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    Jin

    @ashice2017

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    Jin

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    藍忘機が記憶喪失になる話。
    ふたりは道侶設定です(原作ベース)
    まだ校正前のため、支部に上げるときは大分変わってまいます💦それでもよければ!
    ハッピーエンドです。

    在りの遊び 突き飛ばされたのだ、と気づくのには時間がかかった。
    牀榻から転げ落ちて、まだ半開きの両の眼を擦りながら、藍忘機を見やった。
    おまえが寝惚けるなんて珍しい、と軽口を叩こうとして、おや、と思う。
     こちらを見る藍忘機の視線は終ぞ向けられたこともないほど、冷たく、そればかりか怒りすら宿していたのだ。纏う空気も随分とピリピリとしている。
     様子のおかしい夫に、魏無羨は昨夜の名残のある重い体を起こした。
    「なんだ、昨日の続きか?」
     いつものように夜をともにしたとは言え、床に入る前に一悶着あったことを思い出し、頭をぼりぼりと掻く。
     それには答えず、冷静さを装う硬い声が、落ちてきた。
    「君は誰だ?なぜここにいる?」


    「藍湛がおかしい」
     そのまま静室で、いくつかの問答にいつもの調子で答えていたところ、案外気の短い藍忘機に「出ていけ!!」と青筋を立てて怒鳴られ、魏無羨はこれはまずいな、と早々に藍思追の部屋に避難してきたのだった。
     既に朝の務めの行く準備が終わっている藍思追は、藍景儀とともに迎え入れたものの、にわかには信じがたく首を傾げた。
    「魏先輩がなんかしたんじゃないんですか」
     失礼なことを言う藍景儀の頬を魏無羨がぎゅっとつねってやると、藍思追が困ったように見上げてきた。
    「でも、含光君が怒鳴りつけるなんて」
    「いやいや凄かった。ありゃ出て行かなければ、もう少しで避塵が飛んできたな」
    「何やってんですか、あんた」
    「まあ、記憶がないみたいだから仕方ないだろ」
    『えっー!!!!』
     気持ちがいいくらいの二重奏に、魏無羨は耳をふさいだ。
    「ど、どういうことですか?」
     途端に慌てだすふたりに、こちらが知りたいくらいだよと嘯きながら、まあ、とにかく、と黙らせるために人差し指を突き出した。
    「どうしてそうなったかはよくわからんが、今、あの藍湛のそばに俺がいるのはまずいのはわかる。俺のことはすっかり忘れているみたいだけど、自分自身が誰かはわかっているようだから生活には支障がないだろ」
     そんなわけないでしょうが!と騒ぐ藍景儀の額を指で弾くと、魏無羨は二人に言い聞かせた。
    「二、三日、外に出てくるから、おまえらも余計なこと言うなよ。特に道侶だとかは、絶対に隠しておけ。今のあいつが知ったら卒倒しかねない。あんなでかいヤツ、誰も支えられないんだから」
     不満そうなふたりを渋々ではあるが、頷かせる。この二人に任せておけば門弟の方はどうにでもなるだろう、という腹だ。
     あとは弟に甘い宗主だが、聡い人だから弟の様子を見てある程度理解してくれるだろう。今彼のところに行って藍湛とはち合わせるほうが面倒くさいことになる、と判断してのことだった。
    「わたしたちは出てしまいますが、こちらを好きに使ってくださって構いませんからね」
    わざわざ街に下りなくても、と言外に忍ばせる思追の頭をひと撫でして、「遊びに行くわけじゃない」とにやりと魏無羨が笑ってみせると、それだけでふたりとも、昨日まで出ていた街や山に原因を探りに行くのだ、と勝手に誤解してくれる。まだまだお子ちゃまだな、と魏無羨は知らず目を細めた。

