機嫌がいいな、とひと目見て気付いてはいた。
腹心であるシャリア・ブル大尉の話だ。生来のものなのか、気の休まらない軍生活で培われたものなのか、彼は基本的に表情を動かすことがない。その上、感情を映しやすい瞳を片方隠していることもあって、心の機微が非常にわかりづらい——というのは素人の言だ。
シャア・アズナブルに言わせてみれば、彼ほどわかりやすい人間もいない。
例えば、柔らかく細められた瞳。僅かに震える吐息。いつもより重さのある足音——挙げるとキリがないが、その全てが彼の心を雄弁に語る。これはシャアが持つニュータイプ能力、一番近くで観察できる立場、その他持てる全てを駆使した結果得られた感覚だ。もはや特殊能力と言ってもいい。
それを聞いたマリガンは「気持ち悪いですね……」と言っていたが、瑣末な事だ。
とにかく、その特殊能力が言っている。
——シャリア・ブル大尉は今、ご機嫌である、と。
現在シャアの率いる部隊は、とある作戦のため地球に滞在している。機密事項であるため、あくまで民間の軍事会社として身分を偽った上でのことだが、特に大きな問題もなく全てが恙無く進んでいた。
地球での活動にあたって、シャリア・ブルには外部の人間との交渉係を命じている。いかに秘密作戦とはいえ、特に衣食住方面において、現地の人間の協力は必要不可欠だ。
いかにも粗野な外見である兵士や神経質な物言いをする整備士が多い中、物腰柔らかなシャリアは女子供にとっても警戒心を抱きにくい貴重な人材である。
シャアの期待通り、シャリアはよく働いてくれた。兵士達の要望に耳を傾け、女性達の長話に付き合い、奸詐の意を持って近付く輩さえうまく丸め込んでみせた。
出会った頃より洗練された立ち振る舞いはシャアとしても鼻が高く、感心するドレンの前で「私が育てた」と満足気に頷いてみせたものだ。
しかし——。
「まさかここまでとはな……」
シャアは奥歯を噛み締め、呟く。
視線の先には件の人物、シャリア・ブルが大勢の女性に囲まれている。
——彼は想定以上に住民と親しくなっていた。
地球に来てからというものの、シャアは側近であるはずのシャリアと行動を共にすることがあまりない。まあそれはやむを得まい。それぞれ成さねばならぬことがあり、ひいては二人の目的のためなのだから。だが。
「そこまでしろとは言ってないぞ大尉……!」
いつもに増して大勢に囲まれている大尉は、相変わらずの無表情に見える。だがシャアにはわかる。あれは「ちょっと楽しい時」の顔だ。ジャガイモのような女どもに囲まれて、和やかに談笑するのが楽しいらしい。
頬を紅潮させた女達はうっとりとシャリアを見上げ、親しそうに会話を楽しんでいる。あろうことか腕に触れている者もいた。
「ええい、触れるな、穢れる……っ」
歯噛みするシャアの目線の先で、ふと、隣に立っていた女がつま先立ちになり、シャリアの耳へ顔を近付けた。そのまま何やら耳打ちされたらしいシャリアは、目元を朱に染め、ふわりとはにかむ。
シャアはそれを見て愕然とした。
(なんだ、その顔は)
普段見ることのない表情に、思わず目を奪われたのは確かだ。だが、それを引き出したのが自分ではないことが気に入らない。
——彼は私のものであるはずなのに。
失望にも似た苛立ちがふつふつと湧き上がる。
傲慢ともいえるシャアのプライドが、端から食い潰されていくようだった。
「大尉、私だ。入るぞ」
悶々とした気持ちのまま業務を終えたその夜、シャアはシャリアの滞在している部屋を訪れていた。ドアの前で短く声をかけ、返事を待たずに入室する。
「大佐、」
「ああ。いや、そのままでいい」
姿を見るなり腰を浮かせたシャリアを手で制し、勝手知ったる我が家のように室内を進む。といっても仮住まいのこじんまりとした部屋だ。数歩でシャリアの元へたどり着き、戸惑いに揺れる瞳を見下ろす。
「……定例報告は明日のはずでは。それとも不測の事態などございましたか」
「いや、順調だ。今日はだな、……む?」
言いかけて、止まる。視界の端に見慣れないものが引っかかったのだ。
ソファに腰掛けたシャリアの目の前、質素なローテーブルの上に、なにやら小さな箱がいくつか置かれていた。色味の少ないシンプルな部屋において、異彩を放ってほど多様な包装紙に包まれたそれは、外装を突き破るほど甘い香りを放っている。
「……それは菓子か? 珍しいな」
「はい。出入りの女性達にいただいたのです。中身は全てチョコレートだそうですよ」
