仔犬の半助、保護される「ははは、半助、そんなとこ舐めるな、全くもう、あっはっは」
山田先生が「半助」に顔を舐められて、くすぐったそうに笑う。咎める言葉でありながら声音は楽しそうで、相手を本気で止めようとしているとは思い難い。人間の方の半助はムムウと頬を膨らませた。ここ数日の山田先生は、裏山で拾ってきた仔犬の半助にかかりきりだ。人間の半助の方はなかなか構ってもらえずに、ちょっぴりおかんむりなのである。
事の顛末はこうだ。裏山の、おそらく生徒が掘ったであろう穴に、仔犬が落ちてキューキュー鳴いていた。そこに日課の朝ランニングをしている山田先生が通りかかった。そこは低学年生の実技でも使うような場所であるため、見目の愛らしい仔犬などが鳴いていては、生徒たちの気が散るのは火を見るより明らかだった。だから授業の邪魔にならぬよう、拾ってきたのだと山田先生は言う。山田先生はどこからか使っていない箱を持ってきて、ご自身の着古しの忍者装束を割いて底に敷き、仔犬をそこに入れた。私事なのに生物委員に任せきりにするわけにもいかないからと言い、それを山田・土井の職員部屋に持ち込む。手慣れた様子ではあるが、なんせ仔犬だ、手がかかる。食事の間隔も短く、食わせるのにも人の手がいる。山田先生の手からすり潰した残飯をおぼつかない様子で食べる仔犬は確かに愛らしい。甲斐甲斐しく仔犬の面倒をみる山田先生も、ご多用ではあるものの楽しそうだ。よく食べた、偉いぞ、可愛いなぁ。そう言って仔犬を撫でるのである。山田家に匿ってもらった時のことを思い出す。出していただいた食事がたいへんおいしく、遠慮も外聞もなくペロリと平らげた時も、感心した様子で鷹揚に褒めてくださったのだった。なんだか、気恥ずかしくて落ち着かない。
「またですか」
ちょうど学園に顔を出していた利吉くんは、仔犬を見るなりそう言った。六年間ほど一緒にいる私からしても「また」なのだから、十八年間家族である利吉くんからしたら、それはもうよくあることなのだろう。
「父上、猫ならともかく、犬は片手間では飼えませんよ。家にも帰ってこれないのに、散歩とかどうするおつもりなんです。完全に自立しているヘムヘムとは違うんですよ」
「わかっとる。里子に出すつもりで飼い主を探し中だ」
「はぁ。父上のお知り合いなんて、みんな犬だの猫だの、何かしら父上から飼わされているでしょう。私もいくらか知り合いを当たってみますが」
「おお、すまんな」
「あまり頼りにしないでくださいよ」
利吉くんは口では文句を言いながら、慣れた様子で仔犬の鼻先を指で撫でた。子どもが得意でない割に子供に優しい、利吉くんらしい心根の優しい仕草だった。もっとも、子どもたちとは違って、動物相手には慣れた様子ではあるのだが。
「こいつ、名前は何かつけたんですか。情がうつっても困りますが、呼び名がないと不便でしょう」
「半助」
山田先生が私の名を口にすると、利吉くんがこちらに顔を向けた。私から犬の名前が発表されるものだと受け取ったらしい。利吉くんの目線を受けて、私は苦笑しながら説明しようと試みる。
「ええとね、」
「犬の名前が半助だ。半助と呼ぶとワンと鳴くから半助だ」
「山田先生がこの子を私たちの部屋に置いている間に、私を呼ぶ名前が自分のものだと思っちゃったんだよ」
なるべくからりと補足すると、利吉くんは伝蔵さんによく似た目元を丸くした。それから、父上ってそういうところありますよね、と小さく言って苦笑してみせてくれた。私が内心おもしろく思っていないことを見透かされたようで、少し気恥ずかしい。
「父上は犬に弱いんですよ。うちの猫が、父上が拾ってきたのにも関わらず、父上にだけ懐かないものですから。まあ餌をやるのは母上で、父上はほとんど家に帰ってこないんですから、それは仕方ないですよね」
「いいんだ、猫は猫というだけで可愛いんだから」
「そんな事言って、犬に懐かれるとデレデレなんですよ、この人」
「犬は犬で可愛いんだから仕方ないだろう」
山田先生は何故かバツの悪そうな顔をしている。なかなか家に帰れないことを責められているのだと受け取ったのかもしれない。
「まあそんなわけで……、預け先が見つかるまで父上はしばらくこの様子だとは思いますが、土井先生にはご迷惑おかけします」
「迷惑というほどのことはないだろう。なぁ、半助」
「キャン!」
「ええと、人間の方の半助」
「はい、ええと、まあ、できる範囲でですけどお手伝いはしますよ」
「父上、同室で迷惑がかからないなんてことないですよ。少しは配慮してくださいね。では、私はそろそろ戻りますから」
仔犬はパタパタと尻尾を振っている。警戒心が薄いのは、まだ人間に酷い目に遭わされたことがないからなのか、もともと神経が図太いからなのか。利吉くんは目元を緩めて犬を撫で、腰を上げた。ふと目配せされ、私も腰を上げる。せっかくだから門まで送っていきますと言うと、山田先生は短く、利吉、またな、と言った。
「お兄ちゃんが崖から降ってきた後にうちにいたことがあったでしょう。あのとき私、拗ねてたんですよ。父上がお兄ちゃんに取られちゃう、って。まあ、その後すぐ懐いちゃったんですけど」
「うん、利吉くんはいい子だったから」
「そんなことないです。あの父上の息子ですよ。素直じゃないに決まってます。最初は早く治って出ていけーって思ってました」
「あはは。でも怪我が治るまでは置いておいてくれるんだ?」
「父上も母上も、あれで怪我人とか困ってる人とかにはやたら優しいので。子供の身で逆らえませんよ」
「それはそうかもしれないねぇ」
笑いながら並んで歩いていると、利吉くんがはたと申し訳なさそうな顔をする。
「……犬と一緒にしたみたいに言って、すみません。なんだか思い出しちゃって」
「ううん、実は私も思い出してたんだ。利吉くんたちに助けられた時のこと」
「……何が言いたいかというと、その、名前。うちの父がすみませんと言いますか。大丈夫ですか?」
「実は正直おもしろくない」
ぶっちゃけると、利吉くんはふはっと吹き出した。
「ですよねぇ」
「まあ、こっちは大人だし、相手は犬だし、我慢するさ。一時的なことだしね」
「では、あの犬っころがさっさと幸せな家庭をもてるよう、もらってくれる先を探しますか」
「うん、私もそれなりに伝手がないこともない。こっちでも聞いてみるよ」
そう言って大人ぶったのが二週間前のこと。