もし久々知の同室が尾浜じゃなかったらもし久々知の同室が尾浜じゃなかったら
ずっと嫌悪感を抱いていた。……訂正、嫌悪感ではないのかもしれない。少なくとも、良い感情ではないことは確かだ。
『お前が俺の同室? よろしくな!』
一年生の始めの頃、それこそ入学当初は気さくに話しかけてくれる良い奴だと思っていた。人に馴染むのが下手な俺をクラスの輪に入れてくれたり、授業の復習を手伝ってくれたり、感謝することも多かった。
違和感を抱き始めたのは、初めてのテストが返却された頃からだったと思う。
「今回のテストで、い組で一番点数が高かったのは久々知だ。皆、久々知を見習うように」
驚きに包まれる教室、疎らに聞こえてくる拍手。遠くから聞こえる「秀才だ」「い組の秀才だ」とささやかな尊敬の色を帯びた声。俺の手の中の答案用紙に書かれた百点の文字は堂々としていて、見ていて爽快な気分だった。努力が実るのは気持ちがいい。
「勉強に付き合ってくれたお陰で満点が取れたんだ。ありがとう!」
その日、部屋に戻って文机に向かっていた同室に感謝の気持ちを伝えた。本当にありがとうと思っていたからだ。素直に気持ちを伝えたに過ぎなかったが、直後、こちらを振り返った同室の顔を見て俺は驚いた。
悪魔のような顔だった。
眉間に皺が寄り、目は血走り、喉奥からは獣の唸り声のような低い声が響き、固く握られた筆は今にも折れそうだった。
「えっ……ど、どうしたの……? 何処か具合が──」
「なんでお前なんだよ!!」
「っえ……?」
ただただびっくりした。普段温厚な奴が突然怒鳴り声をあげたのだ。
「なんでお前だけが褒められるんだよ! 同じくらい勉強しただろ!? なら俺もお前と同じ点数取れる筈じゃねえか! なんなんだよ……! ……まさか、不正したのか? そうなのか? そうなんだろ!?」
「え、あ……え……?」
「じゃないとおかしいだろ! 何なんだよこの差は! なーにが秀才だ! お前が秀才なら俺は天才の筈だ!!」
「お、落ち着いて……っ」
「っ……!」
何を言われているか理解が追いつかなかったが、今にも暴れ出しそうな肩に手を乗せると、悪魔の形相は一瞬にして解け、瞳は正気を取り戻した。
「あ……俺、何を……」
「だ、大丈夫か……?」
「……悪ぃ、取り乱しちまった。ちょっと外の空気吸ってくる」
「あ、うん……」
同室はそう言うと足早に部屋を出て行った。残された俺は未だ現状理解が追いつかないまま、何気なく同室の文机を視界に入れた。そこに置かれていたのは半分程墨で埋め尽くされた紙と、二十点と書かれた答案用紙。なるほど、と納得した。俺と同じくらい勉強していたのに満点を取れなかったのが悔しくて、現実を受け入れられなくて癇癪を起こしてしまったのだろうと、脳は処理した。まだ未熟な歳だし、そういう時もあるよな、なんて甘く受け入れていた。
しかし学年が上がるに連れ、同室はみるみる豹変していった。初めの頃こそ勉強を教えてくれと頼まれ、自身のためにもなるし、と快く引き受けていたのだが、内容が難しくなってくると筆の進みが遅くなった。
「ここはさっきの答えを引用して──」
「さっきの? 絶対関係ないだろ、なんでそんなデタラメ言うんだよ」
「出鱈目じゃないよ。ほら、この問題文よく見て」
「ああ? ……チッ、そういうことかよ。……見下してんじゃねえぞ!」
「えぇ……?」
なんと言うかもう、被害妄想が激しいと言えばいいのだろうか。俺の善意が、相手方には全て悪意として書き換えられていく。それに疲れて距離を置こうとすると途端にコロリと表情を変えて良心に訴えてくる。正直、着いて行けなかった。
「俺と同室になる?」
学級委員長を務める勘右衛門に同室について相談すると、決まってこう返された。おちゃらけた感じで言ってくるのは、きっと俺を励まそうと気遣ってくれてるのだ。
