寒い。ひとつ呟いて息を吐く。目の前の空気が白く染まり、すぐに散った。
視線を上へ向ける。分厚い雲に覆われた空は、たった今こぼした吐息のように白く濁っていて、その先がまったく見えない。高い、空。例え空が澄んでいても、ずっとのぼって行ったとしても果てがない、本物の空。
初めて訪れた地球は、美しく広大であり、同時にとても過酷な場所だった。常に温暖な環境が整うスペースコロニーと違い、土地や天候によってその表情を変え、時に、そこで生きている者の命すら奪う。今日の寒さだって、およそ人の生きる環境ではない。そう思ったのだが——目の前の景色は驚くほど賑やかで、活気にあふれていた。
地球上のとある集落の大通り。石造りの家屋が建ち並ぶ間に、多くの屋台が軒を連ねていた。張り出した庇に規則性はなく、提灯がぶら下がっているもの、暖簾がかかっているもの、それぞれ形状や色がバラバラだ。売っているものも様々で、果実や野菜、香辛料などの他に軽食や酒なども置いてある。かと思えば衣料品や金物、果ては燃料まで取り扱っている店もあるというから、その無秩序さにはむしろ感心を覚えるほどだった。
人や物で雑然とした石畳はところどころ欠けていて、歩きにくいことこの上ない。それなのに、前を歩く人物はすいすいと人を避け奥へと進んでいく。四方からかけられる言葉を軽くいなしながらも、興味深げに首を巡らせ、まるで観光に訪れたかのように振る舞うその人は——「まるで、ではない。私は観光を楽しんでいるのだよ、シャリア・ブル大尉」と振り返りもせず言った。
「は……大佐は何か目的があってここへいらっしゃったのでは? だから私にも供をするように仰ったのでは」
「理由がないと誘ってはいけないか?」
「そういうわけではありませんが……」
「たまには息抜きもいいだろう」
シャア・アズナブル大佐は言いながら、次々と色々なものへ興味を移し、時折店主といくつか言葉を交わしている。
常とは違う、黒いコートに身を包んだ背中はわかりやすく機嫌がいい。新しい知識を得るのが楽しいのだろう。年相応の若者らしい姿に、まわりを警戒し続けていた緊張もすっかり解けてしまった。
「……それにしても、地球は寒いですね」
「ああ、この辺りは特に寒さが厳しいそうだからな。だが、地元の人間はさすがに慣れていると見える」
大佐の視線につられ前方を見ると、少し開けた場所に人だかりができていた。人々の隙間から、中心で上半身裸の男がなにやら棒を振り回して踊っているのが見える。手に持った棒の先端には炎が煌々と燃え盛っていて、それが火の粉を散らしながらぐるぐると回る度、観客から歓声があがった。
「……この寒いのに何故服を着ていないのでしょう。自殺行為では? それにこんなに物が溢れる中、炎を振り回すとは。燃え移ったらどうするつもりなのでしょうか」
「ははっ。あれはそのスリルを楽しむものだ、大尉。——君は本当に面白いな」
大佐が振り返り、笑う。白い頬を縁どる淡い金色の髪がキラキラと輝いて見え、その眩しさに思わず目を細めた。だが「面白い」とは心外だ。
「なにも面白いことは——む?」
ふと、目の前にふわりと塵のような物が舞い落ちるのが見えて、その場に止まる。ひとつ、ふたつ、みっつ。そこかしこに置かれたドラム缶の中で燃える薪やゴミによるものかと思ったそれは、もっと高い場所から落ちてきているようだった。
手を伸ばしてみると、はらはらと舞い落ちた塵は手の中でほどけ、グローブの布にわずかな染みを作った。
「……氷?」
「ん? ——ああ、雪が降ってきたな。寒いわけだ」
大佐が空を見上げて呟く。
「雪? これが?」
「大尉は見たことないか」
「はい。初めて見ました」
「この調子だと夜半に積もるかもしれんな」
「……こんなにすぐ溶けるものが積もるのですか?」
「降雪量が増え、気温も下がれば溶ける前に積もる」
