きみとマブダチ/前編 若利くんはときどき、小さく頷きながら本を読んでいた。
どの本もというわけじゃない。若利くんの部屋の本棚にあるうちの3冊で、取りやすい段にいつも置いてある。
若利くんは、ジャンプや他の本を読んでるときはほとんど動かず黙々と読んでるけど、その本を読んでるときだけは、よっぽどタメになることが書いてあるのか、そこから得たものを確かめるように何度も頷いてた。
フシギだねー、と思いながら俺は若利くんのベッドに寝そべって、その横顔を見ていた。
興味のあることには真剣な若利くんのことだ。あれだけ何度も、隣りでゴロゴロしてる俺が本の表紙とタイトルを覚えちゃうほど読んでたら、内容なんてすっかり頭に入ってそうじゃない?
怪我をしないための、トレーニングの本。
それだけ怪我に用心してるってことかな? 愛読書ってヤツかな? 俺のいくつかの疑問は、それから少しあと、意外なときに解消した。
若利くんの父ちゃんが書いた本。
そうと知ったら、いろんなことが腑に落ちた。
父ちゃんから手ほどきを受けてる気分だったのかな。あるいは、父ちゃんと話をしてる感覚だったのかも。読みながら頷いていた仕草が相槌打ってるみたいだったもんネ。
若利くんと父ちゃんの会話がどんなものだったのかは知らないケド、若利くんは口数が少ないから父ちゃんの話を黙ってじーっと聞いてたんじゃないかな? なんて想像した。
それから若利くんがその本を読んで居るときは、ジャンプにツッコミを入れながら読んだり、若利くんに話し掛けたりするのを控えた。いくら俺でも、家族の会話を遮るなんて無粋なことはしたくない。
一度、若利くんの実家から寮に本が届いたことがあった。
若利くんの母ちゃんは、父ちゃんが本を出すたび、すぐに買って若利くんに送ってくれるんだって。
寮の管理人さんから本を受け取って部屋へ戻る若利くんの歩調は、いつもより速かった。
よかったね、と言うと、若利くんは、ああ、と少し柔らかな表情で言った。本の入った袋をどこかいそいそと開ける若利くんを見てたら、俺まで笑顔になった。
真新しい本を黙々と読みつづける若利くんのまなざしは、いつもよりも少し穏やかだった。ページの捲りかたは普段から丁寧だけど、父ちゃんの本はいっそう、丁寧にゆっくりと捲ってた。
紙の軽やかにしなる音がする。
隣りでゆっくりと頷いているその横顔を盗み見ながら寝転がって読むジャンプは、なんだかいつもより楽しかった。
※ ※ ※
食堂は、朝から蛍光灯が点いていた。
今朝は空に雲が多く薄暗い。冬によく見る厚い雲が空を覆っていて日光が届きにくくなっている。おかげでロードワークのはじめはいつもよりも身体が冷えて、慣れるまで腕や脚の動きが鈍かった。
今月下旬には、あの灰色がかった空から雪が降り落ちる。
牛島はカウンターに行き、A定食を注文した。カウンターの奥からは湯気とともに味噌汁の出汁の匂いが届く。なんとなく、あたたかいと思った。身体はすでに温まっているがこの空気がふしぎと肌に沁みる。
数日前、そろそろコートとマフラーを出さないと、と言っていたのは天童だった。
牛島がまだ早いんじゃないかと言うと、俺は冷えるのだと天童は言い、コンビニで冷たいアイスクリームを買っていた。
こたつか暖かい部屋で食べるアイスは最高、と話していたが、どう最高なのかは、したことが無いからよくわからなかった。だが、以前、天童に教えてもらったプリンの容器の爪を折るときの心地に似たようなものではないかと想像する。
やがておかずなどが揃った定食のプレートを受け取り、牛島は生徒の増えてきた食堂を見渡した。今日はいつもより遅い時間に来ているからか、目にする生徒の数が多い。席もほとんど埋まっている。
カウンターから少し離れた場所で、窓際から食堂の入口のほうへと視線を移していく。すると、こちらに向かって手を振る男が居た。山形だった。隣りと前には大平と瀬見も居る。手招きされ、牛島は馴染みのメンバーが集うテーブルへと向かった。
「はよー、若利」
「おはよう」
「おはよう、今日は随分と遅いな。ロードワークが長めだったのか?」
「ああ、そうだな」
「お、若利もA定か。一緒」
プレートに目を遣る瀬見の横に座り、牛島は肩に掛けていたトートバッグを空いている横の椅子の上に置いた。中身は小さく傷みやすいのでバッグの布で包む。
「ん、なんだそれ?」
瀬見が箸を止め、トートバッグに目を向けた。寮の食堂には、牛島を含め皆だいたい手ぶらでやって来る。財布と携帯電話だけならポケットで十分だ。
これは五色に貸す本だ、と牛島は答えた。
「今日、ここで会ったら渡そうと思った」
「工がお前に?珍しいな」
「たしか、工が読みたい本を若利が持ってるって言うんで、借りたらどうだって白布が勧めたんだよ」
「ああ」
昨日、練習のあとに五色が牛島のもとへ頼みに来たとき、大平もちょうどその場に居合わせていた。五色の後ろには白布も立っていた。
なるほどな、と瀬見がなにか得心のいったように頷く。
「白布が間に入ってたわけか。どーりで」
「…引退したあとでも、俺たちがココに居るうちはどんな形でも遠慮無く頼ってくれたらいいんだよ。――…あ」
大平が笑みを浮かべ、食堂の入口のほうを見て手を振る。
振り返ると、話題に上がっている後輩が入口付近に立っていた。目が合い頭を下げた五色は、カウンターには向かわず駆け足でこちらへとやって来た。
「はよーございますっ」
テーブルの横へと来るなり、五色はまた頭を下げた。
「五色、食堂では走るな」
「う! はいっ、すみません!」
「おはよう、工。お前にしては遅い時間だなあ」
「えっ、ハイ。……ちょっと、その、……寝坊して」
語気が弱くなり、五色の視線が一瞬、牛島と重なってすぐに逸らされる。
あれから居残りだったもんな、と山形が言った。
昨日は牛島たちが練習を抜けたあとも、1、2年生は居残りでサーブやスパイクの練習をしていた。かつて牛島たちもチームが代替わりするたびに経験してきたことだ。
ただ、その中でもチームのエースにはまた別の練習メニューが用意されている。それもまた、牛島自身が通った道だった。
「4月までつづくぞ、特別メニュー。頑張れよ!」
「まぁ、工は大丈夫だろうけどな」
「ありがとうございますっ、頑張ります」
笑顔の山形や大平の前でしゃんと背筋を伸ばした五色に、牛島は横から小さくなったバッグを差し出した。
「五色、頼まれていた本だ。練習のあとでは渡しそびれそうだから持ってきた」
「ありがとうございます!…あの、バッグもいいんですか?」
「ああ、そのまま持って行っていい」
お借りします、と手からバッグを受け取った五色はそれをしっかりと胸の前で抱えた。まるで落としたら割れるようなものを持っているような様子で。
「ところで、なんの本なんだ?」
「えっと、ストレッチや怪我の予防についての本です」
「…これからの身体の冷える季節には特に欠かせない」
「寒いと筋肉も強張りやすいからなあ…」
「ちゃんと読んだか白布のチェックが入るぞ、工」
五色の胸元のバッグを指さし瀬見が笑うと、後輩は一瞬、びくっと震えた。
「チェックされようがされまいがしっかり読みますし、今後の練習に役立てます!」
「おお、言うじゃん」
さっきまで腹でも痛そうであった表情は、いまは大平たちの笑顔のようにリラックスしたものになっている。
五色も、表情がよく変わる。
その両肩が降り、やがてぽつりと五色が言った。
「…先輩たちが集まってるの見ると、なんか安心します」
「ん?そうか?」
「はい。……あっ、でも、まだ天童さんは来てないんですね」
そう言った五色の視線が、ふいに牛島の肩のあたりに移った。
牛島はこちらを向いた五色を見ていた。だが意識は別の、誰も居ないそこへ、――空いている隣りの席へと向いていた。
今日も来ないかもなあ、と対面で大平が言った。五色が目を丸くする。
「天童さん、食堂に来てないんですか?」
「昨日、一昨日は来なかったんだよ。俺たちも結構遅くまでのんびり食ってたんだけどな」
「朝練も無くなったし、寝てるのかもしれないな…」
「そうなんですか…」
話題は、ここ2日ほど朝食時に姿を見せていない天童のことに移った。テーブルの上で飛び交いはじめる話を聞いているうち、牛島の箸を持つ手がふと、止まる。
横の席では瀬見が眉を顰めていた。
「食堂行くのだりィって、部屋で菓子食ってんじゃねぇ?」
「うーん、無いとも言い切れねー」
「ただでさえ少食だからな…」
「あっ!俺、天童さんが昨日購買でチョココロネとか大量に買ってたの見ました」
五色のひとことで、大平たちが皆悩ましげに顔を見合わせる。
「購買のパンて悪くなんの早ぇし、買いだめ無理じゃねーの?」
「11月ならベランダあたりに置いてりゃ平気だろ」
「談話室のベランダとか?」
「えぇー…」
「何年か前には、体育館のギャラリーの隅にケーキ隠してた寮生が居たらしいけどな…」
「見つかったら反省文ですね…」
「昨日、昼に2組の前通ったときは、あいつパン食ってたなぁ」
各々が話しているそのあいだに、気づけば牛島はまた食堂の入り口のほうへ視線を向いていた。その周囲にも。
ただ、見渡せども、あの目を引く赤みがかった髪の男の姿は無い。
牛島が顔を戻すタイミングで瀬見が口を開いた。
「今日補習で天童と会ったら、ちゃんとメシ食ってんのか聞いてみるわ」
「補習?」
「引退した運動部のやつなら自由に受けられる補習だ」
首を傾げる山形の問いに、大平が瀬見の代わりに答える。
「アレ、天童も受けてたんだな」
「ああ。つっても教科を選んで参加するやつだから、今日会えるかはわかんねーけど」
放課後、補習が行われていることは牛島も知っていた。白鳥沢学園では部活動終了後すぐ受験を控える3年生が多く、とりわけ塾などへ通いづらい寮生たちには補習などのサポートがある。
ただ、天童も受けていたというのは初耳だった。
