夕焼けの様な紅が辺りの境界線を染め上げていく。
逆光に照らされて、今自分がどんな顔をしているのかも分からない。
でも、
「君の事が好きなんだ」
やけに騒がしい音だけは理解出来た。
重たい瞼を上げると、そこには恨めしい程見た白い天井。
よく嗅ぎ慣れた消毒液の香りに悲しくも安堵を覚えつつ、周りを見渡す。
『…ぁ、』
側に居た彼の名を呼ぼうとするがどれだけ眠っていたのか、掠れた音が出る。
『!悠真、目が覚めたかい?何処か痛む所は?』
音にもなりきっていなかった言葉だが、彼には気付いて貰えたらしく、心配そうな碧の双眸が此方を見つめてくる。
質問に答えようと口を開くが先程の掠れた声を思い出す。
そうだ、何か水分を貰おう。そう要望を伝えるべく口をはくはくと開き、右手で喉を指差そうとする…が、右手が上がらない。
『…?』
『声が出ないのかい?それとも水…?』
意思表明は完璧にとはいかなかったものの、信頼のおけるこの相棒はこちらの要望を上手く読み取ってくれた様で、ミネラルウォータの入ったボトルを片手に小首を傾げてくる。
とりあえず手渡された水を飲むために起き上がろうと身体を捩ると、彼がすかさず背を支えてくる。
彼に体重を掛けきる訳にはと、先程上がらなかった右腕で自身の身体を支えようと目線を下げる。
結論から言うと右腕は下がりもしなかった。
包帯が巻かれ、記憶にあるものより数回り太くなった右腕に目が釘付けになる。
固まってしまったこちらに気が付いたのか、彼が恐る恐る声を掛けてくる。
『その…今君は、右腕と左脚の骨が折れているんだ。だから起き上がるなら、こちらに体重を掛けて欲しいな』
危ないからね、と付け足された優しい声を聞きつつもすぐに理解が追いつかない脳では直前に言われた事に素直に従うしか出来ず、彼におずおずと背を預ける。
そのまま彼の手により上半身を起こし、背中には枕を挟まれ、されるがままとなりつつ状況を整理する。
確かに見える範囲にある右腕は固定されてしまっているし、白い布団に覆われた左脚も見えはしないが動かない様で。
状況説明を求める様に左側に座る彼を振り返ると、優しく水の入ったペットボトルを渡してくる。
開こうとした口をハッと閉じ、左手でペットボトルを受け取るとご丁寧に蓋が開けられており、片手でも簡単に喉を潤す事が出来た。
『…水、有り難う。申し訳無いんだけど何がどうなってるのか説明貰ってもいい?』
半分程内容量の減ったペットボトルを目の前のアキラに渡し、聞きたくて仕方がない疑問を投げかける。
『ええっと、まずここは君の掛かり付け医のいる病院。君は大怪我を負ってここに運び込まれたんだ』
『うん』
『右腕と左脚の骨折、それと強く頭を打ったのだけど…何があったか覚えているかい?』
何があったか、というとこの怪我を負った前後の事だろう。
思い出すべくぐるぐると記憶を辿るが、喜ばしく無い事に何も思い出せない。
『…今の所さーっぱりだね』
『そうか…医者が話していた様にもしかしたら記憶障害が出ているのかもしれない』
『うん、とりあえず前後で何があったか教えて欲しいかも』
思い出せない、という事は思いの外自分に焦りを与え、すぐに答えを求める。
『分かった。事故の前、君と僕は見終わったビデオについて話しながら散歩をしていたんだ。そこで建設現場の側を通った際に運悪く建材が落ちてくる事故が有って。避けきれなかった僕を庇う形で君が下敷きになったんだ』
成る程、確かに僕なら辺りの状況にすぐ気が付くだろうし彼の事を庇うのも納得だ。
しかしどれだけ過去の出来事を思い返そうとしても、実際記憶にはさっぱりだった。
それよりも、この話を聞いて気になる事が有る。
『ごめん、教えて貰ったのに何も思い出せそうにないや。ところでアキラくんも怪我は?僕が庇ったとはいえそれなりにしてるんじゃ…』
『大丈夫だよ。少し擦り傷はあるけど君に比べたら全然大した事無いからね』
そう言うと彼は絆創膏の貼られた手や頬をとんとん、と細くもしっかりとしたその指で叩く。
見たところ本当に擦り傷で済んだ様に見える。
『なら良かった…。』
『君のおかげだよ。代わりに大変な怪我を負わせてしまったけれど…庇ってくれて有り難う。…そうだ、君の目が覚めた事を看護師さんに伝えてくるよ』