「なるほど……。——雪は食べられるのでしょうか」
「……食べる?」
訝しげな声にハッとする。脳内に留めたつもりの言葉は、しっかりと声に出ていたらしい。慌てて口元を押さえるが、遅かった。
「いえ、その……」
誤魔化すように言い淀む。
——幼い頃読んだ児童書に雪は「ふわふわのわたがしのようだ」と書いてあったのだ。きっとあれは雪など見たこともない人間が書いたに違いないが、子供の頃の記憶とは恐ろしいもので、今でもなんとなくそのイメージが脳内にこびり付いていた。
「ふ、雪は口にしない方がいい。大気中の埃などを含んでいるからな。——なんだ、大尉は腹が減ったのか?」
「いえ……忘れてください」
顔が熱かった。こんな失態を見せるつもりはなかったのに。大佐はそれを見て笑いながら「そこで待て」と、どこかへ歩いて行ってしまう。初めて来る場所とは思えない堂々とした足取りで進む後ろ姿は、すぐに人混みへ紛れてしまって見えなくなった。待てと言われたからには追うわけにもいかず、端の方で大人しく待機することにした。
高い空からは次々と雪が降り続け、石畳をじわじわ濡らしていく。本当に、これが積もっていくのだろうか。ただの雨にも見えるのに。もしこれが綿菓子のように積もるなら、その瞬間を見てみたいと、少し思った。
戻ってきた大佐は、手に紙袋を持っていた。その中から白い紙に包まれたものを取り出し「ほら、大尉。これを食べるといい」とこちらへ差し出す。反射で受け取った中身を見ると、なにやら丸く柔らかいものがほかほかと湯気を立てていた。白い麺麭のような生地の間に、はみ出すほど大きな肉の塊が挟まったそれは、このあたりでは定番の軽食らしい。
「……私にですか?」
「勿論、自分の分も買ったぞ」
大佐はもうひとつ包みを取り出してみせ、さっそくかぶりついた。その優美な外見とは裏腹に、大佐はいつも豪胆な振る舞いを見せる。いつだって自信に満ち溢れ、ぶれない。大口で肉に食らいつき、唇についたタレを舌で舐めとる姿に、道行く女性達が熱い視線を送っているのに本人は気づいているのだろうか。ぼんやり見蕩れていると、大佐がこちらを見て首を傾げた。
「やはり食べ歩きは好きではないか?」
大尉はいつも綺麗にものを食べるからな、と言われ慌てて首を振る。
「いいえ。ありがたくいただきます」
木星ではエネルギーバー片手に報告書を作成するなど日常茶飯事だった。今更上品ぶるつもりもない。せっかく大佐が買ってきてくださったものだ。食べない選択肢はなかった。
口を開け、肉の端に噛み付くと、まだ温かかった。口内にじゅわりと肉汁が溢れ、程よい脂と旨味が広がる。甘めのタレには香辛料が入っているのか、少し癖のある不思議な風味がするが悪くない。次に白い麺麭へ口をつける。ほんのりと甘い生地はそれ自体にはあまり味がついていない。それがかえって、濃いめのタレがかかった肉と絶妙に合っている。
「……美味しいですね」
「だろう?」
「はい。大きいので少し苦労しますが、食べ歩きもいいものですね」
「なにを言う、大尉」
「え?」
さっさと食べ終わった大佐が、こちらを見て口の端を吊り上げる。サングラス越しに見える瞳にはどこか楽しげな色が浮かんでいて、思わずぎくりと身を強ばらせた。狩りを楽しむ捕食者。そんな顔だ。こちらが警戒を滲ませたことすら、楽しんでいる。
じっと息を潜めていると、大佐のグローブに包まれた手がこちらへと伸ばされ、軽く顎を取られる。目の前のサングラスに、自分の不安げな表情が映っているのが見えた。その奥に隠された瞳がすっと細くなる。
「——君、もっと大きく口を開けられるはずだろう?」
「っ!」
言われた言葉に、頬がかっと熱くなった。顎に添えられた手はすりすりとあやすような動きを見せ、どうしたって昨夜のことを思い出してしまう。
——跪く自分を見下ろす青い瞳、よくやったと褒める手つき。そのすべてを。
