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    haruka

    他所に載せていたテキスト置き場
    お読みいただきありがとうございます
    hq&沢のみなさん大好きです
    30代の彼らが楽しみすぎます

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    haruka

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    引退後の牛天と沢のみなさんの話・後編
    ここまでお付き合いいただきありがとうございました

    #牛天
    niuTian

    きみとマブダチ/後編 その日、白布は練習中に何度か川西と目が合い、自分の覚える些細な違和感が気のせいではないことを確信した。
     休憩に入り、川西が後輩たちに水分補給の指示を出す。話すならいまのうちだと、白布は川西のドリンクボトルを持ってそこへ駆けていった。
    「ほい、太一」
    「ありがと」
     お互いボトルをぐいと傾け喉を潤し、はあ、とひと息つく。
     そうして、白布は少し離れた場所で集まっている1年の塊を見ながら横の男に話を切り出した。敢えて確認しなかったが、川西の視線もまた同じ場所に注がれていることはわかっていた。
    「……やっぱ変だよな、あいつ」
    「だな」
     昨日から五色の様子がおかしい。
     プレーそのものの調子はいい。練習にも身が入っている。
     白布や川西以外の2年生とも積極的に関わっていき、同学年にアドバイスを求められたら熱心に、傍から見ると若干鬱陶しいくらいには応えている。
     だが、休憩になると、やけに静かだ。俯いていることも多い。あのぱっつんとした真っ直ぐな前髪が乱れていても気にする様子が無い。
     しかも今日は、引退した3年生が練習に参加してくれる日だ。牛島が来ているときは、いまの自分のプレーを見せてやろう、というあの生意気で不遜な態度を毎回とっていたのに、今日は練習がはじまって2時間経つがそんな素振りをまったく見せなかった。
     白布にとってそれはある意味歓迎すべき出来事だったのだが、今日の牛島に対する五色の態度はあまりによそよそしく見えた。
     関わろうとしない、とでも言うかのような。
     ただ、――それも仕方ないと、思わなくもなかった。
     というのも、今日の牛島もまた、いつもと様子が違っていた。
     顔色がすぐれず、眼光も鋭く、どことなくピリついた空気を纏っている。牛島と直接的な関わりの少ない1、2年生は少し怯えつつ遠巻きにそれを見ている有様だ。白布自身、近寄りがたいほど。
     ただ、それでも3年生たちは普段どおりだから、白布は前の休憩で思い切って大平に牛島のことを訊ねたのだった。
     睡眠不足なのだと大平は言った。
     昨晩とその前日、あまり眠れなかったと牛島が大平たちに話したらしい。
     規則正しい生活をし、日々そのリズムを整えている牛島がどうしてそんなことになったのかは、大平たちにもわからないらしい。ただ、その話のニュアンスから敢えて追及していないようにも感じられた。
     ともあれ、練習がはじまれば牛島のプレーは相変わらず圧倒的で力強く、コンディションの悪さなど感じさせなかった。それは自分を含めた1、2年全員の励みとなったが、そんな先輩のプレーを目の当たりにしてもチームのエースが張り合うことをしないという状況は違和感でしかなかった。
     なにか、悩みごとがあるのだろうか。
     1年生の中でもなぜか壁側を向いている五色を見つめ、白布が眉を顰めていると、横からぽんと声が投げかけられた。
    「声掛けてみたらどーよ」
    「…お前が行けよ」
    「えー……お前セッターじゃん」
    「お前キャプテンじゃん」
     白布のことばに、川西は黙ってしまった。
     気軽にどうしたと訊いてみたらいいのかもしれないが、少なくとも練習への集中は途切れておらず、プレーの内容に響いている様子も無い。つまり、部の先輩としてはこれといって特に言うことが無い。
     だから、これはある意味、後輩のプライベートを詮索しかけているようなものなのだ。
     先輩後輩と同じ屋根の下に住んでいるからといって、立ち入っていいところと悪いところはある。その線引きはひとによって違うから、どこまで近寄っていいのかの判断が難しい。
     ただ、白布がこんなことを考えるようになったのは、ここ最近のことだ。
    「……天童さんだったら、即聞きに行くんだろうな」
     川西のことばは、絶妙のタイミングで白布の胸に響いた。
     引退した天童なら、こんなことで悩みはしないだろう。
     興味が湧いたら相手に多少嫌がられたり引かれたとしてもあっけらかんと絡みに行って、全然関係ない話を膨らませているうちに、あっさりと欲しい情報を得るだろう。意外と面倒見もいいから、そのまま相談にも軽く乗って解決を見るかもしれない。
     引退した先輩たちは、そういうことが上手かったと思う。
     天童とタイプは違うが、大平や山形、瀬見もまた後輩とコミュニケーションを上手く取っていた。大平はとくにその物腰の柔らかさからバレーボール以外の相談を持ち掛けられていたし、いまも寮で後輩に話し掛けられているのをよく見る。さっき牛島のことを訊いたのも、無意識とはいえそういった幅のある対応を何気なく目にしていたからだろう。
     だが、先輩たちが引退したいま、そういうことも少しずつ身に着ける必要があると白布は感じていた。多分、並び立っている川西も。
     白布はもう一度ドリンクを飲み、ほう、と深く息をついた。
    「行くぞ、太一」
    「えっ、俺も?」
    「慣れだ、慣れ」
    「ふたりで言ったら逆にビビるんじゃね?」
    「うるせえ」
     横の男の背中をグーパンチで小突き、白布は川西と駆け出した。休憩も残り少ない。
     やがて、近づいてきた白布たちの足音を聞いて、五色が壁からこちらへ振り返った。
    「五色、ちょっと」
    「ヒエッ!…はい…っ!?」
     案の定、やや引かれた。声を掛けた白布の横で川西が手招きをすると、背筋を伸ばした五色が慌ただしく駆けて来た。そこで川西がさりげなく立ち位置を変え、五色の様子がちょうど3年側から見えにくいようにしていたことに気づき、白布は内心笑った。
     説教をされるとでも思っているのだろうか、五色の表情は硬いままだ。
    「……あの、なにかありましたか?」
    「いやそれ、俺らのセリフ」
    「へ……?」
     川西のことばにピンと来ていない様子の五色に、鈍いなコイツ、と言いたくなるのを堪え、――白布は、出来るだけことばを選んで言った。
    「……その、余計なことかもしれねえけど、…お前、昨日から沈んでるから」
     なんかあった?
     白布が訊いた途端、――呆けていた五色の表情はくしゃくしゃになって、そのまま静かに俯いた。
    「………あの、…じつは……」
     後輩の口から出た話はあまりに意外なことで、白布は川西と目を丸くして顔を見合わせた。



