幸運のハガキ「おはようございます……」
初日の出が正中に昇って、さらに一時間ほど経った頃。2DKで一緒に暮らす同居人が、寝癖のついた細い栗毛をそのままに、ようやく自室兼書斎の小さな部屋から這い出てきた。大晦日の昨日も、自室に引っ込んだあと随分と遅くまで執筆していたらしい。もしくは、かつてのチームメイト二人と楽しく朝方まで通話でもしていたか。
兎にも角にも、シンジュクで独歩と暮らしていたマンションよりも格段に狭くなったダイニングのテーブルから、寝ぼけ眼の彼に手を振った。
「おそよー、ゆめのん! あけおめことよろ〜!」
「明けましておめでとうございます。新年早々、一言余計な人ですね」
「ええー、ホントのこと言っただけじゃん。もうとっくにお昼過ぎてっし!」
寝起きらしいテンションの低さに笑いながら、手にしていたハガキを置いてキッチンへ入る。
「ゆめのん、餅いくつ食べる?」
「三つで」
「おけおけー」
残しておいた雑煮用のすまし汁を火にかけて、炊飯器を使って作った手製の餅をオーダーどおりに取り出した。焼くより煮る派な同居人のために、ぽちゃぽちゃとそのまま鍋に投入する。
そうしてくつくつ煮込んでいると、ブラッシングと洗顔だけを終えた同居人が、温まってきた出汁と醤油が香るダイニングにのそのそと戻ってきた。寝巻きのスウェット姿のまま、その手がテーブルに残されたハガキを取り上げる。
「これ……」
「懐かしいっしょ」
ぼんやりとしていた彼の目が大きく見開かれるのを見て、自然と笑みがこぼれた。
彼の分を雑煮椀によそって、余りを普段使いの汁椀にそそぎきる。雑煮椀はダイニングテーブルの彼の定位置に、普段の汁椀はその向かいに置いた。
祝い箸もそろえて「どうぞ召し上がれ」と促したけれど、同居人はまだ驚きから立ち直っていないようだ。席にも着かずに、手の中のハガキを見つめている。
「まさか、まだ持っていたなんて……とっくに捨てていると思っていました」
「それ、本気で言ってる?」
「だって、もう五年も昔の物ですよ。それもこんな、宛名しか書かれていない無愛想な年賀状——」
信じられない、という顔をする彼の手から、件のハガキをするりと抜き取った。
表面の流麗な筆跡を、指でなぞる。
シンジュクにいた頃の自分の住所と名前が書かれたその左上には、年賀状には本来押されるはずのない黒い消印があった。その裏面には、干支のイラストと年賀の定型句のみが印刷されている。
彼の言うとおり、他のメッセージなんて一つもない。お元気ですかの一言はもちろん、差出人を表すサインさえも。
「でもこれは、俺っちの宝物だから」
迷いなく答えると、テーブルの傍らで立ち尽くす彼の手が、ぴくりと震えた。
視線を戻せば、彼が顰めっ面で唇を引き結んでいる。でも、彼が本当に不快なわけではないことくらいは、自分にもわかるようになっていた。
だから、己の気持ちのままに笑みを深める。
「ゆめのんがこの一枚を投函してくれたから、今の俺たちがいるんだもん。一生手放すわけないじゃん」
ぐっと、彼の眉間のしわが深くなった。
その表情は二年前の——この「無愛想な年賀状」を受け取ってから三年後の彼を思い起こさせた。突然現れたシンジュクの元ホストを前に固まって、それでもなお込み上げてくる喜びに、どんな顔をすればいいのかわからなくなった彼の顔を。
この年賀状が届いたときには、自分だってそうなった。
五年前の一月。正月休みから、約一週間後のことだった。すっかり通常どおりに戻った仕事を終えて深夜に帰宅したところ、一月の初っ端からみっちり残業続きな独歩から、この年賀状を渡されたのだ。「差出人がないけど、変な物が仕込まれてるわけでもなさそうだったから」と。
年賀状のピークが過ぎてから届いたその宛名書きを見て、冗談でなく心臓が止まりかけた。達筆なそれは間違いなく、自分が知る「夢野幻太郎」のものだったからだ。
彼は、シブヤのあの平屋に夢野幻太郎が——彼の兄が戻ると、いつの間にか姿を消していた。ファイナルと銘打たれた中王区主催の公式ラップバトルがフィナーレを迎えてから、一、二か月後のことだった。
それまで使用していた連絡先はすべてが不通で、その行方はFling Posseのメンバーにも知らされていなかった。萬屋ヤマダに捜索を依頼したこともあったけれど、さすがに何の手かがりも掴めずに終わっていた。
それでも彼を忘れられないまま二年が過ぎたある日、突然こんな年賀状が届いたのだ。天地がひっくり返るほどに驚いたし、正直、今頃何のつもりだとも思った。それでも。
「もう一緒にいたくないって思われたんじゃないなら、地獄の果てまでだって追いかけるよ。俺は」
「どうしてそこまで……。貴方が俺を見つけ出したときにも言いましたが、やはり正気の沙汰ではありませんよ。こんな葉書一枚で、家も仕事も放り出してくるなんて」
「だからぁ、前にも言ったけど何もほっぽり出してないってば。元々、現役ホストを退くつもりで動き始めてたし、そこにちょうどゆめのんの年賀状が届いたから、再出発の場所をその消印のところにしただけ!」
二年前と同じ説明を繰り返したけれど、彼の表情はあのときと変わらなかった。
