学パロ本のドとダの出会いシーンの一部 かなり独特にがさついているのに、聞き苦しさなんて全くなかった。むしろ、もっともっと聴いていたくなるような——。
と、日本語で何らかのリリックを歌っていた彼の言語が不意に切り替わった。
「英語……」
Call, Raise, Never fold——
高校生にはそぐわない単語の羅列だ。けれど、そんなことどうでもよくなるくらいに、ただひたすらにかっこいい発音だった。
ネイティブ的な流暢さがあるわけではないが、勢いのある子音や力強い母音の響きが強烈に心を鷲掴む。キングスイングリッシュすら凌駕するほどのカリスマ性が、そのほんの数単語から伝わってきた。
誰だ。こんなに光り輝く発音、今までに一度だって聴いたことがない。
知りたかった。この声の主を。一人になれる場所を探していたことすら忘れて、俺は小走りでその校舎の陰を覗き込んでいた。
「!」
お互いに目が合い、息を呑む。まだ空の高いところにある太陽の光が、丸く見開かれた男の目を輝かせた。なんて鮮やかな、燃えるようなアメジスト。宝石なんて、富豪相手の金儲け道具くらいにしか思ったことがないのに、一瞬でその煌めきに魅了されていた。
「今の英語……君が?」
あれやこれやと考える前に尋ねていた。途端に、無垢な煌めきを帯びていた紫の瞳が警戒心を露わにする。一気に温度をなくした眼差しに射抜かれて、思わずたじろいだ。
「……何だよお前」
低く掠れた彼の声は、日本語になっても変わらず俺を縛った。こんな声、一万人に一人——いや、この国に一人しかいないんじゃないかとまで思う。心臓が胸の中で、どく、どく、と大きく脈打っていた。
「あ、えっと、近くを通ったら声が聞こえてきて、それで……ていうか、君の英語、発音がめちゃくちゃかっこいいね。声にも力があるっていうか、君がスピーチとかやったらすごく様になりそう。思わず聞き入っちゃうような——」
なぜだか無性に興奮していて、頭の中がふわふわと浮ついていた。ろくに考えもせず口が動くままに喋っていた俺の早口を、苛立たしげな大きな舌打ちが遮った。
ハッとして、改めて彼の顔を見る。冷めていた紫の目が、燃えるような嫌悪感を剥き出しにしていた。まるで、親の仇にでも向けるような敵愾心だ。
眉間に皺を寄せ、きつく眉を吊り上げた彼の怒気に、言葉を失くす。棒立ちになった俺にさらに舌打ちして、彼は唾棄するような勢いで吐き捨てた。
「俺のこと何も知らねぇくせに、上部だけ聞いて勝手な妄想押し付けてくんじゃねーよ。マジでうぜぇ」
「これ、帝統」
心の底から、一〇〇〇パーセントの軽蔑を込められた言葉のナイフに、歌うように軽やかな、涼やかな声が覆い被さってきた。驚いて振り向く。
いつの間にか、俺の後ろに二人の男子生徒が立っていた。すらりとした長身痩躯の栗毛の男と、髪を派手なピンク色に染めた小柄な男だ。
二人とも、俺を睨み据える目の前の男と違って、白シャツの袖をまくり上げていない。手首まできっちり下ろされた袖口が、現三年生を表すグリーン色で縁取られている。
うっすらと微笑をたたえている栗毛の方が、再び口を開いた。
「そちらは、教育実習で来られている方でしょう。そんな口の利き方をするものではありませんよ」
「え! この人、キョーイクジッシューセーなんだぁ。幻太郎、よく知ってるね」
ピンク頭が、わざとらしいくらい高く跳ねた声で驚いてみせるのに、栗毛はゆったりと頷いた。その口から、さっきまでの穏やかさとは似ても似つかない、野太い声が飛び出してくる。
「吾輩は、この学校を裏で牛耳る元締めであるからなぁ。それがしに知らぬことなど、ないでござるよ」
「ゲンタロー、元締めサンだったのぉ? すごいすごい、夏が来る前に廊下にも空調つけてよ〜!」
「ま、嘘ですけどね。廊下の空調は、切実に欲しいところですよねぇ」
「ダヨネー!」
栗毛の声の変わりっぷりにも、訳のわからないデタラメにも動じずに、ピンク頭は楽しそうに、その場でぴょんぴょんと跳ねていた。何なんだ、一体。
呆けている俺を軽く一瞥して、栗毛は、先ほど帝統と呼んだ男に改めて目を向けた。
……待てよ、帝統? それってもしかして、もしかしなくても、俺の授業で最初から最後まで一瞬たりとも起きなかった、あの有栖川帝統か?
