出会い 繰り返す自問自答の中で、もうとっくに答えは出ていた。いつまでも進めない、狂ったように生きていく毎日で何度も思うんだ。死ぬ勇気も、汚れた自分を抱えて生きる覚悟もない。そんな自分が、あの時、死ぬべきだったんだって。ただ、もう過去には戻れない。だから繰り返す。終わりの見えない、答えのない、無意味な毎日を。
大切なものが壊れる時はいつも一瞬だ。どれだけの想いを持っていても、意味なんてないんだ。だから、もう、◯◯◯なんて──。
日光が眩しい。いつの間に日が昇ったのだろうか。時計の短針は十一を指していた。隣に置かれた開けっ放しのピアノと寂しく散らばった楽譜を見て、少年はため息をつく。ああ、またやってしまった、と。
『まともな生活もできないなんて、本当にお前はダメな人間だ。まぁその汚く醜い姿がお似合いなんだけどな。』
「……うるさいな。朝くらいは静かにしていてくれ。」
どこからか聞こえてきた声に抵抗するように、少年は起き上がってフラフラと洗面所へ向かう。顔を洗った際に見えた自分の徹夜明けの顔は、とてもじゃないが最愛の家族に見せられるようなものではない。最低限容姿を整え、コンシーラーでこびりついた隈を薄くする。固まった口角を無理やり上げてみたがやはりその笑顔は歪だった。
綺麗な笑顔を作ることは諦めて、リビングへと足を運ぶ。不格好だが、今の自分でできる最大の笑顔を作る。
「おはよう。母さん、父さん。今日は学校に行く日なんだ。………ごめん。」
その声に返される声はなかった。しかし、少年はそれを気にしてはいない。これが少年にとっての“日常”だからだ。もうお昼の時間だが、少年にとっては朝ごはん兼昼ごはんである食事を作るためにキッチンへ行き、火をつけた。しかしその火はすぐ消されることとなった。先程の自分が散らかしてしまった部屋の存在を思い出したからだ。はぁ、と今日何回かのため息をつき、重たい脚を動かした。部屋の扉を開けた少年は散らかった部屋を眺めた。散らばった楽譜は所狭しと部屋中に広がっており、散々な状態であった。まずはピアノを閉じ、次に楽譜をまとめようと腰をかがめた。
────しばらくして、そこそこ床が綺麗になってきた。先程中断してしまった食事の準備の続きをしようかと動き出した、その時だった。
ピンポン───
一つ。音が部屋に響いた。
「えっ………。」
その音に少年は目を見開き、また一つ“ドクン”と心音を響かせた。ざわざわと少年の胸を騒がせるのは数年前、少年に起きた悲劇から起因するものであった。いわゆる“トラウマ”というものである。だんだんと呼吸が荒くなっていく中、力の入らない脚を無理やり立たせた。ガタガタと、みっともなく手足が震えていた。もう“あの時”からは何年も経ってるというのに、チャイムの音一つで崩れていく己の身体が嫌になる。だが、そんなことを考える余裕は今の少年にはなくなっていた。
「ひゅっ……はぁ………は、はやく、でないと………お、ちつけ、はッ………あの時とは違うんだ……」
乱れる呼吸の中、自分に言い聞かせるように言葉を発した。その行動とは反対に、体は縮こまって耳を強く押さえていた。何かに怯えるように、何かから身を守るように。何か得体の知れない怪物が近づいてくるのを、怯えながら待つ子供のように。しかし、その抵抗も虚しく───
クスクス
アハッ
ハハハッ
────突然、複数の声が少年の頭の中に響いた。
「ひっ、い、いやだ!!くるな!!!」
少年は空中に向かって叫んだ。その声に反応するよう、少年囲むように周りに影ができる。そこに現れたのは大量の目。天井にも、壁にも、床にも、全方向に大量の目があった。
クスクス、クスクス────
大量の目が少年を嘲笑っている。そしてそれはだんだんと言葉としての形を成してゆく。嘲笑う声、ウワサする声、軽蔑する声、悲しむ声、無数の声が少年の頭の中で暴れ回る。
うるさい────
『ねぇ、あれが噂の〇〇〇?気持ち悪い…。もうちょっと離れようよ。』
何も知らないクセに────
『うわっ、〇に触られたー!汚れる〜!殺される〜!!』
もう黙ってくれ──
『アハハッ、アイツらに目をつけられてるなんてかわいそ〜』
気持ち悪い、気持ち悪い────
『お前の所為だ。お前さえ居なかったら〇〇も、母さんも、父さんも、今ごろ幸せに…』
「うるさい!うるさいうるさい!!な、んで、なんでみんなしてオレを責めるんだよ!!オレは………ただみんなに…」
ポタポタと床を濡らしたのは涙なのか、汗なのか、はたまた別の体液なのか。激情を持て余した状態の少年にそれを知る術はなかった。
「うっ……はぁ、痛い、痛い…………苦しぃ、っぅ……おぇ、………うぇ、うぐっ…。」
抑えていた感情が次々に溢れ出して来て、コントロールが効かなくなる。それと同時に気持ち悪さが限界に達し、ビチャビチャと不快な音をたてながら嘔吐する。目まぐるしく少年の視界が変わっていく中、ただ一つ、無数の声だけはお構い無しに少年を責め続ける。
『お前がいなければ』『存在が汚れてる』『人殺し』
「ちがう、オレは……ぁ……ッ、ぅ、」
その声を否定したくて、認めたくなくて、掠れた声を発したその時。首を絞められる感覚を覚える。上手く力の入らない眼を必死に動かし、なんとかその存在を捉える。そして、その元凶である影、否、「〇〇〇」は少年に囁くのだ。
『お前が一番よくわかってるんだろ?あの時本当に死ぬべきだったのは………』
「っ……ぁ………うるさい!!!!」