そう言うとアキラくんは腰を上げ、病室を出て行った。
しん、と静まり返った病室の中、ナイス過去の僕、と心の中でガッツポーズを取る。
意中の相手に怪我なんてさせたら格好がつかないからね。
実の所、僕は彼に友人以上の感情を持っている。
家族、なんてその場凌ぎの為に近しい関係を演じる様頼んだりもしたが、段々彼と近しい距離で接する内に友人という言葉では説明がつかない感情が芽生えている事に気が付いてしまった。
こんな感情を覚えたのも初めてだったし何が有れば恋、なんて定義も分からないので多分にはなるが恐らくこれが恋というやつなのだろう。
この身体で彼ともし、もし結ばれるなんて事があったとしても末永く添い続ける事は叶わないだろう。
でもそれだけで折角の初恋を諦めるなんて短い人生なのに勿体無い、と密かに期待する事を辞められずにいる。
隠れ名店な六分街ビデオ屋の店長、インターノットで著名なプロキシ、パエトーンの片割れ、リンちゃんの兄妹。溢れんばかりの人望に恵まれた彼を僕なんかの我儘で一個人に縛り付けるなんて真似、考えただけで烏滸がましく思える。
しかし、既にどうしようもなく彼に惚れてしまっているのだ。
そんな事を改めてぐるぐると考えている間に、彼と共に白衣姿のよく見慣れた男が病室に入ってくる。
そのまま流れる様に軽い診察と説明が始まる。
簡単にまとめると、持病には今の所影響は見られていないので退院して構わない事。骨折は少なくとも1ヶ月は固定状態なのでいつもに加えて通院をちゃんとする事。あとは普段なかなか顔を出さない、電話に出ない事に対する小言が多数。
それだけ告げると次の仕事があるのか、医者は部屋から足早に出て行った。
代わる様に彼がベッド側の椅子へ腰掛ける。
暫し沈黙が流れる。
静寂を打ち破り話を振ろうかと彼を見ると、何か話そうとしているのか、目線をキョロキョロと彷徨わせていた。
『なぁに?そんなに目のやりどころに困る見た目してる?僕』
ここまで挙動不審な彼は初めて見たのでついからかいたくなってしまう。
『いや、そう言う訳では…!』
『ごめんごめん、ちょっとからかっただけ。ただの怪我塗れの病人だからね、今の僕。…それで、アキラくんは何話そうとしてたの?』
そう聞き返すとぐぅ、と図星を突かれた様に彼が一瞬強張り、そのまま諦めたかの様に脱力する。
『…今の君は事故前後の記憶が無いから、覚えていないんだろうけど…。いや、覚えてなかったとしたらそれはもうそのまま忘れて貰っても良かったのかもだけれども…』
『うん?今の所話の内容が何も掴めないけど…事故前に僕、あんたと喧嘩でもしてた?』
『そう言う訳では…でも、この話をするなら先に気持ちを整理しておきたいから…、よし。悠真、君は覚えていないだろうからもう一度ちゃんと言うよ。驚かないで聞いて欲しい』
先程まで脱力して項垂れていたのが嘘の様に真っ直ぐな目で此方を見つめられる。
『えっ、そう言われると変に緊張するんだけど…何?』
『…君の事が好きなんだ。勿論友人としてもだけど、それ以上の意味で…』
…今何が起きている?アキラくんが僕の事を好き?友人以上の意味で?それってLikeじゃなくてLoveって事?本当に?
両想いに喜ぶ己と、そんな都合良い訳ないだろうと突っ込みを入れる己と、結ばれたとて添い続ける事は叶わないぞと制してくる己で頭の中がもうパニックだ。
え、これなんて返すのが正解?僕も好き、なんて本当に、そんな簡単に返して良いものなのか?
そもそも好きと返して良いのか?こんな僕が?
少なくともアキラくんがこんな嘘つく訳も無いだろうし、顔が真剣そのものだから適当にあしらうのも気が引ける。
疑問符だらけの脳内会議で暫く黙り込んでしまっていたのか、彼が耐えきれず口を開く。
『その、えっと…悠真?やっぱり困らせてしまうよね…。返事はすぐにとは言わないから安心して欲しい。事故前に伝えた時も君は固まっていたし』
彼の発言にハッとする。
『その、事故前に伝えた時、僕はなんて返事した?』
『それがこの話をした直後事故に遭って…返事をもらう間も無く』
そう告げる彼はどこか後ろめたい気持ちがあるのか、目線を逸らされる。
昔の自分の返事を参考に返事をしようとしたが予定が狂ってしまった。となると本当にどうしようか。
いっそそのまま伝えてみるか?