「つーわけで今日は補習行くけど、明日はまた練習に顔出すわ!」
「あざす!」
瀬見のことばに五色の表情がまた明るくなる。
「俺と若利も今日は大学のほうへ行くが、明日は工たちのほうへ行くよ」
「俺は今日行くぜー」
大平と山形が笑い掛けると「よろしくおねがいします!」と五色が頭を下げた。
「はは、工、そろそろお前もカウンターで頼んでこないと」
微笑む大平のことばに「そうでした!」と五色はやや焦った表情になる。
「山形さん、放課後よろしくお願いします!牛島さん、本ありがとうございますっ」
「また放課後にな!」
「話長くなって悪かったな」
「いえ、みなさんありがとうございますっ」
背筋を伸ばして一礼をした五色は本をしっかりと抱え、カウンターのほうへと向かっていった。今度は走らずに。微笑みの中、後輩の後姿を追っていたそれぞれの視線がやがて各々の手許へと戻っていった。
牛島は湯気の立ち上る味噌汁を口にした。
同じく湯気の立ち上る椀を手に、瀬見がどこか嬉しそうに言う。
「工のやつ、顔つき変わったんじゃないか?」
「早ぇな、って言いたいとこだけど、やんなきゃならねーことは本人も自覚してるだろうしな」
近くで若利を見てきたからな、と大平が穏やかに言い、緑茶を飲む。
「白布のプレッシャーもすげぇだろうし」
「川西はほっといてそうだしな」
対面同士の瀬見と山形が可笑しそうに笑った。
「…まあでも、工なら大丈夫だろう」
「そうかぁ?俺たち見て安心するなんてヤバいんじゃねーの」
「打てば響くヤツだよ工は」
「獅音なかなかスパルタだな!」
山形が笑った。その笑顔は、どちらかというと喜んでいるように見える。
チームを引き継いだ後輩たちのことを思うと自然と話が弾んでいく。五色に対しては牛島も同意見だった。
なおもつづく話を耳に入れながら、汁椀を口まで運ぶ。
丸い椀の中で、天井の蛍光灯の明かりが反射して揺れる。
(……見ると、安心する)
そう口にした五色の、穏やかな笑顔が思い出された。
練習中に発するものとは違う、どこかおっとりとした声。そしてその視線が、何気なく牛島の肩のあたりへと移ったことも。
普段、そこに見えるものは。
定食を食べ終え、ごちそうさま、と牛島は言った。
「…先に行く」
席を立つと、「おかわり無しか?」と意外そうな顔で瀬見が見上げてきた。
「ああ。今日は日直だ」
「そうか。んじゃ急がねーとな」
「またあとでな、若利」
「また放課後に」
三人それぞれの声に小さく頷いて、牛島はその場を後にした。
寮の自室へ戻ると、ジャージを脱いで制服に着替えた。
まだそう急ぐような時間では無い。
だが、何故か、いつもより急いているような感覚があった。ネクタイを結ぶその数秒が、少々じれったいと感じるほどには。
着替えを終えて牛島はスクールバッグを開けた。机の上に置いたままのペンケースを手に取る。そのままバッグへ仕舞えばいいのだが、そこで視線は机の上で留まった。
目に入ったのは、天童から借りている今週号のジャンプだった。
引き継ぎを終え、牛島たち3年が引退したのは週末のことだ。翌日の月曜の夜に、天童が牛島の部屋にこれを持ってきた。
練習お疲れさま。
若利くんこれもう読んでいいよ。
俺ジャンプ手元にあると読んじゃうから。
それじゃあね。
部屋の入り口で牛島に手渡しながら天童はそう言い、中には入らず自室へ戻っていった。翌朝、朝食のときに読んだかどうか聞かれ、まだだと答えた。若利くん忙しいもんね、と天童は言った。
その翌日は、読んだかどうかの話をしなかった。
その次の日から、牛島は天童の姿を見ていない。朝食だけではなく、昼食のときも天童には会っていない。夕食も同様だ。
そして今日まで、この部屋へジャンプを取りに来ることも無かった。
雑誌を読み終えたのは昨夜だから、タイミングとしてはそれで正解なのかもしれない。
本人も手元に置いておきたくないようなことを言っていたから、なるべくこの部屋へ来ることを先延ばしているのかもしれない。
(……あいつも忙しい)
牛島はカラフルな雑誌の表紙からようやく視線を剥がした。
引退しても、牛島の中で日々の時間の配分は変わらない。大学での練習や後輩の指導、ロードワークと、授業と寮での時間以外はバレーボールに振り分けている。
天童はこれまでバレーボールに費やしていた時間とそれ以外の時間を、ほぼ受験勉強に振り分けているのだろう。この部屋で雑誌を読むことも無くなるほど。
だからなのか、――最近、この部屋がとても静かに感じる。
バッグにペンケースを仕舞い、持ち物を確認して、牛島は部屋を出た。
足の先が向いたのは、寮の玄関のほうでは無かった。
廊下を歩く登校前の寮生たち。その中に天童の姿は無い。
数部屋先のドアの前で、牛島は立ち止まった。
三度、ドアを軽くノックした。
「天童、居るか」
しばし待つ。
だが、返事は無かった。
中からは物音もしない。ノックのあと、天童の出てくるタイミングはいつもだいたい同じで、それが過ぎてもドアが開かない場合は部屋には居ないということだ。
もう学校へ向かったのだろう。
そう頭の中で答えが出たのだが、何故か、足はその場から動かなかった。
そればかりか、胸の前で止まっていた手がもう一度、静かなドアを叩こうとして、――牛島はゆっくりと、その手を下ろした。
背中を過ぎる、寮生たちの足音、話し声。
そこに紛れる目の前の部屋の無音がやけに耳に響いて、牛島は踵を返した。
※
「オイ、天童っ」
言うなり、前に座る瀬見の手が、テーブルの真ん中にあるチョコレートの袋を叩くように押さえた。グシャ、と袋は音を立てたが中身は無事だ。捕まったのは袋の中にちょうど入れていたこの手だから。力加減もされているから痛くはない。
それでも抗議の声は上げておく。
「チョット、痛いよ英太くん!」
「さっきから食べてばっかじゃねーか」
「頭使うと甘いものが欲しくなるんだヨー」
「解いてるより食ってる時間のほうが長ぇだろ」
顔を顰める男の袋を押さえつけていた手が天童のノートを指さした。
「いまの問題になってからチョコ3個目じゃねぇか」
「よく見てるぅー。脳が糖分を欲してんのよー。てか英太くんもチョコいる?」
「お前はそればっかだろ。…まぁ、いる」
「ハーイ」
袋から瀬見の手が退けられたことで手も解放され、天童は菓子袋の開け口をくるりと180度回転させた。
中身は小さなピーナツチョコで、包みの両端が捻られているタイプの包装だ。天童はこのチョコレートが小さい頃から好きだ。美味しいだけでなく、包装の両端を引っ張ると手と手の間でくるんと回るところがなんだか楽しい。
この寮に入る前はこの徳用サイズの袋を2日か3日かけて食べていたが、いまでは談話室や他の寮生の部屋へ持って行くとあっという間に無くなってしまう。次々と袋の中のチョコレートが減っていく様を見るのも好きだった。
ただ、大人気のそれも、牛島の部屋に持ち込んだときだけは減らない。
くるん、と顔の前でチョコレートの包みを開ける。
脳裏に浮かんだことを消そうとするように、天童は甘い匂いのそれをじっと見つめた。その向こうで、瀬見がチョコをひょいと口に放った。
「あー、うま」
「ねぇ、英太くん」
「ん?」
「いつからこの部屋のマットこんな真っ赤になったの」
天童はテーブルの下へ顔を向けながら、チョコを口にした。
寮生の部屋は基本のレイアウトがあるものの、各々が過ごしやすいように家具の移動や変更が可能だ。部屋でもストレッチやトレーニングをしたい、他の部屋の寮生と集まりたい、そういう希望に合わせ、同室の者と折り合いをつけながら模様替えする生徒は一定数居る。
同室の相手が居ない瀬見の部屋であれば更に自由で、特にVリーグの選手のポスターの横によく知らないバンドのポスターが並べて貼られ、机の上には参考書の横にはミニチュアのギターと黒い燭台のオブジェが置いてあり、実際には使えないそこには十字架のネックレスが掛かっている。
空いたスペースには普段は黒色の折り畳み式のテーブルに大きな十字架のマークがプリントされたクッションがふたつ置いてあり、部屋のどこを見ても瀬見の個性が滲み出ている。
同室が居なくてよかったヨネ、と来るたびに思いたくなるような部屋なのだが、その雑多な感じが逆に落ち着くのか、部活のメンバーでこの部屋に集合することも多かった。
しかし、以前は灰色のカーペットだったはずだ。このラグマットは毛足が長くて触り心地はいいのだが、目にやさしくない。ちょうどテーブルの下を覗き込んだら、そこに白い骸骨のシルエットのワンポイントを見つけてしまって、天童は苦笑した。
こちらの胸中の評価がどんなものか知らない瀬見が、袋からチョコレートをもうひとつ取った。
「それが、少し前にコーヒー牛乳零しちまってよぉ。拭いてもニオイ取れねぇし、寮の洗濯機もムリだから、仕方なく前のは捨てて家から送ってもらったんだよ。深紅の薔薇って感じだろ?」
「あーー…ウーーン?」
いきさつは理解したがたとえには共感出来ず、最終的には英太くんちもヤバそう、という感想にしかならなかった。
「…まぁ、ここに居るのもあと少しだけど、いまから床になにもねーのはさすがにキツいしな」
「あーたしかにー。俺も冬は靴下2枚履きしちゃう」
各部屋に暖房はあっても、これからの季節、寮の床は底冷えする。フロアマットがあるだけでも過ごしやすさは全然違う。
「これ、フワフワで気持ちイイねー。色は闘牛のマントみたいだけど」
「受験勉強にちょうどいいだろ?これ、家にもう一枚、色違いのヤツがあるんだぜ」
「へーー…」
派手なラグマットの良さを笑顔で語る瀬見の今日のパーカーは、バイオレットカラーの胸元に銀色がデカデカと描かれた大きな翼の刺繍、さらにその下には虹色で『GLAMOROUS』と文字が入っている。瀬見の服のセンスが変わっているのには慣れているが、相変わらず、どこで見つけてくるのよ英太くん、と思わざるをえない。
