ホットケーキを君に この世界には、ミールと呼ばれる神秘の結晶がある。起源も正体も謎に満ちている謎の物質。唯一分かっているのは、その結晶が『人類がより良い未来へ進んでいくために多くの恩恵を与えてくれる』ということだった。
しかし、それは今や過去の話だ。
半世紀程前、突如として世界中に点在するミールが眩い閃光に包まれた。光が迸ったのはほんの数十分のことだったと言われている。収まった直後は特に何の変化もなかったため、特に気に留める者もいなかった。変化が起きたのは数年後だ。それまでは存在しなかった人種が、世界に生まれた。
それが『フォーク』と呼ばれる味覚異常者と、『ケーキ』と呼ばれる特異体質者だ。前者は後天的に何らかの要因で起こる味覚障害で、後者は先天的に生まれ持ってしまう体質である。どちらも常人の理解の範疇を超えるため、化け物扱いされ世間から爪弾きにされてしまっているのが現状だ。
これは、そんな二つの人種がより良い未来へたどり着くためにと作られた楽園での物語。
「痛っ」
小さな悲鳴を聞き、総士は手元の端末から顔を上げた。向かいの席で紙束と格闘していた剣司が指先を睨んでいる。
「どうした」
「切っちまった」
今しがた自分が机に放った紙束を恨めし気に眺めながら剣司が答える。その指先から僅かに覗く赤色に、どきりと心臓が跳ねた。
「総士?」
「…何でもない。ほら、これを使え」
心配そうに名前を呼んでくる同僚に半ば誤魔化すように絆創膏を差し出す。剣司は物言いたげな目をしたものの、それ以上は聞いてこなかった。安堵の息を吐き手元の端末へと視線を落とす。
画面には"ここ数年におけるフォークとケーキの個体数報告"という文字と棒グラフが表示されていた。
特殊機関アルヴィス。ここ竜宮島においてもっとも権力を持つ組織であり、同時に重要な施設である。
その業務は多岐にわたるが、中でも主たるものは『フォーク』の研究と『ケーキ』の保護だ。
『フォーク』となってしまった人間は一切の味覚を失う。しかし、例外として『ケーキ』の全てを甘く感じるようになるのだ。血肉はもちろん、涙や唾液などの体液も全てが甘露な、文字通りケーキとなる。そのせいで味に飢えた『フォーク』が『ケーキ』を襲う事件が後を絶たない。
そんな凄惨な事件を無くすのがアルヴィスの目下の使命である。そのために重要なのが『フォーク』の捕食衝動を抑える研究と、『ケーキ』と発覚した人間の保護だった。
「最近乾燥してるよなあ」
再び紙束に向き直りぼやく剣司も、端末に映されたグラフに顔を顰める総士も、アルヴィスの職員である。担当は『フォーク』に関する研究。今はアルヴィスの監視下にある『フォーク』から様々なデータを取り、捕食衝動の抑制剤を作っている。しかし思うように進んでいないのが現状だ。それはサンプルデータの少なさが大きな原因である。
理性を保ったままでいられる『フォーク』は多くはいない。捕食衝動に従い手当たり次第に『ケーキ』を襲う者、捕食衝動に抗った反動で理性を失う者が大半だ。そうして完全に人間ではなくなった存在のことをアルヴィスでは『フェストゥム』と呼称しており、『フェストゥム』となった者を処分することもアルヴィスの業務のひとつである。
近年は『フェストゥム』として処分されてはじめて『フォーク』だったことが発覚することが多い。そのため、現在竜宮島においてアルヴィスが現在把握している『フォーク』の数は片手で足りるほどしかいなかった。
「総士、こっちの確認終わったぞ」
「そうか。なら今日はここまでにしよう」
端末の電源を落とした総士に剣司が「了解」と短く返す。時刻は21時過ぎ。既定の就業時間はとっくに超えていた。
「あー…つっかれたぁ…。…んあ?」
間抜けな声が聞こえて思わずそちらを見る。仕事中はきりっとした表情をしていることの多い幼馴染みがチューブのようなものをまじまじと見つめていた。
「なんだそれは」
