【再掲】「もう怒った。二度と水戸とえっちしてやんねえ」
夕方の五時過ぎ、帰宅した三井さんは怒ってますと言わんばかりに荒々しく玄関の扉を閉め、リビングまでの僅かな距離も乱暴に床を踏み鳴らし、ソファーで寛いでいるオレの正面まで来ると上から睨みつけながら仁王立でそう言い、フンと鼻を鳴らした。
やれやれまた始まったか、というのがオレの素直な感想だ。
もう一つ、二十六歳にもなってセックスをえっちと言うのかわいっっっ、とも思った。
学生の頃から交際を始めて早八年。何度このセリフを耳にしたことだろうか。
何か気に食わないことがあるとすぐにえっちしてやんねえ、と言い、オレが土下座してでも自分の機嫌取りをしてくれるのを待つだなんて本当に幼稚だ。
しかも、自らそう言っておいて数日もすると三井さんの方が我慢出来なくなり、ろくに会話もしないくせにやたらと距離が近くなるし、スキンシップが増えるし、耳に吐息を吹きかけるし、極めつけがオレの好みそうな恰好をして目の前をウロウロするのだ。
先週なんてものの二日で音を上げた三井さんはオレを誘惑するべく家の中なのにビシッとしたスーツを着て、更にはヘアスタイルまでバチバチにキマッていたものだから綺麗なものこそ乱したくなる欲求に駆られたオレはすかさず土下座をするはめになった。
そんなことを八年も繰り返せば流石に慣れるもので、えっちしてやんねえ宣言の度に泣き縋っていたガキの頃とは違って大人なオレは手にしていた雑誌を閉じ、こう言った。
「ねえ、何でそんな酷いことが言えんのしかも今夜はオレのしたいこと全部させてくれるって約束だったじゃん。三井さんから言い出したことなのにその日の気分次第で無しにするのはあんまりじゃないアスリート様と違って平凡なサラリーマンが少ない給料の中からコスプレ衣装だのオプションの小道具だのを買うためにどれだけ普段から節約してるか分かってるそういうオレの苦労や努力も考えずに二度とえっちしてやんねえだなんてよく言えたもんだね。ほんと酷い。泣きそう。朝まで好きにして良いって言ってくれたからすげえ楽しみにしていたオレへの思いやりとか無いわけこれ見よがしに寝室に新しい衣装が増えていくのをどういう気持ちで見てたの恋人なら成程、オレが楽しみにしてんだろうなあ、期待に応えてやんねえとなあ、とか思うでしょ、普通。オレが逆の立場だったら絶対思う。あーあ、悪い男に騙された。洋平くん可哀想ほんっと可哀想ほら、三井さんもオレに悪いと思えてきただろじゃあお詫びに今夜は好きにしていいぜ…って語尾にハート付きで言ってもらおうかな。はい、せえのっ」
「なげえしうぜえし言わねえし」
罪悪感で苦しくなったであろう三井さんのためを思って明るく元気に手拍子までしてやったのに三井さんは益々機嫌を悪くし、傷心中のオレへ馬鹿かよ、とまで言った。
なんて酷い男だろう。法が許してもオレが許さねえぞ。罪人コスでもさせてやろうか。
その場合オレは裁判官かいや、看守っていうのもアリかも知れないな。
などと意識を他所に向けていると大きくため息をついた三井さんが隣に座り、お前のせいで…と恨めしそうな言葉と共に一度オレの脇腹を殴りながら事情を説明してくれた。
聞けば今日は練習終わりに最近三井さんの所属しているチームが新たに始めたYomiTubeに投稿する動画の撮影があったらしく、今回の動画の内容は選手同士が一対一でジャンケンを行い、負けた選手がクジを引き、引いたクジの内容のコスプレをする…という聞いて思わずバスケ関係無くねと首を傾げてしまうものだった。
チームのマスコットキャラクターの着ぬいぐるみや宣伝となるグッズの応援Tシャツ、季節ガン無視のサンタクロースなどはまだ良かったものの、中には猫耳メイド、最近流行っているらしいアニメのヒロインの衣装など、ほぼ全員が百八十センチ以上のとてもお世辞にも華奢と言えない鍛え抜かれた男性のみで行うには中々の光景だったらしい。
そこまで聞いて、オレはある一つの不安から背筋が寒くなり、指先が震えた。
まさか、三井さんまでそんな女装枠の衣装を引き当てたのではないだろうか。
