黒に幽々「ぅぅ・・」
頭が、痛い。体もだるいし、吐き気もある。それが最近の、朝だった。
様々な不調に顔を青白くさせて、起き上がることすら容易ではないのか壁伝いにベッドの上に座った。だが座ったとしても、俯いて、頭が痛むのか顔を顰めさせてじっと耐えている。
それでも今日は起きなければならないから、緩慢な動きで起き上がるしかない。これもまた壁伝いに歩いていって、数歩歩いては深呼吸を繰り返し、瞳を幾度と閉じてしまう。
どうして、なんでこんな風になってしまったのかなんて理由は明白。Subとしての欲求が強い方なくせに、滅多にplayを行わないからに決まっている。あと人と出会う前までは、playをしなくてもそこそこの不調を抱えながら生きていけた。でも、あの人と出会ってからは違う。僕の体は途端に欲深くなって、何度も何度もその人を求めるのだ。どう頑張っても、忘れられない人がいる。あの人じゃないと嫌だ、あの人を愛してしまったのだ。そう心が何度も叫んで、心配してくれる声を聞きやしない。
「ぁ、ぐ・・っ」
ズキン、と頭が酷く痛んで、思わずしゃがみこんでしまった。ずるずると崩れ落ちていく様はもう限界に近いというのを表すには簡単で、誰が見ても重症だと分かるはずだ。
でも、立ち上がって薬を規定量より1粒多く飲み込んだ。もう1粒では、効かなくなってしまったから。
即効性では無いにしろ、じきにこの体の不調も治まってきて、多少の不快感を伴いながらもきっとすぐによくなる、はず。
大丈夫、大丈夫。そう何度か呟いたあと、オロルンは玄関の前でぺたりと座って待つ。こうすると、彼は褒めてくれるから。
でも、彼がいつここに到着するかは分からない。今みたいに朝の時もあったし、真夜中の時もあった。でもそのどれもの時間、こうやって待っていると呆れつつも必ず褒めてくれる、そこが大好きだ。
「隊長・・」
君の隊から離れて少ししか経っていないのに、君がいないだけでこんなにも体調が悪くなるなんて、おかしな事だけれど、それだけ相性が良かった、と勝手に思っている。薬で抑制しているから、彼には朝みたいなあんな姿は見せられないし、見せる訳にはいかない。
彼はDomではあるが、欲求が少ない方のDomなようで、僕みたいな欲深いSubに無理に付き合わせられない。僕は彼以外とのplayを絶対に受け入れたくなくて、確かに完全に欲求が無くなったことは無いけれど、彼がこうして気にかけてくれるだけで僕は満足だし、そのためならこの頭痛や吐き気もなんともない。
君だけの命令を、僕は受け入れたいし、君以外からの命令を僕は受け入れるつもりは無い。
「君は、いつ来てくれるのかな」
玄関の前で座って、じぃっと扉を見つめる。朝食も、昼食も、彼がいつ来てもいいように隣に置いて。
■
ノックが鳴った。とんとん、と何回か。
「鍵はあいてるよ」
そう外に聞こえるようにいえば扉が開いて、求めていた彼…、隊長が目の前に現れた。急いで来てくれたのか、深い夜の香りがしつつも、珍しく小さく息をついた気配が感じられる。
そして、相変わらず床で座って待つオロルンを見やるともう慣れてしまったかのようにお小言を言うことはなく、よく待てた、と頭を撫でた。
「Stand Up」
そして、低くて重い声でCommandが下される。それだけで脳は久しぶりの命令にビリビリと痺れるように享受し、ゆっくりと足は応えようと立ち上がった。それだけでまた褒められて、いつものように隊長の着ていたコートをいそいそと脱がせて、それをハンガーにかける。小間使いのようなことはしなくてもいいと言われたが、尽くしたいのだから仕方がない。
「今日はどれだけ待っていた」
僕の近くに置いていた、パンのカスが残っている2枚の皿に目ざとく気がついたのだろう、あ、と言うよりも早くに皿を拾い上げられて、大きなため息を吐かれる。どうにか言い訳をしようにも、彼からはいくつか前に冷たい玄関前で待つなと言われたばかりで、僕は約束を破っているとわかっていながらも、彼に早く会いたくて、褒められたいがためにここで待ってしまった。
「…ごめんなさい」
こういう時の僕の顔は、みんな口を揃えて叱られたあとの子犬のようだと言う。隊長は僕にあまり怒らないから、多分そう見えているんだろう。
「弁明はしないようだな、賢明だ。それで、いつから待っていた?Say」
彼は、積極的にコマンドを使ってくれる。僕がコマントマをそれなりに必要としていることを覚えてくれている証拠だが、今の場面では立場が危うい。
「…朝、から」
でも言えと言われたからには正直に答えるしかなくて、もう一度消え入りそうな声でごめんなさいと謝った。約束を破ったことへの、謝罪だ。多分仕置はまた別にある。怒ってるんだろうか、いや、怒ってなくても僕は約束を破ってしまったから、悪い子だと言われるだろうか。
