冬弥は必須だ。だから、冬弥の体調面だってしっかりと調えてやって挑みたい。そこまで話すと、冬弥はややあってからようやく頷いた。
その妙な間に微かな違和感がなかったわけではないけれど、うまくその正体がつかめず、彰人は誤魔化すようにチーズケーキをひとつ、冬弥に渡す。
「それより、これ食おうぜ」
「え、だがそれは、彰人がお姉さんのために買ったものじゃなかったか?」
そのチーズケーキは元々絵名のために買っていたもの、ということを知っていたからか、冬弥は受け取ることを躊躇った。「あいついらねぇんだって」と再度押付けて、リビングの、普段彰人が使う場所の向かいに座らせる。それから、今度はプラスチックのフォークを渡した。
「甘いな」
「そりゃまあ、ケーキだからな。食えそうにないなら貰う」
小さくすくいあげたケーキのひとかけらを口に運んで、それでも冬弥の眉間によった皺は消えそうにない。かといって、嫌なら貰うと言っても、冬弥はふるふると控えめに首を振った。
「……カップ入りのものは初めて食べたから、食べ方があっているか不安だった」
「食べ方? は、なんだそれ。こんなのに食べ方も何もねぇよ」
「そうか」
冬弥は時折、こうして妙に世間知らずな面を覗かせてくる。今までどういう生活を送っていたのか、彰人には知る由もない。その全てを聞かずとも共に歌うことは出来るし、それならば、相棒として不足はないと思っているから、敢えて聞き出そうとは思っていなかった。もちろん、話してくれるようならば、それには耳を傾けるつもりでいるけれど。
けれども、冬弥はそれからは何も話さず、黙々と、ゆっくりとしたペースでチーズケーキを口に運ぶだけだった。それは、彰人が食べ終える頃に、まだ半分程度までしか減っていないほどのスピードで。
「ってかお前、食べるの遅いんだな」
「すまない、急いで食べる」
「ああ、わりぃ、別に急かしたつもりじゃねーから」
何となく話題に困って、彰人はそんな風に話し出す。申し訳なさそうにした冬弥は、それでもケーキを口に運ぶスピードが早くなることはなく、ついにはすっかり手が止まってしまった。
「やっぱ苦手な味だったか?」
「……違う、そうじゃないんだ……ただこれは、俺の身勝手で」
「いや、何がお前の身勝手なのか今の話からじゃわかんねぇよ」
呆れたような声でそう返せば、冬弥の瞳の白銀は少しだけ揺らいだ。ほとんど表情の変わらないそれは、けれどもなんだか、泣きたいのを堪えているように見えて。
「……どうした? 何かあるんだったら話せよ」
彰人がそう尋ねれば、冬弥は困ったように視線をさまよわせて、それからフォークをそっとケーキのカップにかけるように置いた。
「……り、……ない」
「冬弥?」
「……帰り、たくない……」
ぽつりと呟いたその言葉は、ともすれば明るいダイニングなんかじゃ、簡単に消えてしまいそうで。けれど、何とかその言葉を絞り出したのだろう、冬弥はそういうと俯いて、ふるりと小さく肩を震わせた。
「……そっか」
つまるところ、冬弥としてはこのチーズケーキを食べたらさすがに出ていかなければまずいと考えていたらしい。けれど、帰りたくないという思いが、ケーキを食べ進めることを躊躇わせたのだろう。
「すまない、団欒の場にお邪魔をした上、こんなこと」
「団欒って、大袈裟だな」
冬弥は申し訳なさそうに言うが、彰人からしてみれば、一体どれを指してそんなことを言うのかというほどだった。
そもそも姉は部屋、父親はアトリエに篭ってる状態だ、ちっとも団欒のテンプレートなんかじゃない。それに、先程までいた母親ですら、今はこの部屋にいない(買い物に行く、とメモが残されていた)。全くのふたりきりだ。あるいは、それでも冬弥にとっては団欒の場なのだろうか。そんなことをつらつらと思い浮かべてみる。
「だがケーキまで頂いて、気を遣わせてしまっただろう」
「皆したくてしてるんだ、気にすんな」
そう言いながら立ち上がり、手を伸ばして、冬弥の頭をくしゃりと撫でる。冬弥はその言葉に、少し間を置いてからこくりと頷いて、また一口、ゆっくりとケーキを口に運ぶのだった。
***
「なあ、今日はもう泊まっていけよ」
ケーキを食べ終える頃合いを見計らって、彰人はそう提案した。翌日はイベントこそあるが、学校は休みだ。もちろん、無断外泊なんてことを出来る立場ではない。スマホは持っていなさそうなので、家の電話で連絡することになるから、冬弥にとってはそれだって負担になるだろう。できれば、メッセージアプリなんかで、一方的に連絡してしまうのがベストだと思ったのだが、仕方がない。今帰すことの方がよほど冬弥を追い詰めてしまうのではないかと思ったのだ。
冬弥はといえば、彰人の言葉にきょとんと不思議そうな顔をして、そっくりその言葉を反芻した。
「……泊まっていく?」
「ああ、もう遅いし、雨だからいつもより暗いしな……それに、帰りたくないんだろ」
「……」
冬弥はその言葉に黙り込む。けれど、睫毛のかかった瞳の色は、僅かではあるが、確かに深く陰を落としていて。
「これ以上お世話になるのは、いくらなんでも迷惑じゃ……」
「だから、この家の人間であるオレがいいって言ってんだ、そういう心配なら無用だって」
何度もそんな風に無用な心配をしてしまう冬弥に、大丈夫と言い聞かせて、ようやく頷かせた頃には、母の「ただいま」が聞こえてきた。
「こいつ今日泊めてもいい?」
