【再掲】本来、部室というものは散らかっていて当然だと思う。
中学の頃なんて月に一度の頻度で行われる顧問の清掃チェックが無い限りは無法地帯とも言える状態だった。
部屋の隅に置かれたゴミ箱が常に山盛りなのは当たり前で、随分と前に引退した先輩が放置していったバッシュからカビが…なんてことも珍しくはなかった。
何よりもきつかったのは運動部である以上、絶対に避けられない汗による体臭と、それを必死に消そうとして全員が振りまく制汗スプレーの混ざった匂いだった。
部活終わりは決まって全員が香りが違うそれぞれのスプレーを一斉に噴射するので狭い室内が一気に煙たくなり、中には苦しい、と涙目になる奴も居たくらいだ。
それを考えると今現在、綺麗好きの赤木の熱血指導によってバスケ部の部室が清潔に保たれているのは非常に有難く、換気扇という文明の利器には感謝しかない。
以前は酷い散らかりようで中学の頃と大差なかったのに、この二年でよくここまで綺麗に改善出来たものだ。
しかしだからこそちょっとした変化が目立ってしまうので、今日ばかりは居心地が悪くてたまらなく思えた。
「三井サン…あんた水戸に殺されるんじゃないすか」
朝練終わりの部室にて、汗を吸ったTシャツを脱ぎ、無香料の制汗シートでしっかりと体を拭いてから新しいTシャツ、カッターシャツの順に着替え、学ランに袖を通したタイミングで隣の宮城が物騒な発言をした。
冗談で言っているのではなく、宮城は真剣そのものだ。
その原因はオレが着ているこの学ランにあるだろう。
「…お前なあ、オレが朝帰りでもしたと思ってんだろ」
「逆にそれ以外でこの甘ったるい香りの説明出来る」
ああ臭い、とまで言った宮城は大袈裟に掌を顔の前で振り、やだやだ、とわざとらしい演技までしやがった。
なんて生意気で憎たらしい奴なんだ、とは思うがここで腹を立てて挑発に乗ってしまっては宮城の思う壺だ。
だからオレは出来る、と断言してこの甘ったるい香りの正体について己の潔白も含めて説明することにした。
事の発端はこうだ。昨晩、部活終わりのオレと、デート終わりでほろ酔い状態の姉貴の帰宅時間が被った。
玄関前でほぼ同着とも言えるタイミングで鉢合わせると姉貴は何を思ってか、幸せのお裾分けだとか何とか言いながらバッグから取り出した小さいガラス製のアトマイザーに入った香水を遠慮なくオレに吹きかけた。
あまりに一瞬の出来事だったので避ける暇も無く、至近距離で浴びてしまったためにしっかりと学ランに香りが染みついただけで、宮城が想像しているであろう朝帰りや女遊びといった不良行為をしたわけではない。
オレとしても女性ものの香りを漂わせるのは恋人に不信感を与えるだろうし、周りから誤解を受けるリスクを考えて一晩だけ外に干して香りを薄めようとしたり、衣類用の消臭スプレーをかけるなどの対策はしてみた。
が、結果は残念なことに全くの効果なしときたものだ。
ちなみに、元凶である姉貴に勝手なことをするなと叱ってはみたが酔っ払いが理解してくれたかは不明だ。
という経緯があってのことだと説明すると宮城は
「三井サンの姉貴って…なんか、超強そうっすね」
などと勝手な想像を述べ、オレが姉貴の蛮行を振り返りながら強く頷けばゲラゲラと笑い、先ほどまでとは打って変わったように懐かしい香りだと鼻を鳴らした。
この際だ、臭い臭いと言っていたのは忘れてやろう。
「懐かしいとかどうとかより…いまいち何の香りか分かんねえんだよな。不快感はねえけど…石鹸か」
「えー石鹸じゃあなくって…何だろ。明らかに女ものだなってことは分かるから、水戸への弁解大変そう」
ゴシューショーサマ、なんて続けた宮城はロッカーを閉じ、巻き込まれる前に、と安田を連れて部室を出た。
なんとまあ薄情な奴だ。逃げ足の速さも電光石火か。
他の連中まで慌てて部室を飛び出てしまい、残ったのは部室の鍵を管理している赤木と小暮の二人だけ。
その二人ですら宮城の言葉に共感したらしく、静かに胸元で十字を切るものだからオレは危機感を覚えた。
