八本と二本腕の恋「まさかこんなに反響があるとは、タコでも人魚は人魚ということですかね」
忙しさに目を回し、這々の体でなんとか本日の業務をこなした新入社員のマリガンは、ほとほと恨めしそうにぼやいた。ここ数日はこの市営水族館はじまって以来の大盛況で、カンコー鳥と親友だった当館の職員はこの凄まじいほどの来客の数に誰もが慄き、困惑した。シャア館長の指示のもとどうにか業務を回しているが、キャパオーバーしている事実は覆らず、心無い客からのクレームに心労を重ねる職員も増えてきた。マリガンもその一人で、良かれと思った行動が客の顰蹙を買ってしまい、酷いクレームを受けてしまっていた。そのせいだろう、声色はトゲが生え揃い、イガグリの如く触れがたい感情を帯びている。
「タコの人魚は保護展示をしている水族館がほぼ皆無だからな、相対的に珍しいのだろう」
「それですかねぇ、やっぱり…」
「人気で喜ぶのは人間だけでしょうよ。アイツ、人が苦手なのにあんな連日人の視線に触れてて平気なんですか?ストレス溜めてケガの治癒に支障が出たりしたら本末転倒ですよ」
ドレンが話に入ってきた。彼は愛想がいいとは言い難いが仕事熱心で館内の生き物に深い愛情を注いでいる。シャアがこの水族館に赴任する前からここで務めており、お飾りであった先代館長に代わり実質館長として業務を回していた男だ。その為他の職員と異なりこの連日の忙しさであっても情けない姿を見せることなく、弱音の一つも吐かずに仕事に励んでいる。実に頼りになる男だとシャアはつくづく感じていた。
「タコの人魚もある程度は理解を示してくれている。姿を見せてくれるようになったのも、客入りが増えれば水族館の為になるだろうからという彼からの申し出あってのことだ。無論ストレスがあってはいけない。彼のケアは私がしよう」
「それでもねぇ…服なんか着せられて気の毒に。犬猫じゃないんですよ」
「それは…仕方ないだろう。人でなくても人と同じ上半身をしているのだから」
…はぁ。とドレンとシャアは同時にため息をついた。タコの人魚―シャアはシャリアと呼んでいる―が姿を見せるようになって間もなく、子供連れの保護者、特に母親から「子どもの情操によくない」と溢れるくらいのクレームが入ったのだ。曰く『性的すぎる』とのことだ。確かにシャリアの上半身は整った男性のそれで、ご丁寧に乳首もある。大人には邪なものに見えたかもしれない。そのため今は仕方なくシャリアには水族館の職員の作業着を着てもらっている。
「まあ、ケガが治るまでの辛抱ってところですかい。この盛況ぶりも今のうちだけでしょうしな」
「そうだな」
こんなに水族館が賑わうのもシャリアあってこそだ。そのシャリアがいなくなったら、またこの水族館は寂れた環境に戻るのだろう。空っぽの水槽を想像して、シャアは少し惜しいと思ってしまった。そしてそれを戒めるように頭を振って気持ちを追い出した。
夜、いつものシャリアの食事の時間であり、語らいの時刻である。バケツにはカニやイカ、貝など常と異なり豪華な食事を用意した。彼のおかげで売上はいつもの比ではない。多少のインセンティブをやらなければ長失格というものだ。
「シャリア、食事をもってきた」
水槽に声をかけると、ゆったりと水面に魚影が現れ、水槽の縁に蛸足がかけられた。
「…シャア」
ざぶり、とシャリアが上半身を餌場へ乗り上げた。疲れているようだ。いつもはしっかり持ち上げている上体を仰向けに床に寝転ばせ、首だけをこちらに向けている。
「ご苦労だったシャリア。労いというわけではないがいつもより豪華な食事を用意した。好きなだけ食べてほしい」
「…ありがとうございます」
にゅるにゅると水槽から蛸足がバケツへと伸びる。シャアからバケツを受け取るとそのまま腹の上へのせて抱きかかえた。中身を物色し、吸盤で確かめてから美味そうなカニや貝を持ち上げるとぐったり寝そべったまま蛸足を口元に運んで食べ始める。今日は特に疲れてしまったようだ。上品に食事をする彼の美徳は疲労で失われ、なけなしの体力を振り絞って飯を食べているようだった。
シャアはシャリアの頭の上のあたりに座り、覗き込むように顔を見下ろす。
「地上で食べるのは辛いのではないだろうか?中身を水槽へいれてもいいんだが」
「いえ、貴方と語りたいのでどうかこのままで。だらしなくてすみません」
もごもご口に含みながらいつも重たい瞼をさらに眠そうに下ろして眼を細めているシャリア。その様子が何故か可愛らしく見えて、無意識のうちにシャアは海獣を愛でるような手つきでシャリアの頭に触れた。
「シャア、どうかしましたか?」
「…傷の具合を伺おうと思った。黙って触れて済まない」
咄嗟に取り繕った嘘だ。バレないよう重く垂れた左側の前髪を指で梳いてかきあげる。左目は大分回復していて、瞬膜のような膜が目を覆っている以外は治癒しているように見える。
「随分よくなったようだ。まだ見えないのか?」
「“カサブタ”が張っているので見えていませんが、感覚は大分戻ってきました」
「…そうか。名残おしいな。キミが海へ戻るのも時間の問題ということか」
前髪を元の位置に戻してやりながらシャアは呟く。
「今日もキミのおかげで盛況だった。特に女性の客がすごく増えて職員の連中も色めきだって仕方なかった」
「確かに…女性が多く目につきましたね。服をお借りしていてよかった。またクレームの元になっては事ですから」
「意外とそうでもないかもしれん。キミは魅力的な風貌をしているからな、喜ばれたかもしれない」
くっく、と喉で笑うと、シャリアが食事を止め、徐ろに起き上がった。
「シャア」
ごとり、とバケツが脇に置かれた音がする。シャリアがこちらに向き直り、座っているシャアと目線を合わせるように上体を起こした。
「私は人間にとって魅力的ですか?」
まっすぐに見つめる視線。静かに、しかしはっきりとした声。これは、いけない。勘が嫌な予感を知らせる。誤魔化すように笑みを作り、あっけらかんとシャアは答える。
「魅力的だと思う。少なくとも数字はそれを証明している」
「…貴方にとっても魅力的ですか?」
ああ、踏み込んできた。しかし、気付かないふりをする。何を言っているのだろう、という顔をシャアは作る。
「人魚の美醜はわかりかねるが、人の基準から見ればキミはハンサムだと思う。自信を持っていい」
にこり、と笑ってみせた。背中に汗が流れる。
「私は、自分が貴方にとって魅力的であればと願っています」
よせ、やめてくれ。それ以上は言ってはいけない。そう思うのに、続きが聞きたいと思ってしまう。
「私は貴方が好きです、シャア。海へ帰りたくないと思えるくらいに」
やってしまった。思わずシャアは天を仰いだ。
人間に恋する人魚など、ロクな結末にならないのに。