『…僕、人気者だからさ。嫉妬とかさせちゃうかもよ』
『君が人気者なのは重々承知だ。それにファンとして向ける気持ちとこの気持ちはまた違うからね』
『…これでも僕エリート六課の執行官だから、時間なんて取れないかも』
『それなら僕が会いに行く。それに六課の協力者として、仕事を早く片付ける手伝いも出来るよ』
『………僕の身体、ちょっと厄介だから。迷惑掛けちゃうかも』
『そんなの掛けられただけ役得だよ。健康ではいて欲しいけどね』
『…………ぼく、あんたを置いてっちゃうよ、多分』
『それでも、君が好きだから。側にいる覚悟くらい出来てるよ。それにまだそう決まった訳じゃ無い』
気が付けば、柄にもなく涙が溜まって今にも溢れ出しそうになっていた。
あれだけ悩んだ末、断られる様な話を羅列したのに、寧ろ全て受け入れられてしまった。
こんなの、応えるしかないじゃないか。
『…悠真』
声の聞こえる方は見れなかった。
ただ、こんな顔を見せたくなくて。
…これから告げる言葉に自身が耐えられる自信が無くて。
『…好き。僕も、アキラくんの事が、好き…』
言った。言ってしまった。
泣きそうな顔を見せる訳にもいかないので、彼の表情を見る事が叶わない。
アキラくんは今、どんな顔をしているのだろう。
かち、かち、と病室に設置された壁掛け時計の秒針が響く。
『…悠真、こっちを向いてくれないかい』
『…やだって言ったら?』
『こうする』
突然、暖かい人肌に包まれる。
『っえ、ちょ』
『君を一生大切にするよ。生きてて良かったって、そう思って貰える様に』
愛しさに満ち溢れた声に身じろぐ身体をピタリ、と止める。
少し迷いつつも自由の効く左腕を、彼の暖かい背に回す。
『今、すっごく思えてるよ。こんな墓場まで持ってくかもしれなかった気持ち打ち明けて、それが受け入れて貰えるなんて、夢…みたいで』
留めていた筈の涙が溢れる。
背に回した左手で、彼のジャケットをぎゅっと掴む。
溜まったものが流れただけかと思ったが、一度溢れ出した涙は止まる事なく流れ続ける。
しゃくり上げ始めた身体を宥める様に、包み込む力が強くなる。
そうやって暫く彼の胸で久し振りに泣いた。
『落ち着いたかい?』
『うん。ごめんね、ずっとこっちに身体寄せてたし辛かったでしょ』
『これくらいなんてことない。怪我人を無理に動かさせる訳にもいかないからね』
そう言い彼は優しく微笑み掛けてくる。
既にこんなに惚れているのに、まだ惚れさせてくるつもりだろうか。
『ほんと、そういうところだよ…。じゃなくてそういえばさ、さっきこの話をする前に〜とかナントカ言ってなかった?』
『あぁ、そうだった。その怪我だと日常生活にも困るだろう?君さえ良ければ暫く身の回りの事を手伝わせて欲しいと思って』
確かに、今の自分は右腕と左脚が使い物にならない。歩くのにも一苦労どころか利き手も使えない。
『それは…確かにそうだけど、アキラくんの負担が大きくない?流石に仕事は休みになるだろうけど、これくらいなら大体1人で…』
『庇った恩返しだと思ってくれたらいい。それにこうして気持ちが通じたんだ。少しでも側に居たい、と思ってしまったのだけれど…駄目かい?』
『全然、駄目な訳ない。寧ろそこまで言ってくれるなら、こっちからあんたにお願いしようかな』
こちとらずっと片想いで頭を抱えていたんだ、こんな殺し文句効かないわけがない。
『良かった。それならまず退院の旨を伝えてこよう』
『うん、お願いするよ』
自由のきく左手を軽く振り、病室を後にする彼の背を見送る。
扉が閉まり、外の様子が分からなくなると同時にこれからの事を想像する。
アキラくんが僕の家に来る…?変なもの置きっぱなしとかしてないよね、いやまずそんな見られたらヤバい物なんて持ってない筈だけど。
『っはぁぁぁぁ…』
想い結ばれてすぐ、恋人が自宅に来るなんて想像するだけで色々と考え込んでしまうのは僕だけだろうか?
『そこがキッチン。んでここがリビング兼ウチの子の部屋で、そこの扉はお手洗い。その隣がシャワールームでそっちのが寝室』
見慣れた我が家の中を、リビングのソファに身体を預けながら指差していく。
『ざっとうちの紹介はこんなものかな。好きに使ってくれて構わないし、分からない物とかあったら気軽に聞いて』
『分かった。じゃあ早速だけどキッチンを借りるよ。そろそろ晩御飯に良さそうな時間だからね』
そう言う彼は食材の入ったスーパーの袋を片手に、リビング内に設置されたキッチンスペースへ足を進める。
『えっ、と恥ずかしい話、碌に料理なんてしないから調理器具とかそんなに置いてないけど大丈夫…?』
『問題無い。僕も恥ずかしながらそんなに料理は出来ない方だからね、電子レンジさえあればどうにかなる献立にしてあるよ』
そう告げると持っていた袋の中身を1つ手に取って見せてくる。
『なら良かった。でも、こんな事ならキッチン周りも最低限揃えておくべきだったかなぁ』
『じゃあ明日にでも幾つか買ってこようか?僕もいい加減自炊を覚えた方が生活費も浮くかなと考えていた所だったし』
『うーん、ならお願いしようかな。財布はそこに入ってるから、何買ってくるかはあんたに任せるよ』