    「さて、どうしたものか」
     二人が出ていって、がらんとした部屋に胡座をかき、思案する。
    余計な心配をかけたくなくて、ああは言ったものの、事態はかなり深刻だ。
    特定の記憶だけ失くすことなど、人より多くの見聞があると自負する魏無羨でも聞いたことがなかった。
     また、藍忘機の氷のような張り詰めた雰囲気は、ここ最近の、時には魏無羨を驚かせることすらある、大人の余裕とはかけ離れたもので。魏無羨にもうまく説明はできなかったが、記憶の喪失と言うよりも過去への退行が近いような気がしていた。
     まるで、魏無羨と出会う前の、校服の白が眩しいあの頃まで、藍忘機は戻ってしまったかのようだ。
     静室のやりとりなど、あの頃の藍忘機としているようなものだった。清く、正しく、融通がきかず、雲深不知処から異物を排除しようとするその姿は懐かしく、すこしだけ寂しかった。
     俺にあんな態度を取って後悔するのはおまえなんだからな。
     元に戻ったときに落ち込むであろう夫のことを考えると、心配にさえなるが、まずは元に戻るかどうか、だ、魏無羨はすくっと立ち上がった。
     出かける前に蔵書閣でめぼしい本を乾坤袋に入れ、心当たりのある場所をいくつか回ってみるしかないだろう。
    まずは、ここで原因と解決方法を調べるのが一番良いのはわかっている。どんな貴重な書物も、雲深不知処より揃っているところなどないだろうから。
     それでも、魏無羨にここにいる選択肢はなかった。
    雲深不知処にも大分慣れ、規則ばかりのここの生活も嫌いではなかった。
     俺が居場所だと思っているのは藍湛の隣りで、俺を要らないというおまえのところではないんだよなぁ。
     そう思うと、魏無羨は、居心地の悪いばかりのここから一刻も早く抜け出したいと思うのだった。
     
     

     姑蘇のお膝元だけあり、賑やかなのにどこか品が良い街を魏無羨が気ままに歩いていると、後ろから跡をつけてくる騒々しい気配を感じる。
     撒くことは簡単だったが、うろつかれるのも面倒で、敢えて気づかないふりをして大通りの先の裏路地に黒衣を翻し入っていく。
     急に姿を消した魏無羨を追いかけようと、無防備に姿を表したふたりの頭を、待ち構えていた魏無羨は、順にぱしっぱしっと笛でうった。
    「油断しすぎだ」
    「う、魏先輩!!すみません」
    「何やってんだ、あんた、やっと見つけた!!」
     各々、らしい言葉を口にしながらも、じっとこちらを見るふたりからは、もう逃さないという気迫を感じる。
    「物々しいな。目立つから店に入ろう」
     両隣に立つふたりを「おいおい、俺はお尋ね者かよ」と揶揄っても、あまりに硬い表情のため、諦めて、黙って連行されることにした。
     今回の件が、藍忘機に何かあるような障りではないと確認済みのため、魏無羨は二人の用向きを心配していないつもりだったが、開口一番がそれではないということは、そこはやはり問題ないようだ。
     であれば、なかなか戻ってこない魏無羨を心配しての行動だろう、と思うとすこしばかり面映い気持ちになる。
     席につくと、まずは藍景儀が、ジトッとした目でにらみながら責めてくる。
    「あんたの二、三日は、七日なんですか?」
    「そんなことはないけど…あれ、もうそんなに経ったか」
     白々しい言葉に藍景儀が気色ばむのを抑えて、
    「魏先輩、心配しました。帰っていらっしゃると伺った日から何日もお姿が見えないので、何かあったのではないかと」
    「いや、悪いな。俺は大丈夫だよ」
    「ご無事ならいいんです。それで、何かおわかりになったのでしょうか、含光君はまだあの状態で」
     何かわかっていれば帰ってこないはずがないという若者の信頼を壊すのは気が引けたが仕方がない。
    「原因はわかった。含光君の心身に影響があるものじゃないから放って置いても問題ない」
    「良かった。では、時間が経てば元に戻られるんですね」
     笑みを浮かべた思追の横で藍景儀が胡乱げにこちらを見ている。
    「だったら、なんですぐに戻って来ないんですか?」
    「冴えているじゃないか、景儀くん。含光君の記憶は戻らない。だから俺が雲深不知処に戻る理由もない。わかったかな?」
     せっかく茶化して言ってやったのに、二人の顔色はみるみるうちに青褪めていった。
    「ほっ、本気で言ってます?」
    「本気」
     魏無羨の目と口は不自然なほど弧を描き、にっこりとした表情を浮かべた。
    「そんなことをしたら含光君が悲しみます」
    「前提が違う。絶対に思い出さないんだから、悲しむこともない」
    「そういうことじゃなくて、どうにもならないんですか?!」
     本当のことを言うべきか、すこしだけ迷って、決める。
     心はずっと凪いでいる。
    「どうにもならない」
    「…含光君だったら絶対諦めない」
    「そうかもな…でも、俺は含光君じゃない。夷陵老祖だ」
     二人がその号で自分を呼んだことはなかったな、と改めて思う。
     悲しいかな。
     根無し草は前世で卒業できたと思ったのだが、結局のところ、こんなに自分を慕ってくれるふたりですら、魏無羨をここに留め置くことはできないのだ。
     それほどまでに、深く愛した人がいたからこそ離れるしかないのだ、ということに魏無羨は気づかず、凪いだままの心を持て余して彼らを見やる。
     思追の固く握りしめられた両手は真っ赤になっていた。
    「で、ですがっ…わたしは諦められません。おふたりが離れてしまうなんて…駄目です」
     理屈も何もない思追の、その震える手を、魏無羨はやさしく取った。
    「ごめんな」