ビクビクと体を小さくしていると、隊長が1歩僕に近づき、そして頭の上に手をかざした。
「…そうか。だが、よく待てたな。Goodboy.出迎えられるのは、悪くない」
叩かれる、そう思ったのも束の間、頭をわしわしと撫でられる。首が取れるんじゃないかと思うほど強く、不器用に撫でられて、でもそれがひどく心地よい。
僕は悪いことをしたのに、全部否定することなくそこから価値と意味を見出して褒めてくれた。その事にじんわりと心にしみ入るような感覚を覚えて、肩の力を抜く。暖かくて、それがもっと欲しくて、思わずくふくふと笑ってしまってもっと撫でてくれと頭を押し付けた。
「僕、君の手が大好きだ」
初めてplayをした時に感じた、充足感と安心感は確かにこの手から感じられたもので、付き合いが長い訳でもないのに心の底から力を抜いてしまう。彼にもたれかかりたいような、全てにおいて背を預けたいような、そんな感覚だ。
多分これが依存というもので、薬の量が増えたのも彼の隊から抜けてからだった。時々彼はplayのために訪れてくれるけれど、でもやっぱり脳と体はあの時の心地良さを忘れられず、僕は毎日のように得体の知れない不安と焦燥に苛まれる。
でもやはりそれらの感覚は気分が良いものでは無い。抜け出したいとは思っているけれど、多分できない。だから、思わず口からこぼれ落ちてしまったのだろう。そんな僕にとっても彼にとっても酷い言葉、僕が普通だったら言うはずもなかった。
「たいちょう、僕と、ずっと…」
いつか僕の元から去ってしまうと、叶わないと、知っているから。
■■
kneel
誰にも、そんなことは言われていない。でも、たとえ命令がなくとも彼の前でそうしてしまうのは仕方がなかった。あの時頭を撫でられた感覚は覚えているし、あの時の君の声色も全部全部覚えている。君以外に命令されるつもりは無いし、君以外の命令は嫌だ。
だから僕はこうして君の近くで眠って、君と一緒にいることを選んだ。
「…………」
医者が言うにはいつSub dropに陥ってもおかしくはない精神状態であるらしく、むしろこの状態で保っているのは奇跡に近い事なのだそう。
「………」
彼に、尽くしたい。ここら一帯の掃除をして、彼の艶やかなコートも綺麗に拭いて、彼の髪の毛を整えて、それで……。
目を閉じる。
眠り続ける彼の脚に縋り付くように座り込み、冷たい膝の上に頭を乗せた。そして彼の重たい手をゆっくりと動かして、僕の頭に乗せる。彼が動いてくれている訳では無い。自分で彼の腕を操作して、情けなくも自分でその腕を動かし、彼に撫でてもらっているという擬似的な喜びを感じるのだ。
彼の重みが、信じられないほどの安らぎを与える。どろりと瞳が蕩け落ちそうな心地がして、もっと撫でてと言わんばかりにその手に頭を押し付けた。でも彼が実際に撫でてくれることはなくて、自分で動かしてやるしかないだとあまりの虚しさに気が付き、自嘲してしまうのだけれど。
もう少し、もう少しだけでいい。彼をこうやって感じていたい。氷の冷たさも、その声に含まれた熱も、微かに感じる息も、安心する体温も、全部。
「……隊長」
少しだけ、少しだけでいいから、僕を見てくれ。
■■■
ある朝の日、痛みと苦しさを抱えた僕の視界がぐらりと揺れた。
「ぁ」
皿が、落ちた。
耳をつんざくような音を立ててそれは割れ、破片が辺りに散らばる。それを上から見下ろして、あぁ、拾わないと、なんて思うのだけれど上手くはいかなくて。
途端に、視界が更にぐにゃりと歪み始めた。立っていた足場かどんどん崩落して行って、僕も同じように落ちていって、でも落ちているあいだ僕はずっとぐるぐると回っていて…
「…ぉ、……っ」
平衡感覚を失い、せり上がってきた胃液を我慢出来るはずもなく吐いた。びちゃびちゃと耳障りの良くない音が聞こえてきて、それで据えた匂いが僕の鼻の奥を刺激してくる。
気持ち悪い。
倒れそうになった体を支えようと近くの壁を掴むのだけれど、その壁には無数の目が付いてギョロギョロとこちらを見ているような気がして、ロクに立てもしないくせに壁から手を離してしまって、そのまま崩れ落ちた。
でも、崩れ落ちた先の床も、無数の手がこちらに伸びていて、僕を地の底へと引きずり込もうとしてくるのだ。嫌だ嫌だと振り払っても手は僕の眼前にまで伸びてきて、首を絞めようとして、手を纏めようとして、殺そうとしてくる。
上の方から、無数の声が聞こえてきた。お前があの時死んでいればあんなに酷くなることは無かったのに。お前があの時死を選ばなかったから、違う誰かが死ななければならなかった。なんて卑怯者なんだ!なんて愚か者なんだ!どうしてお前が英雄なのだ!お前など、売女で充分だろう!