先程机に置いたポーチを指差し、彼を見つめる。
『…信用されているのは嬉しいけれど、流石に財布を他人に預け切ってしまうのはどうかと思うよ。とりあえず僕が買ってくるから後で精算しよう』
そう諭す様に返事をするとこれで話は終わり、と言わんばかりに彼は手元に目線を移し、袋の中の調理を始める。
電子レンジの操作音が響く。
話は終えられてしまったが、そのまま彼をぼーっと見つめ続ける。
本当に、本当の本当にアキラくんと付き合えちゃった。
いや、気持ちを諦めきれていなかったのだからその可能性だって無いと断定してしまっていた訳では無い。
今はまだ怪我のせいで身体の自由がきかないから、すぐに触れに行けはしないけど。でも、距離を詰めても良い関係性になれた。
相変わらず電子音がキッチンから鳴り響いてくる。
慣れた手つきで電子レンジを扱う彼はちらちらこちらの様子も気にしてくれている様で、時たま目が合う。
…うちのキッチンに立つアキラくんを見ていると、なんだか…
『…同棲してるみたい』
『ん?何か言ったかい?』
『いや、何も!』
いつの間にやら、声に出ていたらしい。
アキラくんが不思議そうに小首を傾げながら、湯気を纏った皿を運んで来る。
『麻婆豆腐丼、電子レンジ調理だけど食べれそうかい?』
目の前にコトリ、と芳しく湯気を放つ麻婆豆腐丼が置かれる。
するとタイミングよくぐぅ、と腹の虫の鳴く音が響く。
『ふふ、悠真のお腹は食べる気満々そうだね』
『そういうの改めて言わなくても良いから!マーボー丼は有難く頂くけど!』
照れてしまった己を隠す様に食べ進めようとカトラリーを探すが、机には置かれていない。
この食事を用意してくれた目の前のその人に疑問を訴えかける様な目線を送る。
『アキラくん、申し訳ないんだけどスプーンとか貰えたり…』
『悠真、あーん』
『へ、?』
目の前に米と麻婆豆腐が丁度良く1:1で乗せられたスプーンを突き出される。
芳しい香りがより近付いて、身体がより空腹を主張してくる。
『えっと、スプーンだったら自分で食べれると思うから…』
『あーん』
断りを入れたのに目の前の彼は満面の笑みで変わらぬ意志を主張してくる。
これは多分、引いてくれないやつだ。
『…ぁ、あーん』
渋々口を開くと温かい麻婆豆腐丼の少々スパイシーな風味が口一杯に広がる。
照れくささから目線は逸らしてしまっている為、目の前の彼が今どんな顔をしているのかは分からないが大方満足そうに優しく微笑んでいるのだろう。
何度か咀嚼し、飲み込むと見計らった様に声が掛けられる。
『美味しい?』
『…うん。僕の事は気にしないでアキラくんも食べなよ』
流石にずっとこのペースで食べさせられるのは居た堪れない為、彼自身の食事を勧めてみる。
『君が食べ終わったら食べるよ。ほら、あーん』
満面の笑みの彼と目の前に差し出されるスプーンに逆らえず、このペースであと15分は雛鳥の如く口を開き続ける羽目になった。
2人とも晩御飯を食べ終わり談笑していると、思い出したかの様に彼が声を上げる。
『そうだ。悠真、お風呂はどうする?一応カバーをつければ問題は無いらしいけど』
『あー…。まぁ入った方が良いとは思うけど、慣れない手足で疲れちゃったし今日は辞めとこうかな』
流石に途中で疲れて動けず素っ裸の状態で風呂場に彼を呼ぶ、なんて醜態晒す訳にはいかないのでここははっきりと断っておく。
『そうだね。ならタオルで拭くくらいにしておこうか』
確かに、濡れタオルで拭くくらいなら水を被る訳ではないし出来るかもしれない。
『うん、そうしようかな。タオルと着替えの用意お願いしても良い?』
『了解。少し待っていてくれ』
そう言うと彼は先程簡単に案内しただけだというのに、我が家の様にすいすいと着替えやタオルの置いてある所へと歩みを進めて行く。
こういう所が流石伝説ともいわれたプロキシ、パエトーンというか、出来る男というか…。
そんな事を考えている内に手早く要望の物を手にしたアキラくんが帰ってくる。
『着替えはこれで問題無いかい?』
『うん。こんなんじゃ緊急要請だって出れりゃしないからね、適当なので大丈夫』
それじゃあ、と寝室に向かうべく左腕をソファにつき腰を上げるとすぐに支えが飛んでくる。
『ごめんね、有り難う。お願い続きで申し訳ないんだけど、寝室まで支えてもらってもいい?』
『あぁ、勿論。寧ろもっと頼って欲しいくらいだ』
『自分で出来る事は自分でやらないと。いざ治ったら感覚忘れて何も出来ません〜なんて、洒落にならないからね』
一歩一歩、支えられながら寝室へとゆっくり歩みを進める。
『それはそれで世話しがいがありそうと思ってしまったのだけども』
『…僕、アキラくんの子供になった覚えは無いんだけどなぁ』
『おや、奇遇だね。僕も子持ちになった覚えは無いよ。恋人なら話は別だけど』
『あんたってそんなに口が回るタイプだっけ?』
『口達者な恋人がいるものでね。ベッドに腰掛ける形で大丈夫かい?』
『ほんっと、憎らしい口だよ。…うん、後は大丈夫。ここまで有り難う』
漸く辿り着いたベッドに体を預けると、普段使わない筋肉を使ったらしく疲れがどっと現れる。
側に置かれたタオルで体を拭いて着替えを済ませたら、そのまま寝てしまうのが良いかもしれない。