(…いや、デモ、いまは英太くんに感謝だね)
視界からの情報が強烈で、気が紛れる。色々なことを考えずに済む。
天童はノートから何気なく、瀬見の頭の後ろに見えるポスターを眺めた。
「……英太くんは大学でバレーやんないの?」
こちらからの質問に、瀬見のペンを取る手が止まった。そして楽しそうにしていた瞳が、少し、細められた。
「まぁな。やりてー気持ちもあるけど、でも前から大学入ったらバンドやろうって決めてたんだ」
「へぇー」
「近所に住んでた兄ちゃんが、めちゃめちゃギター上手くてさ。寮に入る前には、ギターとか教えてもらったりバンドのコンサートにも結構連れてって貰ってたんだ。バレーも好きだけど、バンドもいつかやりてぇなって、ずっと思ってた」
話しているうち、瀬見の目が次第とかがやいていくのがわかった。
その笑顔に、天童もつられる。
「その兄ちゃんはどーしてんの?」
「いまは東京。ギタリストやってて、コンサートとかにも出てるって」
「へー!スゲーじゃん」
「そこまでは目指してねーけど、…まぁ、楽しくやれたらなーって」
やるとしたらギター? と訊きそうになって、天童は寸前で止まる。深入りしたら、独特なセンスの世界に連れて行かれてなかなか戻って来れそうにない気がした。
「…でも、チョットもったいないネー。英太くんのセット、勢いあって気持ちよかったから」
「んなの、後輩の練習に行ったら上げてやるっての。つーか、お前もたまには練習来いよ。川西の相手してやれ!」
あ、こっちの深みにはまった。天童は瀬見から視線を逸らして、そのまま宙を彷徨わせた。つい口から出た本音で墓穴を掘ってしまった。
「まー、太一はコッチが腹立つくらい器用なヤツだからね、心配してないの。ていうかいまさら俺が教えるコトなんか無いしー」
「俺も心配はしてねーよ。でも、士気上がるっていうのはあるだろ?別に川西のためだけじゃねーって。工や今度からレギュラーになるやつらだって、お前がいたほうが練習になるって」
「いまの俺はコッチのほうが大事だよー」
そう言って、天童はようやく持ったペンの先でノートの端をトン、とつつく。
瀬見が眉を顰めた。言いたいことはわかる。
「その割には食ってばっかじゃねーの。そんなに腹減ってるんなら食堂行ってこいよ」
「ヤだよ、そこまでは減ってねえもの」
(――若利くんに会っちゃうかもしれねぇじゃん)
口には出さなかったが、ころりと、胸の奥から本音が転がって出た。
まるでさっき眺めていたチョコレートのように、小さな。
「つーか、マジで心配してんだぜ。お前の主食がお菓子になってんじゃねーかって」
「またその話ー?」
ここ数日の食事についての話は、補習の帰りに瀬見とすでに一度終えたことだった。
これまでほぼ毎食を学食で済ませていたから、あれこれ詮索されるかもしれないとは思ってはいたが、何気なく避けていた話題に戻ってきて今度は天童が顔を顰める。
瀬見が呆れたような顔をしている。
「また?じゃねーよ。お前がベランダにパン溜め込んでる疑惑まで出たっつーの」
「ベランダ?へーっ、その手があったー」
「ナイスアイディアみたいに言うんじゃねーよ。つーか買いだめしたパンどこに置いてんだよ」
「え、フツーに冷凍庫だけど」
「はぁ?寮の?」
「そーそー。でも冷凍してんの2、3個ダヨ。チンしたら食べられそーなやつ。それ以外は完食ー」
瀬見が言うには、購買でパンを大量に買ったのを五色が目撃していた、のだそうだが、三食分と間食用で、買ったのは6つかそこらだ。潰れないように袋をふたつに分けたのがよほど五色の印象に残っていたのだろうか。
後輩の付けた話の尾鰭は無くなった。だが、瀬見の本題はそこではないから表情はいまだ険しい。天童がつきたいため息は瀬見に先取りされた。
「……たまには学食で栄養あるもん食えよ。受験生だって身体が資本だぞ」
「ごもっともデース」
「ちゃんと聞けよっ」
「そのうち行くよー」
「そのうちっていつだよ」
はぁ、と瀬見がもう一度ため息をついた。
呆れるというよりは、諦めた、というようなそれ。
「みんな心配してんだよ」
「やさしいねぇ」
しみじみと天童は思う。皆、やさしい。よく知っていることだ。
それが声に乗ったのだろうか、瀬見は言いたいことは言ったとそんな顔をして、また袋からチョコレートをひとつ取った。
口の中からは、とうに甘さは消えている。
天童は、長らく中断していた問題に大人しく取り掛かった。
部活を引退し、遅ればせながら受験生として放課後の補習などにも参加して、受験生として進み出した。ただ、言うほどには焦っていない。なにしろ来年の大会出場を想定してずっとこれまでやってきたのだ。寧ろ受験に充てる時間は増えた。
そこは瀬見も同様だろう。あのチームが県の予選で敗退するなど、思いもしなかった。
引退は予想よりも早くやってきた。
それ自体は、とくに深く思うことはない。
はじまりがあり、終わりがある。
いつか来ることが今日来ただけだと、引退した日は思った。
そして、バレーボールをずっとつづけていく者と、そうでない者とで道が別れることも、受け止めていた。そのつもりだった。
ただ、――いくら想定していたとしても、脳内のイメージと現実は明確に違うのだと、天童は実感したのだ。
引退してからも、牛島はこれまでとなにひとつ変わらなかった。
朝のロードワークをこなし、練習をし、寮で休み、引退以前と同じ日々をくり返している。牛島にとって練習をする場所が高校か大学か、以前との違いはそれだけだ。全日本ユースの合宿に行くなどのイレギュラーはあったが。
だが、そういうことではない。
取っている行動の差異ではなく、彼が彼として生きている、その在りかた。
本人がことばにすることは少ないが、牛島の目指す場所は世界だ。
ここは通過点であり、だから彼の日々が変わらないことはある意味当然でもある。部の練習は牛島の中ではチームの練習であると同時にルーティンのひとつだった。そんなことは、近くで見ていて十分知っていたはずだ。
それなのに、なにも変わらない牛島を近くで見ることが、予想以上に堪えた。
まるで自分の存在など、はじめから無かったかのようで。
(……コレはコレで、卑屈になりすぎー)
気づいたら、頬杖をついていた。
なにか圧し掛かるようなものを払うように、あるいはなにかが詰まっているような胸の重さから気を逸らすように、天童は正面を見る。
七色のロゴが、ほんの少し、沈みそうなものを掬い上げていくようだった。
持つべきものは友だちだ。この白鳥沢に来てから何度思ったかしれない。
でも、だから余計に、惑うのだろうか。
好きなバレーボールが出来るここは、天童にとってこの世の楽しいことのすべてが詰まったような場所だった。
望む場所へと進み、大事なひとたちと出会い、これまでに無い楽しさを味わえたことで、過去を思い出す暇など無かった。白鳥沢での生活はそれほど刺激的で、眩しかった。
きっと、牛島も同じだっただろう。ここを選んだことを最善だと口にしていたから。
違うのは、牛島はこの先も楽園に居られる人間だということだ。
よりレベルの高い場所で、彼と同種の人間しか足を踏み入れることの出来ない場所で、牛島はバレーボールをしていく。そこでより多くのひとと出会い、これまでに無い楽しさを味わっていくだろう。過去を思い出す暇など無いほどに。
それがどれほど幸福なことであるかを、ここへ来た自分は身を以て知っている。過去を思い出さなかったのは、他ならぬ天童自身だ。
牛島とは、もう同じコートの中に居られない。
これからもバレーボールを追い求める牛島の目に映ることは無い。
卑屈でもなんでもなく、事実。
それもまた、想定していた。だから敗退したあの日、『止める』と言ったあの終わりのとき、牛島に伝えたいことはすらすらと口から出て行ったのだ。
「――おい天童、なにボーッとしてんだよ」
気づくと、瀬見の訝しげな視線がこちらに投げかけられていた。
「……あ、ゴメン。英太くんのパーカー見てた」
「は?コレ気になる?」
「ウン、ある意味」
「どーゆー意味だよ?まぁいいや」
あとで買った店教えてやるよ、と言って瀬見はまた視線をノートへ映した。買う気は無いが、どこで入手出来るのかそこだけは少し気になった。
余所見してらんないね。自分に言い聞かせるような小さな呟きだった。
そうして計算途中の問題を見て、天童は笑った。
牛島の、脇目もふらず、誰の目も気にせず、己のやりたいことへ突き進んでいくところが、見ていて面白かった。そんな気持ちのまっすぐさが好きで、心地よかった。
だから近くに居て、笑っていられた。
(……俺ね、若利くんの前では笑ってたいのよ。英太くん)
相手はなにも変わらない。これまでどおり彼らしく進化しつづける。
変わったのは自分だ。
ただ居る場所と視点がこれまでと違うものになっただけ。
心の整理がついていないだけ。
だが、そんな些細な理由でも牛島の前で笑えないのなら、――また、いままでどおり笑えるようになるまでは、会いたくない。
ノートの上でさらさらとペンを動かしながら天童は静かに苦笑した。
さすがに、卒業までこのままということは無いだろうが。
白鳥沢というチームは、楽園で出会った宝物だ。
だからその終わりまで美しいままで在らせたい。
(天童なきあと、とはよく言ったもんだね)
いつか、牛島がどこかにある楽園で振り返るかもしれない、遠い日の思い出。
その泡沫のような記憶の中では、せめて笑顔で残っていたいのだ。
※ ※ ※
今日の練習は終了した。
牛島は大平とともに大学の監督やコーチたちに挨拶をし、ロッカールームに置かせてもらっている荷物を手早くまとめた。いまから寮へ戻れば食堂が開いている時間に間に合う。
タオルなどを仕舞っていると、横からテープを差し出された。
「落ちたぞ、牛島」
「ありがとうございます」