ここにいちゃいけない、僕は僕を害そうとする全てから逃れようと無様にも這う。さっきまで普通だったはずなのに、この部屋はなんだかおかしくて、全部全部、僕を見て来るのだ。
「やだ、嫌だ…」
うわ言のように呟いたそれを誰一人として聞き入れてはくれず、壁は僕を見て、床は僕を連れ去ろうとして、天井は僕を口汚く罵る。
僕を、生き残ってしまった僕を、彼らが見ている。僕が生きたことで死んだ誰かが、僕が生きたことで夜神の国に行けず消滅した誰かが、僕が夜神の国に返せなかったことで消滅した誰かが。僕を指さして言うのだ。
全て、お前が悪いのだと。
それはオロルンがこれまで浴びたことの無いほどの、悪意と恐怖だった。
「ごめん、ごめんなさぃ……」
這う手足は止まり、今にも消え入りそうな声で何度も謝る。耳を塞ごうとも、目を閉じようとも、それらは全てが無駄だと言わんばかりにオロルンを苛んだ。逃げようとするオロルンの道を塞ぎ、出口という希望を閉ざすのだ。
救えなかった誰かが恨み言を吐き、それに対して謝り、謂れの無い罪まで背負わされる。己の身の余りの罪深さにぼろぼろと涙が出てきて、どうしようもない罪悪感と恐怖に、今にも押しつぶされそうだった。
そんな時、ある男とも女ともにつかぬ声が頭の中で響き、オロルンの首をぐっと締め、視線でその場に縫いつけた。
何も出来ないくせに。誰も救えなかったくせに。あの人を助けてくれなかったくせに。お前のせいだ、お前のせいだ。何もしてこなかった、何もしない道をお前は選んだくせに。今更死を恐れるなど、なんとお前は浅ましく憎たらしいのか!…そんなのだから、お前はあの男に置いていかれたのだ!