「——ああ、なるほど。今日はバレンタインデーだったな」
「バレンタインデー?」
「大尉は知らないか。まあ、地球にしか残っていない文化なのかもしれんな」
「どのような謂れがあるのですか?」
「ん? ……まあ、なんのことはない。親しい友人や家族に親愛や感謝の意を込めてチョコレートを贈るという風習だ」
主に男女間の恋慕によるものが多い、ということはあえて黙っておく。わざわざ敵に塩を贈る必要はない。
「——なるほど」
「……嬉しそうだな」
「わかりますか?」
シャリアは誤魔化すように頬を押さえた。照れくさそうなその仕草はかわいらしいが、同時に胸の底がざらつく。
「大尉は存外わかりやすいからな」
「そのようなことを仰るのは大佐くらいです」
「……だといいがな」
険を滲ませてしまった声に、目の前のシャリアがぴくりと片眉をあげる。だが、それだけだった。
彼はシャアの不機嫌を正確に読み取っているだろう。なのに、何も言わない。それはきっと彼なりの気遣いゆえだ。
そんな彼の有能さがありがたく、そして歯がゆかった。
不機嫌の理由を聞いて、理解して、その上で「大佐が一番大事です」と微笑んでくれたらいいのに。
身勝手な願いだとはわかっていた。今のシャアは、愛情に飢えた子供のようだった。
「——大佐?」
気遣わしげな声にハッと顔をあげる。
「ああ、すまない。少し考えごとをしていた」
「お疲れのようですね。——ああ、丁度いい。疲労には甘い物がいいとか。大佐もチョコレートをお召し上がりください」
「いや、私は——」
戸惑うシャアをよそに、シャリアは菓子の包みをどんどん開けていく。
「ご覧ください、猫の形をしています。かわいらしい……あ、こちらは花を模した細工が見事ですよ」
「うっ」
シャアは思わず天を仰いだ。かわいいのは君だろう、と口を滑らせかけたがかろうじて飲み込む。余計な指摘で水を差すのは得策ではない。
いつも真面目な男が、小さな菓子に目を輝かせている。尊いといっていいほど貴重な光景に、シャアはこれを贈った女達にうっかり感謝をしかけて首を振る。
その反応を別の意味にとったのか、シャリアは「他のものがよろしいですか? まだたくさんあります」と言って手のひらで自らの足元を指し示した。
視線の先には大きめの紙袋が三つ。その中にはテーブルに置かれたものと似たような箱がギッシリと詰まっている。
——明らかに、先ほど見た女の数を超えているではないか。
あまりの多さにシャアは低く唸る。
「敵は多勢ということか……!」
「? 敵、とは」
「いや、こちらの話だ。とにかく私は甘い物はいら…………ん?」
むせ返るような甘い芳香に顔を背けかけた時、シャアの視線がひとつの箱に止まった。細長い箱に、菓子とは思えないほど鮮やかな物体が入っている。
「——ああ、こちらは宝石の色を表した物のようです。よくできていますね」
シャアの視線につられて箱を覗き込んだシャリアは、感心したように呟く。
中に入っているのは、赤や黄、青——さまざまな色でコーティングされた丸いチョコレート。毒々しいほどに艶々と輝くそれは、確かによくできていた。
だがシャアが目を奪われたのは、その中のたった一粒だった。やたらキラキラした粉をまぶされたそれは、柔らかい緑色をしている。エメラルドなのか翡翠なのか、それとも別の宝石なのかはわからない。
耀く銀河に隠された、控えめなグリーン。目の前の男のようなその色に、シャアの視線は吸い込まれる。
気付いた時には、シャアの手は一粒のチョコレートを拾いあげていた。
「では、これを貰おうか」
「はい」
手に取ったチョコレートを掲げるようにして、じっと見つめる。こうやって見ると、そんなに彼の色と似ていない。まあ所詮は菓子、宝石でもない紛い物なのだから当然である。
まじまじと観察していると、手にした緑の球体の向こう側に、こちらを見上げるシャリアが見えた。いつまでもチョコレートを口にしないシャアを不思議に思ったのか、薄緑の瞳が怪訝そうに瞬く。
——その色を見て、シャアは急に腹が減っていることに気付いた。それは空腹、というより飢えだ。
手にはちょうど菓子がある。それを食べればいい。だが——。
コツ、と硬い音を響かせ、一歩、二歩、足を進めて止まる。部屋を満たす甘い香りが、一層強まった気がした。
「大佐……?」
真下に揺れる瞳を見下ろし、シャアは唇だけで笑う。
「私は甘味が好かん。だから——」