     全く納得していない二人を雲深不知処に帰し、数日前から取っている宿の部屋から見える行き交う人々をぼんやりと見ていた。
     二人には言っていなかったが、藍忘機の記憶を元に戻すことはできる。
     原因は突き止めた。
     大した力もない妖の仕業。
     藍湛とふたりで行った夜狩りで、悪さをしている怪を倒した場所にいた妖。魏無羨が軽い怪我をしていたのもあり、特に被害が出ているわけではないから、と深追いせず見逃したそれ。
     弱くとも、人通りの多い山道そばで生じたために人と会話することができた妖は、数日前に見つけ出した魏無羨の問いに薄く甲高い声できゃらきゃらと笑った。
    「見逃してくれたから、お礼をしたの。辛い記憶を消してあげたの」
     人と理りの異なる妖は、純粋に良いことをしたと思っているようで、記憶以外の影響がないこと、それ以上の力は持っていないことなど聞いたことはすべて答えた。
     二度とするなよ、と妖に念押しして、山を後にした。
     藍忘機の様子から記憶の退行かと推測していたが、実際には記憶の封印のようなものだった。
     記憶を取り戻す方法はふたつ。
     ひとつは原因となった妖を消すこと。それは魏無羨にとっては造作もないことだったが、選ばなかった。
     もうひとつは、藍忘機にしかできないことだが、あまりに当たり前で単純なことだった。
     弱い妖の術などそんなものだ。
     だから、賭けたのだ。
     あの藍忘機では期待薄ではあったが、万が一に賭けて、往生際悪く、この街に留まっていた。
     七日、と決めていたから明日の朝にはここを発てば良い。
     蔵書閣から持ち出した本は先ほどふたりに預けたし、十日ほど前の例の夜狩りでの怪我は跡形もない。
     金丹があるがゆえに、そこそこ長い生が約束されているというのも皮肉な話だ。もう必要ないというのに。
    「あんなに頑張ったのになぁ」
     そっと薄い腹をさすると、苦い笑みが浮かぶのが自分でもわかった。
     まだまだ弱い金丹を練るために無茶をしては藍忘機の眉間の皺をつくっていた事を思い出す。
     最後の夜の諍いもそれに端を発したものだった。
     心配するなという魏無羨と、だったら気をつけろという藍忘機。藍忘機は怒ってなどいなかった。過保護なくらいに心配しても、魏無羨が雲深不知処の外へ出かけることも、藍忘機を伴わずに夜狩りに行くことも止めはしなかった。
     ただ、藍忘機は魏無羨が怪我をするたびに、ひどく心を痛める。それを見ていられない魏無羨が隠そうとして結局見つかり、苦言を呈される。
     あんなにも藍忘機の言葉を素直に受け取れなかったのに、今になって魏無羨は冷静に振り返ることができた。
     ただ焦っていたんだな、と。
     十年以上も待った藍忘機をもう置いていってはいけないような気がして、金丹を藍忘機と遜色ないものまで練り上げようと焦っていたのだ。
     ふと、窓に影が差したかと思うと、魏無羨の見知った顔が上から姿を表した。
     温寧だった。
    「おまえなぁ、そんなふう屋根から来るのはやめろと言っただろ」