その言葉に、ハッと顔を上げた。違うと否定しようにも、否定できなくて、またごめんなさいと謝る。
そうだ、そうなのだ、と誰かも知らぬ声々が同調し、着実にオロルンの心を構成する大事で柔らかい一部分を、鋭い爪でがりがりと削り始めた。オロルンがどれだけ痛いと言ってもお構いなく、血が出るまで引っ掻き続けるのだ。
あの男はお前のことが嫌いだったに違いない。お前のせいで、秘源の計画は失敗した。弱いお前など、あのまま乗っ取られていた方があの男によっても良かっただろうに。お前のせいで、あの男は眠らざるを得なかった。お前が失敗したせいだ。なんて憎いオロルン!誰もお前を好くことはなく、誰もがお前を嫌うのだ!誰からも愛されるべきでないというのに、あまつさえお前はあの男との約束も破った!あぁ、あぁ、なんてことだ!お前は言われたこともろくに出来ず、それを隠そうとすらする!それをあの男に知られたら…、
「うるさい!」
僕は叫んだ。反射的だった。荒い息を吐き、涙がぼろぼろこぼれる。
でも同時に分かっていた。これはただの幻聴と幻覚で、僕は虚空に向かって叫び、涙を流したのだと。
あぁ、あぁ、最悪だ。もう彼に会えやしないのに、こんな無様に引き摺るなど、滑稽でしかないだろう。
■■■
目覚めた彼を見た瞬間、途方もない罪悪感に襲われた。彼が眠っている間に、僕は彼の元に足繁く通っていた。つまり、僕は彼でSubの欲望を僅かに満たしていたようなものなのだ。彼の同意無しに勝手なことをしていて、そんなの、本当は許されない。それに、僕は彼との約束も破った。隊長がいなくてもちゃんと、このSubの欲望を解消してやること。でも彼が目覚めないのなら、何をしたって僕の自由だなんて思って結局彼が眠ってから一度もplayをしたことがなくて、その約束を破ってしまった。
これが、尽くしたい僕の精神に少なからず影響しているのは自分でもわかっている。命令を破ってしまったという体が引き裂かれそうな痛みと、心の内から叫ぶ懺悔の声。最悪、これは知られてもいい。しられたくないけど。
でも、playをしなかったことによってSub dropを起こしたなんてのは絶対に知られたくない。だって、彼はきっと悲しそうな顔をする。僕はその悲しい顔が大嫌いだ。ましてや自分の所業からそんな顔をさせてしまったのだと思うと、僕は彼に縋り付いて許されないことなのに謝り尽くしたくなってしまう。
今だってこの前起こってしまったSub dropを引き摺り、頭がズキズキと痛んで、体は重いし、呼吸だってちょっと苦しい。年がら年中暑いくらいのナタの夜だというのに、何故か肌寒く感じてしまって体温調節もおかしくなっているのだろう。あの時たまたま僕の叫びを聞いてイファが来てくれなければ、もしかしたら僕は死んでいて、ここにはいなかったかもしれない。
彼が復活した祝賀会。
僕は配られた杯に手もつけず、ゆらゆらと手慰みにあちらこちらへと揺れる赤い波を見ているだけ。飲めば体調が悪くなんてこと分かっているし、それを知っていて手をつけようなんて思わなかった。
ふい、と彼の方を見る。彼の周りにはマーヴィカ様や旅人、彼に助けて貰ったという人達が集って、みんな楽しそうに口を動かしている。
わからない。僕だけがなんだか違う。ナタは温かいところだ。誰も1人にしない信念があるはずなのに、どうしてか自分勝手にも疎外感を覚えてしまう。隊長は人気者で、僕が近づけるほどの人の隙間なんて、ない。僕があの隙間に入ることなんて…、
「オロルン?どったの?」
席を立ち上がり、隊長の方とは反対方向に足を進めようとするオロルンを不思議に思ってか、シロネンが声をかけてくれる。溜息をつきたくなる口をぐっと引き結んで、話すために少しだけ緩めた。
「僕まで酔ってしまうとばあちゃんを運べないから。少しだけ夜風に当たってくる」
そういって、シロネンの返事も聞かずにその空間から逃げた。このままとんずらしてやろうかと思ったけど、さっき言ったことも事実でばあちゃんがいるからそれも出来なくて、やっぱりやめた。
バルコニーに出て、フラフラとおぼつかない足取りで壁側にズルズルと座りこむ。本当のところはあの空間にいるだけで、苦しい。あの場にはDomもいっぱいいて、強いDomなんか無意識のうちにCommandを発生させることがある。今の僕がそんなのされたらたちまち動けなくなって、約束を破っているのをバレてしまうに違いない。
痛む頭を膝に埋めて溜息をつき、どうしよう、なんて呟いた。