「ハンドクリーム。咲良にもらったの忘れてたわ」
「しまったなぁ」と言いながらいそいそと封を切りクリームを手に出す剣司に苦笑する。大方、先に総士にかけた言葉と似たような会話を咲良と交わし、その際にハンドクリームをもらっていたのを今の今まで忘れていたといったところだろう。「せっかくあげたのに使ってないってどういうことかしら?」と剣司の耳を引っ張る咲良の姿が容易に想像でき、勝手に微笑ましくなってしまった。
「総士、手ぇ貸せ」
言われるがまま手を差し出すとクリームを乗せてくる。きょとんとした顔で眺めていたら「共犯な」といたずらっぽく笑いかけられた。
共犯の証はとても甘ったるい香りがして、まるで『ケーキ』の血のようだと思った。
アルヴィスが把握する『フォーク』、その数少ないひとりが、皆城総士である。
目頭を指でもみほぐしながら自宅に向けて夜道を歩く。少しばかり根を詰め過ぎたかもしれない。最近は自宅とアルヴィスの往復ばかりで、アルヴィス職員以外とは挨拶程度の会話しか交わしていない。
ふと、脳裏に幼馴染みの顔が浮かび足を止める。もう何日顔を合わせていないだろうか。ちらりと腕時計を見ると、彼が働いている喫茶店の閉店時間を少し過ぎたところだった。今ならまだ店にいるだろう。
しばし逡巡する。彼の顔を見れば溜まった疲れがたちまち吹き飛ぶと確信できる。しかし、総士には幼馴染みと容易には会えない理由があった。
「………」
どれだけ考え込んでいただろうか。いつもならば自分の欲望など理性でねじ伏せてさっさと帰宅するところなのだが、生憎と今日はひどく疲労が溜まっていた。一刻も早くあの"甘さ"に癒されたい。
―――顔を見るだけだ。それならば許されるだろう。誰にともなく許可を求め、総士は行く先を変更した。
「総士!」
明かりがついていることを確認してから控えめに扉を開けると、間髪入れずに明るい声が飛んでくる。次いでこちらを振り返った幼馴染みは、それはそれは嬉しそうに笑っていた。
「…よく僕だとわかったな」
「なんだか今日はお前に会える気がしてたんだ」
そう言った一騎が慣れた所作でコーヒーを淹れはじめたので、とても顔を見に来ただけだとは言えなくなってしまう。一瞬躊躇ってからゆっくりと店内に足を踏み入れるとほのかに甘い香りが漂ってきた。ぐらつく理性を手放さないように気を張る。
「こんな遅くまで仕事だったのか?」
「…ああ。明日までに提出しなくてはならない書類があってな」
「そっか…相変わらず大変そうだな」
カウンター席に座るのとほぼ同時にカップが置かれた。コーヒーの香りが鼻腔をくすぐり、脳を揺らす甘さを掻き消してくれる。味覚を感じられない総士のために豆の種類から挽き方までこだわってくれている一杯は、味など微塵も感じないのに何度でも飲みたくなるものだった。同時に、そこまでしてくれる一騎の愛情を感じ心が満たされていく。そんな様子を見て取ったのだろう。じっとこちらを見つめていた一騎が安心したように微笑んで閉店作業を再開した。
それからしばらくは他愛のない話をした。何せ一週間近く顔を合わせていなかったのだ、積もる話などいくらでもある。
そうこうしているうちに作業が終わったのだろう。一騎が隣に座り、結んでいた髪を解く。ふわりと甘い香りが漂い心臓が跳ねた。再びぐらつく理性を抑えようとしたところで、思わぬ言葉が聞こえてくる。
「…なんか、甘い匂いがする」
「えっ」
弾かれたように一騎の方を見るのと、一騎が総士の手を掴むのはほぼ同時だった。
「総士、何かつけてる?」
「あ、ああ…剣司からもらったハンドクリームを少し」
「その匂いか」
「ひゃ…っ!」
掴んだ手を鼻に当てすんすんと匂いを嗅いだと思った次の瞬間、ぱくりと指を口に含まれた。慌てて指を引き抜こうとするがびくともしない。この馬鹿力め。
「なっ、に、をして…!」
「ん、今日は総士の方が甘いな」