テープを拾ってくれたのは2年上の先輩だ。牛島たちが高等部に入った年に、いろいろと指導をしてくれた。
「これから寮に戻って食べんのか?」
「はい」
「結構ギリギリだなァ。帰り気ィつけろよ」
「はい、ありがとうございます」
すると、はつらつとしていた先輩の笑顔が少し穏やかなものになった。
「…もう少ししたら食堂のメシも食べられなくなるからなァ。いまのうちに食っておけよー」
先輩の話を聞き、牛島は黙した。最後のことばの意味がよくわからなかった。
あと数ヶ月で高校卒業となる。その前に退寮する。だから食堂は利用出来なくなる。ここまではわかるのだが、だからいまのうちに食堂を食べる必要性がある、という意味合いになるのはどういうことだろうか。
すると、目を合わせていた先輩が、首を傾げた。
「あれ?俺なんか変なこと言った?」
「いえ、変なことは言っていません」
「うーん?……ああ、そうか」
やがて、ひとり相槌を打った先輩が笑って言った。
「俺、寮の食堂のトンカツ定食好きだったんだよ。ポテトサラダも。練習しんどかったときに食べてたからかもしれないけどさ、あそこのがこの世でいちばん美味いって思ってんの。だからまぁ、食事に関しては未練があるっつーか。まだ食べられるお前らが羨ましいよ」
「…なるほど」
補足してもらったことで理解する。なるほどって、と先輩が笑った。
「さすが、お前は相変わらずだなァ」
なにがさすがなのかはわからなかったが、相変わらずというのは、わかる。
いままでも、これからも、バレーボールをする。
場所がどこであろうと、どんなチームであろうと、ボールを託されるエースになる。
目指し、努めていることは変わらない。
「…やりたいことは変わっていません」
「ははっ、そうだな。将来のジャパン、応援してっからな!」
「ありがとうございます」
にっと笑った先輩が去っていくと、若利、と後ろから呼ばれた。
大平はすっかり帰りの支度を済ませていた。
「先輩と話してたのか?」
「ああ。すまない、急ぐ」
「まあ大丈夫だろう、今日は少し練習終わるの早かったようだし」
そう言って大平は、忘れ物がないかをもう一度確かめはじめた。そのあいだに、牛島はさっきのテープとドリンクボトルなどをバッグに仕舞い、上着を着る。マフラーをするかどうかを迷い、とりあえずいまはバッグに入れた。
大学の先輩たちに挨拶をし、牛島たちは帰途についた。
外はしっかりと暗く、代わりに目の前の道路を行き交う車のライトや、コンビニの灯りが眩しい。
空を仰げば、月と星が瞬いている。
「……めっかり冷えてきたなあ」
「ああ」
「初雪もそろそろだな」
「そうだな」
話せば顔の前で息が白くなる。
冷たい夜風が肌や髪から少しずつ体温を払い落としていくようだった。
「今日はなにが残ってるだろうな」
大平が言うのは食堂のメニューのことだろう。今日のように遅い時間に行けば、選択肢はほとんど無い。
ただ、ごくまれに好物のハヤシライスが残っていることがあった。牛島が選ぶと隣りに居た天童も「よかったね」と嬉しそうにしていた。そんな天童はというと、麺だったか、軽く食べられるものを選んでいた。
とはいえ、まだ寮の食堂で食べることが出来る。トンカツ定食、ポテトサラダ――それらがふと頭の中に浮かび、牛島は大平に訊ねた。
「……大平は、食堂のメニューで好きなものはあるか?」
「ん?」
大平は一瞬、驚いたような顔をして、やがて「そうだな」と口を開いた。
「サバの定食が好きだが、今日みたいに腹が減ったときはトンカツ定食がいいな」
「…そうか」
「若利はハヤシライスだろ」
「そうだな」
食堂で、ハヤシライスを選んで席に着く。
その対面か隣りの席には、いつも。
「……天童は、食堂のメニューに好物は無かったのだろうか」
「天童?」
すると大平は、何故かそこで穏やかに笑った。
「…そうだなあ。食堂のメシの量が多いってボヤいてたし、いつも選んでいるのもバラバラだったから、無かったかもな。…寮でお菓子食べてるほうが好きそうだ」
「……そうだな」
天童は食が細い。だが、甘い菓子類を好み、そちらはよく食べている。
食事中は味や見た目に対し好きか嫌いかを話していることが多かった。だが、食堂の特定のメニューが好きだという話は聞いたことがない。
さっきの先輩の話にあったような、思い入れも無いのかもしれない。
だから、来ない。
“好きではなかった”ということだろうか。
ウシワカくん、――牛島のことを天童は最初そう呼んだ。
その呼びかたは好きではないと牛島は伝えた。苗字と名前、どちらも中途半端に呼ばれているようで据わりが悪いと。
天童はすぐに謝った。そして「じゃあ牛島くん? 若利くん? どっちが好き?」と訊いてきた。意外な質問だった。
苗字と名前、どちらで呼ばれるのが好きかを訊かれたことは無く、考えたことも無かった。
だから、好きに呼べばいいと言いかけ、――いまちょうど、好きではない呼びかたの話をしていたから、その言いかたは適切ではないと思った。
――じゃあ、若利くんて呼んでいい?なんとなくソッチのほうが好きそう。
判断に迷っているあいだに、天童が言った。
好きか、嫌いか。
天童はそういう視点を大事にしていた。
(……していたのではなく、……いまも、している)
なにか、胸のあたりからせり上がる感覚を飲み込み、牛島は口を開いた。
「…あまり好きではないから、…天童は食堂を利用しないのだろうか」
「うーん。どうだろうな。パンは食べてるようだが……練習してもあれしか食べてなかったんだ、…身体を動かさなかったら余計に量が多いと感じるかもなあ」
「……そうか」
白くなった息が目の前で揺れて消えた。
目の前の景色が、車のライトで照らされて浮かんではまた夜の暗さに沈む。
今夜の夕食も、天童は食堂に来ていないのかもしれない。
もし来ていたとしても、牛島たちが寮に戻るころには食事を終えて部屋に戻っているかもしれない。
でも、もし時間が重なったなら。
そう思って、いま、ここを歩いている。
大学の寮の食堂も利用していいと話があったが、戻ることを選択した。けれども。
――若利くん。
――それじゃお先に。おやすみ。
おやすみ、と寮の談話室で天童とあいさつを交わした。
三日前の夜のことだ。それきり会っていない。
それだけで、どうして、どこか落ち着かないのだろう。
たった数日会わないだけで、これまでも部外の合宿に参加して、似たようなことはあったはずなのに。
揺れるなにかの合間から、また、思い出される。
記憶が、浮かび上がる。
――俺は高校でバレー止めるけどさ。
――ちゃんとがんばってね。
冷たい夜風が過ぎていった。
牛島はまた訊ねた。
「……大平」
「ん?」
「…情熱大陸を見たことはあるか?」
「情熱大陸?……テレビ番組のか?」
「ああ。…天童が言っていた。いつか俺がそれに出るかもしれないと」
ややあって、大平は急に、あははと笑い出した。何故ここで笑うのかよくわからなかったが、なにか理由があるのだろうと牛島は思った。
「俺は一度くらいしか見たことはないけどな……そうだなあ、若利は将来出てそうだ」
「……そうか」
「それにしても…」
笑顔の大平が、またそこで小さく吹き出した。
「…お前の口からテレビ番組の名前を出させるのは天童くらいだな」
「……そうなのか」
言われてみて、あまりテレビの話題を口にしたことが無いと思い至る。
だが、天童とはよく話した気がしている。
天童は。
「…天童は、俺のマブダチだからだろう」
まだ馴染みのないことばを口にしたからか、言い終えてもなにか曖昧なものが喉に引っかかっているような気がした。
マブダチ。
天童があの日言った。
すると大平が目を丸くした。
歩幅も狭くなり、そしてまた何故か笑った。
「ははははは」
さっきよりも大きな、通りに響くような声で笑い出し、牛島は思わず瞬いた。大平が笑うことは珍しくないが、こうも声を出して笑うことは滅多に無い。
夜の空気が白いもやでけぶる。やがて、笑うのを堪えるように大平が口許に手を持って行った。
「……はは、笑ってしまってすまん」
「いや」
「……マブダチかあ。言い得て妙というか、天童らしいなあ」
それまで細められていた大平の目が、いっそう穏やかになった。
「そうだな。…お前と天童は、俺もそうだと思うよ」
「………そうか」
目の前で、ことばが白く溶けて消える。
けれど何故だろう、それを見ても、――今度はあたたかい。
大平がまだ少し、思い出して笑っている。牛島は僅かに首を傾げた。
「…そんなに面白かったのか?」
「ああ、すまん。……面白いというよりは、なんだろうな、…嬉しいんだよ」
「嬉しい?」
「…仲間の仲がいいと嬉しいだろ」
ようやく笑いが収まったらしい大平が微笑む。
そして、星の微かな空を仰いで言った。
「なあ、若利。天童が心配なら会ったらどうだ?」
心配。
牛島は、少し、自問した。
「……心配はしていない。いまの食生活は、気になるが」
そうか、と言った大平の視線がこちらへと向けられる。
「…そうだなあ、心配じゃなくても、会いたければ会っていいんじゃないか?」
大平のことばに、牛島は立ち止まりそうになった。
会いたいから会う、というふうに考えたことが無かった。
「だが、忙しいのではないのか」
「忙しいだろうなあ…。でも、天童は一分一秒を無駄にしないってタイプじゃないだろうし、少しくらい平気だろう」
「……いいだろうか」
「いいに決まってる。マブダチなんだろ、お前たち」
大平が穏やかに言って、笑った。
寮に着いたのは食堂が閉まる30分前だった。
部屋に荷物を置き、牛島が大平と食堂に入ったときには他の寮生の姿はほとんど無く、残ったメニューの中から夕飯を選び、二人はカウンター近くの席に着いた。
どちらも好物にはありつけなかったが、練習後の食事はいつもありがたいと思う。空の胃袋にあたたかなご飯が沁みていく気がする。ポテトサラダをお替りする大平を見て、牛島もポテトサラダを追加で頼んだ。もちろん、他のおかずも。