いやいやそれは駄目だろ。駄目だって。三井さんがやると冗談にならねえじゃん。
そもそもそういう特別な恰好は恋人であるオレだからこそ許されるものであって、素人が気軽に手を出していいものではないし、オレ以外が目にするなんて世が世なら流刑だ。
だからどうか三井さんが無難なクジを引き当ててますように…っと柄にもなく神に祈りを捧げたのに、あろうことか三井さんはチャイナドレスを引き当てたらしい。
それも、がっつりとスリットが入ったタイプのものだったようで、ストッキング付き。
有り得ねえ。ほんとマジで有り得ねえ。なにそれ、企画担当者は三井さんのにわかか
確かに三井さんは綺麗で、誰がどう見たって男の身体そのものだけど、女装に関してはチームの…いや、バスケ界の誰よりも絵になるっていうのはオレが一番よく知っている。
でもそれは恋人であるオレのお願いだから仕方が無くだと自分に言い聞かせながら慣れない衣装を着用し、羞恥心を隠そうとあえてオラアだのこれで満足かよだのと怒鳴ってお披露目してくれる姿が良いわけで、女装させれば良いってもんじゃあない。
そういう初歩的なことも知らないズブのド素人が再生数欲しさにクジを作ったのだろう。
となれば自分の魅力を知っている三井さんだって怒るに決まってる。怒って当然だ。
でもそうだとたらオレがオアズケを食らうのはおかしくないかと疑問に思っていると話にはまだ続きがあり、ルールとして渋々三井さんが画面外で着替えを始めるとその場
に居たチームメイトがゲラゲラと笑っていたはずが、急に戸惑い、口を揃えて
「…三井、お前さ…なんか、ストッキング履くの上手過ぎねえ…」
と言ったそうで、日頃からオレに履かされていたせいでバレたくない特技がバレてしまったと結末まで話してくれた三井さんは再度オレの脇腹を殴り、土下座を要求した。
ちなみにその場では大学生の頃に飲み会でイッキが出来ない奴は罰ゲームで女装を強いられていたからだという何とも言えない嘘で誤魔化し、それも含め動画内での三井さんが上手にストッキングを履けるという部分はカットしてもらう約束をしたとのこと。
事情を聞いて、己の嗜好が恋人に恥をかかせる原因になったことを申し訳なく思った。
だからオレは深く反省し、誠心誠意をもって三井さんへ心からの謝罪をするはずが
「ちなみにその動画っていつ公開三井さん何分辺りデータ持ってたりしねえのいや、別にチャイナドレスが好きなわけじゃねえけど恋人の頑張りは目にしたいじゃん」
と、己の欲求に負けてしまい、見事なボディーブローによってソファーに沈められた。
「ねえー…オレが悪かったからそのガンガンドスドスするのやめなよ。家が傷むじゃん」
その晩、すっかりご立腹モードとなった三井さんはほぼ自室に閉じこもり、たまに出てきたかと思えば乱暴に扉を開け閉めし、ドスドスと荒々しい足音を立てて移動し、オレのことはガン無視で、夕食も自分の分だけ作るとそれを持って自室にこもってしまった。
これじゃまずいと思って謝罪に向かうも内側から鍵をかけられ、ならばと扉の向こうから大声でごめんなさいを叫べばオレの声量以上のボリュームでアクション映画を流し始めたので近所迷惑を考えて退散するしかなく、仲直りとして一緒に風呂に入ろう、と提案すると無言で脇腹をめがけて二人の思い出である初めての旅行先で撮った写真のアクリルブロックを投げつけて拒絶され、それでも懲りずに浴室に向かえばオレが来ると予想していたらしく、洗面器いっぱいにたまったお湯を浴びせられてしまった。
今も寝室へ移動するだけなのにがさつに動き、オレの声は勿論無視…かと思ったが
「今からみとニーするから暫く寝室に来るの禁止な。来たら別居する」
突然、オレの前で立ち止まった三井さんはそう言い、絶対だぞ、と続けた。
「…え、なにはえ、ごめん、なに、みとニーって」
「言っただろ、水戸と二度とえっちしてやんねえって。だからエア水戸でするだけ」
「待って待って何でそれでオレが納得すると思ったえみとニーって…つまりはその…アレをソレするってこと…だよねえだったら普通にオレとえっちしようよ」