「ねえ三井さんなにこれふざけてる何でこんな良い香りさせてんのオレの為オレの為だよねうん知ってるありがとう。いやでもこれなに超良いじゃん。あんたそんなにサービス精神旺盛だったのオレもう一生この香りだけで生きていける自信ある。って言うか何でわざわざ学校につけてきたわけ他の連中まであんたのこんな良い香り嗅いだら正気が保てなくなるって分かんねえの恋人のオレですらこんなことになってんのに無防備過ぎねえ新手の拷問じゃん」
皆が知っての通り、水戸はああ見えて意外と嫉妬深い。
日頃は十五歳とは思えないほど寛大で、大人びた考えを持っているのに、オレのこととなると話は別だ。
オレが外で偶然再会したミニバス仲間や同中の奴らと懐かしさからつい話し込んでしまえばさも不満あります、と言いたげに背後から不機嫌オーラを放ちまくる。
そして解散後は一人一人どういう奴なのか、どういう関係なのか、と納得するまで根掘り葉掘り聞いてくる。
そんな水戸のことだから今回のこの香水の件についても、きっとオレの言い分など聞かずに宮城のように女遊びだったり、朝帰りだったりを疑うと思っていた。
そのはずが、いつも通りオレが部室から出てくるのを廊下で待機していた水戸は恐る恐る現れたオレに笑顔で歩み寄るなり香りに気付くと一瞬だけ真顔を見せ、次には周囲の目も気にせず堂々とオレに抱き着いた。
そのまま猫が甘えるようにオレの肩に額をぐいぐいと押し付けたまま、離れもせずただ香りを絶賛するだけ。
途中で黙ったかと思えば深呼吸をし、最高、を連呼だ。
てっきり叱られものだと思っていたのに、予想と遥かに違う反応をされてはオレも困惑し、されるがまま。
そもそも普段はベタベタと密着するのはオレの方で、水戸の方からここまでくっついてくれるのは初めてだ。
だから困惑しつつもこんなチャンスは滅多に無いと喜び、存分に水戸の好きなように甘えさせようと決めた。
HRに遅れるだろうが、そんなことはどうだっていい。
誰よりも嫉妬深く独占欲が強いくせに、人前でベタベタするなんてみっともない、自分から甘えるなんてガキみたいなことはしない、と十五歳らしいと言えばらしい見栄と意地を張るあの水戸が甘えているとなれば全てを投げ出してでも水戸を優先するのは当然だろう。
こんなにも甘えてくれるのならオレは弟と言えば自分の玩具も同然、と思っている非道な姉貴に土下座をしてでもどこの香水かを教えてもらう覚悟も出来ている。
姉貴に借りを作ってまでお揃いの香水を使うことに抵抗が無いわけではないが、貴重なあまえたの水戸が手に入るとなればそんなことは天秤に掛けるまでもない。
姉貴もこうなるのを分かった上で香水を吹きかけたに違いないだろうから聞けば教えてくれるだろうし、機嫌さえ良ければアトマイザーごと譲ってくれるだろう。
「これ、ベビーパウダーの香りだろすげえ懐かしい」
落ち着く、とまで言った水戸は再度深呼吸をして、両手で力いっぱいにオレを抱き締めながら更に密着した。
成程。宮城が言っていた懐かしいとはそういう意味か。
そう納得すると同時に、水戸がこの香りの正体を香水ではなくベビーパウダーだと誤解しているのだと気付き、姉貴の仕業だと打ち明けるべきなのか、それともこのまま誤解させておいた方が叱られないかと悩んだ。
「そんなに好きなら毎日つけてやるぜ。サービスな」
この香りの正体が香水であることは伏せたままそう言うと、水戸は困ったように眉を下げてオレを見上げた。
「頼むからそれは勘弁して。つけるなら二人きりの時だけにしてよ。一生のお願い。もう一つワガママを言うと今日はこのままオレんちに帰んないこんな良い香りのあんたを他の連中に自慢出来るほどオレも大人じゃないし、もう一秒たりとも離れたくねえんだけど」
それはつまり二人揃って早退しようということで、水戸にしては珍しく大胆なワガママにオレは歓喜した。
だからすぐにでも帰りたかったのに、一部始終を見ていた赤木に甘やかし過ぎだ、と大激怒されてしまった。