今日の練習の振り返り、そして明日参加するバレー部の練習のことを話しながら、牛島は先輩のことばを頭の隅で思い返した。退寮までは残り3ヶ月というところだ。
こうして仲間と食事を摂れる機会も、あと少し。
今日の夕飯である2皿目のアジフライをひとくち齧りながら、その横の皿のポテトサラダを見た。
これを食べたいと言っていた先輩の顔が脳裏に浮かんだ。
次に今朝の、嬉しそうに笑った五色の顔が浮かんだ。
そして後輩が目で探していた、――天童の顔も。
日常は、少しずつ変わっている。
牛島自身が目指しているものは変わってはいない。
やりたいと思うことも、やることも変わっていない。
ただ、それ以外のところでは変化は起こり、誰かのことばや表情を通して見えてくる。
いつも見ていた姿が見えないということも、見えた。
(……相変わらずではなかった)
天童の顔を見ていない。
天童の声を聞いていない。
いまはそうではないのだと、意識をしてはじめて気づく。
声や気配が無くなって、はじめて。
それだけ、天童が居るということが、当たり前だったということなのかもしれないが。
(………マブダチ、だからか、)
そのことばの意味を、牛島は数日前に辞書で調べた。
手持ちの辞書には載っておらず、少し厚い図書室の辞書にも載っておらず、スマホで検索したらようやく答えがあらわれた。
マブタチとは、親友。
ほんとうの友だち。
心の底から大事だと思える、親しいひと。
表現はさまざまだったが、意味するところはだいたい似ていた。
検索結果に並ぶいくつもの答えを、上から順に読んでいった。
そうして並ぶ文字を目で追いながら、あのとき牛島はからだの中でなにかが落ち着いていくような心地を覚えた。
別段、なにかに急いていたわけではない。
感情なのだろうか。
胸のあたりで、なにかがゆっくりと、安定したなにかに凭れていくような。
表現しづらくぼんやりとした感覚。
けれど、それは、心地よかった。
あたたかいと思えた。
それは、天童とふたりで居るときに覚えていた、心地。
練習時やそれ以外でも、ふと目を向ければそこに天童は居た。
楽しそうな笑顔。交わした視線。
そのときの心持ちを可能な限り思い出して、――あのときスマホの画面を見ながら、マブダチということばがしっくりする、そう感じたのだ。
「ごちそうさまでした」
対面の席で、大平が空の器に手を合わせた。
急がなくていいぞ、とすかさずひとこと添えられ、牛島は頷いて残りの味噌汁とご飯を口に運んでいった。
今日の食堂の利用は牛島たちで最後だった。がらんとしたそこを後にし、風呂を済ませ、談話室で大平や山形と少し話し、テレビを見たあと、牛島は部屋に戻った。
宿題と、ストレッチ、それからと、いまから眠るまでのスケジュールを確認し、そうして何気なく、部屋の奥にある机の前に立つ。
そこに置いたままの雑誌を、牛島はそっと手に取った。
分厚いが軽い。色鮮やかな表紙を一度見遣り、そのまま本棚の前へ移る。
おそらく今夜も天童は取りに来ないだろう。手許にあると困るのだと言っていたから。
ずっと机の上には置いていたそれを持ち、牛島は本棚の下段の空いている場所へ雑誌を仕舞った。バレーボール雑誌やトレーニング関係の本の細長い背表紙が並ぶ棚の中で、背幅のあるそれは存在感を示していた。
来週号はどうするのだろう。ふと思った。
今日は土曜日で、明後日が発売日だ。それは覚えている。
だが、天童の状況がわからない。勉強中にあっては困ると言う雑誌を、次も買おうと考えているかはわからない。
ゆっくりと、牛島は本棚の前で立ち上がった。
目線とほぼ同じ高さの段、そこの本と本のあいだにぽっかりと隙間が空いている。
五色に貸した本――牛島の父親の書いた本がいつもは収まっている場所。
そこはいちばん取りやすい場所だ。本の内容は、父親が長年取り組んできたストレッチやマッサージに関する実践法で、何度も読んで中身は把握しているが、それでも読みたくなるときがままある。
その頻度に関しても、天童に「その本、お気に入りなんだね」と言わるまで、どれほどくり返していたか気づけていなかった。
大事な本。
大事なことば。
大事な、父親。
似ている、と思った。
マブダチというものと。
心の底から大事だと思える、親しい誰か。
牛島にとってそれは両親に他ならない。
そして両親にとっての、自分だと思っている。
両親は離婚し、父親は何年も前に海外へ移り住んだ。いまはそこで自身の経験を活かしてトレーナーとして選手のケアやサポートをしている。
さらに牛島自身は寮で暮らし、いまは親子三人とも離れて生活をしているが、それぞれが互いを大事に、大切に思っている。
母親は離婚後も父親について息子に多くは語らなかったが、時折、手紙や電話のやりとりで近況を把握していることを牛島は知っている。父親の勤め先や自宅の連絡先の情報も母親から知らされている。
両親の仲が悪いと感じたことは無かった。
離婚してからも思ったことは無い。それでもふたりは別れた。
両親からの説明を受けたときの心地は、いまでも上手く言い表せられない。
そのときの両親はとても落ち着いていた。子どもの前で務めてそうしていたのもあるだろう。ゆっくりと語りかけるように話してくれた。
ただ、その穏やかさが、肌の上から静かに状況を訴えていたように思えた。
これは揺るがないことなのだと。
手の届かないところで決まったことだと。
そしておそらく、きっと、あのときの牛島が大人と呼べるような歳であったとしても、両親の選択は変わらなかっただろう。
あのとき、混乱の中で、それでも子どもながらに、はっきりと理解した。
どれほど大切でも、どれほど頑張っても、自分にはどうしようも出来ないことがあると。
父親は家を出ると話した。
新しい場所でやりたい仕事をする、そして母親はそれを応援すると話した。
自分に出来ることは、母親のように父親を応援することだと、あの日の牛島は思った。父親がバレーボールをする自分を応援してくれるように。
応援は、本というかたちで、ここまで届いている。
牛島は本と本のあいだの、うっすらと翳るそこを見る。
いまごろ五色も本を読んでいるだろうか。そんなことを思う。
本の中で、父親はスポーツ選手にとって大事なことを語り、いまの牛島や多くの選手を導いてくれている。そしてかつての父親のことばひとつひとつが、自分の目の前を照らす指針となっている。
母親もまた、寮で生活するこの身を案じ応援してくれている。
互いに、心の底から大事に思っている。
思われている。
実感している。
だから。
嬉しいと、そう感じた。
天童が自分たちを『マブダチ』と呼んだことが。
視線は、やがてゆっくりと本棚の下段へと移っていった。
その先で目に入ったものは、ジャンプと書かれた分厚い背表紙。
天童が貸してくれたもの。
まるで、いつもこの部屋に居た持ち主の代わりに在るような。
――お前と天童はそうだと思うよ。
(………心配は、していない)
マブダチだから、そばで見てきたから、知っている。
天童もまた、白鳥沢の名を背負ってコートに立ってきた。自己管理には気を配っているし、試合や練習が無くなったとしても自分の体調は把握出来るはずで、食生活以外に関しては気遣いは無用だと思っている。
思っているのに。
牛島はその視線を雑誌から部屋の壁時計へ移した。
消灯時間はまだ先だ。
余程のことがなければ、寮生もまだ眠っていない時間。
おそらく、天童も起きている。
(………大事だと、思う、)
思うこと、思われることが、心の支えになることを知っている。
――若利くん忙しいもんね。
天童も、こちらを気遣っている。
そんな天童自身も忙しいから、応援したい思う。
心の底から、天童のことを思っていたい。
同じ寮に住み、同じ学び舎に通う。その日々が終ろうとも、相手を思い、応援する。
大事なひとだから。
マブダチだから。
そう思う。
思うのに。
じりじりと、なにか胸のあたりが熱くて、何故かじっとしていられなくなって、――牛島は自室のドアのほうへ歩き出した。
心配する必要は、無い。
天童がこの部屋へ来ないということは、こちらへの用が無く、その時間も惜しいからだろう。暇だから来たと天童自身がよく言っていたから。
だが、――足が、身体が動く。
牛島は部屋を出た。
廊下で何人かの寮生とすれ違う。すぐに見える、数部屋先のドア。
一瞬、牛島の視線は自分の足元へと降りた。
両親のように思うこと。
応援すること。
部屋に居る天童には、会うことは、多分、必要無い。
無いと、思うのに。
再び顔を上げれば、もう天童の部屋は目の前だった。
数日前のようにドアの前に立ち、牛島は静かにノックした。
ドアの材質に変化は無いのに、何故かそれは硬く、冷たく感じた。
「……天童、居るか?」
訊ねたあとの、静けさ。
やがて、扉の向こうから物音がした。微かな足音が近づいてくる。
今度は胸の奥が騒めいて。
ドアが開く。
見慣れた赤い色が――視界に入った。
「……若利くん?」
長い前髪の合間から覗く大きな瞳が、牛島を捉えた。
じわりと痺れにも似た感触が首の後ろを走っていった。
天童が瞬く。
「……若利くん、どうしたの?」
なにか用だった? と天童が首を傾げる。
用、と、言われていまさら用事を探す。
探しているあいだ、天童はじっと牛島の顔を見ていた。
その感覚がふしぎにも懐かしくて、思考が中断しそうになった。
やがて、牛島の脳裏に雑誌の背表紙が浮かぶ。
「……預かっている雑誌は、どうすればいいだろうか?」
「あっ!ジャンプ?そっか!ごめんネ、すっかり忘れてた」
目の前を弾んでいくような声。
ドアのノブに手を掛けたまま天童が背筋を伸ばした。驚いたときの動きだ。
「俺が持っていたほうがいいなら、そのまま預かる」
「えっ、いいの?」
