うちのクラスの降谷は赤井先輩と同棲してるらしい⑧鬼が来る 本に囲まれた小さな部屋。窓のないそこは夏でもひんやりしていた。
それなのに、赤井は本のためだとか、中央に置かれているピアノのためだからとか言って、罪悪感を覚えるほどに冷房を入れている。実際は、その部屋で寝起きしている赤井が一番、暑さと湿気が苦手なんだろうと僕は推察している。
そんな赤井は今、僕の前でピアノを弾いている。
今日はテストの返却日。ある理由でテスト勉強に全集中した僕は学年一位の座をキープすることができた。それを報告すると赤井は「よく頑張ったな」と純粋に褒めてくれた。何かご褒美になることをしようと提案してくれたので、僕は赤井のピアノが聞いてみたいと頼んだ。
赤井がピアノを弾けることはなんとなく知っていたが、実際に弾いているところは見たことがなかった。幽霊と連弾したことはあったが、あれは赤井が弾いているというよりも赤井が幽霊に右腕を貸しているみたいだった。
僕のおねだりを聞いた赤井は「物好きだな」と言いながらも、彼が寝床にしているピアノのある書庫に招いてくれた。弾いてくれたのは有名なクラシック。僕が知っていそうな曲を選んでくれたのだろう。
しかし、僕は赤井の選曲以上に彼の表情が気になってしょうがなかった。まるでピアノに怨霊でも憑いているかのように、赤井はピアノを睨みつけているのだ。
「もしかして、ピアノを弾くの嫌いでした……?」
僕は赤井が一曲弾き終わるのを待ってそう尋ねた。
「いや?」
「否定されても信じられないぐらい不機嫌そうでしたけど……」
「そうか……?ピアノは母親に無理矢理習わされていたからな。その名残りだろう」
「へえ」
赤井から家族に関する具体的なエピソードを聞いたのは初めてだ。赤井の家族は海外にいるらしく、赤井は祖父母が残したこの家で一人暮らししている。
思い返せば、僕がこの家に住むようになったきっかけは彼の母親だった。息子の生活態度を心配した彼女が高校の西島先生に誰か下宿しないかと相談し、その役目はとある理由で住む場所に困っていた僕へと回ってきたのだ。
「無理矢理習わされていたのにそんなに綺麗な音が奏でられるんですね」
素直な感想を言ったつもりだったが、赤井は意外そうな顔で僕を見上げた。赤井はピアノの前の椅子に座っていて僕はその横に立っているから見上げるのは当然なんだけど、そうするといつもより幼く見えて、なんだか可愛い。二つ歳上の赤井をそんな風に思ったのは初めてだ。
「僕、変なこと言いました?」
「俺のピアノが綺麗だと言ったな」
「言いましたけど……?」
「そんなこと、初めて言われた」
「まさか」
赤井のピアノの腕前は習ったことのない僕が聞いても上手いとわかるレベルだった。きっとピアノの先生も彼の母親も、赤井に才能を感じて期待したんじゃないだろうか。
「……そういえば、家族と先生以外の前で弾いたのは初めてだ」
「えっ、そうなんですか?」
初めて、という言葉に思わず頬が緩みそうになる。赤井はさして意識していたわけじゃないみたいだから、特別だと思っているのは僕だけだろう。それでいい。僕は赤井がピアノを弾いているところをもっと見たくて、赤井にもう一曲弾いてほしいとせがんだ。
「構わないが……何が弾けたかな」
「あなたが好きな曲でいいですよ。できればもう少し苦々しくない表情で弾ける感じの」
赤井は一度悩んで、再び鍵盤に指を乗せた。そこから奏でられたのはクリスマスソングだった。
「あはは、今夏休みですよ?」
「楽しい思い出がある曲はこれしか思い浮かばなかった」
赤井は照れくさくなったのか、ジャズ風にアレンジして弾き始めた。僕と出会うずっと前、クリスマスソングを弾けるようになったばかりの赤井はどんな気持ちでこの曲を弾いたんだろう。サンタクロースなんて生まれた時から信じてないような顔をしているけど、ツリーに靴下を下げたことがあったのだろうか。
もし今年一緒にクリスマスを過ごせたら聞いてみたいな。
「君、明日の予定は?」
赤井のピアノを聞きながら彼のベッドに寝そべっていた僕は赤井の声にハッと身を起こした。さすがにリラックスしすぎだろ。でも赤井の部屋である書庫はグランドピアノとベッドでパンパンで、ピアノを弾く赤井を見るには立っているか、ベッドに座るか以外の選択肢はないのだ。
「えっと、明日は朝から出掛けて帰りも遅くなります。赤井は?」
「俺は昼過ぎから出掛ける予定だ」
