「もう行くのか」
かけられた声に振り向いた視線の先。ベッドに寝そべっていた男が気怠げに身を起こす。鍛えられた裸の上半身を惜しげもなく晒すその男は、私の上官、シャア・アズナブル大佐だ。
乱れた金髪を鬱陶しそうに撫でつけこちらを見上げる顔に、いつもの仮面はない。
「ええ。まだやるべき仕事がありますので」
「やれやれ、忙しないことだ。……大尉」
大佐はベッドに腰掛けたまま、こちらへと鷹揚に手を伸ばす。
「……はい」
促されるまま側へ近付き身を屈めると、大佐の手がさらりと頬を撫でる。あたたかい手のひらにさきほど交わした熱を思い出し、耐えられず視線を逸らすと大佐が「ふ、」と笑った。
「……このようなことはもうやめた方がよろしいのでは?」
「なんだ、拗ねたのか?」
「……いえ。しかし、もしあなたの恋人にこのことが知れたら、流石によく思わないのではないですか」
——そう、この方にはれっきとした女性の恋人がいる。大佐を優しく包んでくれるような美しい女性が。
だから本来、色々と面倒な男の身体など抱く必要はないのだ。
それなのに、大佐は心底不思議そうな表情を浮かべ首を傾げる。
「何故だ。君と彼女では役割が違うだろう」
——『役割』。
こともなげに発せられた言葉に、胸の底がどろりと重たく澱む。
大佐の言葉に他意はない。事実、私がここにいるのは大佐が見出してくださった能力を、大佐のお役に立てるよう尽くすためだ。そこに特別な感情などない。何かを求めてはならない。
黙っていると、もう片方の手で腕を引かれ更に前のめりになる。
こちらを見上げる一対の瞳は野心に満ち溢れ、それなのにどこか空虚で硝子玉のようだった。
——私には大佐のお心を覗く必要などない。
「……そうですね」
絞り出した言葉は、触れた熱に飲まれ、消えていった。
「あっ、ごめんなさ〜い!」
甲高い声とともにトン、と軽い衝撃を感じた次の瞬間、胸に濡れた感触が広がる。見ると、身に付けた衣服の一部が暗い赤色に染まっていた。
たった今ぶつかった人物の持っていたグラスの中身が零れたのだろう。色からして赤ワインか。
視線を正面へ戻すと、若い女が挑むように立っていた。
豪奢なブロンドを高く結い上げ、ボディラインを強調するようなドレスを身にまとった美しい女は、シャア大佐の恋人だ。ごめんなさい、と謝罪の言葉を口にしながらも、女の唇は笑みにつり上がっている。
——またか、と思わず心の中で嘆息する。
十中八九わざとだろう。何故なら、こういったことは初めてではないのだ。
常日頃であれば事が起きる前に気付くのだが、思考の海に深く沈みこんでいたらしい。ぶつかるまで気付かないとは、軍人として有るまじき失態だ。
今夜はキシリア閣下主催の晩餐会が開かれている。シャア大佐のパートナーとして出席した彼女がわざわざこのような壁際まで来るとは。
ホールへ視線を向けると、赤いスーツに身を包んだ大佐が来賓客と歓談しているのが見えた。
——なるほど、暇を持て余し娯楽を求めにきたというところか。
わかりやすい女の行動に思わず、ふ、と笑みが零れる。
「……いえ。お怪我はありませんか?」
いつものように微笑んで返すと、思っていた反応を得られなかったのか、女は頬をサッと紅潮させ視線を逸らす。
「平気よ。ぼうっと突っ立っているから気付かなかったわ」
「それは大変失礼しました」
「……フン、それより着替えてきた方がよろしいんじゃなくて?その格好じゃ大佐の顔に泥を塗ることになるわよ」
「ええ、仰る通りです。お気遣い痛み入ります」
「あの方のパートナーとして、当然のことを言ったまでだわ」
深く頭を下げると、幾らか溜飲が下がったのか女は勝ち誇ったように胸を張る。どうやらうまく収まったらしい。
「それでは、失礼いたします」
給仕に言付け、静かにホールを退出する。
廊下に出るとワインの芳香とともに甘い香水の残り香が鼻をつき、思わず眉を顰めてしまう。
——濡れて張り付いた布が不快だった。
彼女達——そう、先程の女だけではない。大佐が今まで懇意にしていた女性は皆、何故か私のことを敵視していた。
