夢でもうつつでもあなたが 何年かぶりに電話を掛けてきた先輩は、やっぱり、あのころのように、さりげなく親切だった。
――あいつが電話口でキレても気にすんなよ。単に甘え慣れてねーだけだから。
会いに行きたい。でも、そんなことをしたら、あのひとは怒るかもしれない。
俺の弱気と躊躇いを、打ち明ける前に掻き消してくれるところは、あのころから変わっていなかった。
少し前に、俺の好きなチョコレートを山ほど送ってくれた先輩もそうだった。
離れた地から、いつも、この道の先を見せてくれる先輩も。
連絡をくれたり応援してくれるみんな。
いつも会えるわけではないけれど。
遠いと言えば、遠い日。
でもすぐそばにあるような。
俺はひとりではないんだと、教えてもらえたあの日々を、思い出した。
「……ありがとう、ございます」
ゆったりとした声音が、髪を伝って肌に振動として伝わってきたのを、――白布は浅い眠りのふちで感じて目ざめた。
目蓋はひらかれても、同じように暗い。
そして、少し暑かった。
この身にぴたりと添うように、あたたかな体温が白布の後ろに横たわっている。その片腕は白布の腕の下を通り、胸から腹にかけて伸びていて、ベルトのようにからだをベッドに固定していた。
解こうなどと思いはしないが、――このとき白布は、寝起きの頭で反射的に、振り返った。
五色に、ありがとう、などと言われる覚えは無かったから。
礼を言うのは、こっちのほうなのに。
ひとが寝てるあいだに、そんなことを言うな。
「……なにがだよ、」
ほんとうは、こんな、腹を立てられる筋合いは無いとわかっていても、五色には言ってしまう。腕の中、からだごと振り返ると、宵闇の中でもうっすらと五色の顔が見えた。
その目は閉ざされていた。
白布は反対に、目を見開いた。
(……いまの、寝言かよ)
早合点に小さく息をついたら、五色の腕の重みがなんら変わっていないことを、ようやく実感した。気持ちが先だって、相手が寝ているかどうか気づけていなかった。
途端に、白布の中でさっきまでの焦りのような感情がしぼんでいく。
眠っている五色の、その輪郭を見つめていたら、自分へのため息が出た。
そして気づけば、白布はそろりと傍らの男の頭に手を伸ばしていた。どこか慎重に、てのひらいっぱいで五色の髪に触れて、静かに撫でた。
頭から爪先まで溺れていたあいだも、ひっきりなしに触れていたけれど。
足りない。
「……ふぁ、」
熟睡していたと思っていた相手が小さく声を発し、白布は咄嗟に手を止めた。
暗闇の中、凝視していると、やがて五色が目を開けた。
起こしてしまった。
五色の髪から手を離すと、不意に、白布の背中に回っていた手が腰に回った。それは無意識の動きだったようだ。けれど、触れられただけで、そこに響いた快感の記憶が呼び起され、白布は思わず肩を竦めた。
額のあたりに、呑気な声が届いた。
「……あ、…しら……」
寝ぼけた声は、そこで途切れた。
鼻先から息を飲む気配がした。どうやら、こちらが起きていることに気づいたらしい。
やがて、五色はこほ、と小さく咳払いをした。
「……賢、二郎さん、」
「なに照れてんだよ」
「……え、それは、」
その、とつづけた声は寝起きだからかまだ、少し鼻にかかったような響きだった。
五色はまだ暗闇に目が慣れていないだろう。だから白布は、思い切り顔を顰めた。抱きながら何度も名前を呼んでいたくせに、いまさらなにを照れることがあるのか。しかもがっちりと腰まで掴んでおいて。だが、口には出さないことにした。
こんな時間も、どうしようもなく、大切だから。
揺らめく薄暗さの中、白布は彷徨わせていた手をもう一度、五色の頭に置いて撫でた。
「………起こして悪かったな」
「え……」
起こすつもりは無かった。無理に予定を変更して来てくれたのだから、可能な限り、朝までゆっくり休んで欲しかった。それは、白布の本音のひとつでしかなかったが。
夜の色が薄まった視界の中で、五色の瞳がいくらか瞬いたのが判った。
さっきまでの気の抜けた表情が急に消えた。
腰に回る手に意思が加わり、からだとからだの隙間を埋めるように五色が身を寄せた。乱れた前髪越しに口づけられるあいだ、下で腿をすり寄せ、脚を絡めた。