「わかりました。じゃあ、先に出ますね」
明日はいつもの朝練よりも集合時間が早い。そろそろ自分の部屋に帰って荷物のチェックをしなければ。
「ピアノ弾いてくれてありがとうございました。おやすみなさい」
「降谷くん」
「なんですか?」
「俺はまだご褒美をもらってないな?」
「えっ、今日は僕のお祝いって……」
「俺も学年一位だった」
赤井はそう言うとピアノの下でくしゃくしゃになっている通学鞄から成績表を取り出した。
「ほ、本当だ……」
「君とお揃いだな?」
「……何がお望みですか」
最初からこうなるように仕組まれていたと思うと、純粋にご褒美をもらった気になっていたのがひどく悔しい。だけど、すでに赤井のピアノを聞かせてもらった以上、赤井からの要求を拒むこともできなかった。
「もしかしてまた女装?」
僕は白い目で赤井を見た。暗に前回の悪戯を指摘したつもりだったが赤井は気にする風もなく、自分の前に僕を立たせると両腕で挟んだ。
「一緒に寝てくれないか?」
「えっ」
「ダメか……?」
赤井はピアノの椅子に座ったまま僕を見上げる。さっきとは打って変わって、可愛げはかけらもなく、その代わりに高校生とは思えない色気を漂わせている。
「ダメじゃないですけど……僕、明日早いですよ……?」
「問題ない。完全に寝付くまで一緒にいて欲しいんだ」
「あ、うわっ」
赤井がベッドに倒れ込み、僕はその赤井の上に仰向けに倒れた。僕のつむじのあたりに鼻を埋めている赤井を見上げると、緑色の瞳の下にいつもより濃い隈があった。
「もしかして……あまり眠れてない?」
「少々夢見が悪くてね……」
涼しい顔で学年一位の座を手に入れられる赤井に眠れない夜があるなんて思ってもみなかった。いつも以上に体を密着させてくるのは不安の表れなんだろうか。
「赤井……おいで」
僕が腕を広げると、赤井はふっと笑ってから僕の胸に顔を埋めた。
「君の匂いがする……」
「か、嗅がないでくださいっ」
そう言いながらも僕は赤井の頭を押し返すことはできなかった。赤井は黙って深い呼吸を繰り返している。赤井がこんな風に弱っている姿を見せるのは初めてのことだった。
「何かあった……?」
赤井の癖のある黒髪に指を差し入れる。地肌を撫でるように頭を撫でると、赤井は「ん」と短く肯定した。
「そう……」
それからしばらくの間、頭を撫でていると赤井は完全に眠ってしまった。
結局、僕は何があったのか赤井に聞くことはできなかった。大事でないといいんだけど。そう思いながら、顔にかかる前髪を払ってやると赤井がむずがるように顔をぎゅっとさせた。それを見た僕の胸もぎゅっと締まる。
「大丈夫……僕がいるよ……」
僕はそう囁いて赤井の額に唇を寄せた。……って、何してるんだ僕は!?赤井のせいで感覚がおかしくなってしまったけど、交際もしていない相手に勝手にキスしていいわけがない。僕はまるで証拠を消す犯人のように、赤井が起きない程度の力で自分がキスした場所を指で擦ったのだった。
「なあ、ゼロ……スマホずっと鳴ってるけど大丈夫?」
電車の中、隣に座っているヒロに指摘されて僕はボストンバッグからスマホを取り出した。
「あー……うん、大丈夫」
「いや、大丈夫じゃないだろ」
僕のスマホを覗き込んでそう言ったのは田中だ。
「赤井先輩から鬼電かかって来てるじゃん!なにかあったんじゃねえの?」
「う~ん……駅に着いたら掛け直すよ」
「もしかして、旅行のこと先輩に言わずに家を出て来たとか?」
図星を突いてきたのは飯島だ。
僕とヒロを含めた四人は彼の親戚が経営している旅館に向かっている。
「そ、それは……言ったよ?……今朝だけど」
「なんて言ったんだ?」
ヒロが心配そうに僕を見る。
「今日は帰りませんって……」
それを聞いた三人が顔を見合わせた。
僕だってちょっと言葉が足らなかったかなあとは思ってる。でも、二泊三日で遠出するなんて言ったら、その間の分のキスを要求されてしまう。ただでさえ赤井のキスは長いのに三日分もまとめてキスされたら、僕は自分がどうなってしまうかわからなかった。
赤井のキスを思い出すとカッと頬が熱くなってひまって、僕は思わず俯いた。
「ねえ、そろそろツッコんでいい?赤井先輩と降谷って、実際どういう関係なの?」
「それ、俺も気になってた。ただルームシェアしてるって感じじゃなくない?」
そんなこと聞かれたって困ってしまう。僕だって誰かに聞きたくて仕方ないんだ。