咄嗟に三井さんの右腕を両手で掴み、必死にお願いと言っても三井さんの怒りはまだまだ治まらず、はっきりとした声で嫌だ、と言いながら脇腹を蹴られてしまった。
脇腹狙い過ぎだろ、というツッコミはさて置き、これはとんでもないことになった。
正体不明のみとニーが何か詳細を窺いたいどころか正座するオレの目の前で実技を披露して欲しいくらいだが、今はそれよりもやっぱり三井さんだって今日はその気だった、というのが肝心で、この絶好のチャンスを逃すほどオレも馬鹿ではない。
勢い任せにああ言ってしまった手前、三井さんも引っ込みがつかなくなったに違いない。
つまりこれは三井さんの新たな誘惑方法で、謝罪次第では約束通りの夜が過ごせるはず。
「お願い三井さん。オレ本当に反省したし、三井さんの言うこと何でも聞くから許して」
「へえ何でも何でもって言ったなじゃあ二度とコスプレもイメプも禁止だからな」
それとこれとは話が別だろと叫ばずにグッと耐えたものの、オレが言葉を詰まらせた隙に三井さんは腕を振り解き、十分な距離を取るとにこやかな表情でこう続けた。
「お前のド変態趣味のせいでオレは要らねえ恥までかいたんだぜその詫びにてめえの趣味を捨てるくらい簡単だよなそれが出来なきゃ金輪際えっちは無しだ。お前が本当に反省して衣装や小道具、自作の台本全て捨てるって誓わない限りオレはみとニーのみで生きてくし、えっちはしてやんねえけど露出の高い恰好で家の中をうろついてやる」
「なにそれ拷問じゃん。オレが苦労して集めたものや作ったものまで捨てろってのは酷くないって言うか結局エアはエアでもオレで妄想するならオレ本人にしときなって。それでもそのみとニーをするって言うなら妄想とは言え肖像権の侵害として禁止します」
「………じゃあモブニーにする」
「それは浮気じゃん」
「うるっせえな今まで散々お前の趣味に付き合ってやったけどもう限界だ五分待ってやるからオレに誠意を示してみろそれが出来なきゃ二度とえっちしてやんねえ」
人差し指を突き付け、お決まりの台詞を叫ぶと三井さんは寝室へ駆け込んでしまった。
一人リビングの真ん中に残されたオレはと言えば突然の死活問題に頭を抱え、どうにかこの場をやり過ごせる方法はないかと必死に策を練るがそれらしいものは何も浮かばず、いっそ三井さんの所属チームに苦情でも入れてやろうかとさえ思えてきた。
猶予はたったの二分足らずで、これを過ぎると宣言通り二度とえっちは無しとなる。
あの怒りようからして三井さんは本気だろうし、オレも本気で誠意を示す必要がある。
「…まあ、今回ばかりはマジでオレが悪いし…しょうがないか」
寝室から大声で残り一分と怒鳴られ、ついに観念したオレは八年分のお宝を手放す覚悟をし、オレの本気を分かってもらおうと我が家の王様が待ち構える寝室へ足を向けた。
お宝を手放すのは非常に辛いところではあるがオレの優先順位のトップは三井さんであり、あれらは三井さんという何ものにも代え難い存在があってこそ価値があるのだ。
それにお宝を手放すからといってオレの信念まで捨てるわけではない。
あの三井さんのことだからきっと盛り上がったところでお願いすれば今まで通り頷いてくれるのは目に見えているし、そうなるまでにリードする方法もオレは熟知している。
捨てるのではなく一新するのだ。そう考えると誠意を示してやろうとやる気に溢れた。
だからオレは寝室の扉の前まで来ると三回ノックし、姿勢を正し、大きく息を吸うと
「失礼します水戸洋平二十四歳ですこれまでの数々の非礼をお詫びさせてください今回の三井様のお怒りは御尤もでありわたくしの至らなさが招いたことだと重く受け止めておりますそのお詫びとして本日までの八年間増やしに増やした衣装や小道具、自作の台本それら全てを処分させていただきますそれでもまだ信じられないようでしたら三井様の監視のもと通販サイトのアカウントなどを削除しても構いませんまた今夜は三井様の気が済むまでとことんご奉仕させていただきますどのようなごリクエストにも全て誠意をもってお応えさせていただくことをお約束いたします如何でしょうか」
渾身の誠意を込めて叫び、暫しの静寂ののちに内側から鍵の開く音に勝利を確信した。