そう考えつつ服を脱ごうとオーバーサイズトレーナーに左手を引っ込める。同時に、何故か脇腹が外気に触れひやりと冷えるのを感じる。
驚いて目線を自身の腹部へ移すと、ここまで肩を貸してくれた彼がトレーナーの裾を上げていた。
脱ごうと動いていた体はピタリと止まってしまった。
それに疑問を覚えたのか声が降りかかる。
『悠真、どうかしたかい?もしかして右腕に服がひかかったり…』
『い、や…そういうのは大丈夫だけど。アキラくん、その手は?』
『?着替えを手伝おうとしたのだけれど…』
駄目だったかい?と悪気の無い優しい顔がこてんとかしげられる。
そんな善意しかありませんよって顔で訴えられかけて断れる程僕薄情じゃないんだけど。
先程出来る男などと称したが人たらしの間違いだったかもしれない。
そんな所にも惚れてしまっているのでもうどうしようもない。
『そっ、か…でもその、流石にちょっと恥ずかしいからさ?部屋の外で待ってて貰えると嬉しいんだけど』
『それはそうかもしれないけれど、その体だと脱ぐのも背中を拭くのも大変だろう?』
そう言われてしまうと実際ぐうの音も出ない。
数秒、気持ちを落ち着ける。折角の彼の善意だ、背に腹はかえられない。羞恥心を捨て腹を括れ、浅羽悠真。
『…じゃあ、お願いシマス』
『あぁ、任せてくれ。じゃあそのまま左腕は服の中に入れていて、トレーナーから脱いでしまおう』
そう言うとギプスで脱がせづらい筈が、あっという間に下着姿にさせられる。
腹を括ったとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしいので咄嗟に掛け布団で下半身は隠させてもらう。
『熱かったり何かあれば教えてくれ。背中から拭くよ』
こくり、と頷くと言葉通り背中に程よく温められた濡れタオルが当てられ上下に動き始める。
『なんか、ここまで至れり尽くせりだと介護とか入院してた時みたいに感じるなぁ』
『おや、ならそれらしい事でも言ってみようか?』
会話をしつつ二の腕にタオルが流れる。
『はは!有難く無い事に患者としてはプロだからね。その辺の採点は厳しーよ?』
『おっと、これは手厳しい。それじゃあ、こほん。痒い所は御座いませんか?』
『っあはは!それ言うなら美容院じゃない?病院と美容院なんて親父ギャグにも程があるって!』
『そんなつもりは無かったのだけれどな。でもお気に召したのなら何よりだ。…悠真、足も拭いて良いかい?』
気が付けば上半身が拭き終わっていたらしく、彼が布団に包まれた下半身を指差しこちらを見つめてくる。
『どーぞ、なんかもう病院だとか美容院だとか話してたら恥ずかしさもどっか飛んでっちゃったや』
拭きやすいように下半身を隠していた布団を太腿の辺りまで引き上げ、足を露出させる。
『有り難う。じゃあ失礼して』
心地良い温度のタオルが太腿から足先に向けて流れるようにスライドしていく。
『ちなみに病院での正解はなんなんだい?』
『んー?正解はね〜…ひぁッ!?』
タオルが足裏に到達した瞬間突如ぞわり、と体が跳ね上がる。
『!?悠真?どうかしたかい…?』
『い、いや…何でもない…』
『それなら良いけれど。何かあったら言うんだよ』
『う、うん…』
自分でも知らない声が出た事に驚いた。
普段人に触らせる事なんてないところを触られているからだろうか。
変にくすぐったい様な…いや、よくよく考えたら下着姿晒すのが恥ずかしいとかほざいていたが恋人に素肌を晒し、且つタオル越しとはいえ全身を撫でる様に触れられているこの状況、もしかしなくても滅茶苦茶…。
『…っ』
気付いてしまった瞬間、先程まで全く気にしていなかったのに己を這う彼の指先がやけに艶かしく感じる。
足先から太腿へ這い上がってくる感覚にぞわりと身体の芯が震える感覚がする。
普段なら驚いてしまうと黙り込んでしまう筈が、反射的に聞いた事もない声を発してしまう。
『っふ、ぁ…』
『…悠真?』
『ッん、なぁに?』
びくり、と肩を微かに揺らし咄嗟に返事を返す。
変な気分になってしまっている事を悟られてしまっただろうか。いや、パブロフの犬宜しく反応してしまっている愚息は、残されていた羞恥心によって掛けられた布団で見えない筈。
それに返事だって先程までの少し砕けた様な、一般的に己がよく称される様な飄々とした態度で返せていた…と思う。
あとは色々と鋭い彼に気付かれてない事を祈るばかりだが、肝心なアキラくんはじっと此方を見つめ続けてくる。
『…』
突如静寂が訪れる。目を逸らすのも憚られ、こちらもじっと彼の顔を見つめてしまう。
…前々から思っていたけどアキラくんの目って綺麗な色してるよなぁ。柔らかい目元かと思いきや少し目尻が上がっている所も彼が優しくしっかりしている性格をそのまま表している様でとても好きだ。
あ、唇ちょっと切れてる?うるつやって感じはしないけどしっかりとした唇はどんな柔らかさなんだろう。キスでもしたら分かるのかな…。
『あのー…アキラくん…?』
こちらも見入ってしまっていたとはいえ、流石にこれだけ見つめられると穴が開きそうな気がしてくる。
というか彼の顔に見張れていた故忘れかけていたが先程まで変な気を起こしてしまっていたのだ。それが顔に出てなければ良いが…。
