山眠り、笑うまで(蛟九)九尾は霜を踏み鳴らしながら、眠りはじめた山の頂に向かっていた。
少し早い粉雪が肩にかかるのを払い、白い息を吐きながら、九尾はひたすらに足を進める。
ザクリザクリと地面を踏みしめながら、人の手が入っていない木立の間を縫って行けば、やがて冷たく翠色に澄んだ、山頂の火口湖が見えた。
その湖の中央に、美しい男が浮いていた。
その光景はまるでひとつの切り取られた芸術品のようでもあった。
男は目を閉じ、眠っているようでも死んでいるようでもあった。
否、腰から下に伸びる鱗なければ、死人にしか見えなかったであろう。
「蛟」
そう呼びかけると、男はゆっくりと瞼を開き、顔を倒してその翡翠の目に九尾を映した。
その口元が綻んだかと思うと、湖が小波を起こし、男の体がふわりと宙に舞う。
瞬きの間に、男の体は九尾の目の前にあった。
九尾の冷えた手を包み込み、はぁと息を吹きかけた。
「冷てェ。寒さに弱いくせに、手袋はどうした?」
「慌てて忘れちまったんだよ。……でも、間に合ってよかった」
「俺ァ……今年はもう、来ねェのかと思ったぜ」
「悪かったよ。お登勢のババアがちょっと腰をやっちまってさ。ギリギリまで手伝ってたんだ」
しおらしく耳を垂れさせる九尾に、男ーー蛟は仕方なさがないという様子で眉を開き、その白い頭を抱きしめた。
「ん……。そのしょぼくれた顔に免じて許してやるよ」
「偉そうに」
どちらかともなく、唇を触れ合わせるだけ口付けをする。
触れ合ったところが熱く溶け、二人の境界線を曖昧にさせていくようだった。
唇を重ね合いながら、蛟の瞼が再びゆっくりと降りていく。
「眠い?」
そう問いかければ、蛟はむずがる幼子のように頭を九尾の胸に擦り付けた。
「まだ、眠くねェ」
「そうだな。あと、もう少しだけ……」
九尾もまた、名残惜しそうに蛟の額に頬を寄せる。
九つの尾をそっと蛟の体に絡ませて、包み込むように体を寄せて息を深く吸うと、濃い水の香りがした。
「浮気すんじゃねェぞ」
「するかよ、バカ」
「テメェは変なのに好かれやすいからな。俺ァ心配だよ」
蛟がもう一度、九尾に唇を合わせる。今度は長い舌が九尾の口の中に忍び混んだ。
「ん……」
九尾は目を細めて微笑みながら、その舌を受け入れる。
いやらしく、しかし優しく口内の粘膜を這う感覚に、もどかしそうに声を漏らす。
浅く息継ぎをしながら、口の中を愛し合う。
蛟の背に回された手が、切なそうにシワを深く刻んだ。
「もう、そろそろ……」
「うん」
唇を離し、その白い顎を伝う唾液を舐めとると、蛟は笑ってから九尾の耳を愛おしそうに撫でた。
「少しだけ……待って、ろ」
そう言う蛟の声は掠れ、すでに意識は朦朧としていた。それでも九尾を離すまいと、もうほとんど力の残っていない手で、その体を抱きしめる。
「愛してる」
「うん」
蛟が完全に目を閉じ、その体から力が抜ける。それを慌てて抱きとめると、九尾はその額に今年最後の口付けをする。
「おやすみ。よい夢を」
九尾はそっと蛟の体を抱き上げ、湖の中に戻す。
その体は静かに水面に受け入れられ、ゆっくりと湖の底に沈んでいく。
その姿が完全に見えなくなると、湖が中央からと薄氷を張りはじめる。
やがて湖が氷によって完全に閉ざされたのを見届けると、九尾は湖に背を向けた。
「この山は俺には少し静かすぎる」
冬がますます深まっていく気配に、九尾はハァと白い息を吐く。
そして一度だけ振り返り、
「山笑う頃に、また来るよ」
と言って、九尾は寂しそうに耳を垂れさせながら、そっと山を後にした。