曰く、「シャア大佐の特別であることが許せない」らしい。確かに私は彼女達より大佐と行動を共にすることが多い。それは軍隊という特殊な環境下で上官と部下という立場上、至極当然のことだ。
だが、彼女達は大佐と私の間に特別な何かを感じているようだった。まさか同衾していることまで大佐が話しているとは考えにくいが、時に女の勘はニュータイプよりも鋭いのかもしれない。
「……馬鹿馬鹿しい」
部屋に戻り濡れた衣服を脱いだ途端、堪えていたものが溢れ出た。まったく馬鹿馬鹿しい。
気にしていないつもりでも、人に悪意を向けられるのは疲れるものだ。ましてや見当違いのやっかみなど。
——私には彼女達のような柔らかい肌も、美しい声も、可愛らしい我儘を囀るような愛嬌もない。
何ひとつ彼女達より優っているところなどないというのに。
何もかも面倒になって、裸のままベッドへ倒れ込んだ。肌を撫でる冷たいシーツの感触が、ひんやりとして心地好い。
枕に顔を押し付け目を閉じると、大佐の姿が脳裏に浮かぶ。数刻前に見た、女の細い腰を抱く仲睦まじい後ろ姿だ。
きっと、今夜は彼女とともに過ごすのだろう。
わかりきっている事実に、何故か胸が痛む。
——早く着替えて戻らねば。
そう思うのに身体は重く、体温とともに力が抜けていくようだった。溶け出した意識が端から黒く塗りつぶされていく。
ああ、見たくないものを消してくれるなら。
私は抗うことを止め、意識を手放した。
ふと首筋に熱を感じ、意識が浮上する。
「ッ!?」
「おっと、」
勢いよく身体を起こすと、背に覆い被さっていた人物がさっと避けた気配がした。そこにいたのは意識を手放す前、ずっと私の頭に居座っていた人だった。
「……大佐」
振り向く前からわかっていた。この部屋に入れるのは自分か大佐だけ、というのもあるが、触れた体温に覚えがあったからだ。
「……どうしてここに」
「なんだ、つれないな。君こそ何故そんな格好で寝てたんだ。身体が冷え切っているじゃないか」
「……申し訳ありません、着替え途中に眠ってしまったようで」
「君らしくもない。さては飲みすぎたか?」
笑いながら剥き出しの背中に触れてくる手のひらが熱い。大佐こそだいぶお酒を過ごされたようだ。
あれからどれくらい経ったのだろう。室内を見回すが、生憎時計は置いていなかった。あの後恋人とは合流できたのだろうか——と、そこで何かがおかしいことに気づく。
そうだ、今夜大佐は恋人とともに過ごすのではなかったのか。感覚からして、夜が明けるほど眠っていたとは思えない。
「大佐、ここにいて良いのですか。彼女は、」
「ん? ああ、人を遣って家に帰したさ。……彼女とは二度と会うこともない」
冷たく放たれた言葉に驚き振り向くと、もう見慣れてしまった硝子玉がこちらを見つめていた。
「……なぜ」
「……何故、か。彼女は君に辛く当たっていたじゃないか」
大佐がそう言って視線を送った先には、椅子の背にかけられた上着がある。ワインに汚れた服だ。
おそらく、大佐は先程ホールであった出来事の話をされているのだろう。
「気付いていらっしゃったのですか」
「君のことはいつも見ている」
薄く微笑んだままさらりと言われ、言葉に詰まる。
「ご冗談を」
「冗談ではないさ、大尉」
「…………しかし、何も別れる必要は」
「君より大事な女などいない」
「ッ……」
ハッキリと響いた声に、今度こそ言葉を失った。
可愛らしい女性の恋人よりも。私を。
ああ——胸を満たすのは昏い歓びだった。
胸から溢れる歓喜は甘い毒となって身体中へ巡り、脳までをも冒していく。
そして、そんな浅ましい私の心の裡など大佐には全て見透かされているのだ。
いつの間にか震えていた私の身体は、熱に覆われ、ゆっくりと傾いていく。
——きっと。きっと私の存在は、大佐にとって宙に数多浮かぶ星のひとつに過ぎない。どこか虚ろな大佐の心を埋める存在には、決してなり得ない。
だが、私はそれでいいのだ。この方が必要とする限り、共に在る。それが私のすべてだ。
満足そうに笑む大佐の顔に唇を寄せると、優しく啄まれ、やがて深く飲み込まれる。
窒息しそうな宙の中、眩い光に手を伸ばす。掴めずとも追い続ければいい。いつか燃え尽き、塵となるその日まで——。