フラグじゃない!0
「ごめんね。夢野くんの気持ちは、とても嬉しいのだけれど」
申し訳なさそうに下げられた眉。冷たい印象にならないよう配慮された、曖昧な笑み。ばっさりと切って捨てるわけではないと言いたげな、ためらいを含んだ沈黙。
夢野は、絵に描いたようなリアクションを見せる男の、無駄に整った宝石級の顔面をじっと見つめた。
中王区内に設けられた、ディビジョンラップバトルの会場。そのバックステージの中でも極めてひと気がなく、薄暗い場所だった。
だが、素っ気ない灰白色の壁に囲まれていても、彼の持つ煌びやかさこそが、場の華となる。さすがは、シンジュクのナンバーワンホストといったところか。
ファイナルと銘打たれたディビジョンラップバトルの勝者が決まり、ノーサイドで観客たちに披露した最後の一曲も終えて、裏へ引き上げてきたところだった。チームの垣根を越えて盛り上がる面々をそっと見回して、人知れず声をかけた彼と共に、人通りの少ないここへ足を運んだ。
最後のディビジョンラップバトルの閉幕——それはすなわち、この男との縁の切れ目を意味する。初めてまともに言葉を交わした第一回ディビジョンラップバトルのあとには、そうなることをこそ望んでいた節もあったと言うのに、現実はこれだ。この機を逃せばチャンスはないとばかりに、まるで卒業式の別れ際に勇気を振り絞る学生のようなことをしてしまった。
遠くから聞こえてくる仲間たちの声は、とても明るい。順次退場しているであろう観客たちも、きっとまだ興奮冷めやらぬ様子でいることだろう。彼と二人でいるこの場の空気だけが、やけに重たかった。
相対する彼の口から明確なノーを突きつけられる前にと、意を決して口を開く。無駄な足掻きとしか言いようのない一石を、眼前に迫る崖っぷちに向けて虚しく放った。
「……それは、ジャケットを脱いでも同じですか」
こちらの言わんとするところを、正確に汲んだのだろう。ささやかに上げられていた彼の口角が下がり、その負い目のままに長いまつ毛が伏せられた。
わずかな間を置いて、手入れの行き届いた彼の手が、そっとジャケットにかけられる。かすかな衣擦れの音と共に脱がれたそれを手に、彼がゆっくりと視線を上げた。
ベスト姿になった彼の顔つきは、先ほどまでよりも幾分あどけない。それでもやはり、そこには心苦しさが覗いていた。無駄にやかましいハイテンションぶりは影もなく、こちらの発言を真摯に受け止めているのだと、嫌でもわかる眼差しだ。
彼はこちらからの問いかけに小さく頷くと、やんわりと、けれどはっきりと、その意思を表明した。
「これは、ホストとしての言葉じゃない。俺自身が、君の気持ちには応えられないと思ってる。だからまずは——」
続く最後の一言が、大きく重い楔となってこの体を貫く。
そんなもの、抜いてしまえれば楽になるのに。
それができなくなった己に気がついて、夢野は一人静かに絶望した。
「パリピの言う『お友達から』は、脈ありなんですか、なしなんですか」
くぴくぴと景気よく缶酎ハイを飲んでいた飴村は、その手を止めて夢野を見た。ころころとよく変わる魅力的な表情を作り出す可憐な口が、ぽかりと丸く開く。
早いもので、ファイナルDRBから約半年。向かい合って座るちゃぶ台には、二人で空にしたアルコールが——今回に限っては、夢野の方がペースが早い——所狭しと並んでいた。開けたばかりの缶ビールをその隅に叩きつけて、夢野が一気に詰め寄ってくる。
「パリピの心理を! 教えてください!」
「えっ、なになになに……!」
押し倒さんがばかりの勢いで両肩を掴まれ、さすがの飴村も元チームリーダーの安定性を発揮することはできなかった。おばけネタを振られたときの次くらいにうろたえつつ、なんとか夢野を抑えにかかる。