そう考えているとすっ、と額に彼の細くもしっかりとした手が添えられる。
『熱は無さそうだけど…顔が真っ赤だよ。どうかしたかい?』
成る程、どうやらこの恋人は恥ずかしながらも変な気を起こして火照ってしまったのを発熱したかと推測していたらしい。
流石は僕の世話を自ら嬉々として申し出てきた兄力なだけはある。
『…ほんと、アキラくんってどこまでいってもアキラくんだね』
『それは褒め言葉として受け取った方が良いかい?』
『うーん、そうだね。そう受け取って貰って構わないよ…』
なんだろう、ここまでくると漸く恋人になれたのにここまで意識してしまっているのが自分だけというのが少し妬ましく感じてしまう。
しかし自分の醜態がバレてしまった訳ではなさそうな事には少し安堵する。
多分拭くのももう終わりだろうし危機は去った筈だ、多分。
そうと決まればさっさと着替えてしまおうと、先程用意してもらった着替えに袖を通す。
くるのだろうとは思っていたが、想像通り着替えを手助けする彼の腕がすっと伸びてくる。
流石に今度は予想していたので、すんなりと補助を受け入れて手早く着替えを済ます事が出来た。
『有り難う。ほんと、何から何まで』
『どういたしまして。でも僕から申し出た事だからね。本当にもっと気軽に頼ってほしいな』
『…アキラくん、僕の事子供とは思ってなくても弟とは思ってそうだよね。扱い的にお兄ちゃんムーブで無双されてる気がするんだけど』
『うーん、確かに世話を焼くっていうと一般的にはそう思えるのかもしれないけれど…。でも、』
言葉半ばにアキラくんがぐっとベッドに乗り上げ、此方に近づいて来る。
気が付けばアキラくんの綺麗な碧の眼が眼前に迫っていて。
ふに
温かくて、想像よりも柔らかい感覚がした。
『こういう事は恋人にしかしないだろう?』
先程まで己が触れていたその口角を緩く持ち上げ、優しく微笑み掛けて来る彼にこの人生何度目かの恋に落ちる音がする。
『それとさっきのだけど、“そういう事”は元気になったら、だよ』
囁く様に自身の醜態がバレていた事を告げられてしまったが、先程の感覚に脳の処理が追いつかず何も入ってこない。
『じゃあ僕はキッチンを片してくるよ』
ぽすん、と細くもしっかりとした手で頭を優しく撫でるとアキラくんは寝室を出て行った。
……………………は?
いや、いやいやいやいやいや何あれ、いや勃ってたのバレてるのはマズイけどさその、あの、あれって、
『…ファーストキス?』
殺風景な寝室に、自分の声とは思えない細い声が思いがけず響いた。
ひんやりとしたものが額に触れる感覚に、ぼんやりと瞼を上げる。
『おや、起こしてしまったかい?』
暗がりに、アキラくんの心配そうな顔が覗き込んでくる。
どうにも体が重たく、そんなことないとゆっくりと首を振る。
『熱が出てきたみたいでね、冷感シートを貼ったんだ。しんどい所はないかい?』
そう言われると確かにこの怠さは発熱したときのそれだ、と合点がいく。
普段ならあまり強いとは言えない己の肺と心臓が悲鳴を上げ、いい思いはしないものだ。
『…うん、これくらいなら平気』
少し胸部の圧迫感や息苦しさは感じなくはないが、これくらいならまだ耐えられる。安心させるよういつも通り、という意味でなんでもない風に返したつもりが目の前の彼は悲しそうな表情をする。
そんな顔をさせたかった訳じゃないし、そうさせない為に返事をした筈。じゃあ何故?
どうしてもその悲しげな表情を和らげたくて、左腕を彼の頬に伸ばす。
そのまま親指で口角を上げるように頬を持ち上げると、彼の右手が重ねられる。
『…そんな悲しそうな顔、しないでよ。ほら、あんたが笑ってる方が僕も夢見が良いからさ』
『…なら2人きりの時くらい、無理はしないでくれ…。たとえ君にとって通常通りであったとしても、苦しさや痛みが少しでもあったなら全て教えて欲しい』
そう切実に伝えてくる彼はとても真剣で、優しさに溢れていて。
自分にもある程度譲れない所がある筈なのに、その壁を溶かしてしまいそうな確かな温かさにどうしようもなく絆されてしまいたくなる。
少し考えた末、言葉を紡ごうと小さく口を開くと漏れ出た熱気に発熱を感じる。
『…少し、ここと息が、苦しい…かも』
するり、と重ねられた彼の手を自身の胸元へ導き目線を伏せる。
突然誘われた右手に驚いたのか、少し驚いたように彼が固まったのが繋げた手から伝わる。
暫くそのままにしていると、控えられていた彼の左手がぽすん、と頭を優しく撫でてくる。
『教えてくれて有り難う。それなら起き上がった方が楽かい?』
『…う、ん。そうかも』
辿々しくも素直に返すと、触れていたその手が己の状態を起こそうと支えてくる。
ぐったりと力の抜けた人間は重いだろうに、嫌な顔一つせず気をかけ続けてくれる。
少しずつ、気持ちが溶かされている自覚はあるが彼になら、ちょっとくらい肩を預けても良いのかもしれない。そう、思えてくる。
アキラくんが静かに僕を支えて、背をゆっくりとさすり続けてくれる。
そこに会話は無かったけれど、どうしようもなくこの空気に溺れていたい気持ちになる。