納得のいかない顔——そうまでして自分を求められる現実が、信じられないという顔だ。
このハガキ一枚から彼にたどり着けたのは本当に奇跡だったけれど、自分はそれだけの執念と時間をかけたのだ。
黒縁の伊達眼鏡とキャップ帽、そして一台のキッチンカーを相棒に、夢野幻太郎という名前を返上した一人の男をひたすらに探し続けた。たまたま三年目で彼を見つけられたけれど、五年でも十年でも、彼を見つけるまでやめるつもりはなかった。
その思いを受け止めきれないと言うのなら、何度だって伝えてやる。向こうがこちらに愛想を尽かす、その日までは。
とっくに腹を決めているこちらの内心など知る由もなく、彼は逃げるように視線を下げた。
「そもそも、貴方と過ごしたのは一年にも満たないでしょう。たったそれだけの相手を、どうして……」
思いもよらない発言に虚をつかれて、思考が止まる。次の瞬間には、ついその場で吹き出してしまった。
「ちょっと、何を笑ってるんですか!」
「ごめんごめん、まさかゆめのんからそんなことを言われるなんて」
だって、彼自身が言ったのだ。付き合いの長さだけを持ち出すのは、ナンセンスだと。
そんな彼にバトルフィールド上で応えた無頼のギャンブラーの言を借りる。
「大事なのは『ここ』に響く関係かどうか、じゃなかったっけ?」
ここにはいない男の仕草を真似て、とん、と自分の胸に親指を突き立てた。途端に、彼の目が丸く見開かれる。
やがてその場面をしかと思い出したらしい彼が、苦虫を五千匹は噛み潰したような顔で絞り出した。
「……悔しい。ぐうの音も出ない」
「あはは、今年は幸先いいなー!」
調子に乗って声を弾ませると、横目に睨んできた彼の足先が、げし、と軽く脛を蹴飛ばしてくる。向こうのエンジンも、いい具合にかかり直してきたらしい。
「ゆめのんもさ、俺との時間が少しは響いていたから、消印が押してもらえる時期にこれを投函してくれたんでしょ」
彼がまた、束の間ぐっと押し黙る。
「……違いますよ。一枚だけ余ったのを見つけたから、気まぐれで出しただけです」
「ええー、だったらますます運命的じゃん! 俺っちたち、カミサマにも愛されてるぅ〜!」
「なんでそうなる!」
顔を赤くして歯を剥いた彼を、まあまあと笑って抱き寄せた。流れるように、そのこめかみに口付けを落とす。
不意をつかれて静かになった彼の髪を軽く撫でて、改めてその瞳を見つめた。
萌え出たばかりの新緑のように澄んだ瞳に、しっかりと己の存在が映り込んでいる。それだけでどうしようもなく嬉しくて、自然と口角が上がった。
「……また一年、よろしくね。ゆめのんが俺といるの楽しいなーって思えるように、これからもがんばるからさ」
口をつぐんだ彼の視線が、ふと辺りをさまよいだした。ややあって、顔を俯かせた彼がぼそりと呟く。
「別に、そこそこでいいですよ。俺だって、そんなにがんばりませんから」
——だから、貴方もがんばらなくていいです。
吐息のように囁かれた最後の一言に、今度はこちらが言葉を失った。
別に、がんばらなくていい。
自分にそう言ってきたのは、これで二人目だ。
一人目である幼馴染にそう言われたのは、たしか中学に入って初めての夏休みだったと思う。
家で台所に立つことも増えて、部活に行く自分だけでなく、家族の分まで弁当を作るようになっていた。それを喜んでもらえるのが嬉しくて、独歩の分もがんばって作るねと言ったときだった。お前の飯はうまいから嬉しいけど、がんばる必要はない——と。
言われたときにはよくわからなくて、とりあえず少し多めに作ったおかずを分ける程度に留めていた。
けれど、今ならわかる。
家族全員から見放されて、女性恐怖症になって少しもがんばれなかったときも、たった一人だけ、それまでと変わらずに接してくれた独歩の言葉だから。
がんばっても、がんばらなくても、どっちでもいい。どっちでも、二人の関係は変わらない。
そういうことを、伝えようとしてくれたんだと思う。
そして今目の前にいる彼も、きっとそれに近しい気持ちを持ってくれているのだろう。胸の辺りが、ぎゅっと締め付けられた。
こちらを向くように促して、改めて正面から彼の体を包み込んだ。細くてやわらかい栗毛に、頬を擦り寄せる。
初めて彼に触れたときから変わらない——いや、それ以上に大きくなった愛しさが、胸を満たしていた。
「ありがとう、ゆめのん」
君を見つけ出せて、本当によかった。
彼を抱き締めたままそう囁きかけると、書生服をまとわなくなって久しい腕が、応えるようにそっと背中へ回される。
「……俺も、悪くない判断だったと思いますよ。あの葉書を出したこと」
天邪鬼な彼にしては、最大級に甘い返答だ。深く胸を射抜かれた衝撃に、腕の力を少しもゆるめられなくなる。
そうしているうちに雑煮はすっかり冷めてしまって、声を尖らせた彼から散々文句を言われた。けれど、もう一度温め直そうかと持ちかけると、それはそれで、きっぱりと断られる。
きっと来年の今頃には、この冷たい雑煮の話を蒸し返されるのだろう。心底意地悪で、心底楽しげな、彼らしくひねた、愛おしい語り口で。