「ああ。……それと、天童、…明後日は雑誌の発売日だったと思うが」
「え…!?…あ!そうジャン!!」
そうして、驚いていた天童の表情が、ようやく綻んだ。
笑顔だ、と牛島は何故か思った。
かくんと勢い良く天童が項垂れ、やがてまた顔を戻した。
「…まさか若利くんに発売日を指摘されるとはネ。…立派なジャンプっ子になって…」
「じゃんぷっこ?」
ジャンプの子、という意味だろうかと考えたが、ますます意味がわからない。人間の子だ。
ただ、意味を訊ねる前に天童が話を進めた。
「ありがと、若利くん。買ったらまた回すね。前のはそんとき持ってくから」
「わかった。…だが、数冊なら預かれる」
「えっ」
「手許にあると困るのだろう」
「んー、そーだけど……」
「それくらいなら、出来る。迷惑ではない」
喉の奥から、するりとことばが出てきた。
天童がぱちぱちと大きな目を瞬かせる。
ただ、笑顔は――少し、天童にしては弱々しいもののように見えて、疲れているのかもしれないと牛島は思った。来てよかったものかと、いまさら思って――気がつくと、天童が「ウン」と答えた。
「…じゃ、そんときはお願いするよ」
「……わかった」
「わざわざありがとう、若利くん」
穏やかに天童が笑う。
また、胸の奥でなにかが揺れる。
わざわざ来たのではない。
ただ、来たかった。
それだけで。
「――天童、」
気づけば、牛島の手はドアノブごと天童の手を掴んでいた。
手のひらの下で天童の手が小さく跳ねた。
その視線が手許へと移り、また牛島の視線と重なる。
「…な、……なに?若利くん」
笑顔が消え天童が困惑した表情を見せる。
胸のあたりが、ぎゅっと締め付けられた気がした。
「……明後日の朝は、雑誌を買いにコンビニへ行くのか?」
「…え……ウン、多分」
「始業前か?」
「…そだね」
「……俺も、途中まで一緒に行ってもいいだろうか?」
「えっ」
驚きの声とともに、天童の手がまた震えた。
瞳が僅かに伏せられ、そうして、天童は眉根を寄せた。
「……それって、俺も走れってこと…?」
訊ねられてはじめて、牛島はそのときの状況のことを考えはじめた。
これまで、――部を引退するまでは、コンビニへ行くにも走っていた。
だが、いまは違う。
ロードワークに誘ったわけではない。
「そこは天童の好きにしていい。俺は合わせる」
「エェー……、合わせるって…俺も走らなきゃってカンジじゃん!」
「そんなことはない。徒歩でも構わない」
「構わなくないよっ。若利くんの貴重な練習時間を潰せないデショ!」
「……そうか」
はぁ、と天童が長く息をついて両肩を下げた。
その仕草が何故か懐かしく思えた。
手のひらから、天童のぬくもりが伝わってくる。
「……ありがとう、天童」
そう言うと、天童は細い眉を下げて、小さく笑った。
「…お礼言われるよーなことしてねぇってば」
そして笑ったまま、天童の視線はドアノブのほうへと移った。
いまのままではドアを閉められない。牛島はゆっくりと、そこから手を離した。
「…じゃ、若利くん、明後日の朝にね」
「………ああ」
明日は会わないと決まっているのか。
一瞬そう思ったが、考えを打ち消した。
忙しいのだろう。
(……思うだけでも、いい)
「それじゃ…オヤスミ、若利くん」
天童が笑った。
穏やかというよりもどこか静かで、元気が無いように見えて。
また胸の奥が、呼応するように動いた。
「…おやすみ、天童。睡眠はきちんと取れ」
「…ウン。そーするね」
やがて目の前をドアが過ぎてゆき、それが閉まるまで天童は手を振っていた。
パタン、と音が響いて、――終わったと牛島は思った。
天童との会話がということではなく、なにかが。
部屋のドアから一歩下がって、牛島は自室のほうへと振り返った。
寮の廊下には寮生がおらず、だからだろうか、やけに静かに思えた。
これから部屋に戻る。消灯の時間までに必要なことを済ませる。そう、やることを確認しようとして、でも、視線は部屋のほうではなく左手へと移った。
さっきまで天童に触れていた手のひら。
まだ触れた手の体温が残っている感じがした。
けれど、そのままでは廊下の冷えた空気の中へ消えていきそうで、そうなるのが何故か嫌だと思えて、牛島はそっと、左手を固く握りしめた。
※
ノートの上にシャープペンシルを転がせ、天童は机の端に置いていたペットボトルを手に取った。
残り少ないお茶を一気に飲む。部屋の暖房のおかげでお茶は生温い。
他方、カーテンの向こうでは風の吹く音がしている。厳しく冷たい夜風。もう数日すれば、そこに雪が加わる。
キャップを閉める音が、静かな部屋に響く。今日の見回り当番が点呼を取りにやって来たのが10分かそこら前で、まもなく消灯の時間だ。
はぁ、とひと息ついて、天童は眠気で半開きの目を部屋のドアのほうへと遣った。
久々に、牛島に会った。
部屋にやって来たときは何事かと思った。
明日がジャンプの発売日であることを、すっかり忘れてたことにも驚いた。
そして、驚きに胸が強く反応することに驚く自分自身にも驚いた。どうやら思っていた以上に受験生の日々というものに染まっていたらしい。
何気なくペンを手に取り手の上でくるくると回す。テープを巻いていない指に、ペンは操られ、無感動に手の上を移動していく。
反動をつけて回るそれを、天童はただ眺めた。
こういう、半ば呆けているときに、牛島はいまごろどうしているだろうかと思うことがある。それは特別なことのように感じていたが、――牛島がこの部屋に来たことに驚くほどには、思いを馳せるという状況が日常になっていたということだ。
互いの部屋の行き来に驚くことなど、無かった。
(……案外慣れるヨネー)
キツい、とか、つらい、とか、そういうことにも、心は次第に慣れていく。
たとえば、誰かの冷たい視線やことばも、そんなものだとやり過ごしてきた。
自分は耐えられると思った。他人の言動を気にして自分のやりたいことをやれないほうが遥かに嫌だったから出来たことだ。あれはあれで、過去だから、もういい。
ただ、中身は違えど、似たようなものなのかもしれない。
少しずつ心は変わっていく。気の持ちようでマシになることもある。
いま、また、やりたいことがある。
牛島の前で笑えるようになりたい。
手の甲の上でくるんと回ったペンが、ノートの上に音を立てて落ちた。
これまでと変わらない牛島を見ても、そんなものだと思って笑っていけるだろうか。
天童は苦笑してそれを拾い、そのままペンケースに仕舞う。ついでに消しゴムも放るように入れてノートを閉じる。
一日が終わる、という感じがする。
以前は、風呂あがりに感じていたようなことだ。
談話室や牛島の部屋でのんびりと、あるいはダラダラと過ごして、部屋に戻ってから就寝までの時間はあっという間に過ぎていった。
眠たい。天童は頭の上へとぐっと腕を伸ばし、伸びをした。
そしてまた、ふぅ、と息をつく。
(……わざわざ来なくたって、スマホに連絡くれればよかったのに)
あんまりスマホ使わないもんね、若利くん。胸の裡で付け加えて、天童はベッドの上に置きっぱなしのスマホを思い、小さく笑った。
スマホをあまり使わないのはお互い様だ。交友関係が寮内で完結していると、連絡が必要な相手とは直接話すことばかりだ。
部内やクラスからの連絡、急ぎの用に関してはそうとは限らないが、――そんなときでも、牛島はメッセージ機能やアプリを使わず電話をしてくることがほとんどだ。
使い慣れていないこともあるのだろうが、牛島の手のサイズに対してスマホが小さく使いづらいから、電話を選ぶのだと思う。今回の場合は、スマホ自体使われなかったわけだが。
来てもらうなんて悪いことしたかな、とのんびり思う。
若利くんらしい、とも。
口の端緩んできていることに気づいて、天童はそのまま、片付いた机にゆっくりと突っ伏した。
会えなくても慣れるものだと思うそばから、少し会えただけで嬉しくなっている。
たとえそれが、預けたまま忘れたジャンプのせいでも。
(…チョローい。チョロスギー)
動揺したり、ニヤけたり、こんなのはひとり相撲だ。
俯いたまま、天童はため息をつく。
真面目で律儀な牛島のことだから、部屋に置かれたままのジャンプの扱いに困ったのだろう。わざわざ部屋に来させたことを嬉しがっている場合ではない。
僅かに顔を上げ、左手の甲を見る。
あのとき牛島に掴まれた感覚がそこにまだ残っているようだった。
やっぱりスマホに対して手が大きいよ、若利くん。声にせず呟いて、そうして天童の目の焦点は手の奥へぼんやりと移っていった。
ロードワークのルートとは関係なくコンビニへ行くなどと、牛島らしからぬ話だった。
(……どういう風の吹き回し??)
――みんな心配してんだからな。
自分の問いかけに呼応するように、数日前の瀬見のことばが脳裏から浮かび上がってきた。そうか、と胸の裡で呟く。
(…もしかして若利くん、みんなになんか言われて来たトカ?)
瀬見の話によれば、天童は引退してからの食事がかなりテキトウになっているのでは、などと噂されているらしい。
お人好しで、ときにお節介も焼き、たまにはなにか企んだりもする気のいい仲間たちのことだ。雑誌を買う朝のコンビニで、牛島を巻き込んで朝食のチェックでも、などと考えることもありうる。
一方で、たとえそれが面白半分な内容であっても、牛島は自分が納得すれば話に乗っかる。そうでなければ、――あの牛島が朝のルーティンに別の用事を加えるなどと、考えたりはしないだろう。
瀬見の前でチョコ食べ過ぎたかもしれない、といまさら思う。そして五色の勘違いも少しうらめしく思った。しかし、いずれも自分で蒔いた種だ。
ウーン、と天童は小さく唸った。
とはいえ、食べたくないモノは食べないし、買いたくはない。
そしておそらく、牛島もなにか厳しく言うことはあっても強制はしてこない。
(んー、…ジャンプの他に、おにぎりとか買っとく…?)