……というか、そもそも彼が僕を気にしていない可能性の方が高いんじゃないだろうか。ちゃんとplayをしろという約束は彼が優しいから言ってくれただけで、別に僕たちは少しplayした仲なだけ。僕は彼を必要としていたけれど彼はそんなこと無さそうで、collarだってないし、体を重ね合わせたこともない。僕たちを繋いでいたのは本当に細い縁だったのだ。こんな細い縁なのだから、そもそも僕が約束を破ったところで彼は怒りもしないし悲しみもしないに違いない。
思考が、ダメな方向に向いていく。
「…あたま、いたい…」
本格的に割れそうだ。腹を括って、隊長にばれないうちに誰かにplayをしてもらうか…いやでも僕はあまりに自由すぎて壊滅的にplayが下手くそと言われたし、重いし…。
これからどうしよう。
また大きなため息をついて、うーうーと唸る。頭は痛いし、体はだるいし、寒いし、思考は鈍いし。誰なんだこんな性別を付け加えたのは。舌打ちでもしたい心境に駆られたのは久しぶりだ。しないけど。
あぁ、でもそろそろあっちに戻らないと行けない。長くとどまっていては、何かあったのかと見にこられて、僕のこの状態を見て、隊長に話が行かないはずがない。どう思われているのかは分からないけれど、何となくこの話を隊長のところには通したくなかったのだ。
壁伝いにまた立ち上がって、痛みに少しだけうめいたあと顔を上げると……
「う、わ!?」
目の前に、黒い塊があった。否、黒い塊なんかでは無い。隊長だ。
「た、隊長…?いつからそこに…」
「…お前が、座り込んだ少し後からだな」
…それってつまり、結構最初の方からいて、僕の唸る姿を見ていたというわけか。…見られていた、ずっと、見られていた!それに多分、わかったのだろう。僕が隊長との約束を破ってずっとplayしていないのを。声色と雰囲気からして明らかに怒っている様子が見受けられて、やってしまったのだと悟る。
「え、と…僕ならもう大丈夫だよ、心配してくれてありがとう」
でも、その怒りが僕のことじゃない可能性だってある。こう、祝賀会の中で誰かが隊長に酒をひっかけたとか、炎神様がからかいすぎたとか。
苦し紛れの弁明の後にそろりと視線を上げてみれば、やっぱり青い瞳はじっとこちらを見据えていて、残念ながら怒りはちゃんとオロルンの方へと向かっていた。誤魔化されてはくれないらしい。
隊長は大きなため息をついたあと、オロルンの方に背を向け、そして視線だけを寄越す。
「Come.ついてこい」
Commandまでしてくれたと来た。これはもう、全部わかっていて、オロルンが一人になったタイミングを見計らっていたに違いない。僕がplayを長くしていないのは誰にも話していないけど、イファやばあちゃんが見てわかるくらいだから相当酷い顔をしていて、Sub dropを起こしてしまったからきっと炎神様も知っている。もしかしたら、そこ経由かもしれない。
彼のComeという言葉にずくりと疼いた体を叱咤し、ゆっくりと彼の歩く方へと倣う。その間会話はなかったけれど、気まずくは無い。いつも彼はこんな感じだったから。
誰もいない場所にまで連れて行かれ、ひとつのベンチに腰を下ろしたかと思うと、横を叩いて座れといった。そろそろと腰を下ろして、恐らく言われるであろう叱責を覚悟して口を引き結ぶ。
でも。
頭に、なにかが乗せられたかと思うと、それはグリグリと頭を撫で始めた。慣れていなくて、力加減もあまりわかっていない様子だけど、無骨に撫で回すこの手は、たしかに隊長のもの。頭を、撫でられている。隊長に。
…どうして?
思わず彼の方を見上げて、戸惑いの視線を向ける。その瞳に映っていたのは、怒りでも、諦めでもなく、お転婆な竜が悪戯をしかけた時のような、仕方がないという慈愛の瞳。
「……色々と言いたいことはあるが、勘違いでなければ俺を待っていたのだろう?」
その言葉に、頷いた。呆然と、頷いた。
君以外の人とplayをする気は無い、というのは彼がまだ起きていた頃に何度か口を滑らせたことがある。それを、まさか覚えていてくれたとでも言うのか。
「俺はこういう時になんと言うべきなのか分からない。だが、俺が眠っていた時間も短いものでは無かったはずだ。お前の持っていたその信念に賞賛を贈りたいと思う。…よく出来た。よく俺を、待っていてくれた」
その、二言だけだった。二言だけだったのだ。
それだけなのに、オロルンの体は酷く熱を持ち始めて、頭痛なんて最初からなかったかのように頭がぽやぽやとし始めて、顔が熱い。ふつふつと何かが湧き上がってくる胸が、胸がはち切れそうだ。溢れ出そうなくらい、なんだ、これは。……嬉しい…そう、とっても嬉しいのだ。
