再会夢を見ていた気がする。
自分が人魚となってシャリアと泳ぐ夢だ。そんな夢を見たのも、昨晩あんなところでシャリアと過ごしたせいだろう。そして、こんな高熱にうなされることになった原因も…。
昨晩、誰もいない水族館、シャリアの為に誂えた水槽で、シャアは一晩過ごしてしまった。水槽の水の温度はタコの適正温度に保たれており、それは人間にとっては「冷たい」と感じるものだ。そんなところに何時間も浸かっていたうえ、海の生き物と粘膜接触すればそりゃあ風邪の1つもひくのはあたりまえだった。
朝日が登る前、誰かに見つからない内に陸へ上がり、濡れた身体もロクに乾かさず、逃げるように水族館を後にして無我夢中で帰路についた。その後どっと疲れが押し寄せ、風呂にも入らずベッドに潜り込んで意識が飛んでから、次に目覚めた時には既にこれだった。
高熱にうかされ、途切れ途切れの意識の中、気を失うように寝ては取り留めのない夢を見る。それを数度繰り返し、ようやく少しだけ頭が動くようになったのは日もすっかり傾き、赤い日差しが窓から入りこむ時間だった。
枕元に置いていた連絡端末を手に取り、着信を確認する。水族館から数度連絡があった。無断欠勤となってしまっていた。シャアは水族館に連絡を取ると、呆れてるような、安堵しているような声色のマリガンが電話先に出た。
『ああ館長、やっと通じた、大丈夫ですか?』
「大丈夫…ではないな…連絡なしにすまない…」
高熱で今の今まで眠っていたことを正直に話す。呆れられ小言を言われるかと思いきや、マリガンは率直にシャアの容態を心配してくれた。
『それで、タコ人魚の事ですが、ドレン副館長が輸送作業を指揮してくれましたので滞りなく、予定時刻に終わりました』
「…そうか」
『あんなに人のこと怖がってたのに、最後にはお世話になりましたって人間みたいに深々と我々に向かってお礼をするんですから、調子が狂うというか…動物とは全然違いますね』
「…うん」
『そういうわけで、とりあえずこちらは大丈夫です。タコ人魚がいなくなれば業務もまた暇になるでしょうし。館長はゆっくり休んでください、では』
通信が切れると同時にシャアは端末を持った手を力なく投げ出した。病院へ行くにしても夕方だ、診療時間は終わっているだろう。このまま眠って明日の朝行くのが最善だ。再び目を閉じると直ぐにまた眠りに落ちた。
ーー再び夢を見る。今度は現実的な夢だ。
自分がいるのは家の廊下だ。眠れなくて目が覚めたので水でも飲もうかと階下へ降りた時の記憶だ。夜半過ぎのリビングから漏れる光。二人の男女の話が聞こえる。自然と気になり、耳をそばだてた。父と母の会話だ。
『ねぇアナタ、あの子、本当にシャアなの?』
『シャアに決まってるだろう。どこからどう見ても俺達の息子じゃないか』
『そう、そうね…でも、海で行方不明になって一年後に戻って来るなんて、本当にありえる?』
『…何が言いたいんだ』
『…あの子、海で化物と入れ替わったんじゃないかしらって…』
シャアの意識が瞬時に覚醒した。
これは、夢だけの話ではない。5年前、確かに聞いた両親の会話だった。
シャアは6年前に海難事故で一度行方不明となり、その1年後に記憶を失った状態で発見されたのだ。発見当初は自分のことも、周りのことも、何一つ覚えておらず、身元を明かす物ももっていなかった。捜索願が出されていたため警察から両親に連絡が行き、再会が叶った。最初こそ喜んでくれた両親も、シャアの言動が昔と異なることに違和感を覚え、事あるごとに他人ではないのか、という猜疑心を向けてくるようになった。シャアとしては極めて遺憾ではあったが、だからとて自分が息子だと証明する術も持たず、その疑いの目を気づかぬふりをするので精一杯であった。
「…」
暗闇の中、ゆっくり上体を起こした。嫌な夢だ。
幾度目かの目覚めを経て、動けるようになったのは日もとっぷり沈んだ夜だった。端末で時間を確認すれば時刻は21時過ぎ。いつもシャリアに食事を持っていっていた時間だ。
…ちゃんと飯は食えているのだろうか、ふとそんな心配が過る。もともと自然で暮らしていたのだから大丈夫だろうとは思うが、これからは独りで生きていかねばならないのだ。あの広い海の中、ただ独り生き残ったタコの人魚として。そう思うと胸が詰まる思いがした。
「ーただ独り生き残った?」
自分の言葉にふと疑問を覚えた。ただ独り生き残ったとはなんだ?天涯孤独とは聞いたが、そんな話はしていただろうか。そんなことを意識したその瞬間、走馬灯のように色々な記憶が頭に浮かび上がってきた。熱にうなされながら繰り返し見た海の記憶、赤い鱗、どこまでも広がる空に憧憬の念を抱いていたこと、「赤い星」のあだ名、そしてー。
『いつか貴方の願いが叶うといいですね、「赤い星」』
「ーーッ!」
ー思い出した。思い出してしまった。海で出会った孤独な人魚のことを。彼の唯一の友人であったのに何も言わずに置いていったこと。
魔女との取引で、「大切なもの」と引き換えに地上を自由に動き回れる身体を与えてもらったこと。
伴侶より、空へ行く夢を選んだ愚かな自分自身のこと。
急激な記憶の回復に強い目眩を覚えた。視界が明滅し、頭が痛む。しかし、休んでいる暇はない。