「ありがとう。確かに勘右衛門と同室になったら楽しいんだろうけど、でも、あいつがああなった原因には少なからず俺がいるから……」
「いやいや、それ兵助関係なくない? 今でも勉強とか教えてやってるんだろ? それで逆上するんだろ? 意味不明」
「俺の教え方が分かりにくいんじゃないかな。一応改善しようと頑張ってはいるんだけど」
「だーかーらー、兵助は悪くないってば。このクラスでのあいつの評価聞いた事あるか? 零点通り越してマイナスだぞ? 外じゃ怪しい連中とつるんでるみたいだし、救いようがないんだって」
「うー……う、ん……」
「なぁ、今からでも先生に言って同室変えてもらおう。どうせその内あいつは自滅するし、俺なら絶対兵助にそんな顔させない」
「ははっなんだそれ。告白みたいだな」
「俺は本気なのにー!」
切りたいけど切りきれない、嫌いになりきれない中途半端な自分。そうやって、過去の穏やかだった頃に戻るかも、と、希望を捨てきれずに離れようにも離れられない状態がダラダラと続いていた四年生のある日、事件は起きる。
強姦未遂。加害者は同室の男、被害者は俺。
それは、鍛錬してくるとだけ告げられて、布団を自分一人分しか用意しなかった日の深夜だった。眠りについていた俺は荒々しく開かれた障子の音でぼんやりと意識が浮上した。
「んぁ……おかえり……?」
「……」
「んぅ……?」
返事がなかった。眠気が瞼を下げようと働きかけていたが、せめて風呂に見送ろうと半分夢の世界に浸っていた俺は、次の瞬間、突然襲った頬の痛みに一気に意識が覚醒した。
「っ──!?」
口の中にじわりと血の味が広まる。耳には呪詛のような言葉が雪崩込んで来た。
「お前のせいだお前のせいだお前のせいだお前のせいだ……」
「っは、んなっ、何して……ッ!? ちょ、馬鹿やめろ……!」
何の予告もなく頬を殴られたかと思いきや、今度は服を脱がされた。作法も何もない、ハイエナのような荒々しい所作だった。
「正気に戻れって! 何してるんだ!」
「うるせえ!! 全部お前が、お前がいるせいだ!!」
「俺が何したって言うんだ!」
「いっつも俺を見下しやがって、どうせ教師に股開いて媚び売って点数稼ぎしてんだろ!」
「はあぁっ!? 出鱈目言うな!」
事実無根だ。一体何がどうしてそんな結論に辿り着いたのか到底理解出来ない。伸びてくる手を必死に防御しながら、声を張り上げ抵抗する。それでも力では勝てなくて、上から押さえつけられ隠し持っていた苦無を腕に突き立てられた。
「ッ、ぁぁ……っ!」
カッと熱くなり、白い敷布団に赤が広がっていく。痛みに気を取られたその隙を突かれ、同室は俺の足を開くと粘着質な笑みを浮かべた。
「はっ、どうせ俺なんかはまともに卒業なんざ出来やしねえんだから、少しは思い出作らせろよな」
嘗ての思い出の中の人物と同一だと思えなかった。人とはこうも狂ってしまうのか。だくだくと流れる血が止まらない。足に触れている手は生温かくて、気持ち悪かった。成長途中の男の手が褌にかかる。
「ゃ……嫌だ、やめろ、やだっ、やだってばぁ……!」
「うるっせえ! いいだろ別に減るもんじゃねえしよぉ!」
「……なんだなんだ、何の騒ぎ……?」
「は……お前ら何して……」
「せ、先生ー! 先生、来てください! あっ勘右衛門……! 実は今──」
深夜に騒いでいれば当然隣室に迷惑がかかる。異常を感じた隣室の二人が様子を見に来て、先生を呼んでくれてからの記憶は、曖昧だった。
勘右衛門曰く、俺の同室……だった奴は、結局退学になったらしい。それを聞かされたのは休日の保健室で、差し入れしてもらった豆腐を食べていた時だった。
『退学……』