にこっと笑う一騎に開いた口が塞がらない。ハンドクリームが甘いわけないだろう。いやそういう問題ではない。口をぱくぱくとさせていると、指を見つめたまま一騎が言葉を継ぐ。
「総士からしたら、俺もこんな匂いなのか?」
どきりと、再び心臓が跳ねた。
総士には一騎と容易に会えない理由がある。一騎は『ケーキ』なのだ。万が一捕食衝動に呑まれ理性を手放してしまったら、自分は一騎を食い殺してしまうだろう。それが怖くてなかなか会いに来られない。こんなにも愛しい相手なのに。
「総士?」
名前を呼ばれはっとする。にこにこと笑う一騎はこちらの返答を楽しみにしているようだ。慌てて質問を反芻する。
一騎の、匂い。
『フォーク』である総士にとって、『ケーキ』である一騎の全ては甘く感じる。勿論匂いも例外ではないのだが。
「………こんなに甘ったるくはないな。一騎の匂いは、いつ嗅いでもすっと身体に入ってくる。それでいて鼻腔の奥に留まり続けるような……」
「へぇ…」
熟考の末の返答を聞いた一騎が興味津々といった顔を近づけてくる。しまった。これは、まずいかもしれない。
「も、もういいだろう…」
「もっと聞きたいな、お前の話」
「……大人しく聞いているなら構わないが?」
一騎が目を輝かせる。いつもならば可愛いなと思って済ませるところだが、この手の話題になるとそうもいかない。どうにも一騎には『ケーキ』としての自覚が足りないのだ。
幸か不幸か、総士は他の『フォーク』に比べて捕食衝動に対する抵抗力がある。とはいえ、あくまで並みの『フォーク』に比べたらの話であり、理性で抑えきれなくなる可能性を大いに孕んでいるのだ。
だというのに。
「何が聞きたいんだ。面白い話などないぞ」
「そうだな…俺ってどんな味なんだ?」
どうして自分からこちらの理性を削るような質問をしてくるのだろうか、この『ケーキ』は。あまりにも自覚が足りない。目の前にいる奴はいつお前を食い殺すかわからないんだぞ。
呆れて言葉を失ってしまったが、変わらず向けられるきらきらした目に耐え兼ねて返答を探すことにした。
一騎の、味。これまで幾度となく無理矢理飲まされてきた血やら汗やらを思い返す。
「……昔、お前が作ってくれたホットケーキが近いかもしれないな。はちみつをかける前の」
甘すぎず、いつまでも食べ続けられる優しい味。まるで一騎の人柄そのものだと幼心に思った覚えがある。
総士が『フォーク』になったのは9歳の頃だ。それまでは普通の食事の味もわかっていたし、その頃の味の記憶は無味の食事を食べる上での支えになっている。
一騎が作ってくれたホットケーキもそのひとつだ。うまくつくれなかった、と落ち込んでいた顔も、総士がおいしいと伝えたときの嬉しそうな顔も、昨日のことのように思い出せる。
あの頃は毎日一緒に過ごしていたし、これからもそうであるのだと微塵も疑っていなかった。
「ホットケーキか…」
呟いた一騎が席を立ちキッチンへと向かう。先程片したばかりだろうに何をするつもりなのか。疑問に思う総士をよそに、冷蔵庫から何かを取り出した一騎は手際よく作業を進めていく。かしゃかしゃとかき混ぜる音が聞こえてきた。
「なぁ、汗とか血とかってやっぱり味が違うのか?」
「……そうだ。『ケーキ』の味に個体差があるように、同じ『ケーキ』の体液もそれぞれ味が違う。お前の場合は汗よりも血の方が……おい一騎、何を作っているんだ」
「何って、ホットケーキだけど。ちゃんと聞いてるから話してくれ。汗よりも血の方が美味いのか?」
何故この話の流れでホットケーキを作るのか。嫌な予感に背筋を冷や汗が流れ落ちる。今すぐに帰らなければならないと本能が警鐘を鳴らすが、話の途中でいきなり帰るというのはあまりにも失礼だ。一騎には落ち度も、きっと悪気もないのだから。
「……お前のものならば何でも美味しいが、……血は、とりわけ甘く感じる」
