初めて人を殺した日を覚えていますか?
いえ、なんとなくです。……そうですか、それはあなたらしいですね。
私ははっきりと覚えています。あの日は雨が降っていた、あるいは風が強い日だった——なんて大仰な物語があるわけではありません。宇宙では天候なんて関係ありませんから。
なぜ覚えてるかって、実のところ、そう遠い昔でもないからです。ええ、開戦後の話です。おや、最近ですね。
木星は確かに過酷な環境ではありましたが、人間同士の争いがあるわけではありませんでした。基本的にそれどころではなかったのです。まあ、精神に異常をきたした隊員が暴れることはありましたが。
木星の任務から帰還したのち、勘のよさを買われ所属した部隊で早速前線へ送り出されました。
戦時において平穏な日など皆無ですが、その日は特に何かの記念日というわけでもなく、天気も——ああ、これは先ほど言いましたね。とにかく。私は命令のまま出撃して、敵を撃ち落とし、凱旋を果たしました。
気分はどうだったか? それを聞くのはあなたくらいです……いえ、構いません。
まったく平気、というわけではありませんでした。人を殺めた事実が、私の人生に昏い影を落としたことは事実です。
ですが同僚の多くがそうであったように、罪悪感に苛まれたり、亡霊に怯えたり、嘔吐き涙を流したわけではありません。軍に身を置く以上、覚悟もありました。
命というのは誰であれ、等しく尊い。ですが同時に、決して平等にはなり得ないとも思うのです。いえ、身分の話ではなく。相対的な話です。
例えば、私が殺めた敵軍の兵士。彼——かどうかはわかりませんが、彼に大事な家族や友人がいたとします。いえ、きっといたのでしょう。その者達にとって私の奪った命は大変重く、価値のあるものだったのです。それはもう、私を強く恨むほどに。
ですが、私にとっては違ったのです。自国を脅かす、顔も見えぬ、名も知らぬ敵軍の兵士。そんな彼よりも、同胞の命の方が大事でした。私は、私にとって価値のある命を選びとったのです。たとえ命令でなくともそうしたことでしょう。
当然ですか? ええ、そう思います。しかし、私はそう考えてしまったことに少し落胆したのです。
——ああ、戦争がなくならないわけだ、と。
◇◇◇
珍しく饒舌だな。
シャアは思わず身体ごと隣へ視線を向ける。
深夜の艦内、シャアに与えられた個室。簡素ではあるが少し広めの、柔らかいベッドの中。聞かされた話はこの場に相応しくないものだった。
身じろぎした拍子に、かろうじて肩にひっかかっていた布がさらりと肌を撫で、腰の辺りまで滑り落ちる。その身に纏うものは何もなく、常に顔を覆う仮面すらも外されていた。薄暗い部屋の中、間接照明の柔らかな光が鍛え上げられた肉体の陰影を色濃く縁取る。わずかに疲労の色が滲むのは、先ほど交わした情事の影響だろう。
敵艦隊を撃破したあと、昂った身体をお互い引き摺るようにして、このベッドへ縺れこんだ。ニュータイプ同士、他者にはわからぬものを分け合うかのごとく肌を合わせるようになったのはいつからだっただろうか。
「私が初めてサイコミュシステム搭載機で出撃した日です」
思考が漏れていたのか、タイミングよく答えが返ってくる。
「そうだったかな」シャアが嘯くと「まさか忘れたのですか? 傷つきますね」わざとらしい声が嘆く。
——本当は、よく覚えている。現在この艦でサイコミュシステムを使える人間はシャアとこの男、シャリア・ブル以外にはいない。
シャリアが初めてサイコミュを使用した日、流れ込む彼の精神と自分のそれが混じり合い、重なったのを感じた。その瞬間、何物にも代えがたい高揚が身を包んだ。それはまるで、魂の片割れを見つけたかのような歓びだった。
そして、魂と肉体は切っても切り離せないものだ。魂が満たされるだけ、肉体は飢える。帰艦後シャアはすぐにシャリアの元へ赴き、開かれたコックピットの中でぐったりとしていた彼の唇へ性急に噛み付いた。他の人間が見ているにも関わらずに、だ。