赤井にとって僕は一体……。
「そんなの、僕のほうが知りたいよ……」
思わず本音を漏らしてしまったのは、電車の窓から差し込む日差しがキツいのと、これから温泉に向かうという気のゆるみのせいだろう。
「は?超意味深なんですけど」
「まさか二人って……」
「ま、まあさ!旅行は始まったばかりだし!込み入ったことは旅館で話そうぜ!な?」
大体の事情を知っているヒロは、両手を広げて僕を庇ってくれた。他のお客さんもいるし、とヒロが言うと、飯島と田中もそれ以上、赤井の話は振ってこなかった。
電車の中には僕らの用に遠出する人々の姿がちらほらある。それぞれのグループがこれから向かう場所や近況を話し合っている。賑やかでも騒がしくはないのは、僕らが向かっているのが海ではなく山だからだろうか。
待ち合わせした駅から電車に揺られること二時間弱。目的駅で電車を降りると、旅館の人が車で迎えに来てくれていた。飯島のお姉さんが結婚される予定の後藤さんだ。大きく手を振って出迎えてくれた後藤さんに俺たちはお世話になります、と頭を下げた。
「いらっしゃい!みんなお行儀がいいなあ!今日は美味しいご飯たくさん用意しておいたからね!」
高級旅館の従業員だというのに後藤さんはまったく堅苦しくないひとで、飯島も彼に懐いている様子だった。
「忙しいのに迎えに来てもらっちゃってすみません」
「いやいや!普通のお客さんは三時チェックインだから、この時間はそこまで忙しくはないんだよ。それに、兼人くんとは旅館に着く前に話したいことがいっぱいあったからさ!」
兼人くん、というのは飯島の下の名前だ。いつもはクールな飯島だが、後藤さんにそう言われて少し照れくさそうにしながらも嬉しそうだった。
「お義兄さん、この前の心霊特番見ました……?」
「見た見た!あのお坊さんの話が俺は一番好きだったよ!」
「あ、俺もです!」
助手席と運転席で交わされる会話を聞いて後部座席の三人で顔を見合わせる。
飯島は高校のオカルト研究会に所属するレベルのオカルト好きで、本人も小学生くらいまでは幽霊が見えていたという。後藤さんはそんな彼と旅館に帰るのも待てない様子で怪談談義に花を咲かせている。
「同じ穴の貉ってこと……?」
「いや、どちらかというと同好の士じゃないか?」
どちらにせよ。僕は嫌な予感がした。ヒロと田中の表情で同じ不安を抱いているのはすぐに分かった。
「おお!さすが進学校の生徒さんだ。よく勉強してるね。貉っていうのはね……」
そこから僕たちは後藤さんと飯島から貉が纏わる民話や怪談を聞かされた。昔話のような話ばかりでそこまで怖くはないものの、話を聞いている間、怪談が苦手なヒロはずっと窓の外に視線を向けていた。
「あの……」
僕はおずおずと二人の会話に割って入った。
「今夜泊まる場所に、その、出るなんてことはないですよね……?」
これから行く場所に人ならざるものが出るのか、出ないのか、僕たちにとってかなり重要なことだ。
「はははっ、君も相当いける口だね?」
「あ、いや、そういうわけでは!」
「俺たち肝試しに行ったこともあるんですよ!しかも閉じ込められちゃって!」
「ええ!すごいね!?もってるなあ!」
赤信号に停まった後藤さんが嬉しそうに僕たちを振り返った。
「全然すごくないですよ……マジで怖かったんですから……」
田中が反論したが後藤さんはますます羨ましそうな顔をした。
「そうか~その年齢でそんな経験がしたのか~やっぱ都会は違うなあ……」
「あ、あの、後藤さん?」
「ああ、ごめんごめん。うちの旅館に出るかって話だったね。残念ながら」
そこでヒロの肩が大きく跳ねた。
「出ないんだよ~~~!結構歴史はあるんだけどね?裏に山もあるからシチュエーション的にはばっちりだと思うんだけど」
後藤さんは運転をしながら首を傾げた。幽霊が出ないとわかったヒロは安堵した表情で背中をシートに預けていた。
「まあ、こればっかりは運だからねえ。あ、今のオフレコにしてね?うちの家族が聞いたら怒るから」
なるほど、それで家に着く前に飯島と話したかったのか。旅館の経営者家族のひとりが旅館に幽霊が出ることを熱望しているなんて大きな声では言えないだろう。
「あ、でも、近くに心霊スポットがあるって言ってませんでしたっけ?」
「うん、あるよ!裏の山の中に『恨みの井戸』っていうのがあってさ!といっても、数年前に撤去されちゃったんだけどね〜」