『そう。今回の件と、日頃の行いが積み重なった結果の退学。言ったろ、自滅するって』
手際良く俺の身体を塗れた手拭いで拭いてくれる勘右衛門が、平然と言ってのける。
『そう、だけど……』
『あ、もしかして罪悪感ある? もう、兵助は優しいんだから。いいんだよそんな顔しなくて。可愛い顔が台無しだぞ?』
『……うん……』
そう言って勘右衛門は抱き締めてくれて、俺の頭を撫でた。保護者のような奴だ。
『それにしても、ほんとびっくりしたんだからな。厠から帰る道で兵助の部屋の前通ったら怒鳴り声が聞こえてきたからさぁー』
『ごめん、深夜にうるさくしちゃって……』
『んーん! というかうるさくしてくれなかったら今頃どんなに恐ろしいことになってたか……想像するだけで怖いな』
『うん……』
『多分次の授業で注目されるだろうけど、気にしなくていいからな』
『うん』
『とりあえず俺を兵助の同室にしてもらうように申請しておくから、今はしっかり休養すること』
『うん。ありがと』
『いいっていいって。勘ちゃんに任せなさい』
どこかぼんやり話を聞いて相槌を打っている内に、テキパキと事を進めた勘右衛門によって丸く収まっていた。後日伊作先輩から自室に戻る許可を貰い部屋に戻ると、とっくに元同室の荷物は無くなっていて、入れ替わるようにして勘右衛門の荷物が置かれていた。
──こうして群青の今、俺は勘右衛門と同室関係になっている。何から何まで勘右衛門に頼ってばかりだが、勘右衛門は弱音一つ吐かず、むしろ嬉しそうに一つ返事で受け入れてくれる。「兵助のためなら何でもするよ」と、半分決めていた得意武器まで俺に合わせて変更してくれる程だ。こんなに甘えていいのだろうか。
「勘右衛門といると、俺、堕落してしまいそうだ」
冗談交じりでそう零すと、勘右衛門は笑って、
「そうしたら俺は兵助の何から何までお世話するから大丈夫」
と温かい抱擁をくれる。
「堕ちて堕ちて堕ちきっても、どこにでも俺が着いてくからな」
そう言う勘右衛門の表情は、俺の肩越しにあるせいで残念ながら見れなかった。
◇
「あいつ、遂に退学になったらしい」
「遂にかぁ……いや、よく耐えたよ」
「というか、学園もよくあいつを残らせてたよな」
「背後が強いからだよな。所詮虎の威を借る狐、ってね」
第四学年の某日。朝から教室は噂話で持ち切りだった。おはよー、と何も知らないフリして呑気に教室に入ると、扉近くに居たクラスメイトが一斉に勘右衛門に駆け寄り、小声で「聞いたか?」と問いかけた。
「何を?」
「例のあいつが退学になったって話だよ!」
「例のあいつ……ああ、あいつか」
ようやくか、と、勘右衛門は心の中で笑みを深めた。
もうこの場には存在しない渦中の人物に対するい組の評価は、最低と言っていいだろう。無学浅識、行尸走肉。全てにおいてい組の中で最下位。唯一長所を上げるとすれば声が大きいところだろうか。……否、忍たる者声が大きいのは却って欠点だ。
「噂によると、久々知のこと襲ったらしいぞ」
「あー、兵助美人だからな」
「なー。……って違うそういう話をしてるんじゃな……いや顔怖っ」
「えー、気の所為だよー」
危ない危ない、もしかしてこいつも、なんて思うとつい殺意が湧いてしまう。いつものお気楽な笑顔に戻すと、級友は話を続けた。
「あいつ、久々知に因縁付けて真夜中に襲ったらしい。殴って苦無刺して、流石に学園側も見過ごす訳にはいかないから退学」
「なるほど」
「いやぁ、正直居なくなってくれて気持ちが楽だよな」
酷い言われようだ。哀れだが、嫌われ者に居場所はない。追い出して正解だった。
入学してからずっと自分の傍に置きたいと思っていた意中の人、久々知兵助。彼の同室は、一目見た時から底辺の者だと直感が言った。