「ほんとに何があったのさ、ゲンタロー」
彼を落ち着かせるためにも、着流しをまとう肩にそっと手をのせた。酒精で顔を赤くした彼から視線をずらすと、未だに手付かずの缶ビールや缶酎ハイのケースがいくつも畳に積み上がっている。
「今日中に全部飲み切らないとコラムが一本消えるーとか言ってたけど、嘘なんでしょ」
顔を俯かせる夢野を、根気強く待つ。やがて、重たげな前髪の奥から彼がじっと見つめてきた。
「……原稿の話」
「うん?」
「これはあくまで今書いている原稿の話であって、拙者とは縁もゆかりもない話でござるが」
「え、あ、うん」
あまりにもベタな念押しに、これから始まる話の当事者が誰か、却って確定してしまう。同時に、この場に有栖川が呼ばれていないことにも納得した。彼が添い遂げる相手は、ギャンブル以外には存在しないだろうから。
だが、あえてそこには触れずに了承すると、膝立ちで迫ってきていた夢野がその場にぺたりと座り込んだ。
仮初めの作者曰く、卒業式を終えたばかりの女子高生が、思いきって告白をした。相手は、たまたま通学電車が同じなだけの他校生。それも、出会い方が最悪だったこともあり、顔を合わせれば口喧嘩ばかりしていたという。
しかし、それも今日で終わりだという段になって、ようやく彼女は自分の本心を悟った。認めざるを得なくなった。
彼と、これきりにしたくない。その一心で、彼女は駅のホームで捕まえた彼に一世一代の告白を敢行する。けれど——。
「その気持ちには応えられないから、まずは友達になってほしい。……そう言ってきた男の心理として、脈ありかなしか、どちらの方があり得ますか」
甘酸っっっぱい。
それが真っ先に浮かんだ感想だったが、飴村を見つめる夢野の目は至って真剣だ。切羽詰まっていると言ってもいい。
切り立った崖の際へ追い詰められたような眼差しに、生まれて数年しか経っていない短い人生でも、精一杯に振り絞って応えたくなる。
まずはさらなる情報収集をと、飴村は腹を決めて夢野に向き直った。
「それは当事者たち——を作った、幻太郎じゃないとわからなくない?」
「私以外の、客観的な意見を聞きたいのです」
創作の話として口にしているからか、夢野は先ほどまでよりも幾分冷静さを取り戻している。
「正直なところ、色恋沙汰にはとんと疎く……小生一人の手には余るというか、交友関係が広い貴方の見解を参考にしたくて」
たしかに飴村は、今までに多くの女性たちから話を聞いてきた。その年齢層も、性格も、実に幅広い。
話の中身だって、どの店の何がおいしいという他愛のないものから、日常の愚痴、人生のお悩み相談など、飴村の実年齢を思えば異様なほどバラエティに富んでいた。中には、当然のように恋バナも含まれている。
「なるほどねぇ……。それじゃあ、もっと二人のこと教えてよ!」
飴村は、夢野が開けた缶ビールをちゃぶ台から取り上げた。それを手渡しながら真隣へ腰を下ろすと、まるで自分こそが恋人であるかのような気安い距離感で、ぴたりと身を寄せる。横並びの方が、対面よりも話しやすいだろうと思ってのことだ。
「その子たちがどんなキャラクターなのか、わかった方がいろいろと言いやすいしさ」
飴村が本物の恋愛相談からは程遠い軽やかさで投げかけると、ようやく夢野の口元にもかすかな笑みが戻ってきた。
「それもそうですね。では原作者として、言える範囲のことをお答えしましょう」
「うんうん、それでいーよん! じゃあまずは、その女の子が告白したくなったきっかけ……相手への気持ちが変わるタイミングから知りたいな」
