暁if 小話「あー、これはもう元には戻らないだろうね」
暗くじめじめとした診察室で、老年の医者がそう言った。ここは、雨隠れの里の地下街に位置する診療所、いわゆる闇医者だ。小南の紹介で、精神医療に詳しい医者がいると聞き、訪れてみたが、どうやら無駄足だったようだ。オビトは溜息をついた。
当の本人といえば、診察用のベッドに腰かけて焦点の合わない眼であちこち見まわしている。どうせここがどこかもわかっていないのだろう。
「忍の世界には多いんだけどね、限界を超える精神的重圧にあてられると、精神が錯乱してしまうんですよね。こうなると元にはなかなか戻らなくてね」
「そうか」
要するに無理、お手上げということだった。
医者がカカシを一瞥して言う。
「ところで、こいつの左目は木の葉の里の血継限界じゃあねぇか?」
「…」
「お前さん、こういう価値のあるもんを地下街で見せびらかしちゃぁいねけぇよ」
オビトは無言で医者の動向をうかがう。カカシは相変わらず会話など全く耳に入っていないようで、ベットに腰かけたままキョロキョロしている。
「飼い主さえ潰しちまえば、こっちはどうとでもなりそうだ」
医者がカカシを見ながら、オビトに呼びかける。
「やめておけ、貴様ではかなわん」
オビトの一応の静止も甲斐なく、医者は懐に隠していた暗器を取り出すとオビトに飛びかかった。その瞬間、ベッドの上にいたはずにカカシが医者の目の前に現れる。カカシの眼は真っすぐと医者を見つめていた。刹那、閃光が医者の胸を貫いた。見とれてしまう程、無慈悲で残酷で無駄のない太刀筋だった。だからやめておけと忠告したのに…とオビトは頭を抱える。
ぐっという呻き声とともに、医者は崩れ落ち床に倒れた。医者が絶命していることを確認すると、オビトは診察室の奥の部屋に視線を向ける。小南からの情報だと、この奥の部屋に、目当てのものがある。オビトの目的ははじめからこの部屋にあった。この医者は悪趣味なコレクターであると供に、精神医療界の名医であると小南から聞き、患者を装いついでカカシの診察をしてもらったが、そちらの方ははずれだったようだ。
奥の部屋に入ると、封印札の貼られた木箱や巻物が置いてあった。どうやらこちらの方はビンゴだったようだ。目当てのものを発見すると、オビトはカカシに声をかける。
「おい、カカシ、行くぞ」
そうオビトが呼びかけるとカカシははっとしたようにオビトの方を見てオビトに駆け寄る。
カカシの心が壊れてしまった原因は、散り積もった精神的な重圧だ。仲間の命を預かる重圧、守れなかった仲間たちへの悔恨の念、過去の自分への怒り、すべてがカカシの精神を蝕んで、崩壊させた。
徴候はあった。しかし、戦後の不安定な時代にカカシの精神面を気にかけることができる者はなかった。周りの者が気付いた頃には、カカシの精神面は元に戻れないほど悪化していた。カカシは心の殻に閉じこもるようになり、誰の呼びかけにも応えなくなってしまった。はじめはカカシを気にかけていたものも少しずつ減り、一人また一人とカカシにガラクタの烙印を押して去っていた。
オビトがカカシを仲間に迎え入れたのはその頃だった。カカシの前にオビトが姿を現したとき、まったくカカシは驚かなかった。
「やっと迎えに来てくれたんだね、オビト」
そういってカカシはへにゃりと笑った。
普段のカカシは、焦点の合わない目でどこかを眺めている。そして時折笑ったり泣いたりする。心の殻に閉じこもって、決して出てこようとはしない。それでも、オビトの呼びかけには反応する。それ以外の人間の呼びかけには全く反応しない。このカカシの生態にオビトは優越感を覚えずにはいられなかった。ただ、反応するといっても大した返事は返ってこない。調子がいいときに、「オビト、なーに」とにこりと笑う程度だった。
しかし、オビトが敵意を向けるものが現れるとカカシのこの様子は一変する。焦点の合わなかった目は、瞬時に敵を捉える。殺戮マシンと化して、敵の命を無慈悲に奪う。この生態は、多少の扱いずらさがあったがオビトにとって非常に便利なものだった。カカシはオビトに向けられる敵意を動物的な本能でかぎ取り、逃さなかったからだ。信頼できる仲間がいないオビトにとって、カカシはもっとも信頼できるボディーガードだった。
「おかえりー」
暁のアジトに帰還すると、ゼツが能天気な声で出迎える。オビトは持ち帰った木箱や巻物をゼツに放り投げる。
「巻物は回収した。あとは任せる」
「えー、もう人使い荒いなぁ」
「人ジャナイケド」
ゼツがお決まりのギャグを披露する。同じことを言うくらいならオビトは舌を噛み切って死んだほうがマシだと思っているが、ゼツは上機嫌だ。なにかと万能な柱間細胞だが、コメディには対応していない。
黒ゼツの声を聞いてカカシは黒ゼツをじろりと睨みつける。カカシがこんな反応をする相手は他にいない。会ったこともないカカシに本能で嫌悪されるマダラに「いい気味だ、じじい」とオビトはほくそ笑み、優秀な犬の頭を撫でてやった。頭を撫でられたカカシはふっと視線をゼツからオビトに動かすとご機嫌そうににこにこと笑った。