「こ、んなところでなにを……」
動揺で声が震えてしまう。情けないほど繕う余裕がなかった。こちらの動揺を知ってか知らずか——いや確実に知っているのだろうが、大佐はあっさり手を離し「冗談だ」と笑う。
「おや、顔が赤い。大尉はなにを考えたのかな?」
「〜〜〜っ!」
この野郎、と思ってしまったのは仕方ないだろうと思う。こちらがなにを思ったのかだなんてすべてわかっているくせに、その上でこんなことを言うのだ。まったくタチの悪い、意地悪なひとだ。
悪態をつく前にと、手に持った麺麭へ肉ごとかぶりつく。可能な限り大きく口を開けてやった。くつくつと隣で笑う声には、なるべく気を取られないよう、下を見る。視線を落とし——地面を見て「あ」と気付く。
石畳が、雪で白く染まっていた。
「ああ、だいぶ冷えてきたな」
「はい。そろそろ戻りましょうか」
だんだんと空が暗くなるにつれ、雪の降る量も増えてきていた。まわりを見れば、あちこちで店を畳む準備をしている様子が散見された。きっと大佐の言っていた通り、これから雪はもっと深く積もるのだろう。
空を眺めていた大佐は「そうだな」と頷く。
「君とのデートも楽しんだことだしな」
「でっ……、私はただ、大佐の観光にお供しただけで……っ」
「つれないな。楽しくなかったか?」
「それは……っ」
言葉に詰まっていると、肩をぐいと抱き寄せられる。そのまま強く抱きすくめられそうになって、慌てて胸に手をついた。
「……なんだ、この手は」
「人が見ております……!」
実際、いくつか好奇の目が向けられていた。それはそうだ。このような往来で、男同士抱き合っていたら気にもなるだろう。責められはしまい。
だが、大佐にそのような常識など通用しない。
「どうせ私達のことなど誰も知らぬのだ。気にすることはない」
そう言って顔を近付け——唇の端へぺろりと舌を這わせた。
「——なっ、」
「ふ、先ほどのタレがついていた。——なんだ、口付けをされると思ったか?」
整った顔に笑みを浮かべ、今日何度目かの意地悪を言う。それはそれは、楽しそうに。
——ぷちん、どこかでそんな音が聞こえた。何かが切れる音。だがそれがなにかを理解する前に、身体が勝手に動いた。
胸についていた手で黒いコートの襟を掴み、「ん?」と訝しむ相手へ——体当たりするようにキスをする。
「ぶっ!?」
勢いよくぶつかった唇に、大佐が驚きの声をあげる。もう暗くなって見えないが、サングラスの向こうの瞳は、きっと大きく見開かれているに違いない。そのことに、すっと胸が軽くなった。たまには振り回される側に立ってみればいいのだ。
「……人に見られるのではなかったか?」
「どうせ誰も私達を知りません」
もう、どうでもよかった。ただあなたと触れ合っていたい。だって、こんなにも寒いのだ。
優しい唇が触れる。二人の間に冷たい雪が落ち、ほどけるように溶けては、頬や服を濡らしていく。隙間を埋めるよう首の後ろへ腕を回すと、胸が触れ合ってあたたかい。
「寒いのです。あたためてください」
「——ああ」
背中の腕がぎゅうと抱きしめる。ああ、これならもう、寒くない。
いくら雪が降ろうとも、あなたと一緒なら。
雪が、降る。しんしんと静かに、深く。
あたり一面を純白に染める雪は、そこにあった全てを覆い隠すように降り積もる。まるで、あのひとの存在など最初からなかったかのように、白く、美しく。
私はまっしろな世界にひとり残されたまま、ずっとあのひとを探し続けていた。ここはとても寒い。きっと、このままではいつか凍えてしまうのだろう。
だけど、あの腕に戻れるなら命が尽きても構わなかった。たった一度だけでもいい。そのためなら、世界が滅んでも、人に恨まれても、どうでもよかった。
だから、どうか。
ああ、私の命が終わる前に、どうか。
もう一度、強く、私を——。