ジャブとして、初手から核心へ切り込む。ここを嫌がるようなら話は程々で切り上げて、今後の生活の中で彼をサポートする方向へ切り替えるつもりだった。
なんでもない顔をして、飴村が注意深く夢野の様子を窺う。やがて、黙考していた彼が静かに口火を切った。
事実を虚構に置き換えながら、思いのほか素直に内情が語られる。その視線には、飴村に助けを求める切実さと、何よりも、想い人への気持ちの強さが如実に表れていた。
◆◇◆◇◆
1
ざあざあと、雨が降っていた。
夜明け前のシブヤは分厚い雲と降りしきる雨に閉ざされ、まるでゴーストタウンのようだった。たとえこれが帰宅ラッシュ時の驟雨だとしても、駅まで走ることなく、どこかの屋根の下で小降りになるのを待ちたくなる勢いだ。にも関わらず——いや、だからこそ、夢野は傘も持たずにその身を雨にさらしていた。
地下商店街への入り口が左前方に見える白いガードパイプに浅く腰かけ、何をするでもなく視線を手元に落とす。
Fling Posseのロゴマークにも組み込まれている忠犬の広場が、すぐ脇を走る神宮通りの向こう側にあった。バス停もすぐ目の前にあるが、電車の始発すら三十分もあとの今、この悪天候の中を出歩く物好きはいない。
没個性的な生成り色のリネンシャツと青いジーンズが、多量の雨水に濡れて重く手足にまとわりついていた。
以前はよく着ていたはずの私服たちが、やけに体に馴染まない。雨に濡れているからか、この数年は公私共にほとんど和装で過ごしていたからか。それとも。
「……自分(夢太郎)にも、兄さん(幻太郎)にもなりきれない己の半端を、この体が一番よくわかっているから——か」
自嘲的に呟いた声は雨音に掻き消され、かろうじて自身の耳にだけ届いた。
——関係ねぇよ!
つい先日、道の向こうの広場で飴村と声を揃えた有栖川の声が、脳裏に蘇る。
——俺らにとって、お前は夢野幻太郎だ!
——そうだよ。幻太郎は幻太郎で、幻太郎以外あり得ないよ、幻太郎!
兄の名を騙ってチームに参加していた夢野のことを、彼らは少しも咎めなかった。
真実、彼らにとっては共に過ごした夢野の存在そのものが何よりも重要で、名前は個人を識別するためのものでしかないのだろう。夢野自身の本名が何であれ、三人で過ごしてきた時間に変わりはなく、またこれから先の関係も変わることはないと。
ありがたいことだ。
互いにそう望み合える友人を得られたことは、人生最大の喜びと言っていい。その気持ちに偽りはない。
東方天乙統女の実子である出自を隠してきた有栖川と、飴村乱数という同一の名を持つ個体が複数いる飴村だからこそ、彼らの中にも様々な思いが生まれたはずだ。彼らはそれを咀嚼し、自身の糧へと変えた。
けれど己は、あの一件から数日が経った今も、どこか割り切れずにいる。
夢野幻太郎のままでいたいのか、本来の自分——夢野夢太郎に戻りたいのか、そのどちらをも彼らに受け入れてもらいたいのか。……はたまた、どちらか一方だけを、望んでいるのか。
今の自分にとっては、どれもが正解で、どれもが不正解であるようだった。上下どころか、その果てすら見当がつかない螺旋の迷宮に囚われている。
「……俺も、そのまま吐き出せればよかったんだろうか」
この、もつれにもつれた感情を。
暗い空を見上げれば、大きな雨粒がいくつも顔を打った。降りしきる雨に開けていられなくなった目を閉じて、その痛みを受け入れる。
——ちょっと待て。
そう言って食い下がったギャンブラーの顔が、まぶたの裏に浮かんだ。
——乱数も幻太郎も、俺のお袋のせいで人生ぶっ壊されてんだ。簡単に俺を受け入れるのは、ちげぇんじゃねえか?
——お前らがよくても、俺が受け入れられねぇ!