吐息を頼りに白布が顔を上げると、静かな息遣いとともに口唇を塞がれた。薄く開けていたその隙間から舌を受け入れ、好きなようにしていいのだと、促すように白布は五色の髪を撫で、うなじに手を這わせた。
目が覚めたとき、夢だったんじゃないかと、一瞬、心細くなる。
そのどうしようもない戸惑いと小さな痛みを、互いの温度が癒していく。
やわらかな愛撫にたゆたう時間。
眠る前は、残った理性を追い詰めるようにひとの口の中を侵していた舌は、やわらかく絡められただけで、やがて出て行った。最後に、口唇に浅く歯を立てて。
顔を離したころには、白布の目はだいぶはっきりと夜に慣れていた。
さらさらと、髪の音が鳴る。
五色は、目を細めたまま嬉しそうに微笑んでいた。
そのまま、緩んでいる口唇がそっと開いた。
「……さっき、夢で、……少し前の、ことを思い出してたみたいで」
それはやわらかくて、少し楽しそうな声音だったから。
だから、準備が出来ていなかった。
「…選考のあと、……俺、落ち込んでました。…選ばれなくてくやしいって思いましたけど、でも、選ばれたみんなのプレーを見たいとも思って、……そしたら、ワクワクしてきて」
息が、思わず止まる。
溶けてしまいそうな空気も、一瞬で流れて。
「……いつか俺も、誰かの心を奮い立たせるようなひとになりたいって、思ったら、練習したくなりました」
こんな、明け透けに、自分の大事な部分を見せる。
触れるのがこわくなりそうなところを。
むかし、迷わず『選ぶ側』だった自分に。
いまは違うから、――だから、言えるんだろう。
距離ではなく、離れているから。
「……俺の夢なんか見なくても、立ち直ってんじゃねーか」
また、揺れる。
胸が締め付けられる。
にがくなる。
勝手に狭まる視界の中で、――けれど、五色は笑っていた。
「ひとりじゃないって、ずっと前に、教えてもらえたからですよ。……それに、」
からだを抱いていた手が布団からそろりと出てきて、今度は白布の髪をやさしく撫でていった。
「いま、こうして話せるのが、嬉しいです。……賢二郎さんに聞いてもらえて、嬉しい」
ささやくような声なのに、それは、からだの深くまで、貫いていくようで。
湧き上がった弱さと情けなさをまた、簡単に溶かしていく。
――俺にはお前がなりたいものも、強さも伝わってる。
――だから胸張ってりゃいいんだよ。
(あれは、むかしの俺だけが、言えるものじゃねぇ)
コートの外側で、観ることしか出来なくても。
なりたいものも、その強さも、知っている。
だから。
「お前なら、なれるよ」
少なくともここに、勇気をもらった奴が居る。
目に映るやわらかな笑顔には遠いだろうが、心の動くままに、頬は緩む。
「待ってっからな」
目の前で、五色の瞳が大きく見開かれていくのを見て。大げさ、と白布は心の裡で笑った。
絶対、なにがなんでも、休みを取るからな。
そう心に決めていたら、髪を撫でた手が、背中にぐっと伸びていった。
「……はい…っ」
語尾が揺れていた。
そんなにチョロくて大丈夫なのかよ。ぬくもりの中、思いながら白布は眉尻を下げた。
その素直さにいちばん救われているのは誰だ。
抱き合う互いのからだは、気づけばうっすらと汗ばんでいた。
五色の手が、肌の感触を確かめるように、ねっとりと、背中を這う。
やらしい手つきしやがって。言うよりも前に、白布は小さく声を漏らした。
別の本音、――欲求が白布のもう一方の手に乗り、その指先でつうと五色の胸を撫でた。
「ふぁあ…っ」
鼻の先でガタイのいい肩が震える。白布はそのまま指先で胸から腹の筋を撫で、熱を持ちつつあるそれに触れた。
「……お前、このまま眠れんの?」
「判ってて訊かないでください。賢二郎さんこそ」
ひと撫でして、興奮したのは五色のほうだけではない。
悩ましげに、でもそれ以上は眉を顰めない相手に、白布はひと呼吸置いて、目を細めた。
「…居るあいだは、お前に触れてぇよ」
言ったら、心臓が跳ねた。
どちらのものか判らないくらいに抱き合う身が震えて。
俺もです、とささやいたその口唇が白布の口を塞ぎ、熱いからだが身を覆う。
動物のよう。
そう思えた時間はすぐに流れ、また眠りに落ちるまで、激しくまっすぐな熱の中に浸った。