     そうは言いながらも、部屋に迎え入れると、子犬のような目で見つめてくる温寧を向かいの座布団へと座らせる。
    「すみません、全然雲深不知処に帰らないから心配になって」
    「はぁ…どいつもこいつも。そうだよ、また明日から遊歴に出るんだ」
    「喧嘩でも?」
    「してないよ。喧嘩にもならない。心配するなよ、温寧。それよりさ、しばらく…結構長い間留守にするからさ、思追たち、しっかり見てやってくれよな。なんか抜けてて心配なんだよ」
     努めて明るく振る舞う魏無羨を心配そうな目で見てくる温寧に、また秘密を共有させるのは忍びなく、言葉を濁した。
     それでも温寧はどこか悟ったように、
    「あなたがいいならそれでいいですよ」」
     と柔らかくこたえた。が、その次の瞬間には、気遣わしげに、「誰か来ます」と眉をひそめ、注意を促した。
     耳を澄まさなくても、複数の足音が近付いてきたのが魏無羨にも聞こえてきた。
    足音まで規則正しいなんて、と肩をすくめたと同時に、扉が開いた。
    「魏先輩!」
    「戸くらい叩け、どんな無作法者なんだよ!」
     宿を教えろと言うから伝えたが来るのが早すぎる。
     一刻ぶりの藍景儀と藍思追を呆れて嗜めると、その後ろから姿を表したのは藍忘機だった。だが、その視線は魏無羨を通り越し、温寧に注がれている。
     慌てている温寧の前に立ち、背に隠すと、前にもこんなことがあったような気がした。
     なんだってこんな間男がバレた人妻みたいに焦る必要があるんだ、と自分自身に呆れながらも、軽い口調でたずねる。
    「含光君までお出ましか。何の用かな」
     挑発に、藍忘機は薄い色の瞳の眼光を更に鋭くした。
    「奸邪との交流を禁ず」
    「…それは藍氏の家規だろう。俺には関係ない」
     陳情笛をくるりとまわす。
    「それとも、俺もおまえにとっては奸邪かな…おまえは正しいよ」
     藍忘機の前で、魏無羨にとっての霊器であり武器であるそれを手に取ったとあれば臨戦態勢に入ったと思われても仕方がない。思追たちが悲鳴のような声を上げた。
    「魏先輩!」
     それを手で制し、魏無羨は、しっかりと藍忘機を正面から見つめた。
     その瞳に、一切の愛情がないことを目に焼き付ける。
     怜悧なまでに美しい顔が好きだった。
     剛毅直涼なその生き様も、やさしさも、自分にだけ見せる可愛らしさも、すべて愛していた。
     でも、それは今のおまえじゃない。
     今のおまえと俺は交じり合うことはない。それこそ一度死にでもしない限りは。
     そういう運命だった。
     うん、と魏無羨は頷いた。
     そして、藍忘機の前で、膝をつき、最上級の礼の形を取る。微かに藍忘機の戸惑いが伝わってくるが、気にかけたりはしない。
     真っ直ぐに藍忘機をその双眸でひたと見据え、頭を垂れた。
    「これまでのご高恩に感謝を。この恩、返しきれるものとは思わないが、せめてもの償いに、二度と御身の前に現れないことを誓いましょう」
     それは、心からの礼と、明らかなる訣別だった。