つくづく、真っ正直な男だった。骨の髄まで賭け事に狂っていることが、にわかには信じがたくなる。そんな彼だからこそ、あの場でああして気持ちを吐露できたのだろう。
あのときのやりとりだけで本当に彼のわだかまりを解消できたのかは、本人のみぞ知る。だが、何も言わずに飲み込んだ己よりは、余程気が楽になったのではないだろうか。そう思うのは、同じようにぶつかっていけなかった僻みゆえか。
「兄さんなら……」
本物の兄なら、きっとためらわずに言葉を発していた。彼は、己よりもずっと決断力に優れている。
いや、そもそもこうして思考の坩堝に迷い込むこともないだろう。きっと兄が己の立場ならば、至極あっさりと割り切っているに違いない。そうかい、では今しばらく弟の名を持つ己のままでいるとしましょう——なんて、歌でも歌うような気楽さで。
帝統の血縁関係を知って、動揺のままに駆け込んだ兄の病室。そこでかけられた言葉が、頭の奥にそっと響いた。
——人は皆、違う。意見も主義主張も、立場も事情も。
「……そうだね、兄さん。どれだけ兄さんを名乗っても、どれだけ兄さんの真似をしても、肝心なところでは成りきれない……」
己は、何者なのだろう。この世に生を受けた自分と、兄に成り代わろうとした自分とが歪に混ざり合う、今の自分は——。
雨に体温を奪われた手足が、まるで鉛のようだった。いっそこのまま、道向こうの忠犬のように物言わぬ存在になれたなら。
「やーっほ!」
そのとき、暗い雨に覆われていた世界が不意に破られた。ぎょっとして隣を振り向けば、真っ黒な蝙蝠傘を差した男が小さなペットボトルを手に明るく笑っている。
黒い傘とキャップ帽が作り出す影の中でさえ、その異様に整った顔立ちは目を惹いた。普段の派手なホストスーツ姿からは想像できないほどに地味な、グレーのパーカーに黒いチノパンという出で立ちだ。
それでも、そのずば抜けて端麗な容姿を見間違えるはずがない。こんなところで出会うとは夢にも思わない、シンジュク随一の伊達男。
「伊弉冉、一二三……」
「やーっぱり夢野っちだった! 俺っち、ビンゴ〜〜!」
後ろ姿的にそうかなーって思って、すぐそこのコンビニまで引き返してコレ買ってきたんだー。
ホットココアのペットボトルを揺らしながら、訊いてもいない事情をペラペラと話しかけてくる。どうやら、夢野が背を向けている恵比寿方面から歩いてきたらしい。
「つーかぁ、こんな雨ん中でどしたん。傘と財布取られて、往生してるとか?」
「違います」
「とりあえず、これ飲みなよ。体冷えてるっしょ?」
向こうから訊いてきたくせに、すぐさま話題を切り替えられた。こちらの返答を無視するような伊弉冉に、彼と相対したときの標準的な不快感が込み上げてくる。
「あり、ココア苦手? ゆずの方がよかった?」
「いえ、そういうわけでは」
この雨の中を引き返したということは、夢野のためにわざわざ買ってきたということだ。そんな相手に「お前の態度が不快で、思考の天秤がそちらへ大きく傾いている」とは、さすがに言いづらい。
「……貴方から、物をもらう道理がないなと」
「道理ぃ? そんなんなくていーじゃん、もらえるもんはもらっときなって! 夢野っちは暖が取れる、俺っちは徳を積める。Win-Winっしょ?」
思わぬ返しに、浮かんだツッコミがそのまま口からこぼれた。
「徳を積むって……声に出すと台無し感ありませんか?」
「えー、正直でいいと思うけどなー!」
夢野がさらに言葉を返すよりも先に、笑顔の伊弉冉がさらにペットボトルを突きつけてくる。その勢いに押される形で受け取ると、彼は「俺っちも飲も!」と夢野と同じガードパイプに腰かけてきた。
「濡れますよ」
「あは、それ今の夢野っちが言う?」
「……それもそうですね」
俺っち傘持ってるからさ、俺の分も開けてよ!——と、パーカーの前ポケットから取り出された二本目のココアのキャップを外して、素直に彼へ差し出してやる。
何も言わずに夢野の頭上まで覆った傘には言及しないまま、二人は並んでペットボトルに口をつけた。
