「寂しい」なんて思わないけど　ブレイブ・エンタテインメントの事務所が入るビル、一階に向かうエレベーターの中。現在の時刻は午後十時三分。剛士は小さく舌打ちをした。
『あぁ、もうこんな時間か。タクシー呼ぶから、剛士は先帰れ』
　事務所内の会議室で行われていた、今後の仕事についての打合せは、修二の一言で一旦終了となった。
　そのこと自体は、別に構わない。ブレイブ・エンタテインメントは、労働基準法遵守の、きちんとした会社だ。今までだって、午後十時になれば、帰宅命令が出ていた。
　剛士を苛立たせているのは、健十だけが、その場に残るよう言われたことだった。この間高校を卒業した健十は、晴れて社会人となり、深夜の仕事にも制限が無くなった。つい先日までは剛士と同じ立場だったのに、急に健十だけが大人扱いされるのは、頭ではわかっていてもどうにも面白くない。
『健十はもう一件、個人での仕事の話が来てる。もう少し時間いいか』
『はい。あ、帰り、事務所の車借りてもいいですか？　運転するの、慣れておきたくて』
『構わねえけど、事故だけは起こすなよ』
　会議室を出るときに聞こえたそんな会話も、腹が立つったらない。調子のんなよ、初心者マークのくせに。心の中で毒づきながら、剛士はエレベーターを降り、建物から出る。
「さっみぃ」
　昼間の陽差しには温もりを感じても、夜風はまだ冷たい。首を竦めながら、タクシーの到着を待った。


　朝の身支度の仕上げに、鏡の前で襟元を直す。制服というのはどうにも堅苦しくて、剛士はあまり好きになれない。さっき見た天気予報によると、今日は暖かくなるらしい。上着は必要だろうかと少し迷って、薄手のコートを羽織ることにした。
　家を出ようとして、照明とテレビが点けっぱなしだと思い出し、リビングに戻る。情報番組が切り替わっているということは、もう午前八時を過ぎている。通っている高校まではそれほど遠くないけれど、そろそろ家を出なければ間に合わない。全てを消して廊下に出たところで、起きてきた健十と鉢合わせた。
　ろくに整えられていない髪に、ラフな部屋着姿で、いかにも寝起きといった様子だ。結局、昨晩健十が帰宅したのは、ずいぶん遅くなってからだった。ベッドに潜り込んだ剛士の耳に、ドアの開閉音や廊下を歩く足音が聞こえていたから、多分日付が変わったくらいだと思う。それを考えれば、この時間でも早起きな方だろう。
「あれ、今出るところ？」
「あぁ」
「俺、今日も遅くなりそうだから、夕ご飯は二人で食べて」
「……わかった」
　そんな会話を交わしながら、健十は玄関まで付いてきた。靴を履き終えた剛士に、行ってらっしゃい、なんて声をかけてくる。どんな返事をしていいのかわからなくて、小さく、おう、と呟いて家を出た。


　ほんの少し前まで、同じ制服を着て、一緒に家を出ていたのに。その相手に見送られるというのは、違和感しかない。肩に掛けたバッグの中には、家では一度も開かなかった教科書とノート、問題集。体育の授業があったような気がするけれど、ジャージはロッカーに置きっ放しにしていたはずだ。剛士は耳にイヤホンを突っ込んで、通い慣れた道を一人で歩く。身だしなみがどうとか、課題がどうとか、口うるさい男は隣にいない。
「静かでいいな」
思ったことを口にしてみたけれど、なんだかしっくりこなかった。好きな音楽を聴いているはずなのに、いまいち気分は上向かない。もしかしたら、健十との通学中の会話は、面倒なことを考えなくて済む、というくらいには役に立っていたのかもしれない。現に今日は、英語教師の下手くそな発音を聞かされることと、古文の単語テストがあることを思い出して、朝から憂鬱になっている。
　これから一年間、こんな気分で学校へと向かうことになるのだろうか。ふと見上げた春の空は薄らと霞み、穏やかに晴れていた。