愛雨祈願 ざあざあと騒がしい音を立てて地面を叩く雨粒を見つめながら、僕はどうしたものかと頭を悩ませていた。
遠見さんからお遣いを頼まれたのはつい十分ほど前のことだ。部屋に籠って読書ばかりしていたら身体に良くないと言われてしまえば、返す言葉なんてなかった。たまには散歩するのも悪くないかとメモとバッグを受け取って家を出れば、雲間から射し込む太陽の光が海面できらめいているのが目に入った。こういう景色は、あの島に負けないくらい綺麗だと思う。
―――そう、思っていたのに。どうしていきなり大雨になるんだ。この島の天気どうなってるんだ?
「にわか雨、って言うらしいぞ」
右隣から声が降ってくる。大して大きくもないのに雨音に掻き消されることなく耳へと届いたそれは、僕がこの島で一番会いたくない奴の声だ。
「突然降って、しばらくすると止むんだ」
「……いきなりなんだよ」
「総士が、不思議そうな顔してたから」
僕の方を見た真壁一騎は、首を少し傾けて「違ったか?」と続けた。確かに気になったけど。説明されてそうなのかって思ったけど。それ以前に言いたいことがたくさんあるんだよ。喫茶店の仕事はどうしたのかとか、昼間からその真っ黒いコートを着てるのはどうなのかとか。
雨が降り出してすぐに現れたのはどうしてなのか、とか。
「総士」
名前を呼ばれ、思考に傾けていた意識を真壁一騎に戻そうとしたところで、頬に手が添えられた。視線を合わせるように膝を折って、心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
「寒いか?」
「え?」
唐突過ぎて何を言われているのか分からなかった。別に寒くなんて……
「あ……」
言われて初めて、身体が小刻みに震えていることに気付いた。半袖のTシャツ一枚しか着てない上にずぶ濡れになったせいで随分と冷えてしまったみたいだ。
「大丈夫か?」
「こ、これくらい平気だ!」
「こんなに震えてるのに?」
未だ頬に添えられたままの親指で目元の雫を拭われる。幾分か良好になった視界に映る真壁一騎の顔には、不安の色がありありと滲んでいた。普段あまり感情を出さないこいつにしては珍しいというか……そもそも、なんでこんな顔をしてるんだ?
内心首を傾げる僕をよそに、一度身体を離した真壁一騎はいそいそとコートを脱ぎ出した。まさかと思っていたら、案の定それを僕の肩に掛けようとしてくる。
「いらない!」
ほぼ反射的に手を振り払って二、三歩下がる。こいつが僕のことを心配してあんな顔をしたというのは理解した。だけど、それとこいつの親切を素直に受け取るかは別問題だ。……とは言え、少しやり過ぎたかもしれない。
そっと真壁一騎の様子を伺ってみる。真壁一騎は振り払われた手をじっと見つめていた。やっぱり傷付けてしまっただろうか。
「あ……えっと」
さすがに良心が痛んだので何か言おうと口を開いて、一体何をどう言えばいいのかというところで思考が止まる。心配してくれたことへの感謝でも述べようか。……コートを受け取るより恥ずかしいな、それ。
「総士」
ぐるぐると巡りはじめそうだった思考が穏やかな声に断ち切られる。いつの間にか下げていた視線を上げたら、真壁一騎が両手を広げていた。
は? え? なんだそれ。全く意図が掴めない。
「コート、濡れてるもんな。代わりに俺がぎゅってして暖めるよ」
「〜〜〜!?」
正気かこいつ……! 優しい笑顔で何を言ってるんだ……! 羞恥心というものを何処かに置いてきたのか……!?
「総士?」
やめろ。どうした、みたいな顔をするな。僕が抱きつきに行くのが当然みたいな反応をするな。
言ったところでどうせ話が伝わらないだろうから、無言のまま近づいて右腕に引っ掛かってるコートを奪い取り、ばさっと肩から羽織る。
「こ、これで満足か…!?」
半分ヤケになりながら開き直って叫んでやれば、真壁一騎は数回瞬きをしてから嬉しそうに微笑んだ。……本当に、こいつの感情の起伏はよくわからない。わからないから会うたびに振り回されて、僕自身の感情すらたまにわからなくなる。だから、会いたくなかったんだ。
「ありがとう、総士」
返ってきた心地良い声にどうして礼を言うんだと言ってやりたかったけど、どうせこいつはいつも通り不思議そうに首を傾げるだけなんだろうな。
真壁一騎のことはよくわからない。わからないけど、笑ってるならまあいいかと、コートの合わせを両手で引き寄せながら、僕も釣られて少し笑った。
***
「こ、これで満足か…!?」
真っ赤な顔で、それでも総士は威勢良く叫ぶ。全身雨に打たれてずぶ濡れなのに、そんなの感じさせないくらいに明るくて、眩しくて。そんなところが、とても愛おしくて。
「あの……」
胸の奥から湧き出るあたたかな感情に身を委ねていたら、総士が言いにくそうに口を開いた。
「やっぱり……て、いいぞ」
「……?」
珍しく歯切れが悪いのと声が弱々しいせいで、雨音に掻き消されてよく聞こえない。膝を少し折って総士の口元に耳を寄せたら、少し黙った後、深く息を吸う音が聞こえてきた。
「……これじゃ、お前が寒いだろ。だから……ぎゅってして、いいぞ」
―――それは、反則じゃないか、総士。
考えるよりも先に身体が動いた。ぶかぶかのコートごと、随分と大人になった身体を抱き締める。……本当に、大きくなった。
存在を確かめるように腕に力を込める俺の背中に、戸惑いながらも総士の手が回される。今この瞬間許された距離が嬉しくて、とても、幸せだった。
雨はまだ止みそうにない。いっそこのまま降り続けばいい。止まない雨なんてないってわかってるけど、つい、そんなことを考えた。