後藤さんは恨みの井戸の観光的利用を提案しようとしたらしいが、家族に猛反対されて断念したらしい。それにはさすがの飯島も苦笑していた。
そんな話をしているうちに、後藤さんの運転する車は旅館に到着した。僕たちが到着すると後藤さんのご両親がわざわざ出迎えに着てくれた。僕たちは割り勘して購入したお菓子と共にお世話になりますと頭を下げた。
「まあまあ、学生さんが気を遣わなくていいのに!」
「遠いところまでよく来たね。さっき大浴場の準備が終わったから汗を流せるよ」
その言葉に、僕たちは顔を見合わせた。着いて早々、しかもこんな明るい時間からお風呂に入れるなんて滅多にない。僕たちは部屋に荷物を置いたらすぐに大浴場へと向かうことにした。
僕たちが泊まる部屋は大きな離れだった。正方形のその建物は完全に本館とは切り離されていて、中に入ってみると離れの裏にある竹藪から笹の葉が擦れ合う音がした。
「マジでこんな部屋に泊めてもらっていいのか……?」
掃き出し窓を開けて外の景色を眺めていた田中が不安そうに飯島に尋ねた。
「俺も正直ビビってる……まさかこんないい部屋を用意してもらえるなんて思ってなかったから」
「普通に泊まったら一泊いくらするんだろう……?」
「気になる……けど、多分調べない方がいいと思う」
僕たちは飯島の言葉に頷きあった。僕たちには上等すぎる部屋だが、だからといって部屋を変えて貰う方が旅館のみなさんの手を煩わせてしまうだろう。
「大人になった時、誰かが高給取りになったらこの部屋に泊まりに来るってことにしよう」
「そうだな」
僕たちは将来という免罪符を掲げると、持ってきた荷物を畳の上に広げた。部屋は四方を障子で囲まれているので電気を付けなくても明るい。赤井家は窓が少ないので僕は非日常的に感じた。
荷物から着替えを取り出し、僕たちはさっそく大浴場へと向かった。旅館の中はまだ従業員の皆さんがお客さんを迎える準備の真っ最中でちょっと申し訳ない気もしたけれど、お風呂好きの僕は温泉への期待のほうが勝ってしまう。
つい数日前も僕は赤井と近所の銭湯に行ったが、その時は妖怪に襲われてしまってお風呂を楽しむことができなかった。今回の旅行でそのリベンジも果たしたかったのだ。
「でっけ~~~~!」
田中の声が大浴場に響き渡る。檜の香りと温泉の硫黄の匂いがする湯気が僕らを包み込む。さすがに飛び込んだりはしなかったけど、僕と田中は競い合うようにして体を洗い始めた。
「なあ……もう、さすがに無理だろ」
そう呟いたのはヒロの隣で体を洗っていた田中だった。
「ツッコんでいいよな、諸伏?」
「……」
尋ねられたヒロは風呂椅子に腰かけながら両手で顔を覆っていた。
「ヒロ?どうしたんだ?」
「ゼロ……もう庇いきれないよ」
「え?」
「降谷……お前、背中にキスマーク付いてるぞ」
「ええっ!?」
僕は慌てて背中に手を回した。でも触ったところでどこにあるかわかるものではないし、背中を全部隠すことは不可能だ。僕は三人から背中が見えないように後ずさると、後ろ向きのまま浴槽に入り、背中に壁が当たるまで移動した。
なんで、どうして、いや、そうじゃない。正確にはいつの間にだ。僕の背中にキスマークを付けることができるのは赤井しかいない。前回のキスマークが一日足らずで消えてしまったことを考えると、赤井がキスマークを付けたのは昨日のはずだが、いくら赤井からキスされることに慣れつつあるとはいえ、服の中に痕が残るほどキスされたことを僕が覚えていない訳がなかった。
「なになに!?俺見てないんだけど!!」
「見なくていい!!」
「相手は、俺たちの想像してる人であってるんだよな?」
体を洗い終えた飯島と田中が僕ににじり寄る。その後ろでヒロは複雑そうな顔をしていた。
「よし。こうしよう!降谷、手で水鉄砲できるか?」
田中に突然そう聞かれて、僕はキスマークと水鉄砲にどういう関係があるのか分からなかったが、両手を組んでその中から水を飛ばして見せた。
「これ?」
「そう。俺たちが今から一つずつ質問するから、イエスだったら一回、ノーだったら二回、水鉄砲を飛ばしてくれ。その方が答えやすいだろ?」
質問されたことに答えなければいけないのは変わらないが、確かに口で答えるよりは遥かにいい。僕は田中のアイデアを受け入れて、一度だけ水鉄砲を飛ばした。
「じゃあ、まずは俺からな!そのキスマークを付けたのは赤井先輩?」
