幸せの在処 初めて銃を持ったのは15歳のときだった。中学校を卒業したばかりの、桜舞い散る3月のこと。
「…本当にいいのかね」
「はい」
傍らに立つ史彦が静かに問い掛けてくる。その声に引き留めるような色が滲んでいることに気付いていながら見て見ぬふりをする。
「もう決めたことですから」
手にした漆黒の塊は、とても冷たく感じた。
あれから4度季節が巡り、秋も深まってきたある日のこと。喫茶楽園のボックス席で紅茶を飲みながら、遠見真矢は目の前で繰り広げられるお祭り騒ぎを見守っていた。
「翔子! もっと左!」
「これくらい?」
「あーいきすぎ! 少し戻して!」
「ええと…こう?」
「そう!」
大きめの黄色いペーパーフラワーを壁につけた翔子と、位置を指示していた操が嬉しそうにハイタッチする。操の勢いが強すぎてよろけた翔子を見て思わず立ち上がりかけたが、傍に待機していた甲洋が抱き留める方が早かった。
「ありがとう、春日井くん…」
安堵の笑みを浮かべる翔子に微笑みを返した甲洋は、視線を操に向けるとため息を吐く。
「来主、はしゃぎすぎ」
「ごめんてば~。翔子、だいじょーぶ?」
「平気よ、操」
操が羽佐間家で暮らすようになったのは夏の終わりのことだった。戸籍は移していないが、翔子は――今は此処にいないカノンも――操のことを実の弟のように可愛がっている。操もそれを分かっているから甘えているのだろう。甘えたがりに見えてその実甘えることを知らない操だが、幼い頃から共にいた翔子には比較的素直になれるらしい。
まあ、操が一番甘えている相手は翔子ではないのだが。
未だに翔子を挟んで何かを言い合っている二人を見て苦笑した真矢は、ふとその奥のキッチンへと目を向けた。操たちの騒がしさに気を取られていたとはいえ、先程から随分と静かな気がする。
「………」
「総士、」
「最適な温度まであと2度だ、一騎」
温度計を手に鍋と睨めっこしている総士と、そんな総士に苦笑する一騎がいた。いつもながらのやり取りが微笑ましいが、あの調子でパーティーに間に合うのだろうか。
夕方から喫茶楽園を貸し切って行われる今夜のパーティー。それは、真矢の19回目の誕生日を祝うためのものだった。そのためにみんなが内装や食事を頑張ってくれていることが嬉しくて、真矢の口元は自然と綻んだ。
今まで家族で誕生日を祝うことはあったが、友人たちに誕生日会を開いてもらうというのは初めてだった。だから、一週間前に翔子から今日のことを聞かされたときはとても嬉しかった。当日になってその気持ちは更に膨らんだ。どうやら自分で思っている以上に浮かれていたようで、史彦が気を利かせて仕事のシフトを夕方までにしてくれた程だ。
最初は申し訳ないからと断ったのだが、「本来ならば休みを取っても良かったほどだ」と穏やかな声で言われてしまえば、それ以上何かを言うことは出来なかった。
伝えていた時間よりも早く楽園に来たところ五人がパーティーの準備に追われていて、せっかくだからその様子を見守らせてもらうことになって今に至る。
「……平和だなぁ」
紅茶を一口飲んで、噛み締めるようにつぶやく。
真矢の守りたい平和が、此処にはある。
14歳の冬。翔子が理性を失ったフォークに襲われ大怪我を負った。その事件を切っ掛けに真矢はアルヴィス職員としてケーキ――かけがえのない友人たちを守る道を選んだ。
高校に通いながらアルヴィスでケーキやフォークのことを学び、護身術や銃の扱いを学んだ。学生生活など二の次だった。委員会や部活動はやらなかったし、修学旅行や文化祭にはアルヴィス職員として参加した。
そこまでしなくてもいいのにと、色んな人に言われた。子どもの頃からそんな仕事に就くなんてもったいないと。
極めつけは父親だった。数年前に竜宮島を出た父親は久しぶりに帰ってきたかと思うと、16歳になった真矢に島を出ようと言ってきた。
こんな島に居てもお前のためにはならない。ここでは普通の生活が送れないだろう。私と一緒に、外の世界で幸せに生きよう。