それからというもの、戦闘のたびに身体を重ねるのが常だった。だが、二人の関係はあくまで上官と部下。情事のあとシーツの上で足を擦り合わせたり、腕枕をしたり、そんな甘さがあるわけではない。主に、シャリアの方が上官であるシャアに対して一線を引いているからだ。
それを証明するかのように、隣に横たわるシャリアは会話の間もずっと天井を見つめたまま、こちらを見ようともしない。ピロートークがわりに物騒な話をしたこともそうだ。情緒など欠片もない。
——それにしても、今日の彼は少し様子がおかしい。言ってしまえば、口数が多すぎるのだ。寡黙、とまではいかないが、シャアとの会話において聞き手に回ることの多い彼にしては珍しいことだった。
探るように彼の方を見る。淡い光に浮かび上がる彼の横顔は、常と変わらず穏やかだ。表情が少ないのはいつものこと。なにも違和感はない。
ただ、柔らかい橙色に照らされたその頬はどこか蒼褪めているようにも見えた。まるで人形のように、温度を感じない。たったそれだけのことが、やたらとシャアの胸をざわつかせる。
「——どうしてあんな話を?」
そう聞かずにはいられなかった。シャリアは横目で一瞥して、すぐに視線を天井へ戻す。「——夢を、見るんです」
「夢?」
「そう、夢です。——初めて殺した彼の」シャリアはどこか遠い目をしたまま、言葉を続ける。「温かい家の中、誰かを抱き締めています。幼い、あれは息子でしょうか。奥方も柔和な女性で、とても幸せそうな家庭です」
「……なんだと?」
「友人と笑い合っています。それも、大勢。どうやら彼は人気者のようですね」
ふふ、と笑う。
「な、にを……」
シャアは言葉を失った。
——異様、だった。
たった今、その光景を間近で見ているかのように、シャリアは言葉を紡ぐ。ひどく蒼褪めた頬に笑みを浮かべて。
その様子にどこか空恐ろしさを感じ、シャアは思わず話を遮った。
「待て、待ってくれ大尉」殺した相手の家族や友人だと? ありえない。なぜなら——。
「君、相手の顔も名も知らぬのだろう?」
「はい。ですから、これは私の脳が見せる幻想です。本物ではない、まがい物です。——ですが、最近毎晩のように彼の夢を見るのです」
淡々と語る彼の表情は静かだった。先ほどわずかに見せたほほ笑みもなりを潜め、恐ろしいほど感情が見えない。
「……罪悪感でも感じているのか」
「いいえ? もしそうなら血反吐を吐いて恨みごとをいえば良いのです。泣き叫ぶ家族を見せれば良いのです。私が見ているのはそのどれでもない」
「では、なぜ」
「——サイコミュシステムを通じてあなたと繋がるたび、私の心は高揚します。世界が広がり万能感に満たされるあの瞬間、多くの『価値ある命』を刈りとることに、私は幾ばくかの恐怖と——強い達成感を覚えるのです」
シャリアの首がこちらを向き、薄緑の瞳がくるりと瞬く。「——大佐」
わたしは、ひとでしょうか。
音にならない声は、シャアの深い場所へと流れ込んだ。ささやかに、静かに落とされたそれは真面目な彼らしい、切なさを覚えるほどの痛みだった。
本来なら聞かせるつもりではなかっただろう、静かな絶望。
木星での過酷な任務、あるいは性急に立たされた前線にあっても強く清廉であり続けた彼の精神は、サイコミュシステムをきっかけに揺らいでいるらしい。あれは、多少なりともパイロットに負荷をかけるものだ。それに元々人の心を読む能力に長けていた彼が、戦場に散る思念を無意識に感知していてもおかしくない。
そしてそれはザビ家の間で苦悩していた頃と同じ、彼の優秀さゆえの不幸だった。
柔らかな緑の髪が布に擦れ、くしゃりと乱れる。同じベッドの、少し広いシーツの上。頭ひとつ分ほどの間を空けた先で、シャリアは身を縮こまらせて沈黙している。
手を伸ばせば届くが、逆に言うと伸ばさなければ肌が触れ合うことはない。ほんの少しの、目に見えない隔たり。これがシャアとシャリアの距離だった。