暫く彼に支えられていると段々、眠気が再度襲ってくる。
『…おやすみ、悠真。…ーーーー』
背をさする優しい手の微かな揺れも相まってゆらりゆらりと船を漕ぎ、気がつくと暖かい温もりに包まれながら眠りに落ちていた。
それから数日、いや1週間はゆうに超えた。
その間ずっと、本当にずっとアキラくんは手足が不自由になっている僕の世話を焼き続け、尚且つ恋人としてありとあらゆる甘やかし方をしてきた。
ちゃんと告白に答えた僕ではあるけれど、実際恋愛経験なんてからっきしな訳で。甘え方も恋人としての自覚も全く足りなかった。
それにしたってこんなに恋人として甘やかされれば嫌でも自覚はするもので、それどころか欲深く我ながら図々しさまで増しているように思える。
流石に最低限恥じらいや自立心は残しているつもりだが、それすらも溶かしてしまいそうな彼が愛おしくも恐ろしい。
そんな僕は今、1つの欲を叶える為に頭を悩ませている。
アキラくんから、“愛してる”と言われたい。
決して、嫌われている訳では無いし恥ずかしながらそんな勘違いを起こす程生半可な甘やかされ方はされていない。
ただ、“好き”までは聞けても“愛してる”とは一度も言われた事がない。
自慢では無いが少々回る己の口をもって、言わせるように誘導もしてみたのだが肝心な所でさらり、とかわされる。しかもはぐらかす訳ではなく言い方を変えたり、行動で示したりと本当に上手いことに。
今日もそろそろアキラくんが訪ねてくる時間になる。
自身の怪我に関してはだいぶ回復しており、ゆっくりではあるが自宅内を1人でかろうじて移動出来る程にはなった。
ベッドからゆっくりと腰を上げ、壁や松葉杖を支えにゆっくりと玄関へ歩みを進める。
この身体では出迎えるのにも時間が掛かってしまう為、アキラくんには合鍵をあらかじめ渡しており何時も勝手に上がってきてもらっている。
しかし、時間が分かっているのであれば前もって移動すれば良いだけのこと。
そう気づいたその日から出来る限りこうやって出迎えようとしている。
寝室からリビングに出ると、可愛い可愛い愛猫が甘える様に足元へ擦り寄ってくる。
退院して帰宅したあの日から、うちのかわい子ちゃんはツンツンしていた態度が嘘かの様に甘えた続きになっており、怪我の功名と喜ぶべきか悲しむべきか複雑な気持ちである。
まぁ種族は違えど元々聡い子ではあるから、この子なりに寄り添ってくれているのかもしれない、と思う事にしている。
そんな二人三脚ならぬ1人+1匹六脚もゆっくりながらゴールである玄関へと辿り着く。
壁伝いにずるり、と床へ腰を下ろすと足の間へ我が物顔でうちの可愛い子が寛いでくる。
左手で頭から顎下をちょいちょいと撫でてやると気持ち良いのかゴロゴロ喉を鳴らし、ご機嫌そうになる。
暫くそうしていると、リビングに残っていたもう1匹も追いかける様にこちらへぽてぽてと近付いてきた。
『ンナ?』
『あぁ、有り難う。一緒にアキラくんを待とうか』
どうやら床に座り込んで冷え込まないか?とブランケットを持ってきてくれたらしい。有難く受け取ると一緒に待ってくれるらしい2匹を撫でつつ、玄関の扉をぼーっと見つめる。
今日はアキラくんお勧めのビデオを見る約束をしている。
ただ、お勧めと言っても今回は僕からジャンルの指定をしているので彼の、というよりはお店のお勧め、という形になっているかもしれない。
僕が指定したジャンルというのがなんとも珍しく“ラブロマンス”である。
これもアキラくんの“愛してる”を聞く為。
そういう映画なら愛の言葉はお決まりだろう。ならばそれに託けて彼にけしかけてみよう、と考えたのだ。
なんとも安直な作戦だが、未だ実行に移したことは無いので効果は未知数だ。
そんな作戦を頭で整理しつつ2匹を隅々まで撫でているとガチャン、と鍵が回る。
音に驚いたのか臆病なうちの子はびくり、とリラックスしていたその体をこわばらせ、すぐに逃走できる姿勢を取っている。
僕はといえば鍵を開けられる相手なんて合鍵を渡した相手しか居ないので特になんの心配もせず、怯えたその毛並みを落ち着けるようにぽんぽん、と優しく宥める。
ガチャリとドアノブが降り、ドアが開かれるとそこには待ち望んだ彼が居た。
『おや、今日もお出迎えかい?嬉しいけれど体が冷えてしまうよ』
『これくらい大丈夫だって。それに今日はうちのかしこーい子がブランケットも持ってきてくれたからね』
そう言うと自身を包み込む布を指差す。
『なら良いけども。お邪魔します』
『うん、いらっしゃい』
手に握られたスーパーの袋をガシャガシャと鳴らしながら入ってくる彼を改めて出迎える。
側で警戒していた毛並みは、相手を見て落ち着いたのか彼をリビングに先導しようと動き出す。
その後を追うようにゆっくりと立ち上がり、残るもう1匹とついていこうとする。
荷物を持っているというのにすかさず支えてくれるアキラくんに頭が上がらないなぁ、なんて思いながらその行為に甘えつつリビングへ向かう。
支えられたまま、ここ最近自分の定位置になりつつあるソファにゆっくりと腰掛ける。
アキラくんは僕をソファに預けると、キッチンへ手持ちの荷物を置きに行くのか側を離れる。