栗毛の視線を追って、有栖川帝統(仮)を見る。
肘の上までまくり上げられたシャツの袖口から覗く縁取りは、二年生の学年カラーである青だった。その色よりも深く濃い紺青色の髪を右側だけ長く伸ばし、左サイドには先端にサイコロがついた一風変わった髪飾りを垂らしている。めちゃくちゃ特徴的な見た目だ。
そう言われれば、有栖川帝統の席にいた生徒はこんな見た目をしていたような……。けれど、彼が顔を上げていた一時間目はずっと頬杖をついて横を向いていたし、ほとんど教室の後ろからしか見ていなかったから、自信は持てない。
「……何見てんだよ」
「ヒィッ、す、すみませんすみません! 俺なんかがじろじろと見てしまってすみません!」
「お前、ほんとマジで胸糞悪ぃ奴だな」
道端の吐瀉物でも見るように言い捨てられる。もちろん、盛大な舌打ちつきだ。
俺はこの短時間で、何度舌打ちをされただろうか。新記録更新だな。せめて、ギネスに載せてくれ。世界で一番、舌打ちされた男として。
「帝統、失礼ですよ」
取引先に向けるように頭を深く下げていると、有栖川帝統をたしなめる栗毛の声が近くなった。俺たちのそばにまでやってきたらしい。
「んなこと言ったってよ、コイツが」
「帝統」
「……このキョーイクジッシューセーが」
「そういうことじゃないんですがねぇ」
やれやれと息を吐く栗毛の声には、笑いが含まれていた。でもそれは、今日の六時間目に有栖川帝統のクラスメイトが俺に向けてきた、居心地の悪くなるものとは違う。きっと、そこに込められているのは親しみとか慈しみだ。有栖川帝統への。
栗毛の表情が見たくなって、そろりと顔を上げる。思ったとおり、有栖川帝統に向けられた栗毛の顔は、やんちゃな子どもを見守る母のようだった。
高校三年生の男子なのに、その印象が不思議としっくりくる。彼の、柔和な顔つきのせいだろうか。
「まあ、貴方が誰を毛嫌いしようと、それは貴方の感情です。小生にとやかく言う権利はありませんが……帝統、それでも二週間後の最終日には、しっかりとボタンを押してあげるのですよ」
「ボタン?」
訝しがる有栖川帝統と、俺の心の声が綺麗に重なった。急に何の話だ。
「知らないのですか? 教育実習の最終日、彼らは担当した生徒たちからジャッジされるのですよ。この者は教師となるに相応しいか否か——とね。一人でも『否』を示してしまったら……」
「……しまったら?」
有栖川帝統が、緊張した面持ちで聞き返した。俺も、話の続きが気になって栗毛から目を離せない。
栗毛は、怪談話でも聞かせるような神妙な顔つきと語り口で、尻上がりに声を張った。
「彼らの体内にあるチップがドカン! ……で、終わりです」
「し、死んじまうのか……!?」
「そういうことになりますね」
いや、涼しい顔して何言ってんだ、この栗毛。そんな教育実習で、人が集まるわけないだろう。ていうか、思いっきり殺人じゃないか。
俺が内心でツッコミを入れている間も、有栖川帝統は刃物そのものだった切れ長の目を、驚いた猫のようにまん丸にしていた。
……嘘だろ、間に受けてるっていうのか? こんな与太話を?
「そんな目に遭ってまで教師目指すって、頭イカレてんじゃねぇか!」
「高校を卒業しないとプレイできないからといって、モーターまで使ったビー玉パチンコを自作する男に言われたくはないでしょうが、本当にそんな制度だったら頭はイカレてますよね。まあ、嘘なんですけど」
「何だよ、また嘘かよ!」
またってことは、いつもこんな調子で騙されてるんだろうか。嘘を嘘とわかった上で乗っかるピンク頭と違って、ちょろすぎないか。大丈夫か、この子。