どれだけ激しく抱き合っても、そこに熱を残すことはない。ふらつきながら自室へ戻ろうとする姿を見かねて、朝までここで過ごすよう半ば命じるよう伝えた後も、シャリアは一定の距離を保ち続けた。これまで、お互いに手を伸ばすことは一度もなかった。
きっと今夜もまた、ひとりで苦しみに耐えるのだろう。静かに、自分を守るよう抱き締めて。
そして翌朝にはいつも通り、涼しい顔をして責務を全うするのだ。
——他でもない、シャアのために。
気付いた時には手を伸ばしていた。ごく自然に、無意識に。
触れた肩がぴくりと揺れる。不可侵であるはずの境界線を踏み越えてくるとは考えていなかったのだろう。わずかな緊張が手のひらに伝わった。
まるで猫のようだな、と心の中で呟く。隠れるように丸まった姿は、地球にいた頃に路地裏で見た野良猫に似ている。怪我をしたのかボサボサの毛に血を滲ませ、弱々しく蹲っていた小さな猫。少年だったシャアは特に動物への興味も知識も持たなかったが、なぜかその猫だけは気にかかって何度も様子を見に行った。
シャアが様子を窺っていことに気づくと小さな体にめいっぱい警戒を滲ませ、毛を逆立てて威嚇する。震える身体が哀れだった。
今思えば、当時の自分と重ねて見ていたのだろう。あの頃シャアは傷ついた心を抱え、必死で立っていた。そしてその思い出は、目の前で丸くなっている男にも重なる。
そっと手のひらを滑らせる。目に見えないうぶ毛のひとつひとつを整えるように、肩から背中へゆっくり何度も撫でつけていく。それこそ、猫の毛繕いのように。
あの猫はついぞシャアに懐かなかったし、シャアはシャアで自分が生きていくのに精一杯だった。薄情ではあるが、小さな獣のことなどすぐに頭から弾き出された。
今のシャアは無力な子供ではない。だけど果たして内面は成長しているのだろうか——。
疑問に思いながらも手を止め、触れていた肩をぐっと抱き寄せる。同時に自らもシャリアの方へ身を滑らせ、距離を詰めていく。
二人の間にはもう、隔てるものなどなにもない。いや、きっと今までもそうだったのだろう。ただ、シャアもシャリアもお互い手を伸ばす勇気がなかっただけだ。
あたたかい身体がぴたりと重なる。俯いたままの頭はシャアの胸、ちょうど心臓の上あたりに収まった。シャリアは拒む様子もなく、ただ静かに呼吸を繰り返している。胸に当たる吐息が少しこそばゆい。
ふ、と場違いにも笑みが零れた。くすぐったいからではない。昔にもこうやって、幼い妹の頭を抱き締めてやったことを思い出したのだ。
両親がいなくなったことを理解できない妹は、夜になるとよくぐずった。母はともかく、亡くなってしまった父はどうやったって帰ってこない。途方に暮れたシャアは、ただ泣きじゃくる妹の小さな身体を抱き締めてやることしか出来なかった。時には自らも涙を零しながら夜を明かした。
幼い妹はシャアの心音を聴くと安心するようで、一刻ももたずに眠りにつく。気楽にも見えるその姿に、シャアは安堵しつつも呆れたものだった。
妹と同じようにシャリアを抱き締めてしまったことが、少し可笑しかった。
彼は幼い子供ではない。それどころか自分より経験豊富な年上の男だ。だけど、無意識にそうしてしまった。妹のように慰めるつもりだったのかもしれない。こんなことは初めてなのでわからなかった。自分でもうまく説明ができない感情に、今はただ身を任せることにした。
相変わらず微動だにしない男の頭髪へそっと指を差し入れる。少し癖のある髪は几帳面な彼らしくよく手入れされていて、するりと指の間を滑り落ちた。そんなことを何度か繰り返しながらも、シャアは言葉をかけることはしなかった。
彼が吐露した絶望は、父が死んだことと同様、誰にもどうしようもないことだからだ。戦争はまだ続き、シャアもシャリアも軍人である。そしてシャアは彼を手放す気など更々ない。きっと彼だって職務を投げ出すことを望まぬだろう。シャリアはこれからも出口のない迷宮を彷徨うのだろうし、戦争が終わったとしてもそれは変わらない。