記憶はないものの犯人は赤井しか考えられない。僕は一度水鉄砲を飛ばした。
「次は俺だ。降谷と赤井先輩は付き合ってるのか?」
飯島に聞かれて、僕は少し悩んでから二回、水鉄砲を飛ばした。それを見た二人が顔を見合わせる。わかってるよ、こんなのは不健全だって。でもどうして赤井からのキスを受け入れてしまったのか、自分でもまだよくわかってないんだ。
「ほら、次は諸伏だぞ」
「ええ……俺?」
「ははん、質問することがないってことは、降谷から事情を聴いてるな?」
「ま、まあ……幼馴染だし?」
「じゃあ、諸伏の質問は俺に譲渡してもらおう」
「おい、飯島ずるいぞ!」
「赤井先輩から告白されたのか?」
田中の抗議を無視して飯島が僕に尋ねる。僕は観念して水鉄砲を二回飛ばした。
「付き合ってないし、好きと言われたこともないけど、キスされるってこと……!?」
「なんじゃそりゃーー!?」
風呂から戻ると、部屋にお弁当が用意されていた。蓋を外すとボリューム満点のおかずとゴハンが所狭しと詰められていた。
「これ、絶対、俺たちのために作ってくれたよな……」
「ああ。唐揚げにフライドポテトにマカロニサラダ……高校生男子のためのお子様ランチって感じだな」
何から何まで良くしてもらって申し訳ないぐらいだが、ここは綺麗に完食するのが礼儀ってものだ。僕たちはちょっと長めに手を合わせて「いただきます」をした。
「この炊き込みご飯おいしい!」
ヒロはそう言って目をキラキラとさせた。
「うちの親が作ってくれた味に似てる……」
「そういえば、諸伏ってこっちのほうの出身だったっけ?」
「うん。少し離れてるけど、おおまかな地域で言えばそんな感じ」
「へえ」
ヒロの故郷の味(に近いもの)に舌鼓を打ち、俺たちはあっという間にお弁当を平らげた。こんな高級な料理をパクパク食べてしまって勿体ないような気もするけれど、大浴場で散々大騒ぎした僕たちはとにかく腹が減っていた。
「さて」
旅館の方が片付けやすいよう離れの入り口にお弁当の箱を積み上げると、飯島がそう切り出した。
「降谷」
「なんだよ、もう話せることは何もないぞ」
「わかってる。だから今度は、聞く相手を変えよう」
「それいいな!」
飯島の話に田中が賛同する。ヒロは「やめたほうがいいって」と二人に反対しているけど、当の僕は何のことかさっぱりわからなかった。
「どういうことだ?」
「赤井先輩に聞くんだよ!降谷のことどう思ってるのか」
「えっ、ええーー?」
僕は無理だと言ったが、赤井からの十数件の着信に返事をしていないのも事実だった。そろそろ掛けなおさないと本当に機嫌を損ねてしまうかもしれない。というかもう怒っているような気もする。
「わ、わかった」
「えっ、ゼロ!?」
「でも、僕が赤井と話すからみんなは静かにしててくれ。いい?」
「わかった」
「ん」
飯島はにやりと笑い、田中は口を手のひらで覆って頷いた。ヒロは渋面を作っていたが僕を止めはしなかった。
「じゃあ……掛けるぞ」
三人に見守られながら僕は自分のスマホで赤井に電話をかけた。コール数が五回になり、もう出ないかもしれないと思ったところで赤井の声が聞こえた。
『はい』
不機嫌を隠そうともしない声に僕のスマホを持つ手にじわっと汗が滲んだ。
「あ、えっと、電話出られなくてすみません。どうかしましたか?」
『……どうかしましたか、じゃないだろ。誰と、どこで、何をしてる。いつ帰ってくるんだ。今日は帰らないだけじゃわからないだろ』
「あ、えっと……」
僕が旅行に来ていることとその面子を説明すると赤井は『諸伏くんがいるんだな?』と言った。
「ヒロ?いますけど?」
『それなら安心だな』
「……なんですか、それ。僕が頼りないって言いたいんですか!」
思わず唇を突き出すと、飯島が宿の備え付けのメモ用紙をペンでさした。そこに『揉めるな。話が進まないだろ』と書かれている。
『降谷くん?』
「……すみません。連絡を怠ったのは僕でした。その……今までひとりだったから誰かに行き先を伝える習慣がなくて」
『いや……俺も干渉し過ぎだな。君には君の交友関係があるとわかってるんだが……君のことが心配なんだよ』
赤井の柔らかい声が電話の向こうから聞こえてきて、僕は赤井がどんな顔で話しているのかを想像した。心配されて嬉しいなんて、子どもみたいでちょっと恥ずかしい。僕は三人から今のこの顔が見えないように、スマホを持っていない方の手を額に当てた。