(会わなくては、彼に)
端末を手に、慌てて立ち上がる。立ち上がろうとして激痛に苛まれた。立とうとすると両足が酷く痛むのだ。
ー魔女が言っていた。人魚は人の身体を得ると、歩く度足にナイフで刻まれるような痛みが走ることになる。だが「大切なもの」を差し出すのならその痛みから逃れられるようにしてやる、と。
(記憶を、「大切なもの」を取り戻したから、痛みを忘れることができなくなったということか…)
シャアは唇を噛み締め、壁にもたれながらも立ち上がる。まだ全ての記憶を取り戻したわけではないことが幸いしたのか、“全く動けないほどではない”。なんとか堪えられる。歯を食いしばり、シャアは歩き出す。向かう先は、海だ。
夜ではあったがタクシーを手配することは出来た。歩かなければ足に痛みが走ることはない。人心地ついたシャアは深く息を吐いた。
「あの、お客さん、顔色悪いですが大丈夫ですか?」
バックミラー越しに自分を見ているのだろう運転手から声をかけられた。いつもかけているサングラスは水槽から引き上げていないし、何より夜なので顔には何もかけず素顔をさらしていた。
「そうですか?職業柄日をあまり浴びないので、そう見えるのかもしれませんね」
にっこり微笑み、嘘をつく。余計な心配をされて足止めを食うわけにはいかない。
タクシーは海の手前のコンビニで止まるよう頼んでいる。夜の海に一人で行くのはさすがにおかしいと勘繰られると面倒だからだ。この足で歩くのはかなりしんどいものがあるが…。
タクシーはスムーズに海の近くのコンビニまでシャアを運んでくれた。端末で手早く支払いを済ませ、車外へ出る。地に足が触れるたび痛みが走るが、歯を食いしばって堪えた。
タクシーが走り去るのを見届け、シャアはゆっくり海へと足を運ぶ。傘を杖代わりに一歩一歩、進んだ。
どれくらいの時間がかかっただろうか。長い時間をかけてシャアはようやく砂浜へとたどり着いた。夜はすっかり帷を下ろし、辺りは闇に包まれて何も見えない。波の音と波風の匂いだけが海の近さを教えてくれている。
音と匂いを頼りに、シャアは再び海へ向かって歩き出す。
「シャリア」
一声。波の音にかき消される程度の小さな声。
「シャリア」
また一声。今度は波風に負けないように大きな声で。
一歩、一歩、砂浜を踏みしめ歩く。痛みはもはや感じていてもないようなものだった。とにかく会いたかった。会って一言詫びたかった。黙っておいていったこと、キミより夢を優先してしまったこと、愚かにもキミのことを忘れ去ってしまっていたことを。
ようやく足先に水が触れた。躊躇いなく前進し、濡れるのも厭わず先へ進む。海の中なら歩く必要はない。早く海の中へ帰りたかった。足も届かなくなり、完全に頭が水の中に沈む深さに到達しても構うことなく進んだ。息も苦しくない。傘を放り捨て、シャリア、と呼びかけ暗い暗い闇の奥へ奥へ、ただただ潜り続ける。
(シャリア、何処にいる)
問いかける。何も見えない、何も聞こえない。キミが何処にいるのかもわからない。無心でただただ海の中へ潜る。あの頃は誰よりも早く泳げたのに、今はクラゲのように動きもままならない。情けなくてたまらない。
奥へ奥へ進むほど、水圧が身を押しつぶそうとするのを感じた。鼓膜が押され、耳が痛む。急激に下がる水温に凍えそうになる。
(シャリア、頼む、返事をしてくれ)
辺りは一面、漆黒である。月の光など、闇に染まった海の中には届かない。もはやどちらの方角が地上であったかすらも定かではない。
(ー寒くて、暗くて、静かなこの場所で、私はキミを独りにしてしまったのだな)
黙って置いていったくせに、みすみす記憶を失って夢を追いかけることもせずにのうのうと地上で暮らしていた。その間、シャリアはずっと海で自分を探し、そのせいで一度片目を失う大怪我を負った。自分の愚かしさに腹が立つ。…謝りたい、彼にもう一度会いたい。
その気持ちだけで更に潜り続けると、懐かしい吸盤の感触が顔に触れた。
(シャア!何をしているんですか!!)
声がした。シャリアのテレパシーだ。そしてわずかな間もなく、柔らかく肉厚な触腕がシャアの身体を掴む。人魚であるシャリアの肌に、感じられる程の体温などないが、それでもその感触に安堵した。抱きかかえるシャリアの背中に、シャアもまた腕を回して抱き返した。
シャリアは一息に浮上し、勢いよく頭を海上に出した。空気に触れ、反射的にシャアは咳込む。
「シャア、しっかりしてください!」
声帯に切り替えたシャリアが声をかけてくれる。見上げるとシャリアが怒っているような、悲しんでいるような目で自分を見ていた。
「…探してくれたのか」
「…声がしたので…あの人の…。名前を呼ばれて、間違いないと思って…でも、見つかったのは貴方だったので、驚いて…」
「そうか、聞こえてたのか、良かった…」
「…シャア、貴方は一体…」
シャアは自分を抱きかかえてくれているシャリアの頬を両手で掴むように触れた。
「黙って置いてしまってすまなかった、『幽霊』」
「シャア…貴方は、まさか…」
シャリアの目が驚愕に丸く開かれる。その顔を見つめながら、安堵と疲れ、そして寒さからシャアは意識を手放した。