その誘いを真矢は一蹴した。外の世界に興味がないわけではなかったが、自分の守りたい人がいるのはこの島なのだ。
小さい頃から一緒に遊んでいた操は翔子と同じくケーキだった。幼馴染みの総士や甲洋は島で把握されている数少ないフォークだ。
そして今年の夏、一騎がケーキだということが発覚した。
全てはアルヴィス職員になったから知ることが出来たことだ。もしもあの時この道を選んでいなかったら、友人たちがどれ程危険な目に遭おうがそれを知る術すら持てなかった。そう思うと怖くて仕方がない。
何も知らないことは、真矢にとって一番の恐怖だった。
「ふぅ……」
沈みゆく思考を切り替えるように小さく息を吐くと、それを見計らったかのように目の前にカップが置かれた。顔をあげると、お盆を胸に抱えた一騎と目が合う。
「お代わり、そろそろかと思って」
「ありがとう、一騎くん」
「…遠見、なんか疲れてる? 父さんやっぱり厳しいのか…?」
「そんなことないよ」
慌てて手を振って否定するが、一騎は気遣わし気な顔のまま。一騎がケーキだと分かってから、史彦は父親としてではなくアルヴィス司令官として接することも増えた。その対応の差にまだ慣れていないのかもしれない。
「おじさん、すごく優しいよ。今日だって早く帰してくれたんだぁ」
「そっか。もう少しで準備できるから待っててくれ」
空になったカップを持ってキッチンへと戻った一騎に総士が何かを聞いている。一騎がそれに頷き、二人で鍋を覗き込む。その様子が何とも言えず微笑ましい。気が付けば、先程までの暗い思考はすっかり消え去っていた。
「真矢ー!」
不意に視界いっぱいに操の顔が飛び込んできて、さしもの真矢もびくりと肩を跳ねさせる。そんな真矢に構うことなく操は正面へと座った。
「飾り付け終わったよ!」
「うん、見てたよ。すごいねぇ」
「でしょ! あのお花、俺と翔子で作ったんだぁ」
「そうなの? 上手上手」
褒めてと言わんばかりに目を輝かせる操の頭を優しく撫でる。昔から手芸をやっていた翔子はともかく、身体を動かすことの方が好きな操がペーパーフラワーのような手先の器用さを要求される作業をたくさんやってくれたのかと思うと、それだけで嬉しかった。
撫でられた操は満足そうに笑ってまた装飾をしに戻っていく。まるで子犬みたいだなぁと微笑ましく見ていたその時、胸元から無機質な振動音が聞こえた。
アルヴィスから支給されているスマートフォンが着信を告げていた。
「……」
ほんの一瞬だけ躊躇ってから応答ボタンを押す。真っ先に気付いた総士がみんなに静かにするよう伝えてくれたことに感謝しながらスマートフォンを耳に当てる。
「はい、遠見です」
『真壁だ。緊急招集が掛かった。…来られるかね』
「了解。10分でつきます」
手短に会話を終わらせて通話を切る。近くに来ていた翔子が不安そうな顔をしていて心が苦しくなった。
「真矢……」
「ごめんね、呼ばれちゃった」
「えー! 今日のお仕事はもう終わったんじゃ…むぐ!?」
ひときわ大きなペーパーフラワーを抱えた操が不満げな声を出すが、真矢が何か言う前に甲洋がその口を手で塞いだ。暴れる操を押さえながら気にするなと目で伝えてくる。
「どのような用件だ。僕が代われることであれば行くが」
「ありがと。でも大丈夫だよ。皆城くんだって、久しぶりのお休みでしょ。一騎くんとゆっくり過ごして」
「だが…」
なおも言い募ろうとした総士だったが、ひとつ息を吐くと不本意そうに口を噤んだ。頭では自分が真矢の仕事を代われないことを理解しているのだろう。
「何時頃戻ってこれるんだ?」
「んー…どうだろ。今日中は難しいかも」
「そうか…」
一騎まで寂しそうな顔をするからいよいよ申し訳なくなってしまう。
「ほんとにごめんね。いっぱい準備してくれたのに」
「遠見が謝ることじゃないだろ」
「うん。…ありがと、一騎くん」
立ち上がったところで翔子が手を握ってきた。すらっとした白い手はすっかり冷え切ってしまっていた。
「待ってるわ、真矢。だから、お仕事頑張って」