「心配してくれて、その、嬉しいです……あ、あの、僕も、あ、赤井に教えて欲しいことがあって……」
飯島から提示されたメモには『僕のことどう思ってるの?』と書かれている。僕はゴクリと唾を飲んだ。
『どうした?』
「え、えっと、赤井はぼ、僕のこと……」
今まさに本題を切り出そうとしたその時、電話の向こうから女性の声が聞こえた。
『ねえ、私の着替えはどこ?』
『すまない、後でかけ直す』
一方的に電話を切られた僕は状況を整理しきれず、ポカンと宙を見た。
「降谷?どうした?」
「電話……切られた……向こうで女の人の声がして……着替えを探してた……」
しんと静まり返った部屋の中に笹の葉の音だけが流れていた。
その後、夜になって赤井から何度も着信があったけど、僕は全部無視して電源を落としたのだった。
「どうして電話に出ないんだよ!!!」
僕は赤井の名前をタップし続けながらそう叫んだ。
「降谷が一晩中、着信を無視したから怒ってるんじゃないか!?」
飯島の言う通りかもしれない。自分でも虫がいいと思う。でも今の状況で助けを求められるのは赤井しかいなかった。
「ヒィッ」
田中が悲鳴を上げる。障子に目を向ければ、先程と同じシルエットが今度は西側をゆっくりと移動していた。それと同時に障子紙を爪で掻くような音が聞こえる。いや、爪じゃないかも知れない。鋭利な刃物を持った鬼が、僕らが泊まっている離れの障子の向こうで待ち構えている様子を想像して僕の背中に冷たいものが流れた。
僕は自分のスマホに目を向けた。充電ゲージは残り半分を切っている。お願い、電話に出て……
「赤井〜〜〜!!!あ、繋がった!!」
僕の声に三人が振り返った。
『やあ、降谷くん』
「た、助けて!!!鬼が、鬼女が僕たちの宿泊先に現れたんです!!」
『……ホォ?また肝試しでもしてるのか?楽しそうだな』
うわ、これ絶対怒ってる声だ。でも、どうして僕が赤井の着信を無視したかと言えば、赤井が家に女性を泊めているとわかったからだ。そうは思うけれど、赤井の女性関係を咎める権利が自分にはないことも僕はわかっていた。
「肝試しなんてしてません!!昨日、電話に出なかったのはごめん!でも、僕にも色々事情があるんです!」
『……はあ。諸伏くんに代わってくれ』
赤井は大きなため息を吐いた。僕とは話したくないと暗に言われてショックだったけど、今はそんなことを言っている場合ではない。このままでは僕たち四人、鬼女に喰われてしまうかもしれないのだ。
「……わかりました。スピーカーモードにします。ヒロ」
「な、なに?」
「赤井がヒロから事情を聴きたいって」
「ええ?俺!?」
『悪いな、諸伏くん。緊急事態のようだから君から話を聞かせてくれないか?』
ヒロが僕を見る。僕は小さく頷いて見せた。あの鬼女が現れてからというもの、部屋の中の電気はすべてつかなくなってしまい、スマホのライトだけが僕たちを照らしている。
「わ、わかりました。実は今日の昼間、俺たちが宿泊している旅館の裏にある山へ行ったんです」
そこに行きたいと言い出したのは、やっぱり飯島だった。恨みの井戸は撤去されたと後藤さんから聞いていたから、ヒロと田中も反対しなかった。
僕はと言うと、体を動かせば赤井のことを考えずにいられると思ったから、むしろ飯島の案に大賛成だった。
それがまさか、あんなことになるなんて。
旅館の裏にあったのは小さな山だった。傾斜のある森という表現するほうが正しいかもしれない。登り始めて片道二十分ほどで僕たちは山頂に到達した。
そこで写真を撮ったり、水分を補給したりしてから下山を始めた。『見晴らしはいいけど何もないよ』と言う後藤さんの言葉通り、とくに着目すべきところのある場所ではなかったからだ。
山を下りながら、飯島はどこかに恨みの井戸の名残がないかと探していたが、木々が生い茂っていて見通しが悪く、とても見つかりそうになかった。
そうして下山を初めて五分ほど経ったころ、どこかから女の人の泣き声が聞こえてきた。僕はあたりを見回したが、僕たち以外に人影はなかった。
「どうした?ゼロ」
「今、女の人の泣いてる声がしなかったか……?」
「いや、俺は聞こえなかったけど」
ヒロが他の二人を振り返ると、二人も首を傾げていた。この時点で嫌な予感はしていたけれど、もし山の中で怪我をしているひとがいるなら大変だと、僕は声のする方へと歩き出した。