読みは当たり、物の扱いが雑だったり何かあると目に見えて不機嫌になったりと幼稚な面が見られた。やはりこいつは兵助に仇なす異分子だと再認識した。これは近い内にどこかへ追いやらないと、兵助に害をなす存在となるだろうと。
だから自滅に追い込んだ。兵助からあいつの自尊心を傷つける発言があったことを陰で仄めかし、怒らせ、自暴自棄になるよう仕向けた。大して兵助のことを知りもしないあいつの怒りの矛先はすぐ兵助に向いた。
すると、どうだろう。兵助は同室のことを俺に相談するようになった。理由は俺が学級委員長だから、とのことだ。こんなに学級委員長でいて良かったと思えたことはない。
暗い顔で真剣に同室について話す兵助は本気であんな奴と友好関係を改善したいと思っているようで、妬けてしまった。あんな奴が兵助の同室だなんて、不相応にも程があるだろう。何回俺が「俺と同室になろう」と声をかけても笑って流された。鈍感なところもまた可愛いが。
そうして起きたあの事件だ。大方、兵助の男としての矜恃を踏み躙れば自分が優位に立てるとでも考えたのだろう。嗚呼、浅はかな奴。そんなんで上に立てると錯覚するなんて。そも、兵助が人を貶めるようなことを言う筈がないのに。
是非自分を兵助の同室に、と売り込むと、難航したはしたが思ってたより簡単に同室になる権利を手に入れた。教師陣と信頼関係を築いておいて正解だった。おまけのような形で、先生方はあいつの処遇についての案を出す権利もくれた。理由の中には俺がい組の学級委員長だからという理由も含まれているのだろうが、権利は権利だ。
兵助が無意識の内にあいつに嫌悪感を抱いていたことを、俺は知っている。だからどうせなら苦しめて苦しめて地獄を見せてから退学させたかったが、そこまですると後に支障が出そうで辞めた。結局俺は、一番波の立たない案を出した教師に賛成しただけだった。
出来れば兵助には手を出さず、犯罪に手を染める等して学園から見放されてくれれば良かったものを、あの野郎は……。倍返ししておくべきだっただろうか。ああでも、俺の思惑通り自滅してくれた点だけは礼を言いたい。お前が愚直なお陰で、俺はようやく兵助と同室になれたよ、と。
「おはよう」
ふと、教室に入って来た黒髪が皆の視線を一気に集めた。噂話のもう一人の主人公はすっかり顔色も回復していてとりあえず安心だ。更にざわめくクラスメイトを気にも留めず、兵助は定位置に着席した。あまりにもいつも通り過ぎて、ただの野次馬である俺達が動揺してしまう。
「え、あいつほんとに退学になったんだよな?」
「実はそんなことなくて今日も全然学校に居ますー、とかだったらどうしよう!? 嫌なんだが!?」
慌てふためく者も出る中、兵助の隣を陣取るとその大きな瞳が俺を捉えた。自分だけが黒曜石のような瞳を独占している。この上ない愉悦感だ。
「おはよう、兵助。体調はどう?」
「おはよう、勘右衛門。すっかり良くなったよ。というか、外傷があっただけで体調は崩してないし大丈夫だってば」
「いーや、世の中には怪我をして熱が出る人間もいるんだ。心配するに越したことはないだろ?」
「そっか、ありがとう勘右衛門」
天使みたいな柔らかい笑顔が間近で見られる日がくるとは。感無量。つくづくあいつなんかには勿体ないと思う。
「何かあったらすぐ言えよー? 兵助のためなら何でもするからさ!」
「そんな、悪いよ」
「いいから! いっぱい俺に甘えてって! 今まで出来なかった分もさ、な?」
「えぇー……?」
俺に甘えてほしい。そうしたら俺は、お前のことをとびっきり甘やかして、溶かして、融合させるから。いずれ俺無しじゃ生きていけなくなる日が来るのを、辛抱強く待っている。
さて、次は兵助の世界のど真ん中を陣取らなければ。兵助がこの手に堕ちるまで、あと──。
[完]