「だめだよ翔子。遅くまで起きてたら身体に悪いでしょ。……また今度お休みもらうから、そのときにお祝いして。ね?」
ぬくもりを分け与えるように手をさすると、翔子はその手を己の頬に添え、泣きそうな顔で頷いた。
―――ここでは普通の生活が送れないだろう。
どうしてか、父親の言葉が脳裏を過った。
仕事が終わる頃にはすっかり夜の帳が下りていた。まだ日付は変わっていなかったが、みんな家に帰っただろう。
「…楽しみだったんだけどなあ」
アルヴィスの建物を出た真矢は、誰もいないのを確認してから呟いた。
普通というものがどういうものか真矢には分からない。分からなくていいと思っていた。だけど、ちょっとだけ思ってしまった。父が言っていたのはこういうことだったのかもしれないと。
もしも、普通の仕事に就いていたら。こんな形でみんなを悲しませることはなかったのではないかと。
「……っ」
だめだ。今日は何故か悪い方へとばかり考えてしまう。
人が言う普通なんて要らない。たとえそれで幸せを取り零してしまうことになったとしても、大切な人を守る道を選ぶ。もう選んだ。そこに迷いはおろか、後悔なんて少しもないのに。
どうして、こんなにも、悲しい―――。
「遠見」
幻聴かと思った。
弾かれたように顔をあげると、電灯の下に一騎が立っていた。
「一騎くん!? 何してるのこんな時間に…!」
慌てて駆け寄り怪我をしていないか確かめる。ケーキが夜にひとりで出歩くなどあまりにも危険すぎるというのに何をしているのか。総士も常々言っているが、一騎はケーキとしての自覚が足りなさすぎる。
「ここまでは総士と一緒に来たから大丈夫だ」
「そういうことじゃ…って、皆城くんは?」
「アルヴィスに用事があるみたいだ。先に行こう、遠見」
「え?」
どこに、と聞く前に手を握られた。そのままずんずんと歩き出した一騎に驚きつつ何とかついていく。こんな時間にどこへ行くと言うのだろう。
その疑問はすぐに解決した。あまりにも歩き慣れた道だった。
「待って一騎くん、どうして楽園に向かってるの?」
「ついてからのお楽しみだ」
まさか。そんなわけない。だってもうこんなに夜遅いのに。
頭に浮かぶ可能性を打ち消していく。しかし、真矢の予想とは裏腹に、たどり着いた喫茶楽園からは光が溢れていた。
「入れよ」
扉の前で立ち止まった一騎に促され、恐る恐る取っ手に手をかける。小さく呼吸して、ゆっくりと扉を開けた。
パン、と乾いた音がした。次いで色とりどりの紙吹雪が目に映る。
「お誕生日おめでとう!」
幾重にも重なった声がお祝いの言葉を紡ぐ。思わず固まってしまっていると、後ろから優しく背中を押された。一歩、一歩と踏みしめながら店内に入る。
「おかえりなさい、真矢」
「翔子…どうして…こんな時間まで起きてたら身体が…っ」
「ごめんなさい。でも、どうしても真矢のお祝いをしたかったの」
申し訳なさそうに、けれど決して譲らないという強い意志を込めた瞳で翔子が見つめてくる。ほんの少しだが顔色が悪い。こんなになってまで、どうして。
「どうして…別に…今日じゃなくたって…」
「だって、真矢、ずっと楽しみにしていたでしょう…?」
「……!」
真矢が楽しみにしていたから。たったそれだけの理由で。
胸の内から熱いものが込み上げてくる。それが何なのか認識する前に、熱は涙となって瞳から溢れ出す。
「真矢…!?」
「ちょっ、どうしたの!?」
それまでにこにこしていた操が慌てたように駆け寄ってきてハンカチを目に当ててくれた。びっくりした様子の翔子が背中を優しく撫でてくれる。それがまた嬉しくて、涙が止まらなくなってしまった。
ねえ、お父さん。やっぱりあたしは間違ってなかったよ。
確かにお父さんの言う普通の生活は送れてないのかもしれない。普通の幸せは島の外にあるのかもしれない。
それでも。
あたしの大切な人たちは、あたしが取り零した幸せを掬い上げて差し出してくれる。
だから、あたしはここで生きていくよ。
何ものにも代えがたい幸せを噛み締めながら、真矢は決意を新たにした。