ほっとする甘みが、喉から胃の腑をゆっくり温めていく。冷えた体が劇的に温まるわけではないが、それでもたしかに、その温もりは夢野の体内へ染み渡っていった。
「……貴方はなぜ、こんな時間にこんなところへ? 仕事……ではなさそうですが」
ペットボトルの中身が残りわずかになった頃、何の気なしにふと尋ねかけた。同じくまだココアが残っている伊弉冉が、三十路前という彼の年齢を忘れさせる幼さで、にぱっと笑う。
「ポンピン、ポンピン、夢野っち大正解! 俺っちはぁ、絶賛プライベート中でぇ、朝の散歩をしているところなのでぃっす!」
時間帯的にも、天候的にもそぐわないハイテンションぶりに若干身を引きながら、夢野は人並み以上の好奇心に任せて問いを重ねた。
「わざわざ、こんな悪天候の日に?」
「んー……こんな日だからこそ、かな」
その一言は、やけに静謐だった。
夢野に見せる横顔も、ほんの数秒前とは別人のようだ。諦念とも憂愁ともつかない表情に、束の間面食らう。
「雨で視界は悪いし、傘で顔もよく見えなくなるし、フードなしで出歩くには持ってこいなんだよね」
帽子まで取る勇気は、さすがにまだないけど。
最後の一言だけは、夢野の方を向いて苦笑混じりに告げられた。
彼の事情はよくわからないが、シンジュクのナンバーワンホストともなれば、プライベートでの外出にも並々ならぬ苦労があるのだろう。それよりも夢野が気になったのは——。
「……貴方って、本当に随分と人が変わるんですね」
「ん?」
首を傾げる伊弉冉の顔からは、すでに翳りが消えている。軽く口角の上がった表情は、上機嫌にすら見えた。この短時間で、あまりにも変化が大きい。
「驚きました。スーツの有無で別人のようになるのは存じておりましたが、同じ服装でいるときにも、これほど印象が変わるとは」
この世に存在する憂いや悲しみとはまるで無縁そうな、いっそ気味が悪いほどのお気楽さ。それは、初めてまともに言葉を交わした決勝前夜の無神経さにも、通ずるところがあった。
けれど、今初めて目にした彼の翳りは、彼の持つ無礼さとも、一分の隙もない色男ぶりとも、まるきり結びつかない。
「どれが、本当の貴方なんです?」
自分が何を問いかけたのか、隣に座る伊弉冉が目を丸くしたのを見て、ようやく夢野も自覚する。
……ああ、己は今、この男にSOSを出したのか。身にまとう衣装と共に自己を変える、どこか、己と似通ったところのあるこの男に。
よりにもよってと思わなくもないが、一度口から出た言葉はどうあっても取り消せない。こうなったら、チームメイトには見せることもできなかったしこりを、思いきってぶつけてやる。
「もしくは、どの貴方ですか。——貴方が、一番に望むのは」
ペットボトルを握る夢野の手に力がこもった。中身の減った容器が、小さな音を立ててわずかに凹む。雨音しか認識していなかった耳元で、自身の鼓動がどくどくと大きく鳴り響いていた。
短い沈黙のあとで、伊弉冉がようやく動きだす。
「うーん、そうだなぁ……」
間延びした物言いは真剣味に欠けるが、沈思するように傘の露先を見上げた彼の目は、決して夢野の問いかけを軽んじている風ではなかった。
やがて、答えが出たらしい伊弉冉が、迷いなく夢野を振り返る。
「そーいうのは、考えたことねぇかな!」
言い切る彼の顔は、やはり太陽のように眩しかった。さっぱりとした思いきりのいい表情と声に圧倒され、夢野は咄嗟にリアクションを返せなくなる。
「そりゃ、女の子が怖いのは治したいよ? ジャケットがないとまともに挨拶すら交わせないなんて、失礼すぎるしね」
その発言から、彼がいつもホストスーツでバトルの場に現れることの本当の意味を悟った。彼にとってあの服は、単にオンとオフを切り替えるためのものではないらしい。
第一回ディビジョンラップバトルの決勝前夜に垣間見せた、迫り来る女性たちへの怯え。あれが女性陣の勢いに対する防衛反応ではなく、ジャケットを着ることでようやく克服できる「恐怖」であるならば、女性ばかりの中王区になど、ホスト姿でなければ足を踏み入れることすらできないだろう。
ようやく得心がいった夢野を相手に、伊弉冉の言葉が続く。