     もう二度とおまえに俺を失わせない、と思ったけれど、はじめからなければ失うこともない。
     藍忘機の記憶を取り戻したくて、また隣に立ちたくて、探した先で、気づいてしまった。
     藍忘機が失くした記憶が、どこかの場面の切り取りではなく、「魏無羨」であるとするならば。
     彼の愛情を疑ったことはない、その愛の重さも深さもよく知っているからこそ、藍忘機の辛さを消すのに、ふたりが出会った頃まで遡らなくてはならないことに、魏無羨は合点がいってしまったのだ。
     もしかして、藍忘機は自分と出会わなかったほうが良かったのでは。
    一緒に暮らすようになってから、それこそふたり雲深不知処に帰ってきてからも、何度も過ぎったその考えを、それでも隣りにいる藍忘機が幸せそうに微笑むから見ないようにしていたけれど。
     今だったら、そう思ったら、もう駄目だった。
     七日間、おまえが俺を見て、俺のことを思い出したい、と心から思わないのであれば、俺は、おまえの記憶を取り戻さない。
     そう決めていた。
     おまえを手放す俺を…俺に甘いおまえなら許してくれるよな。
     おまえは、おまえの選び取るはずだった輝かしい道を行け。

     


     頭の芯が疼くように痛む。
     それは、我慢できないような痛みではないが、その痛みは彼のことを考えると始まり、思い出そうとすればするほど強くなっていった。
     黒衣の男にまつわる一切をすべて忘れてしまったことは、藍忘機にとって気持ちの良いものではなかったが、彼を見るとどうにも落ち着かないのが本音だった。
     目が冷めてすぐ横に自分に身を寄せ、気持ちよさそうに眠っている男を見たときの藍忘機の困惑と羞恥と言ったら、生まれてはじめてのものだった。
     藍忘機は、忘れてしまっているという欠けた心許なさ以上に自分の平穏を容赦なくかき乱されるそれに全く耐えられなかった。
     男を部屋からはともかく、雲深不知処から追い出したつもりはなかったが、男はさっさとその日のうちに街におり、目にすることはなくなったというのに、未だに心をざわつかせる。なぜか一言もなく姿を消したことさえ微かにいら立ちを感じていた。
     それでも、幸い日々の務めに支障はなく、周囲のいやに気遣わしげな視線だけが煩わしかった。
     事が起きて数日経ったその日、藍思追が思い詰めたように自分を見ていることに、とうとう声をかけた。
    「何か」
    「…いえ」
     ならば良い、といつものような応えはできなかった。
    「思追」
    「失礼しました」
     責める響きを感じたのか、藍思追は拱手してその場を去ろうとした。
     それを止めたのは、日頃から行動をともにすることが多い藍景儀だった。
    「含光君。失礼を承知で伺いたいのですが、う…あの人が誰だか知りたくはないのですか」
     真っ直ぐな瞳だった。
    「必要ない」
    「でも、あの人は…」
     言いあぐねた藍景儀の言葉を引き取ったのは、唇を真一文字に結んでいた藍思追の方だった。
    「あの方は、含光君の道侶です。十分に強いお方ですが、心配ですので、所在を確認してまいります」
     今度こそ拱手すると、呆けている藍景儀を引っ張って退室していった。
     言われた言葉にも、子弟の行動にも、藍忘機は、珍しく顔の筋肉を動かし、動揺を隠すことができなかった。
     