その代わりというようにうちの可愛い子が側で丸くなり、小さな体をゆったりと上下させる。
すぐに食品類を片したのか、テキパキと家事を終わらせていく音をソファに腰掛けながら感じる。
任せきりになってしまっている事へ流石に申し訳なさを感じてはいるが、前に1人でやろうとし彼の目の前でよろけ、転ぶ手前で支えられて以降大人しく待つようにしている。
『悠真、朝ご飯…もう時間的には昼ご飯だけれどお腹は空いているかい?』
粗方やる事を済ませたのかソファの後ろから顔を覗かせた彼が問いかけてくる。
そういえば移動に時間も労力も掛かってしまう為、何も食べていなかった事を思い出す。
『今日まだ何も食べてないから、良ければ何か食べたいかも』
『それなら映画の前に何か食べようか。炒飯なんてどうだい?』
『いいね、アキラくんさえ良ければそれで御願いしたいな』
『よし、なら作ってくるから少しまっていてくれ』
そう言うとくるりと踵を返し、またキッチンから物音が響いてくる。
暫くすると湯気を纏った出来立て炒飯と彼が姿を見せる。
『はい、あーん』
『あー、ん…うん、美味しいよ』
感想を聞いて良かった、と安心したのか彼の肩が撫で下される。
そのままもう一口を促され流れるように差し出されたスプーンにかぶりつく。
初めは恥ずかしいし自分で食べられるから、と抗議したこの行為も気が付けば恒例化してしまっている。慣れって怖い。
そのまま餌を与えられた雛の様にスプーンにかぶりついていると、いつのまにやら炒飯の入っていた器は空になっていた。
『ご馳走様でした』
『お粗末さまでした。映画だけどこんなのを持ってきたんだ。どうかな?』
にこり、と器とスプーンを纏めた彼が傍に置いていたトートバッグからビデオを取り出した。
『あんたが選んだビデオに文句なんかあるもんか。それに今回は僕がジャンル指定もしちゃってるし』
『それはとても光栄だね。じゃあ少し準備をしてくるからパッケージでも見て待っていてくれ』
『はーい、何から何まで本当に有り難う』
『僕が好きでやっている事だからね。これくらい訳ないさ』
そう告げると食器を下げ、テキパキとビデオを見る準備が整えられてゆく。
手元に残されたビデオのパッケージに目線を移すと、どうやらラブロマンスではあるが旧文明の話を元にした少々ミステリーも含まれた話らしい。
純粋なラブロマンスをベタに選んでこない辺り僕の事をよく分かっているなぁとも感じるし、彼らしいチョイスだとも感じる。
気が付けば隣に彼が居て、目の前には飲み物とポップコーンが用意されていた。
あまりの手際の良さに驚き目線がテーブルと彼の顔を往復する。
『映画にはポップコーンが付きものだろう?あとは再生ボタンを押すだけだ』
そう言うと彼の手に握られたリモコンを差し出される。
『うん、流石相棒。ポップコーンが無いと始まらない、とまでは言わないけど気分が上がる事には間違いないね』
そう言い切ると、受け取ったリモコンの再生ボタンをポチ、と押した。
結論、映画は良かった。簡単に説明すると配偶者が事故死する瞬間を繰り返すループもののラブロマンスであり、愛する者のために限られた時間で何が出来るか主人公が必死に思案する姿は引き込まれるものがあった。
折れて諦めても愛する気持ちは変わらなくて、というどうしようもない感情に気持ちまで珍しく引っ張られてしまった。
しかし、当初の目的を忘れた訳ではない。
今回わざわざラブロマンスを頼んだのは、彼に“愛してる”と言って貰いたいからだ。
その為に普段なら見ないジャンルに目を向けたのに。
『もし、もしこの映画みたいにあんたが僕の死に際をループする事になっても、こんな風に思い続けてくれる?』
普段ならこんな面倒臭がられるだろう質問しないが今回は敢えて小さく問い掛ける。
『あぁ、勿論。そう思わない方が難しいな』
考える時間も無く、即答。
うん、嘘では無さそう。まぁ彼に至ってそんな事無いだろうけども。
『じゃあさ、あの主人公みたいに今、ここであんたからの愛を今一度聞きたいんだけど』
少し驚いた様に目を見開いたかと思えばすっ、と優しく口角を上げ細められた瞳に見つめられる。
『珍しいね、そんな事を言うなんて。何か不安にさせてしまったかい?』
『いーや、何も。それよりもほら、早く』
何も無い事に間違いはない。何も無い事に問題があるのだから。
するりと優しい彼の腕が身体を抱き寄せてくる。
『うーん、そう急かされて言う様なものでは無いと思うけれど…。映画の彼女なんかより、君を想っているよ。いつまででもこの気持ちは変わらないさ』
ちゅ、と唇同士が触れ合う。
退院初日にファーストキスをしてしまったが、あれ以降定期的にこの行為をこの優しい恋人はしてくれる。
『…なんか、キスで誤魔化された気がするんだけど』
『おや、そんな事ないさ。こんなに心から君を想っているのだから』
するりと抱き寄せられていた腕が離れ、代わりに新しいビデオを持ってくる。
どうやらラブロマンス以外にも僕が好きそうなビデオを厳選しておいてくれたらしい。
『…まぁいいよ、今日のところは。じゃあ改めて店長殿お勧めビデオを見せて貰おうか』
『あぁ、きっと気に入る思うよ』
そうしてまた新しいビデオの再生ボタンをポチ、と押した。