「え——……んむっ?」
シャアは持っていた球体をシャリアの唇へ押し当てた。反射的に薄く開いた口へ捩じ込むように強く押さえ、奥へと指を進める。眉を寄せ小さく呻く姿は、隠しようもなく彼の困惑や微かな批難を示していて、シャアはそのことに言いしれぬ満足感を覚えた。
——だが、満腹には程遠い。
塊が全て口内へ消えたのを認めると、シャアはよくやった、と褒めるように指先を唇へ滑らせた。くるりとひと撫でした指が、唇についたキラキラとした粉を纏ったまま下へ滑り、顎を掴む。
「——私はこれでいい」
シャアはそのまま身をかがめ、シャリアの唇に口付けた。
「んッ……」
ふわり、と甘い香りが広がる。わずかに混じるのは、彼の纏う香りだろうか。清らかで温かみのある匂いはごく控えめで、それを感じることが出来るほど彼の近くにいるのだと、妙な誇らしさを感じさせる。
至近距離で覗き込んだ瞳は逃げるようにまぶたの向こうへ隠されてしまったので、シャアは綺麗に並んだ長い睫毛の一本一本までじっくり眺めた。
——ああ、髪の毛より少し濃い色をしているのか。
知らなかった彼の一面を見つける度、オセロの石をひっくり返す時のような快感がシャアを満たす。もっと、盤面全てを自陣の色に染めたい。
シャアは唇を合わせたままソファに伸し掛り、シャリアの身体へ覆い被さった。
食むように何度も唇を押し当て、苦しさに耐え切れず口を開けたところへすかさず舌を捩じ込む。表面をわずかに溶かしたチョコレートが、ほぼ元の形のまま舌に触れる。
ころんとした塊を舌で掬い、自分の口内で噛み砕いてから再びシャリアの口の中へ移す。舌で塗り広げるように舐り、粘着質な音を立てながらチョコレートまみれの舌を強く吸うと、痺れるような甘さが広がった。
——ひどく甘い。
思わず眉を顰める。甘味が苦手なのは本当だ。
シャアが選んだものは柑橘系の味だったのか、爽やかな酸味を感じるものの、甘いものは甘い。
「——ッふ、ぁ、ん……」
耳に聴こえるシャリアの声も、とろりと甘かった。
シャリアはチョコレートの甘さとシャアが与える快楽に酔っているようで、目尻をうっとりと染めている。いつの間にか胸に添えられた手がシャアの服をぎゅっと握り、縋るような素振りを見せた。形のいい耳に手を伸ばし、すりすりとあやす様に耳朶を撫でるとぴくりと身体を震わせる。
懸命に応えるシャリアが愛しくて、シャアは更に口付けを深める。
「う、ぁ、はぁ、——んッ」
「……っは、」
くらくらするような甘さの中、夢中で貪る。チョコレートを食べているのか口付けをしているのか、境界が曖昧だ。もう、なにもかもわからなくなる。
どちらでもいい。この甘ささえあれば。
きっと自分も酔っているのだ——シャアは思考を放棄した。
シャアが胸の内で持て余していた怒りも嫉妬も、理性さえも、全てがチョコレートと共にとろけていく——。
「——ふふ」
口内のチョコレートを綺麗さっぱり舐めとり、ようやく唇を離すと、腕に抱き締めた男が囁くように笑った。思わず、といったふうに漏れたそれは、喜色に満ち溢れている。彼にしては珍しいことだ。
「なんだ? 楽しそうだな」
「はい、それはもう」
艶を含んだグリーンがひとつ瞬き、シャアの視線が吸い寄せられる。先ほど口にした菓子など足元にも及ばない、綺麗な、本物の色だ。
シャリアはその美しい瞳でシャアをうっとりと見つめ返しながら、言葉を続ける。
「——彼女達には感謝しないといけませんね」
「————なに?」
齎された言葉の意味をしばらく理解することができず、シャアは目の前で微笑む男を凝視する。
——彼女達とは誰のことだ? 話の繋がりが見えない。
戸惑うシャアの前で、シャリアは「おや」と首を傾げ、不思議そうな顔をしてみせた。その瞳には相変わらず愉しげな色が滲む。
「今朝、見ていたでしょう?」
「…………は、」
「大佐も存外わかりやすい」
「それは、どういう……」
「彼女達は皆、私の協力者なのです」
——あなたを、手に入れるための。
シャリアの唇が弧を描く。それは甘く、とろけるような笑顔だった。
呆然と見つめる先で、シャリアの指がチョコレートの箱へ伸びる。
そっと摘んだその色は、血のように鮮やかな赫だ。
「ルビー、でしょうか。——まるで赤い彗星だ」
愛しげに唇を寄せる仕草に、シャアは燃えるような嫉妬を覚える。
「もう一粒、いかがですか?」
優位だったはずの盤面が、ひっくり返っていく音がした。