    「奸邪との交流を禁ず」
     自分の口から出たのは、そんな益体もない言葉だった。
     それでは彼を失うばかりなのに。
     心を開かなければ、その手は、容赦なく解けて、離れていってしまうというのに。
     取り返しがつかないというのに。
     彼は去った。
     もう戻らない。
     何故か、そのことに耐えられそうになかった。
     頭が割れそうに痛い。




     薄紫に染まっていく空を肴に、ひとり杯を傾ける。
     一番辛い記憶を消すというのなら、自分にしてくれれば良かったのに、と泣き言めいた思いが浮かぶが、いやいやと首を振る。
     散々な前世だったが、忘れたいかと言われるとそうでもない。忘れればまた同じことをしかねない危うさが自分にはある。
    そのせいで、また大事な人を失うのはごめんだ。
     頭の奥がちりり、と痛む。
     まあ、結局手放しちゃったんだけど、なと独りごちる。 
     雲深不知処を出て数ヶ月が経っていたが、基本的になんでもできるので、生きるのに必要な金を稼ぐだけとなれば、そう苦労はなかった。
     今日はたまたま、近くの山を荒らすという怪を退治した礼にとあてがわれた宿に泊まることになったが、野宿なことも少なくない。金丹を得て丈夫になった体は多少の無理がきく。
     金丹様様だ。
    夜はよく眠れないが、それにも慣れた。
     薄らと目の下に隈ができているが、大した無理はしていない。たまにある頭痛は寝不足によるものだろう。
     騒ぎを避けるため、なるべく鬼道は使わないようにしているし、何の問題もない。
     それなのに。
     どうしてくれるんだ、藍湛。
    自分で決めてここにいるというのに、未練がましく思い出してしまうのをやめられない。
     藍忘機に散々甘やかされるのに慣れたせいで、ひとりを寂しいと認識してしまう。
     そもそも潔く姑蘇を去ったものの、藍忘機を好きなことに変わりはない。
    そばにいて、自分を見つめてくれなければ耐えられないような愛ではないかもしれないけれど、離れていてもずっと想うようなひっそりとした愛くらい許してもらおう。
     これからの長い生、唯一、大事に抱えていきたい想いなのだから。
     銘酒とはいかないが、すっきりとした飲み口の地元で愛されているのだろう酒を呑んでいると、良い感じに眠気が訪れる。今日はこのまま眠れるかも、淡い期待を寄せた時だった。
     目の端にひらひらとしたものが見え、魏無羨は、夜風を引き入れていた窓を開けてやった。
     街で別れたときに、思追にどうしてもと乞われて渡した伝令蝶だった。魏無羨の霊力を吹き込んでいるから、持ち主が使えばどんなに離れていても魏無羨のところへと言葉を運んでくれる。
    指で、羽ばたく蝶の翅に触れると、その鮮やかな鱗粉が文字を型取り始めた。
    「そんな馬鹿な」
    一気に酔いから覚めた魏無羨は思わず立ち上がった。

     慌ただしく宿をあとにした魏無羨は、なるべく目立たぬよう、御剣で移動しないようにしていたことなどすっかり頭から抜け、夜の帳が落ちた空をぐんぐんと進んでゆく。この速さで行けば、門限こそ間に合わずとも亥の刻前にはなんとか到着できるだろう。
     藍湛、そう口の中で呟いた魏無羨の顔には隠しきれない焦燥が浮かんでいた。

    ー含光君が原因不明の病で床に臥せっております、至急お戻りくださいー

     それを聞いて無視することなどできるはずもない。例の記憶の封印が体に影響を及ぼすようなものではないことは、その仕組みからも明白で、ありえない。そのはずだが、なにか藍忘機に悪い影響があるのであれば、とんでもないことだ。向かう前に一度は見逃した妖を探し、消しておくべきだろうか。
     妖の力を見くびって、藍忘機を危険に晒したなら、魏無羨は今度こそ自分を許せそうになかった。
     またあの頭の芯を焦がすような頭痛が始まり、魏無羨はそれ以外の可能性を考える。
     あの妖が全く関係ないとして、金丹がある藍忘機が床に臥せるなど、どのような邪祟の仕業なのだろうか。解決策はあるのだろうか。
     止めどなく流れる思考を理性で抑えて、魏無羨はただひたすらに雲深不知処を目指した。