「そうか。そしたらレバーとかほうれん草とか、ちゃんと食っとかないとな。…よし、できた」
ことりと目の前に皿が置かれた。ふんわりとしたホットケーキだ。あのとき作ってくれたものよりも見栄えが良く、遥かに美味しそうなそれを、今の総士は味わうことが出来ないというのに。
あの頃とは何もかもが違う。何を案ずることもなく、共に居たいと思うだけで傍に居られたあの頃とは。
「どうした? 食べろよ」
「……お前は、怖くないのか。僕はいつお前を食い殺してもおかしくないんだぞ」
口をついて出た不安を、最愛の幼馴染みは笑い飛ばす。
「総士のことが怖いわけないだろ。それに、そのときはその時だ。食い殺されるなら、お前がいい」
「…っ、僕はお前を食い殺すくらいなら餓死した方がマシだ!」
思わず声を荒げてしまうが、そんなこと気にも留めず一騎はホットケーキを切り分けている。そして当たり前のようにナイフで指先を切り、シロップの瓶へ血を数滴垂らした。
漂ってくる甘い匂いに判断が一瞬遅れる。まずいと思ったときには、血の混じったシロップをかけたホットケーキを口に突っ込まれていた。
「んぐ…っ!」
「そんなこと、俺がさせると思うか?」
「…っ!」
じわじわと理性が焼き切れていく感覚。捕食衝動の発作だ。総士からは見えないが、おそらく瞳が金色に輝いていることだろう。その証拠に、愛しそうに頬に手を添えてきた一騎が瞳を覗き込んでくる。
「総士の目、元の色も好きだけど…こっちの色もいいな」
うっとりと呟いた一騎は、あろうことか今しがた頬に添えていた手のひらをナイフで切りつける。ぽたぽたと垂れた血がホットケーキに染み込んでいく。
ああ、とても、おいしそうだ。
「お、まえ…っ! おとなしく、していろと…!」
衝動に呑まれかけた理性を懸命に手繰り寄せる。思わず睨みつけるが、一騎は相変わらず堪えた様子もない。にこにこ笑いながらホットケーキを切り分けている。
「サービス。最近忙しくて『味のあるもの』食べてなかったろ? 根詰め過ぎなんだよ、お前。たまには休め」
「は…っ、…離れろ、一騎…っ!!」
次第に強くなる匂いに頭の奥がぐらぐらする。席を立とうとしたが足元がおぼつかず、ぐらりと体勢を崩してしまった。伸びてきた腕に抱き留められ、一層強くなった匂いに視界が金色に染まる。
「言ったろ、お前になら食われてもいいって。…せっかく作ったんだから完食してくれよな」
一騎の腕に抱かれた状態で口元にホットケーキが差し出される。これを口にしたら抑えきれなくなる。わかっていても、久しぶりに愛しい相手の甘さに包まれた状態で、抑制剤もなしに堪え切ることはさすがの総士でも無理だった。
手首を掴んで引き寄せ無我夢中でホットケーキを食べる。控えめで、安心する甘さ。疲れた心も、渇いた身体も、一瞬で満たされる。こうなってはもう止まれない。シロップの小瓶を倒す勢いでホットケーキにかけ、また一口と食べ進めていく。
そうして全て食べ切って、今度は一騎の手のひらを口元へと引き寄せその傷に舌を這わせた。混ざり気のない純粋な甘さだ。もっと欲しくて、傷口を広げるように舌を差し込む。
「……お前って、ほんと可愛いよな」
愛しさに満ちた声が聞こえ、手が退かされる。もっと、とねだる前に唇を塞がれた。血とは別の甘さを与えられ夢中で舌を伸ばすと、応えるように伸びてきた一騎の舌に絡め取られる。そうして呼吸を忘れるほど深く口付けられ、解放される頃には酸欠で意識が落ちかけていた。
「休んでいいぞ、総士」
優しく背を撫でられる。本来『フォーク』が『ケーキ』の傍で眠るなど危険極まりないことなのだが、このまま捕食衝動が暴走するよりはマシだ。僅かに戻った理性でそう結論付け、意識を手放すことにした。
「死ぬ頃には、総士の身体全部、俺で満たせるかな」
洒落にもならない声が聞こえる。馬鹿なことを言うなと言ってやりたかったが、それを言葉にする前に総士の意識は暗闇に沈んでいった。