「でも、だからってずっとホストモードでいたいわけじゃない。逆に、ホストモードでいたくないわけでもない」
不躾な質問をした夢野への悪感情など微塵も見せないまま、伊弉冉が手元のペットボトルを胸の高さにまで掲げた。
「たとえばさ、万華鏡はくるくる回すだけで、いろんな柄が見えるじゃん? でも、柄が変わる度に別の万華鏡に変わってるわけじゃない。ただそんときの気分で、見え方を好きに変えてるだけ。それが自分でできるって、すっげぇ最強じゃね?」
万華鏡に見立てたペットボトルがくるくると回されたが、それでも伊弉冉が何を伝えたいのか、いまいち掴みきれない。
夢野のその心情を察したのか、伊弉冉はペットボトルを足元へ下ろした。空いた手が、夢野の手首を捕まえる。
かと思えば、何の前触れもなくそのままグイッと強く引っ張られた。
「たとえば、こーやって——」
「うわッ……!?」
彼の蝙蝠傘が路面を転がり、随分と久しく感じる雨粒が次から次へと全身に打ちつけてくる。
夢野が突然のことに面食らっているうちに、伊弉冉はその場でステップを踏み始めた。社交ダンスだ。
「急に踊ってみたりとかね!」
「いや、急すぎるでしょう……っ」
文句を言いながらも、夢野の体は伊弉冉の動きに応え始めた。生来の負けず嫌いが発揮され、彼にリードされるばかりだった状況から早々に脱する。
「わ、夢野っちスゲェね、踊れるんだ!」
「まあ、文壇に身を置く以上、かつての文豪に倣って社交ダンスを学び、それを題材に一作書かないと干されてしまうので」
「マ? 作家ノルマ厳しくね」
「嘘に決まってるでしょう」
「うわ、出た。マジで訳わかんねー嘘つくのな」
「道端で突然踊りだす人には、とやかく言われたくないですね。本当になぜ、急にこんな」
口にすれば、尤もなその疑問が改めて夢野の脳裏を占めた。
どうして、この男と二人で踊っているのだろう。それもこんな早朝に、雨降りの中、傘すら放って。
冷静になればなるほど、現状の馬鹿馬鹿しさが浮き彫りになる。
「ふ——」
気がつけば、夢野の口から息が漏れていた。その目元までゆるんで、随分と久しぶりに肩の力が抜けた気がした。
すかさずステップを止めた伊弉冉が、夢野に人差し指を突きつけてくる。
「それ!」
「?」
「急に踊ったら、思わず笑っちゃうっしょ? そうなりたいなーって思ったから、やってみた。それだけ!」
鮮やかに笑う伊弉冉の顔は、公園の砂場で手や顔を泥だらけにする子どものようだった。
「テンション上げて、目一杯『たのしーッ!』て気持ちになりたいときも、そうじゃないときもある。どれか一つになんてできないし、一番は決めらんないよ」
ころころと変わる彼の表情に、またもや静けさが覗く。三十路目前の、夢野よりも数年長く生きてきた男の顔が、そこにはあった。
「どれもこれも、全部俺だもん」
その刹那、心地よく吹き抜ける風が雨に濡れて重くなった夢野の前髪を掠めていく。そんな幻想が、脳裏をよぎっていた。
不覚だ。こんな男の言葉で、錆びつきかけていた歯車が、また回りだすなんて。
病室のベッドに半身を起こした兄の、理知的な瞳を思い出す。
——斯様に人間とは厄介な生き物ですが、意思疎通ができ、お互いの価値観を認め合うこともできる、素晴らしい生き物でもあります。
……できるのだろうか。チームメイトである飴村たちとそうしてきたように、この男とも。
己は、それを望んでいるのか。
ほんの数分前までとは違う悩みが、新たに夢野に芽生えていた。
ただ一つだけ、この場ではっきりと言えることがある。
「貴方に弱みを見せるだなんて、死んでも御免だと思っていました。けれど——」
ステップを踏むために触れ合っていた手を振り払うよりも、優先したいこと。
「たまには、こんな日があるのも悪くない。……そう、思い直しました」
夢野の口元に、はっきりと笑みが浮かぶ。
まさか自分が、こんなにも穏やかな気持ちで彼と向かい合う日が来るなんて。
目を瞠る伊弉冉の心情に意識を割く余裕が夢野にないまま、気がつけば、二人を包み込む雨足は随分と弱く、やわらかなものに変わっていた。