     門限はとっくに過ぎていたが、顔見知りの門番は来ると知っていたかのように中に取り次ぐこともせずに魏無羨を中に通した。
     脇目もふらずに、ついこの間まで暮らしていた静室にむかうと、静室の前に藍景儀が控えているのが見えた。魏無羨の顔を見るなり、
    「魏先輩!」
     懲罰ものの大声を出したものだから、魏無羨は顔を青くさせる。
    「景儀、藍湛は?」
    「とにかく中に入ってください」
     どれだけ悪いのだろう、と逸る心を抑えて、戸を引くと、寝台の横に座る藍思追の姿が目に入る。
    「思追」
    「魏先輩…」
    「藍湛は」
     横たわる姿を見ようと、寝台に近づくと、藍忘機その人と目が合った。
    「…大丈夫か」
     まさか意識があると思っていなかったので、言葉に詰まりながらもなんとかたずねる。藍忘機は静かに魏無羨を見るだけで無言だ。
    「どんな具合なんだ?」
     藍忘機にとも、藍思追にともとれるくらい曖昧に続けたのは、思いの外、藍忘機の顔色が良かったからである。だが、感情の読み取れない全く緩みもしない表情ではあるが、静室にずかずかと入ってきた得体のしれない男に出ていけとも言わないところを見ると、案外悪いのかもしれない。
     心配そうに目を向けた魏無羨に、藍忘機が口を開いた。
    「君はこの呪いを解く方法を知っているのか」
     とても体調が悪いとは思えないしっかりとした口調に、違和感を覚えながらも質問には肩をすくめてみせた。
    「呪いって…含光君の記憶がないことと、その…体調不良に因果関係があると?」
    「君が姿を消してからだ」
    「具体的にはどう悪いんだ?夜眠れない?食欲がない?体が重いとか?どこか痛いのか?」
     藍忘機は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ魏無羨をただただ見つめている。
    「夜眠れないなら、眠れるまで起きていればいい。いつか眠くなる。食欲も食べたくなるまで待てばいい。なんなら、山を降りて美味しい店にいけばいい。ここの食事より食欲をそそるだろうさ。なにか体に違和感や不調を感じるなら、ここのお抱えの医者がいるだろうから、まずはそいつに見てもらえ」
     話しながら、藍忘機を隈なく観察して、ちらりと横を見る。二度と姿を表さないと誓ったのに、せいぜい三ヶ月経ったかどうかで、のこのこと戻ってくるなんて、と頭を抱えたくなってくるくらいに藍忘機に異常は見当たらない。
     少なくとも、藍忘機は原因不明の病で臥せってはいない。
    「思追、なんだって俺を呼んだんだ?」
     まさか思追が自分を謀って呼び出したとは思いもしなかったし、見た目ではわからない不調なのかもしれないし、この半日で急に回復した可能性もなくはない。だが、邪祟の気配も呪いの影響も感じられず、自分ができることはないように思えた。
    「君はなぜ来た?」
     思追が答える前に藍忘機が魏無羨に訊いた。
    「なぜって」
     心配したから、という言葉が喉に詰まって出てこない魏無羨を尻目に藍忘機は続けた。
    「心配したか?」
    「そりゃあ心配するだろ。おまえには…いろいろ世話になったんだよ」
    「恩義を返すためか」
    「え…まあ、そんなところだよ」
    「わたしたちは道侶であったと」
    「は??」
     思わず、思追を睨みつけると、思いの外強い意思のこもった目で見返してくる。
     扉のそばに立っている景儀といえば、明後日の方向を見て目を合わさないようにしている。
     こいつら全然言うこと聞かないな!
     魏無羨は舌打ちを堪えた。
    「それも恩義か」