牛島からは野菜や肉が足りないと言われそうだが、引退前からそんなに積極的に食べてきていないし、遠征先での食事や合宿での焼肉やバーベキューでも、ご飯と肉と焼き野菜を一皿にいくつか取ったら、それで十分だった。
コンビニの弁当なども頭に浮かんだが、なんとなく食べたいとは思わなかった。なんだかんだ言って、腹のほうも購買のパンの手軽さに慣れてしまったようだ。
やがて、お菓子でなければいいか、と天童は結論づける。
本当はジャンプと一緒にポッキーでも買って朝食として済まそうと思っていたが、こうなっては諦めるしかない。ホラ言わんこっちゃねぇ、などと瀬見たちに思われるのも面倒だ。
想像して、ふと、また口の端が緩んでいることに天童は気づいた。
持つべきものは、気のいい仲間たちだ。
そして。
――睡眠はきちんと取れ。
(……うん。寝よ)
デスクライトを消し、天童は立ち上がった。
椅子の脚が転がる音がする。そのか細い金属音ごと、椅子の背を押した。
まだ気に掛けてくれるんだ、とあのとき思った。
縁というものだろうか。同じチームメイトでなくても、コートの中に居なくとも、まだあの目に映ることはあるんだと、そんな小さな驚きがあった。
卑屈だネ?
いやあ、そんなモンでしょ。
交わらない声が胸の裡に響いていった。
どちらも本音で、きっと、この先どちらもあったほうが、楽だ。
いまどういう表情をしているのかわからないまま、天童は部屋の明かりを消した。
※
牛島との約束からあっという間に1日が過ぎた。
待ちわびていたような、そうではないような、複雑な朝。
ただ、朝といってもまだ夜明け前で、暖房のついていない部屋で縮こまりながら天童は上着に袖を通していた。
コンビニに行く時間はいつもだいたい同じで、朝練開始の前にすばやく寮を出ることが多かった。たまに練習帰りに買うこともあったが、学校で読みたい気分のときもあり、また練習でヘトヘトになってコンビニへ行く気力が湧かないときもあり、それなら朝のうちに行ってしまうのがいいと考えた。規則正しめである寮生活のおかげで朝起きることはそれほど苦ではなくなっていたから。
とはいえ、長く眠っていられるならそうしたい。引退してからはゆったりとコンビニへ足を運んだが、今日は牛島も一緒だからそうはいかない。
これまでの付き合いから、天童がコンビニへ行く時間帯は相手も知っている。だから待ち合わせの連絡はとくにしていなかったが、今朝は買い物に付き合ってもらうのだからと珍しく身支度を急いでいたら、迎えに行くよりも先に自室のドアをノックされてしまった。
マフラーを巻くかどうか、手に取って一瞬悩んでベッドに放り、慌てて部屋を出ると、いつもどおりのロードワークの出で立ちの牛島が立っていた。
「おはよう、天童」
「オハヨー。…ごめんね、遅れて」
「いや、お前は遅れてはいない。俺が少し早く出ただけだ」
「アレ?そう?」
漠然と慌てていて気がつかなかったが、時間はきちんと守る牛島が言っているのだからそうなのだろう。
「焦らせたのならすまん」
「ううん。そこはいいヨ。それじゃ、行こー」
「…ああ」
パーカーのポケットに財布が入っていることを服の上から軽く叩いて確認し、天童は部屋のドアを閉めた。
歩き出すと、ふたりのあいだでしゃりしゃりと上着の生地が音を立てた。この時間の廊下は静かだから、擦れる音が響く。ここのところ制服かトレーナーしか着ていなかったから、こんなナイロン素材の音すらどこか懐かしい。
寮の玄関へと近づくにつれ廊下の空気がひんやりとしていく。
外に出れば、ただ寒い。
朝日もまだ景色に隠れている。
けれど、早朝の冷たい空気は凛としてどこか清々しく、隣りに立つ牛島の纏うものには似つかわしいように思えた。
ただ、そんな感慨に耽ったのもほんの一時。
「うー、さぶっ」
天童は思わず肩を竦めた。早朝の外出が厳しい季節になってきた。ロードワークでこの時間と気温に慣れている牛島はというと、隣りで平然としている。
まだ薄暗い空を見上げていた横顔が、ふいにこちらを向いた。
「…今日は髪を下ろしているんだな」
「ああ、うん。最近ずっと下ろしてんの、寒ぃから。デコとか風当たると冷てぇもん。それに…、」
もうブロックの邪魔になることもない。そう言いかけて天童はことばを飲み込む。
だが、牛島がつづく話を待っていることに気づいて、なだらかに笑った。
「やっぱなんでもなかった」
「……そうか」
「ちゃんと走るから安心してね」
「…ああ」
走るだけだが相手が相手であるし、寝起きなうえ寒い中での運動だ。天童は軽く屈伸やら足首を回すなどの準備をし、牛島と一緒に走り出した。
話していたとおり、牛島は天童の走る速さに合わせてくれた。けれど、普段の相手の走るペースを知っていると、いくら本人が言い出したこととはいえ、のろのろと遅く走らせている状況はある意味プレッシャーだった。
天童は気持ちいつもよりペースを上げた。後半はバテるかもしれない。うっすらとそんな心配をしながらふたりで人通りの少ない歩道を駆けていく。
冬の、ゆるやかに明るくなる夜明け。
流れていく景色を眺めながら、天童は苦笑した。
脚や腕の動きがぎこちない。まだ身体を動かしはじめたばかりとはいえ、それでも、朝練をしていたころの動きとは違う。
一度ついた筋肉は簡単には落ちないが、感覚はそうではない。身体を動かしていかなければ研ぎ澄まされることもなく、鈍くなってやがて自分の頭の中のイメージに身体がついていかなくなる。
だから日々の練習でコンディションを整え、保つ。
それが絶対王者のチームの一員として求められたことであり、自ら得ようとしたものであり、天童たちの日常でもあった。
(……そりゃ、変わったらダメだよね、若利くんは)
国内だけではなく世界も視野に入れて、牛島は鍛錬を積んでいる。
現状を維持するだけではなく、より多くのものとそれ以上のパフォーマンスを、当たり前のように求められる世界へと行くのだ。
引退を機に変わってなどいられない。
”変わらずに強くある”ということが、どれほど大変なことか。
(…いじけてる場合じゃねぇつの)
変わらない相手を見るのがつらいなどと、いったいこれまで、牛島のなにを見てきたと言うのだろう。
牛島若利という人物は、出会った最初からただ強さのために、バレーボールのために一生懸命だ。高校で知り合い一緒に過ごした時間はそう多くはないが、それでも他の仲間や友人よりは近くでその内面を見られたと、――少なくともこちらでは、そう思っている。
マブダチだったと、冗談で言ったわけではない。
三年間、楽しかったと、そういう思いを込めて。
「――天童」
隣りからの声にはたと我に返る。
牛島のほうへ顔を向けると、冷静さを湛えた黒い瞳がこちらをじっと見ていた。
その目に、まだ、映っている。
「……このペースでは速いか?」
「へえっ!?」
今度は驚いた。コンビニまで付き合ってくれる状況とはいえ、走っている最中に牛島が他人のペースを気にすることは珍しい。
「…ううん…ダイジョーブ」
「…そうか」
会話はそこで終わったが、牛島の視線がこちらから足許のほうへと移り、そして再び視線が重なる。
しばしの無言のあいだ天童は待った。
こういうとき、牛島はなにか考えを整理している。
やがて相手は走るペースを落とさず、口を開いた。
「……お前の口数が、いつもより少ないと思うのだが」
「えっ!?」
意外なことばを投げかけられ、天童は走りながらその目を瞬かせた。
話に気を取られて乱れたペースを慌てて整える。
走る速さを訊ねてきたのは、口数が気になったからだろうか。天童は思いを巡らせつつ、なおもこちらを見つめつづける相手へ答えた。
「……寒い、からかも?…あと、最近この時間は布団の中に居るし。起きてんのが久々だから、…なんか、本調子じゃないカモ」
「…そうか」
牛島の表情からはこちらの答えをしっかりと受け止めようという意思が見て取れ、――少し、胸が痛む。
寒がりなこの身体がまだ温まらないというのは本当だ。けれど、それがすべてではない。かといって、本人に言えるわけもない。
たとえこの返答が不誠実であっても、自分の後ろ向きな感情など、牛島には決して見せたくはなかった。
(……でも、若利くん、どーしたのかな?)