僕、やっと、やっと褒められた。
「…ぼく、ちゃんとできた…?」
そう尋ねると、彼は力強く頷いて、また僕の頭に手を乗せて今度はさっきよりも加減がわかったのか優しく撫でる。でも、首がガクガクとなるほど強く撫でられていた先程の方が心地が良くて、僕の方から押付けた。
あぁ、あぁ。どうして僕は忘れていたのだろう。彼は僕を叱ることはあっても、僕のしたかった事を汲み取って、手を引き、よくやったと、僕を否定したことは無かった。
体が熱を持って、頭がどろどろになる。あぁ、だめだ、こんなところで、だめなのに。体が言うことを聞かない。こんな所でSub spaceに陥ったら、彼に迷惑がかかる。彼は英雄で、彼のための祝賀会で、彼は戻らないといけないのに、ぼくが今こんなことになったら、やさしい彼は、ぼくを捨ておけない。でも、思考が、いしきが、ぐちゃぐちゃのどろどろになって、何も考えられなくなってしまって。
助けを求めるように、崖の橋に引っかかった理性は隊長と目を合わせた。ダメだと訴えかけ、もういいと、もう離れてもいいと訴えかけて。
ジィ、と見つめ合う時間は数秒、あるいは1秒もなかったのか。時間の感覚さえ曖昧になるほどの思考は、ひとつの声を確かに捉える。それは愛しい人からの声で、愛しい人からの言葉に違いない。無意識のうちに、耳を傾けた。耳を傾けて、彼の話を聞こうとして……、
「……堕ちろ、オロルン」
───────ぼくは、おちるらしい。
彼の声はビリビリと僕のSub性に響き渡って、瞬く間に思考を支配していく。崖に引っかかっていた理性は襲い来る海に呑み込まれ、何度も理性の皮を剥がすように波が何度も向かってくるのだ。僕は抗えない、抗う余力なんて残っていなかった。大人しく堕ちるしかなくて、それ以外の行動は何も許されていない。
「…ぁ、……あ」
ミツムシの蜜に、溺れたみたいだ。
彼の全てが愛おしい。彼の全てに委ねてしまいたい。彼に、僕を捧げたい。ぜんぶ、ぜんぶぼくが、つくしたい。
「よく出来たな。Come」
彼が、彼の膝を小さく2回叩いた。僕の頭はまるで働かないけれど、それをされると条件反射みたいなもので、そうしなければならないと脳が勝手に認識する。
僕は重い体をずるずると引きずって、彼の膝の上にのりあげた。彼の背に腕を回して、足も同様にするけれど、女の子のように柔らかくもなく軽くもなくて、無駄にある上背と角張った体つきは乗せていて楽しいものでは無いだろうに。
なのに彼は心底愛おしいという表情をしながら僕の頭をゆっくりと何度も何度も撫でる。
「……マーヴィカや旅人、シトラリに…イファ、だったか。随分と詰められた。渡せば、お前は俺に縛られると思い…すまない、あの時collarを渡す踏ん切りが付かなかった」
彼が、僕の頭を撫でながら何かを言っている。ばあちゃんやイファの名前が出たのは分かったけれど、ぜんぶ右から左に通り抜けていく感覚がして、理解ができない。
「お前の目が覚めた時、どうか受け取って欲しい」
……?わからない。なんの、はなしをしているんだろうか。彼はすごく真剣そうで、僕に尋ねている感じだったのは分かるけど、それいがいはよくわからない。……でも、彼が間違った話をすることはきっとない。だから、多分僕は頷いておけばなんとかなるだろう。
浅い思考で頷けば、彼の声に喜色が宿る。
「……そうか。言質をとるようだが、お前が他人のcollarを付けるなど腸が煮えくり返りそうだったのだ。狡い俺を許してくれ、オロルン」
彼の首筋に、頭をこすりつけた。やっぱり話の内容はりかいできないけれど、それでもいい。彼は、僕をわるいようには絶対しないから。
「…うん、うん……いいよ、きみなら、いいよ…」
─────
───
─
夜が明け、黎明が訪れる。
「受け取ってくれるか」
そう言って渡されたのは、黒色のcollar。
驚きで言葉も出ないでいると、彼は出直してこよう、なんて言うものだから慌てて止めた。
そんなわけない。君から貰ったものはなんでも嬉しいし、大事にしたい。
そんな思いが次々の胸の内から溢れ出して、思わず彼の袖を引っ張って、顔をこちらに向けさせて、collarを握る彼の手を僕の首にあてる。
そうして僕はすっと息を吸って、驚いたような彼の目をじっと見つめ、口を開いた。
「よく似合うだろう?」
だから、君の手で、僕に首輪をつけて欲しいんだ。