     背後から静かに尋ねられたそれに、魏無羨は向き直るとゆるゆると首を振った。
    「こいつらが何を言ったかは知らないけど、それは気にしなくていい。俺たちは知己だったんだよ。こんなこと言ったらお前は嫌かもしれないけど、かけがえのない知己だった。そこに恩義は関係ない」
     恩讐とは全く関係ないところで、心を預けられた唯一の人であることだけは嘘にしたくなくて、魏無羨は言った。
    「俺は恩知らずだから、知己だろうが道侶だろうが、恩義で親密な関係を結んだりしない。俺がそうしたかった、それだけだ。まあ、俺たちは知己だったけど」
     知己をもう一度付け加える。全く問題はないように見えるが、病にこそ臥せってなくとも、巫山戯たりはしない藍忘機が床にいることは事実なのだから、一応できることはしようと申し出る。
    「ともかく、霊脈を見てやる。触れても?」
    「君は、恥知らずではあるが、恩知らずではない」
    「は?…いいから手を」
     意図が読み取れず、ちらりと見やった藍忘機の表情は、魏無羨が知っているもので。
    「ら、藍湛!おまえ」
    「君に確かめなければならないことがある」
     出した手を逆に掴まれ、魏無羨は顔を引き攣らせる。
     その瞬間、どこかよそよそしかった部屋の空気は霧散した。藍忘機はいつもと変わらない声で、告げた。
    「ふたりとも、ご苦労だった」
     拱手して去る二人の背中は、軽やかで、どこか喜びに満ちていた。それを目で追っていた魏無羨は唇を噛みしめる。
    「魏嬰」
    「思い出していたなら早く言ってくれ」
    「君が、思い出してほしくないのでは」
     深窓の令嬢のように物憂げに目を伏せるので、魏無羨はたまらなくなってしまう。
    「…そんなわけないだろ」
    「呪いを解かなかった」
    「その方がいいと思ったんだよ」
    「なぜ」
    「…言わないと駄目か」
     無意識に上目遣いで藍忘機を見やると、藍忘機は空いている方の手で、そっと魏無羨の目の下をなぞった。
    「隈ができている」
    「おまえと一緒じゃなきゃ眠れないみたい」
    「もう離れないで」
    「うん…ごめん」
     藍忘機のあたたかい胸に顔を埋めると、力強い心音が聞こえてきた。それがどれほど、魏無羨の心を蕩かすのか、藍忘機は知らなかった。
     ただ、しっとりと濡れた胸元に一瞬だけ目を見張り、少しぱさついた髪をゆっくりと撫でた。



     数日後、仕置きも話し合いも済んで、やっと寝台から降りられるようになった魏無羨は窓から部屋に差し込む光がつくる淡い円をぼんやりと見ていた。
    「…あの妖、辛い記憶じゃなくて、失くした人の記憶をごっそり奪いやがって」
     藍忘機に二度と自分を失わせないために離れる、なんてあまりに短絡的すぎる。自分らしくもない。ただ、ずっと、どこにも居場所がない焦燥感がつきまとっていた。
     返さなくては、と。
    「師姉、ごめん」
     前世、見返りのない愛をくれた人。
     魏無羨を形作った人。
     江厭離がいたから、魏無羨は寄る辺ない自分を愛せた。
     彼女を失ってしまったことが何よりも辛かった。何もかもがどうでも良くなるほどに。
     でも、はじめからなかった方がいいと思ったことなどなかった。
     失ったことを含めても、彼女を忘れていたいなんて絶対に思わない。
     そういうことだ。
    「ごめん、藍湛」
     すぐにでも藍忘機の顔が見たくなって立ち上がった魏無羨だったが、猛烈な痛みに腰を押さえて呻いた。
    「…今日はしないからな」
     
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