ふたりで居て、互いに無言だったことはざらにある。練習後など疲れたと言う気になれないときも、多々あった。牛島がそれを気にしたことなど一度も無かったのに。
だが、静かだと言われたら、――牛島がそんなことを気にしていると知ったら、いまのままで居ていいのか、気にする。並んで走りながら、今度はこちらが視線を空へと彷徨わせることになった。
やがて天童は記憶の中から話のタネを見つけ、隣りを見た。
「……そういえば、英太くんから聞いたよ。部の練習にも行ってんだよネ」
すると、振り返った牛島の瞳がほんの僅かに見開かれた。
「……ああ。そうだな」
「工たちは元気にやってる?」
「ああ、これまでどおりだ」
それはつまり、十二分に練習しているということだ。天童は笑った。
「前に賢二郎がさ、俺が工に甘スギって言ってたけど、獅音たちも大概甘かったと思うんダヨね。つーか、いまのメンバーじゃアメが無くてムチばっかじゃない?」
「……瀬見たちも同じようなことを話していた」
「アレ、そお? やっぱり? みーんな工に甘いよねー」
大エースの牛島に堂々とライバル宣言出来る者などそうは居ない。同年代や先輩ですら思うことすら躊躇うような中で、強気で根が素直な面白い逸材と短いながらも同じチームで試合が出来て楽しかったと思う。
素直というより単純かな。五色の顔を思い出すと、天童はつい笑ってしまう。
同時に、いま、以前のように牛島と話していられることが、少し嬉しかった。
「そういえば、英太くんの部屋のマット見た?いま、ヤベーことになってんの」
「……いや」
まだ見ていない、と牛島が言う。その視線がふいと道の先へと逸らされた。
天童もそれにつられ、目の前を見る。しかし、そこに広がるのは瀬見の部屋の光景だ。
「マットの色が真っ赤でさー。アレ、隼人くんが見たらゼッタイ事件現場ごっこするやつー」
「事件現場?」
「そーそー。血だまりの中で倒れる、みたいなー…」
床に倒れる被害者――脳内では既にふざけて倒れる山形になっているが、それをイメージしながら顔の前や横に手を持ってくる。
横目で見ていた牛島が再び天童の顔を見て、どこか考え込むような表情になった。推理ドラマなど見たことが無いだろうから、場面が想像出来ないのかもしれない。その場合、ぎこちなく手を振っているようにしか見えないだろう。
ただ、この沈黙はわからないから困っている状況ではなく、意識に留めておこうとする間なのだと、天童は知っている。
わからないなりに牛島は会話を覚えているし、以前、たまたま見たCMの話題を、その数ヶ月後に話の意味が通じたと牛島が報告してくれたことがある。だから、天童としてはこの場で伝わらなくても慣れているから一向に構わない。会話のタイムラグ自体がなんだか楽しいから。
でも、この会話のつづきが出来るかどうかは、期限が決まっている。
そう思った矢先、――足がもつれそうになった。
いつもよりペースを上げて走っているのに、身振り手振りまでつけながら話したせいか、一気に呼吸がきつくなった。
天童は牛島に向かって顔の前で手を合わせた。
「…ゴメン、…話してたらチョット疲れた。ちゃんと着いていくから、若利くんはペース落とさないで」
すると牛島は少し目を細め、ややあって、わかったと言った。
「無理はするな」
そのひとことに、天童は目を見開く。
(…え、ホントどーしちゃったの?若利くん)
数秒後、天童は「うん」とだけ返した。
じっとこちらを見ていた牛島がやがて正面を向く。天童はそれより遅いペースで、その後ろについた。
鼓動のテンポが、驚きで跳ねてからそのまま戻らない。
静けさの中でその音はよく聞こえ、合間を埋めるように道路を蹴る足音や上着の擦れる音が響いている。目の前で、牛島の硬そうな髪の先が規則正しく揺れている。
その向こうの街並みが、だんだんとまぶしくなってきた。
朝日が昇る。
眩しくひかりが前を走る男の輪郭をかがやかせて。
目に刻まれていくかのよう。
見つめているうち、――天童は、ふいに思い出した。
はじめて牛島と顔を合わせた日。
いまでこそ当たり前の光景だが、地元で名門と言われるだけあり、白鳥沢学園の体育館は入学したての1年坊主からはやけに立派に見えた。
そこには体格も違い、黙って立っていても圧を感じるような先輩たちが大勢居て、けれど、その中でも牛島の存在感は際立っていた。百戦錬磨の風格とでも言おうか。常に落ち着きを払い、中学とはまったく違う練習量を平然と熟す牛島は、とても同じ1年には思えなかった。そんな牛島の周りには中等部からの馴染みのメンバーも居て、あのころ、天童は正直、部内の空気にほんの少し呑まれかかっていた。
それでも目指すものは決まっているから、日々の練習に集中した。
しばらくして、部内の空気にも慣れた。よくわからない理由で疎外されないだけマシだと切り替えた。
あの日はたまたま、落としたテープを牛島が拾ってくれた。
ほんの少しの出来事。
そのとき向けられた牛島のまなざしを忘れられない。
ほんとうに、学年もなにも関係無く、この場に集うのは同じ志を持つ者だと信じているような、眼だった。
そこにはまったく他意を感じられなくて、――心地良いと、思った。
白鳥沢へ来る前までに幾度もこちらに向けられた、けれど決して交わらなかったいくつもの視線と、まったく違ったモノだったから。
話しかけたら、牛島のひととなりも心地良かった。そのまなざしのように、まっすぐで、他意が無くて、なにを言ってくるか予想がつかなくて、気づいたら何度も話し掛けていた。
毎日会って見ていても、牛島のまなざしには、ほんとうに、それしか無くて。
ジャンプのつづきを読ませて欲しいと言われたときは、嬉しかった。
無言でアイスを食べるところも、食べ終わるのが早いのも面白かった。
寮に戻った牛島がただいまと言ってきて、おかえりと返すのが、はじめは少しくすぐったかった。
一緒に居て、とても楽しかった。
でも。
だから。
それしか、無かったから。
天童は目を細めた。
「……前にふたりで朝早くランニング出た日にさぁ、日の出を見たよね」
すると、こちらを気にするように牛島の髪が少し揺れた。
「――ああ、そうだな」
ひかりの中から低い声が聞こえてくる。
その背中を見つめながら、天童はつづけた。
「あんとき、朝日がすんげえ綺麗だなーって思ったんダヨね。こんな眩しいのはじめて見た!って。懐かしーなー」
あのときの日の出は綺麗だった。
けれど、あのときに限らない。牛島と見たものは、朝日も、星も、月も、どれもかがやいて見えた。そのたびに、よくあるマンガのワンシーンのようだなんて思ったものだが、でもほんとうに、そう思えた。
何気ない景色が眩しく見える。
それは、いまも。
そのかがやきの中から、静かに、聞こえた。
「――日の出ぐらい、いつでも観られる」
「え?」
天童は前を走るその背中を見る。
牛島はまっすぐに前を見つめて、言った。
「…道だろうと、寮だろうと」
一呼吸、置いて。
その背中が力強く『事実』を言った。
「場所がどこであれ、これからも観られる」
瞬間。
息を呑んで、天童は口を噤んだ。
きっと、いつも見ているのだろう。牛島は。
くり返す日々の中、早朝の道の上で、朝日をまっすぐ見据え、前へ進む。
その強い意志を強いものだと思わずに。
「………ソウダネ」
答えたことばは、その背に届く前に、陽のひかりの中へと消えていった気がした。
胸のあたりがあたたかいのに、――痛い。
(……好きなのね)
他人事のように、思った。
届かなくても、伝わらなくても、それでも、そんなところが”らしい“と思えて。
同じチームに居られてよかったと、やっぱり、思う。
ずっと、もっと、近くに居たかった。
何度も思った。そんな気持ちがあることは、とっくに知っていたのだ。でも。
自分の中にあったいくつもの点と点が一気に結びついて、まるで推理マンガのようにするすると解答が導かれていった。
気がつくと沈みがちだったのも、牛島に会うのを避けるという過剰な反応も。
ただ、この気持ちが、ここに。
知らぬ間に。
ぜんぜんゲスれてねぇ。胸の裡で天童は自嘲した。
勘も、感覚も、驚くほど機能していなかった。
いつからだったのだろう。麻痺していたんだろうか。あまりに楽しくて、心地よくて、浸っていたから、気づかなかったのだろうか。
わからない。でも、わからなくてもなにも困らない。
ここは、コートの外だ。
ひゅ、と、喉を通った空気が冷たかった。
視界には牛島の背中と、その数メートル先の交差点の信号機が映る。
背筋が、急に冷えた。
いま、振り向かれたなら、顔を見られたら、困る。
天童は胸いっぱいに息を吸った。
「あっ!コンビニ見ーっけ!」
牛島が後ろからの声に反応したその振り向きざまに、天童はアスファルトを蹴るようにして相手を追い抜いた。
「全力ダーッシュ!!」
大きく腕を振った。このまま牛島を振り切るつもりで、全力で走る。
久しぶりだからすぐにくるしくなったが、息が切れるのを構っていられない。
振り向かずとも、すぐ後ろに牛島の足音と圧が迫ってきている。
それでいいのに、それが当然なのに、胸のあたりがくるしくて、笑えてきた。
痛々しい。
(いまごろ気づいてやんの)
そして秒で散る。
口から出ては消える白い息のように、朝日にそれは掻き消える。
信号は青だ。天童は躊躇うことなく駆けた。
コンビニの通り沿い。いくつもの、素通りしてきた脇道、細道。
偶然、交差した道で出会った。
そんなささやかな奇跡で満足していればよかったのに。
やがて見えてきたコンビニの駐車場を駆け抜け、牛島に追いつかれるギリギリのところで入口に到着した。
自動ドアが開いてすぐ、目の合った店員がぎょっとしたのを見て、天童はいまの自分がどんな顔をしているか察した。背後で閉まりかけたドアがまた反応し、来客のチャイムが鳴る。
天童は慌てて目許を前髪で覆った。
「? ――天童…」
「俺、ジャンプ取ってくんね」
追いついた牛島の声を遮り、振り向かず、天童は雑誌コーナーへと歩いていった。
発売されたばかりの雑誌が下段に積まれている。それを手に取って、そっと横目で店内を見渡すと、牛島はさきほどのことを気にした様子も無く、別の場所――何故か酒のつまみのコーナーのほうへと歩いて行った。
その先には、お菓子の棚がある。どちらも牛島の興味が薄い場所だが、離れていくその背中を確認し、天童はようやく静かに息をついた。
その視線が自然と手許へ降りて、天童は笑った。
雑誌を持つ手が微かに震えていた。
情けねえなぁ。自嘲は重なり、そして天童はガラス越しの朝焼けを見遣った。
深く、息を吸って、吐く。
コートの中に居るときのように、肩のちからがすぐに抜けていった。
鍛治くんのおかげだね、と天童は胸中で呟いた。あの厳しくておっかない眼が常にひかっている場所より怖いところなど無い。おかげで、コート以外の場所で気負うということは無くなった。
息をするたびに感情は薄れ、感覚だけが、研ぎ澄まされる。
でもいまは、感覚は閉ざそう。
寮に戻るまでは、笑っていなければ。
なんとか。
どうにかして。
牛島の視線が向かなくても。
記憶には残らなくても。
自己満足だろうと――“こうありたい”姿の自分でいたい。
さわやかな朝の空にうっすらと重なるように、自分の表情が映っている。
その顔と目が合い、天童は顔を逸らした。
やがて、視界の隅にあった監視カメラをちらりと見上げ、口の端を歪めた。
「……ヤだねー…」
こんな顔を、映してくれるな。