あざやかに漣む「おまえって楽しいことあるのか?」
いつものような揶揄ではなく、本当に疑問だとでも言うように発せられた言葉に憐れみさえ感じて、藍忘機は声の主に向きかけた顔を正面に戻した。
くだらない。
「おい、待てって。無視するなよ!」
相手にするだけ時間の無駄だ、と素通りした背中にかけられた少し慌てた声を無視する。
この気持ちが、なんなのか考える必要など一切なかった。
「藍湛、おまえも行こうよ」
「行かない」
「これ食べるだろ?」
「いらない」
成り立たない会話に飽きもせず、魏無羨は藍忘機に話しかけることをやめない。いつも魏無羨と一緒にいる、義弟の江晩吟は呆れたように藍忘機に構うのはやめろ、と肩を強く叩き、清河聶氏の聶懐桑が、怯えたように罰が怖くないんですか、と袖を引っ張っている。
それに、わかったよ、と魏無羨は肩をすくめると、結局その二人と、その他の少年たちを引き連れて、振り返りもせずにどこかへ去っていった。
彼にとって自分は、少し珍しいだけの体の良い暇つぶしなのだろう。
心の底から迷惑に思っているのに、目で追ってしまう自分に嫌気が差す。
気まぐれで声をかけ、気持ちをかき乱す、彼はそういう種類の人間だ。その瞳に映るのが自分だけでないことなど、端からわかっている。
雑念を消すために、藍忘機は風を入れるために開けていた窓をきっちりと閉めた。
感情のまま自分勝手に振る舞う人なのだ、と思っていた。
退屈であれば座学の最中だろうが悪戯をし、言ってはいけないことの区別もつかず、罰として命じられた蔵書閣での筆写ですら終始ふざけていて、最後には藍忘機に怒声をあげさせるほどの嫌がらせをした。
いくら才があっても、同じ年頃の少年たちから抜きん出て能力が高くても、どうしようもない不真面目さはとても許せるものではなかった。
寒潭洞での経験を通しても、それは変わらないはずだった。
それなのに、彼の誓いを聞いたとき。
心が動いた。
翌朝、派手な喧嘩の罰として跪く魏無羨の身体が震えていて、はじめて自分から声をかけてしまった。だが、実際には、魏無羨は蟻で遊ぶという年端の行かない子供のようなことをしており、らしくもない嫌味を言ってしまった。声をかけたことを後悔さえした。
理解できなかった。
あの誓いを、彼の怒りの在処を知ったような気になっていただけなのだろうか、と。
それなのに、静謐だった心に漣を起こすのは、いつも彼だった。
潭州の街で、人混みに躊躇した自分の腕を掴んで、空からひらひらと舞い落ちる花びらの中へと連れて行かれたとき、確かに白い世界に色がついたのだ。
これは夢なのだ、と途中から気づいた。
こんなふうに座学時代を、彼が夷陵老祖と呼ばれる前の頃をなぞるようなものは久しぶりだった。魏無羨が藍忘機の目を見て、話しかける。笑いかける。手をのばす、そんな夢は。
いつも夢は、取り返しのつかない場面を幾度も繰り返す。
彼は決して責めなかった。
ただ問うただけだ。
何が正しいのか、と。
それに答えられなかったら、私は道を開けるしかなかった。
彼がしたことすべてが正しい、とは今も思えない。彼の残虐さも目の当たりにした。
だが、それでも彼のそばにいるべきだった。彼が掴んだ手を振りほどき、自ら落ちていって、やっとわかったのだ。
知る必要もないと思っていた、気持ちの名前を。
もうずっと前から惹かれていたのだ。
その心に、指先に、触れるたびに深く深く。
彼を信じられなかったときから、もう触れることは許されなかったのに。
藍忘機と彼は呼んだ。彼の名を呼んでも、彼を見ても、たとえ穏やかに会話していたとしても、彼が藍忘機の目を見返すことはなかった。
彼が決して目を合わさず、二人の間に明確に線が引かれたことに気づいているのに、どうにもできなかった。
思えば、彼が私の制止を聞いたことは一度もなかった。
彼の心にいない自分を思い知らされ、気づくのだ。いつだって私は彼を止めようとしていたことに。
視界を夜が覆っていく。
「おまえがうたた寝なんて珍しいな」
「…魏嬰?」
外の匂いと冷気を纏いながら魏無羨が、藍忘機の座っている卓の正面に座った。
「うん、今帰った。寝てていいって言ったけど、こんなところで寝るなよ」
靴を脱いで、横に放ると、床下から酒を手に取る。
「一杯だけやって寝るよ。おまえはもう寝る?」
「湯を用意する」
「これから?…まあ、でもおまえも入るなら一緒に入ろうかな。いいだろ?」
甘える魏無羨に否やなどあろうはずもない。頷いて、魏無羨が酒を煽るのを見つめる。
「ある」
「へ?」
「楽しいことはあるのか、と昔、おまえが聞いた」
「そんなこと聞いたか?」
心当たりはないが、忘れっぽい自覚があるためか魏無羨は曖昧に笑った。そんな彼の髪を撫でると、不思議そうに見上げる安心しきった瞳が藍忘機だけを映す。
「おまえが傍にいるとき、私は楽しい」
「…そ、そうか。…うん、俺も楽しいよ!」
案外照れ屋な道侶は赤くなる顔を隠すために、それ以上に嬉しさが堪えきれずに抱きついてきた。それを、しっかりと腕に閉じ込めると、耳元で囁いた。
「うん」
何度でも、恋に落ちる。
あの頃、恋と呼ぶにはあまりに苦い執着を甘く上書きしながら。