整備されている山道から少し脇に入ると、そこはにぽっかりと空いたスペースが現れた。かつてそこに何かがあったのは明白で、地面にはなぜか先端が切られた細い竹が刺さっていた。
「それだ!」
飯島が興奮気味に言った。
「え?」
「それが『恨みの井戸』だぞ、きっと!」
「どういうことだ?」
「井戸を埋める時、息抜きといってそうやって竹を埋めるんだ。理由は諸説あるらしいが、そこに井戸があったのは間違いない」
「へえ……ここに井戸が……」
田中はそう言って竹の横にしゃがみこんだ。
「お、おい、降谷……」
「どうした?田中、顔が青いぞ?」
「聞こえる……」
「え?」
「この竹の中から……女の人の泣き声が……」
「……嘘だろ」
その時、突然強い風が吹き、木々を揺らした。枝と枝が擦れる音と共に、女の人の笑い声が聞こえた。
僕たちはほぼ走るぐらいの速さで下山した。
その間も声は僕らをついて来ていたけれど誰も振り返らなかった。
旅館まで走った僕たちは汗だくだった。後藤さんを呼んでほしいと旅館の方に頼むと、十分ぐらいしてから後藤さんが来てくれた。
「どうしたんだい?何か足りないものがあったかな?」
「そ、そうじゃなくて!見つけたんです」
飯島の声は恐怖と興奮が半々といった感じだった。でもここが旅館だということを思い出したようで小さな声で「例の井戸を」と付け足した。
「えっ、本当かい!?それはすごいよ!君たち本当にもってるなぁ〜〜〜!だってね、あれを見つけられるのは村で噂になるレベルの美女だけって言われてるんだよ!」
そう言われて僕たちは顔を見合わせた。なんとなく三人の視線が僕に注がれているような気がして僕は首を横に振った。
「今日は女装はしてないだろ!」
「え?」
「あ、いえ、なんでもありません……」
僕が俯くと田中がクスクスと笑った。さっきまで悲鳴を上げながら走っていたくせに。
「でも、ちょっとまずいかもしれないな……」
「どういう意味ですか?」
「実はね、男が井戸を見つけると鬼女に襲われるっていう話なんだよ」
「えっ……」
「僕が高校生の時にも実際にあったんだよ。いわゆる学校のマドンナ的存在の女の子と一緒に山に入って井戸を見た男子がいたんだけどね。そいつの家に鬼女が現れて……彼は何針も縫う怪我を負ったんだ」
後藤さんの話はとてもリアルで怪談の域を超えていた。黙ってしまった僕らに後藤さんはこう付け足した。
「あ、でもあの離れは四方にお札が貼ってあるから簡単には中に入ってこられないんじゃないかな!」
「そ、そうなんですか……」
さすがの飯島も「なんでお札が」とは聞かなかった。
僕たちは早い時間にお風呂に入り、夕飯を食べて、すぐに布団に入った。けれど誰一人寝てなかったと思う。何かが起こる予感がしていたのだ。自分たちの跡をつけてきていたあの声の主によって……。
「と、いうわけなんです」
『なるほどな』
ヒロから話を聞いた赤井は露ほども興味がなさそうな様子だった。こういうところは飯島と対称的だ。赤井は自分から怪談を話すこともなければ、オカルトに興味もない。仕事だから仕方なくそういう存在と向き合っているというのが僕から見た赤井の印象だった。
「嘘だろ!?」
ヒロが小さく叫んだ。彼が見つめる先には障子に小さく穴が開いていた。漆黒の闇が見える。いや、漆黒の闇が僕らを『見て』いた。
「うわぁーーーーーー」
「赤井、障子に穴が!!どうしよう!?どうすればいい!?」
『そうだな……俺が話をつけてやってもいいが』
「えっ、そんなことできるんですか?」
飯島が尋ねると赤井は自信たっぷりにこう答えた。
『出来る。まぁ、降谷くん次第だが』
「えっ、僕!?」
『ルールを一つ追加する。それでいいなら手を貸してもいい』
「うっ……わかった!わかりました!!!」
『その言葉、忘れるなよ?あともう電源は落とすな。心配するだろ』
「わかったから!早く何とかして!!!」
『よし。ではその穴に君の端末を近づけるんだ』
「ええー……」
つまり鬼女に近づけってことだよな。正直めちゃくちゃ怖い。
「俺が代ろうか?」
飯島が僕を心配そうに覗き込む。
「ううん……僕がやる。赤井、行きますよ」
僕はゆっくりと障子に近づいた。鬼女のシルエットは動かない。きっと僕らの様子を窺っているのだろう。
「近づいたぞ、赤井……」
『わかった。……なあ、障子の向こうの君、聞こえるか』
赤井の呼びかけに鬼女は答えなかった。
『君に伝えたいことがある。君を酷い目に遭わせた男はもう死んだよ』
