瞳に映る世界 薄いドアの隙間から、また、微かに甘い香りが漂ってくる。
それは隣りの部屋に居る男の、繊細さを要求される挙動に合わせて、静かに、そろりと、波紋のように牛島の元へと届く。
ショコラ。カカオの香り。
牛島にとって、すっかり馴染みとなったもの。
ただその味や香りの違いはよく判らず、それに関しては少し申し訳なく思うのだが、ショコラに格別の愛を注ぐ男は、気にしていないと言って笑う。
『わからなくても、美味しけりゃいーの』
そう話したキッチンに立つこの部屋の主は、――たいてい、眉を寄せ、小首をかしげ、難しそうな顔をしている。牛島のわからない世界で、領域で、とても細やかなところまで、気力と技術と感性を行き届かせようとしている。
この部屋を訪れているあいだ、何度か見た光景だ。天童がキッチンで悩み、疲れ、そして新しいなにかにチャレンジしている姿を目にすると、「そうは言うが」と、牛島は思わずにはいられなくなる。
あれほど必死になるのは。
こだわるのは。
やはり、誰かとわかり合いたい行為のひとつだと、思わずにはいられないのだ。
ストレッチを終えてソファから立ち上がった牛島は、何気なく、部屋の隅の編まれた籠の中に置かれたバレーボールを見た。
それは天童が買ったものだ。
ここを訪ねる牛島のために置いているもので、天童が普段どれほど触れているかはわからない。
(……真新しさは、無くなっているが)
ボールの表面の手触りが脳裏に浮かんで、それが少し、胸の裡を締め付けた。
あのボールを介する世界では。
一瞬のうちにどれほどことを理解し合っていただろう。
それは失われたわけではなく、いまは、起こらないというだけではあるが。
「ウーーーーン! Faisons une pause」
なにか言いようのない気分が弾けたような声のあと、エプロンを置く音が聞こえたかと思えば勢い、リビングのドアが開いた。
入ってきた天童は顔をしかめている。
「休憩か」
「Oui キューケー!若利くんも?」
「俺は、ひととおりやることは済ませた」
「そー。……んじゃ、どっか食べに行く?昼前だし。お腹空いてるよね?」
部屋の時計を一瞥た天童の表情が、やわらかくほぐれていく。
その変遷が、どうしてだろう、少し。
「アレ?空いてない?」
見入っていたその瞳が大きく瞬き、――牛島はややあって答えた。
「…いや、空いている」
「んじゃ俺、サイフ取ってくんねー」
天童がくるりと踵を返す。
だが牛島は、また別の部屋へと行こうとする男の手を、つい、取っていた。
びん、と天童の細長い腕の筋が伸びる感触が伝わってきた。
「ン?若利くん?」
振り返った天童は目を見開いていて、けれどこの行動の理由を伝える前に、牛島はその細い指に自分の指を絡めていた。
大事な、表現する者のその細い神経を傷つけないように、そんな思いで、手をつないだなら、天童はどこか穏やかに目を細め、牛島は相手の口唇をそっと塞いだ。
触れるだけのつもりだったが、伝わる心地よさは容易く牛島の行動を変えた。
薄く開いた口へと舌を押し入れば、さっきまで天童が味わっていたショコラの甘さが牛島にも感じられた。
少し、苦い。果物のような香り。
もっと絡めても、舌の根からなぞるように、確かめようとしても。
それしか。
「………ン…、……ふ、…ぁ、……」
香りのよい吐息を漏らす、天童の手が牛島のうなじを強く撫で上げて、ぞくぞくと背筋が震えて――、牛島は思わず、ちからが入りそうになる手を、解いた。
残っていた理性が、天童に休憩が必要だということを、思い出させてくれた。
目を開け、口唇をゆっくりと離し、「すまない」と牛島は謝った。
濡れた口唇そのままで天童は笑った。
「待たせちゃってたし、ごめんね。若利くん、ヒマだった?」
その瞳には、牛島と、そして。
いつか、天童が見つける、天童の求めるものが。
映っているに違いないと。
「…………暇ではなかったが、」
「うん」
「……少し、さびしかったと思う」
「エッ!!!!!? ごめんね!!!!!」
「……いや、」
学生のころのように跳ねるように驚く天童に、気にするな、と牛島は言った。
無いものねだりは、はじめてだった。