だから、せめて。
せめて、自分だけは彼の地獄に寄り添ってやりたいと、シャアは思った。
どれくらいそうしていただろうか。
遠くに低く唸るような音や振動を感じながら、ああ——これは重力ドラムの稼働音か、などとシャアがぼんやり考えていた頃。
腕の中の身体がもぞりと動き、俯いていた顔からちらりと緑の光が覗いた。少し落ち着いたのか、視線が合うとバツが悪そうに逸らされる。
「……お見苦しいところを」
消え入りそうな声に思わず笑った。再びこちらを見上げた瞳には非難の色が滲んでいる。何がおかしい、とでも言いたげだ。
「いや、すまない。——少しは落ち着いたか?」
「……はい。申し訳ありません」
「謝ることはない。私は少し嬉しいのだよ、大尉」
「……?」
眉を顰めたシャリアの額に唇を落とす。腕に抱いたままの身体がわかりやすく跳ねる。
「——心の内を見せてくれたことに、だ。いつも澄ました顔をしているからな、君は」
「…………」
「私はな、大尉。君がひとであろうがそうでなかろうが構わんのだ」
「は……」
「私が必要としているのが『君』であることに変わりはないからな」
意味を図りかねているのか、訝しげな視線がシャアを見つめる。探るような瞳は、初めて会った頃の彼を思い出させた。
「……私が狂ってしまうとは思わないのですか?」
「君は狂えないさ。——不幸なことにな」
「そう、かもしれません」
正気を失えないからこその苦悩に、絶望を浮かべた瞳が揺らぐ。シャアがその眦へ口付けると、シャリアはギョッと目を剥いた。
「……先程からなにを」
「別にいいだろう?」
分厚い前髪をよけ、もう片方の瞼にも唇を落とす。次に、頬。反対側も忘れない。
シャリアは戸惑う様子を見せるものの、シャアの行為を拒むことはなかった。だが頬を手で包み、いざ唇に触れようとした時「……あの」と控えめな声がかかる。
「うん?」
「その、……まだ、するのですか?」
する、とは口付けではなく性行為のことだろう。キスをするのは常にセックスの前だったから、彼がそう誤解するのも無理はない。
「……ん? ——ああいや、それは大尉次第だが……とりあえず、これはそういう意味ではない」
「?」
僅かに首を捻るシャリアは本当にわからないようだった。
「これは……そうだな、感謝のキスだ」
「感謝?」
「ああ、君が生きていることへの感謝だ」さらに首を傾げたシャリアに、シャアは微笑んでみせる。「君は私にとって価値のある命なのだから」
「っ……」
シャリアの瞳がこれ以上ないほど見開かれる。シャアの言葉は彼によほどの衝撃を与えたらしい。こんなに驚かれるのはやや心外だったが、彼の珍しい表情を見れたのだからよしとしよう。
目の前で橙色を吸った水面が大きく揺らぎ、溢れる。それはシャリアが初めて見せる涙だった。声も出さずただ静かに涙を零す姿は、どこでも控えめな彼らしい。
シャアは次々と流れ落ちる雫を、指や唇で受け止めた。なんだかもったいない気がしたのだ。目尻を吸い、溢れた軌跡を辿るように頬から顎へと唇を滑らせ、最後に唇へ触れる。
「ん——」
重ねた唇は、少し震えていた。
一度離し、再び口付ける。シャアはそれを繰り返した。慈しむように、優しく、何度も。
唇の震えが止まった頃、シャリアがゆっくりと瞼を閉じる。同時に最後の一粒が零れ落ちて、頬を流れていった。
「大佐……」
「うん」
彼とこんなに穏やかな口付けを交わすのは、初めてのことだった。いつもは奪うような、貪るような、性急なものだったから。こういう触れ合いも悪くないな、シャアは口付けながらそう思った。
だんだんと湿度を増す唇の狭間で、シャリアは「大佐、……たいさ」と何度もシャアに縋り付く。シャアはその全てに応えてやりながら優しく彼を抱き締めた。
二人きりで地獄に堕ちるなら、恐れることなどきっと、なにもない。
——その日、二人は初めて身を寄せあい、抱き合って眠った。シーツの上で、足を擦り合わせながら。
シャリアはもう、夢を見なかった。