水族館長🟥とタコ人魚🟩水族館といえば皆はどんなものを思い浮かべるだろうか。巨大水槽で悠々と泳ぐジンベエザメか、飼育員の指示で芸を行う海獣ショーか、雪のように美しいクラゲが見られる創意工夫のこらした展示水槽か…とかく見どころがある楽しいものであることは間違いないだろう。
しかしこの市営水族館はそのどれらにも当てはまらない。海洋生物研究を主目的としているからとはいえ、設備も古ければ目玉となる生き物もなく、地域の児童施設が情で遠足がてら足を運んでくれるのが一番客入りがあるレベルのさびれた水族館である。
こんな水族館だからカンコー鳥が鳴きわめき、飼育員も生物達の世話だけが仕事のようなありさまであったので、漁業組合から連絡が入った時は施設の人間たちは大層驚き、動揺した。内容はこうである。
人魚を釣り上げてしまった。保護をお願いしたい。
人魚、それは人の上半身と魚介類の下半身を持つ不思議な生き物である。昔は伝説上の生き物とされていたが、少し前に生体の人魚が捕獲され、伝説が事実であることが判明した。人魚の生息地は保護区とされ如何なる船も立ち入りが禁止された。各国でも条約が締結され、人魚は原則、人魚が助けを求めた場合ないし人の救助が必要な場合のみ保護という形で一時的に飼育ができることになったのだ。
資料を遡れば、この水族館でも人魚を飼育していた経歴があるようだった。しかしそれは何年も前の話で、当時の飼育員は全て退職している。施設の規模を考えても人魚の保護は厳しいだろう、他の水族館に任せるべきだ。そういう結論でまとまりかけていた。
しかし、連絡のあとに送られてきた人魚の写真を見るとまとまりかけた話も霧散した。
その人魚は『タコの下半身』をしていたのだ。その他に目立つところとして、漁が原因なのか定かではないが顔の左半分が血で汚れている。どうやら左目を欠損しているようだ。
普通人魚と言えば、その名の通り下半身が魚の高知能生物だ。どの個体も見目麗しく、保護すればどの水族館であっても目玉となるのが通例だった。しかし、それは施設の作り出した虚構で、人魚にも美醜の差はあるし、美しいものしか見たことないということは、裏を返せば大衆に好かれない容姿の人魚はバックヤードで人知れず最低限の保護を受けた後逃されているということでもあった。
『タコの人魚』は後者の中でもトップレベルに厄介者扱いされる人魚である。
そもそもタコという生き物自体が賢く、繊細で、力も強いから脱走しやすく、魚と比べて飼育が難しい。それが人と同じサイズだというのだから頭を抱えるのも仕方ない。他の水族館に保護を依頼したとて理由を付けて断られるのが関の山だ。しかもこの市営水族館には幸か不幸かライバルと言える他の水族館は近隣にはない。運よく保護を取り付けたとて移送に時間がかかって人魚が衰弱してしまう可能性が高い。最悪死んでしまうかもしれない。
「とにかく怪我の手当だけでもしてやらねばなるまい。要請を受けよう」
そう口にしたのはこの水族館に赴任したばかりの若き館長シャア・アズナブルであった。着任早々とんでもないことに巻き込まれたものだが、彼は年齢とは裏腹にいたく冷静で落ち着いていた。従業員たちも館長の判断なら応じるしかなく、飼育メンバーたちはすぐに水槽の準備を始めた。館長も自ら獣医に連絡し、人魚の治療を依頼したのだった。
「人魚の具合はどうかな?」
「最低限ですが処置をしておきました。呼吸も安定しています。人魚は人間の想像を超えて生命力の強い生き物です。その中でもタコは屈指の再生能力持ちですから、栄養をしっかり与えてあげれば欠損した部位も元に戻ると思います」
「そうか、ありがとう」
「いえ。では私はこれで」