その声を、その存在を振り払うように手を暴れさせた、それを皮切りに少年は────
「………さ、…かさ!!」
「…っ!!」
暗い闇の中から投げ捨てられたように意識が戻ってくる。気づいた時には、目の前に緑かかった灰色の髪をおさげにした少女が心配そうに少年を覗いていた。
「大丈夫?」
「ね、ね……?」
「そう、寧々。やっと戻ってきた。どこか気持ち悪いところとかある?」
「気持ち悪い…?……………あっ、オレ、またっ…!ごめ、」
「大丈夫、大丈夫だから落ち着いてよね。私も今来たばかりだけどまだ授業までは時間あるし、部屋もそこまで散らかってないから。ただ、ちょっと破れちゃった楽譜もあるみたいだけど。」
そう言ってオレをなだめながら部屋を見渡す少女、草薙寧々に合わせて少年も部屋を見渡した。まず少年は反射的に時計を見た。短針が三を指している。そこから少し視線を下げた。そこには先程整えたはずの楽譜が無惨にも散らばっていて……。せっかく片付けたのにななどと頭の片隅で愚痴る。
「はい、一応頓服飲んでおきなよ。」
「……ありがとう。」
寧々の昔から変わらない優しい眼差しに胸が温かくなる。でもなんだかその優しさを、汚れた自分が受け取ることが烏滸がましく思えて、そんな思考をすることも寧々の優しさを無碍にしてしまっているような気がして……。まとまらない思考の中、先ほどの影の言葉が頭に浮かぶ。『お前さえ死んでいれば。』何度も言われた言葉だ。
(本当はオレが一番わかってる。でも、何度も、何度も何度も、繰り返して、絶望して、もう戻れない過去を悔やみ続けて……。もう、疲れた。)
そして少年、──天馬司は今日も出られない自罰の海に溺れるのだった。
午後三時。少し整えられた部屋の中、目の前にいる寧々の旧友は正座をして床に手を置き、頭を下げている。完璧な謝る姿勢だ。
「毎度毎度、本当にすまない。また迷惑をかけた。」
「だから、迷惑じゃないって何度も言ってるでしょ?」
「だが……。」
(こんなお決まりのセリフ言ったってこのバカは納得しないんだろうけどね…。)
多少顔色は悪くとも少し調子を取り戻したような昔馴染みに安心する。学校帰りに少しだけ司の様子を見に行こうと連絡を入れたが、返信が全くなかったので何かあったことは察していた。このような状況に慣れているとはいえ、散乱し、嘔吐した跡のある状態の部屋に座り込む司を見るのは心臓に悪い。おそらく、過去を彷彿とさせるようなことがあったのだろう。郵便ポストにお届けものがあったから、チャイムの音でも聞いてしまったのかもしれない。過去にあったことはある程度聞いてはいる。病院にも通ってるし、早く回復して欲しいと思ってはいるが、司の自罰的な部分が悪い方向に作用している気がしてならない。そんな寧々も人に何か言える程自分に対して前向きになれるわけでもないのだけれど。そんなことを考えながらカバンを持って立ち上がる。
「じゃあ、私もう行くから。学校、気をつけて行ってきてね。」
「ああ、ありがとう。おばさんにもよろしくと伝えておいてくれ。」
「はいはい。」
感謝の言葉を述べながらも、一貫して無表情な旧友。でも寧々にはその言葉にしっかり気持ちがこもっているとわかっているから、例え表情はなくても心は温かくなる。そんな司との会話は悪くない。そんなことを思いながら司の家を出る。少し歩き、自分の家のドアを開ける。ふと思い出し、隣の家に視線を向けてみる。
(あ、そう言えば今日、アイツ補習だったんだっけ……。ちゃんと出席してればいいんだけど。本当、世話の焼ける知り合いを持つと毎日忙しくて仕方がないな。)
でも、家にずっと引きこもってた時よりも自分の表情が柔らかくなったと自覚しているから、案外この生活は自分にとっても良い経験なのかもしれない。
(もし、あの2人が絡んだら…。ふふっ、ちょっと面白そう。)
なんてありもしないことを考えながら、寧々は自宅へと足を踏み入れるのだった。
「はぁ、早く帰って作業したい……。」
日が沈んでいく廊下の中、そうぼやくのは紫髪に水色のメッシュが入った奇抜な髪が特徴の長身、神代類であった。類はなんとも不運なことにテストとインフルエンザが重なってしまい、追試を受けさせられていた。やっと終わった頃にはだいぶ日が沈んでいた。早く帰ろうと、動かす足が早くなっていく。そんな時───
「神代類くん。」
突如、後ろから声がかけられた。それに反応し振り向けばそこには青みがかった長い緑色の髪を、少し高めのサイドにまとめているのが特徴的な女性が立っていた。
「……ミク先生。どうかしましたか?」
音楽の先生である彼女には1年次の音楽選択で教わったくらいだ。そこから関わっていなかったため、声をかけられた理由がわからなかった。早く帰りたい気持ちを抑え、なるべく丁寧に言葉を返す。
「ちょっと音楽室に来てみない?」
「えっ?僕はこの後………って、ちょっと!急に引っ張らないでください!」
突然腕を掴まれ、強引に引っ張られる。それから何の説明もなしに連れてこられた音楽室。そこには明かりがついていて、もう下校の時間なのに何故だろうと疑問を持つ。息を整えていると、分厚い防音扉の中からかすかにピアノの音が聞こえてきた。はっきりと聞こえないそれに耳を済ませていると──
「ほらほら、気になったなら入っちゃいなよ!」
「ちょ、待ってください、気になるなんて一言も……」
またもや強引に扉を開けられ、中に押し込まれた。