「ええ、あんたのことだから、きっとそういうんじゃないかと思って、そこのコンビニ行ってたのよ」
そう言いながら、母はコンビニ袋に入った歯ブラシやらなにやらを見せてくる。
「……すみません、俺」
「気にしなくていいのよ、好きでやってるんだから」
ほらな、だから気にするなって言っただろ、そんな視線を冬弥に送れば、冬弥はようやく肩の荷をおろすようにほっとしたように見えた。
結局、冬弥の家への連絡も母がしてくれた。曰く、子供だけで突然連絡をされても、きっと親御さんは心配する、とのことで。聞けば聞くほど、冬弥の父親というのは化石のような人間だ、心配なんてするんだろうか、なんて冬弥にはとても聞かせられないことを考えてしまうが、さすがに飲み込んだ。本当にそうだとしたら冬弥を傷つけるし、そうじゃないとしても、やっぱり冬弥を傷つけるだろうから。
冬弥は家の電話番号を彰人の母に伝え、深刻そうな顔をする。嫌な役目を引き受けさせてしまったとでも言うように。けれども、電話の方は本当にあっさりと、事務連絡でもするかのように終わった。ただし、雨の中急に家から飛び出していったから心配だった、という冬弥の母親からの伝言つきで。
「心配をかけてしまったな……」
「今から気にしてどうすんだ、謝りたいなら、明日帰ってからでいいだろ。それより、オレが見つけなかったらどうするつもりだったんだよ」
「……それは、」
特に考えていなかった、なんて返ってくるから、聞いている彰人の方が心配になってくる。まさかあの雨の中、一晩中いるつもりだったのだろうか? なんて。
「……あの、さ。なんかあって、行き場に困るって時は、これからはオレに連絡しろよ」
「そ、んなの……出来ない、そこまでしてもらう義理はないだろう」
「あるだろ、相棒なんだから」
少しだけ強く言えば、冬弥は俯いてしまう。前髪に隠れて表情がよく見えない。
「……わかった」
少し逡巡した後、冬弥はそう返事をした。これで、少しは頼る先が出来たのだろうか。そう思いながら彰人は冬弥の表情を少し覗き込むようにして窺う。けれど、無表情な冬弥からは、何を感じたのか、どう思ったのかを察することは出来なかった。
***
事態は就寝直前になって起きた。部屋着も貸した、その他諸々は用意して貰った。けれども、思えば自室はベッドくらいしか眠る場所がない。
「あー……お前、今日はオレのベッド使え」
「え、だが彰人は……」
「布団じゃ寝にくいだろ。オレは客用のやつあったはずだから、探してくる」
彰人はそう言い残して部屋を出ようとする彰人を、冬弥は慌てて引き留める。
「待ってくれ、いくらなんでも、そこまでしてもらうわけにはいかない」
「いいから。オレが泊まれって言ったんだし、客に不自由させるわけにいかねーだろ」
「……すまない」
「だから、オレが勝手に……はあ、まあいいか。とりあえず布団探してくるから」
それから、母に物置代わりに使っている押入れに仕舞われている布団を出してもらい、それなりの質量のあるそれを持って部屋に戻った。冬弥は、どうすればいいのかわからない様子で、部屋の真ん中にぽつんと立っている。
「ほら、そこに敷くから退いた退いた」
「え、ああ……」
そう言いながらも、冬弥はどこへ行けばいいのかわからない様子で、おろおろと右往左往していた。
「……お前なあ」
「う……す、すまない……どこへ行けば邪魔にならないんだ?」
「そこ」
彰人はそう言いながら顎でベッドの方を指し示した。冬弥はそれに従って移動し、そこでようやく腰を下ろす。
「よっ、と。しばらく使ってない割にまともなやつで良かった」
敷いた布団は少しばかりへたってはいるものの、まともに布団としての機能は果たしそうだった。彰人は息をつくと、何か言いたげに視線を動かしている冬弥を見る。まだベッドを使うことに抵抗があるようだ。
「ほら、電気消すから早く入れって」
「あの、彰人……やっぱり……」
「明日、絶対盛り上げるぞ」
「ああ……って、そうだが、そうではなくて」
「じゃ、さっさと寝ようぜ」
冬弥の言葉を遮って彰人が電気を消せば、部屋は暗闇に包まれた。真っ暗になった室内で、ようやくもぞもぞと冬弥がベッドに入る音が聞こえる。彰人もまた、それを確認してから、敷いたばかりの冷えた布団に潜り込んだ。
お互い、何も言わないまま時間だけが過ぎていく。冬弥はさすがに寝たのだろうか。そう思って、物音を立てないよう慎重に体を起こした。
あれだけ強情だった割には、冬弥はすぐに眠りについたようで、近づいてみると静かな寝息が聞こえてくる。平均より幾分か恵まれた背丈を、小さな子供のようにぎゅっと小さく丸めて、冬弥は眠っていた。その体勢だと余計に疲れないのか、と思いつつも、彰人は普段より幼く、あるいは年相応に見える冬弥の寝顔を眺める。
(ひょっとして、疲れてた、とか……?)
あの雨の中にずっといたのだから、よく考えてみれば不思議な話ではない。しかし、先程まで起きていた冬弥の様子から、疲労感のようなものは感じなかった。いや、彰人には見えていなかった。こういった機微には、敏い自信があったのに。
冬弥を起こさないようにそっと、繊細なガラスでも扱うみたいに、その頬に触れてみる。ガラスと違って、柔らかくて温かい。当たり前だけれども、ちゃんと人間のそれだった。
(……オレは、まだ何も知らねぇんだな、こいつのこと)
そんなことをふと考える。ぎこちなく眠るその姿を見つめながら、彰人もまた、抜け出した布団に戻り、意識を夜に沈めるのだった。