タコの人魚の治療を終えた獣医を見送り、館長ことシャアは収容されたばかりのタコ人魚の元へ戻った。たまたま海獣が亡くなったばかりで水槽が一つ空いていたので助かった。客側のガラス面から水槽を覗くと、即席で用意した巨大蛸壺から蛸足が数本はみ出しているのが見える。どうやら引きこもっているようだ。意識を取り戻したのだろうか。ガラスを指の背で軽く叩く。
「聞こえるか?傷は平気だろうか」
蛸足がビクつき蛸壺の中に全て収納された。壺の中の暗闇からギョロリとした目がコチラを伺っているのが見える。
「怯えなくて大丈夫だ、キミは我々に保護されたのだ。ケガが治るまでここで身体を休めるといい。」
なるべく穏やかに、怯えさせないよう声をかける。資料によれば人魚は人の言葉を理解すると書かれていた。非常に知能が高く、因果関係もよく理解し、周囲の環境も自ずとわかる知性のある生き物であると繰り返し述べられていた。それはつまり、人間と同じくらい誠実に向き合う必要があるということだ。
タコの人魚はおそるおそる蛸壺から顔を覗かせてきた。その風貌は人と同じで、一見すれば人がふざけて蛸壺に入っているようにも見えよう。だがそうでないことは水中にいて尚一切苦しそうにしていない姿から明らかだ。
「…」
口を開いて何かを喋るような仕草をしている。身振り手振りで飼育員入口を示している。人魚は水中で暮らす都合上、普段は声を発することは無いと書かれていた。だからこれは人魚側からの「話がしたい」という意思表示だ。
「わかった、すぐそちらに向かう。少し待っていてほしい」
飼育員扉を越えて、プールの裏側にたどり着く。プールの縁まで足を伸ばすとタコの人魚がざぱりと上半身を陸上に差し出した。ふるふると頭を振って水気を飛ばしてからシャアを見やる。ここでシャアもようやくしっかりと人魚の顔を見ることが出来た。
人魚の容姿は、タコという生き物を見慣れてしまえば整っていると言って良かった。海水に対して保護色になるのであろう水灰色の体毛は人間と同じように頭部を中心として密集して生えており、眉毛や睫毛も形成している。獣医がいうにはまだ若い個体らしいが、人魚では珍しく口髭も生やしているので、人の目から見れば30手前くらいの年齢に見える。瞼は重たい一重で、目は海に似た緑色をしている。タコと同じく一文字に広がった瞳孔は白いが、瞳は大きく黒目がちで、人によっては可愛らしい眼差しにも見えるだろう。骨格は男らしいのに、何処か麗しさを醸し出す、不思議な顔立ちをしていた。
身体付きはというと、無駄な肉のない引き締まった男性の体躯をしていた。人とは異なり首から下には体毛がないようで、どこもかしこもつるりとしているのが少し違和感がある。肘から手先までは人の物と同じ形をしているのに皮膚がタコのそれで、人魚の意思に沿ってぐるぐると色味を変えている。そして臍の下辺りからタコの部位になっているようだ。見た目は…ミズダコが一番近いだろうか。突起の生えた表皮は深い紫色をしていた。腰の下、人で言えば骨盤の左右にはポケットのような差し込み口があり、ゆったりと水を吸って吐くために開閉している。腰にエラがあるのは珍しいと感じたが、人の形をしている上半身を陸上に出すなら腰にエラがあるのはいたく機能的であり、よく出来た進化だということに思い至る。一つ一つが太く肉厚で脹脛程の太さがあり、伸ばしきれば数メートルはあろう触腕はゆらゆらと水の流れにまかせて浮かばせている、数えてみれば足先は7本あった。欠けているのでなければ見当たらない残る一つは交接腕だろうか。人魚にも性のシンボルを隠す習慣があることに少し感心してしまった。
「話があるようだな、何かな?」
しゃがみ込んで上体のみ水上に出している人魚と視線を合わせた。人魚は二度三度咳き込んで体内の水を吐き出すと、か細い声で喋りだした。
「ここ、は、どこ、ですか」
見た目通り、低い男性の声だ。人魚も声変わりがあるのだなと思いながら返答する。
「水族館だ。海の生物を研究している施設だ」