赤井がそう言った瞬間、障子の向こうでガサガサと何かが暴れる音がした。
「「「「「「本当に?」」」」」」
そう言ったのは女の人の声がいくつも重なったような声だった。全身に鳥肌が立つ。スマホを持つ指先は震えが止まらなかった。
『本当だ。だからもうあの井戸を守らなくていい。君たちの行くべきところに行くんだ』
「「「「「「うん」」」」」」
障子に写っていた影は集まっていた蝶が一匹ずつ飛び立っていくように形を無くしていった。気がつくとそれを見ていた僕の頬を涙が伝っていた。
僕は赤井の電話を切ってからも涙が止まらなくて、ヒロたちに背中を撫でられながら眠った。
「今回は……お世話になりました」
旅行から帰った僕がお土産を差し出すと、赤井は一瞬だけそれに視線を向けて、またすぐに僕に視線を戻した。
「な、なんですか……」
「君、何か忘れていることはないか?」
「えっ、さ、さあ……」
「意地悪な天使だ」
赤井はそう言うと僕のこめかみにキスをした。赤井の唇はそのまま頬へと移動して、それに気を取られているうちに僕は彼の指先に顎を掬いあげられていた。初めて視線と視線がぶつかる。目を逸らしたら負けのような気がしたけど、至近距離で赤井の瞳に見つめられた僕はぎゅっと瞼を閉じてしまった。赤井の唇が僕のと重なる。二日ぶりのキスに微動だにできずにいると、赤井の前歯が僕の下唇を甘噛みした。
「ちょ、ちょっと!まだ許したわけじゃないんですからね!」
僕は赤井の胸を押し返した。つい二日前にこの家に女性を上げて、服を脱がすようなことをしていたくせに、よく僕にキス出来るものだ。
「許す?俺は君を怒らせるようなことをしたのか」
この男は……!その容姿からしてモテるだろうと思ってはいたけど、ここまで節操なしだとは思わなかった。僕は腹が立つのを通り越して悲しくなってしまった。自分の部屋に戻ろうと黙ってソファから立ち上がると、赤井が僕の手を掴んだ。
「ヒントをくれないか」
そう言いながら赤井が僕の指に自分のを絡めようとしている。その指は女性の体にどんな風に触れたんだろう。
「家に女性を連れ込んでたでしょう!」
「女?……ああ、聞こえてたのか」
赤井はまったく悪びれる様子もない。僕は自分の頭が冷えていくのが分かった。
「……どうせ僕はあなたのただの後輩ですからね。あなたの女性関係に口を出す権利はありませんでした。すみません」
僕が手を振り払おうとしても、赤井はまったく離そうとしなかった。
「あれは母さんだ」
「……えっ」
母さんって、マザー、母親だよな……。僕は記憶を巻き戻して、電話越しに聞こえた女性の声を思い出した。大人の女性だったのは間違いない。少し低めで、言われてみれば赤井に似ているような気がした。
「急に家に来たんだ。君を紹介しようと思って何度も電話を掛けたんだぞ」
「え、えっと」
「ついでに、もう一つ訂正すると君はただの後輩じゃない」
「えっ」
「特別に可愛い後輩だよ」
お前……可愛い後輩にベロチュウしていいと思ってるのか!?そう反論したいのに、さっき冷え切っていたはずの頭がもう熱くなっていてうまく言葉がまとまらない。それもこれも、夏と赤井のせいだ。
「さて、誤解が解けたところで俺からもいいかな?」
「え?」
「追加するルールについて」
「……男に二言はありません。何でも言ってください。あの、倫理観と校則に反さない範囲で……」
僕がじっと見つめると、赤井はぷっと噴き出した。何がおかしいんだよ!
「これから毎晩一緒に寝てほしい。それは君の倫理観に反するかな?」
「えっ……えっと、一緒に寝るって、この前みたいな感じに……?」
「そうだ。それ以上は求めない」
そ、それ以上って……。
実はこの旅行で田中たちとそういう話をしたところだった。ファーストキスは何歳だったとか、初体験はどうだったとか……。僕は自分が男子高校生としてちょっと出遅れていることを思い知らされ、ほんの少しだけ焦っていた。
「君が守ってくれるんだろ?」
「えっ?……ええっ!?あなた、あの時起きてたんですか!?」
赤井は笑っているだけで否定も肯定もしなかった。だけど、あの日僕の背中に残されていたキスマークが赤井の狸寝入りの何よりの証拠だ。
しかし、もう消えてしまってる。僕に痕を付けた時、赤井はどんな気持ちだったんだろう。
僕が愛おしくて仕方なかったのならいいのに。
僕は密かにそう思ったのだった。