     ※ ※ ※



     うたた寝から目が覚めた。
     顔だけ起こして見上げると、壁の時計の針は2時過ぎを指していた。
     ダラダラとパンを食べたあとそのままベッドの上へと倒れた。だいたい1時間半ほど寝たことになる。
     頭を掻くと直していない寝癖が指にひっかかり、天童はまた枕に顔を埋めた。
    (……ウーン、まさにぐうたら生活)
     これを好きでやれていたなら最高だったが、そう上手くはいかないのが現実だ。
     同室は今日も今日とて友人の部屋に行っているようで、休日の午後の部屋は静かだった。
     あの日から、部屋に戻ってもなにかをする気力が湧かず、ベッドに倒れこんでいる。
     勉強しようにも集中出来ない。ならばいっそ寝てしまおうと思った。そんなこちらの様子に同室相手も慣れてきたのか、天童が起きなくても声を掛けなくなってきていた。 
     それでも、――3日前の夜、部屋に戻ったときは相当よくない顔をしていたらしい。ちょうど部屋に来ていた点呼担当の寮生と戻っていた同室のふたりは、談話室から戻った天童の顔を見るなり、慌てて寮の管理人のおじさんを呼びに行こうとしていた。
     そんな自他ともに認めるヨレヨレの状態だったが、寝れば大丈夫だと話し、とりあえず管理人のおじさんと病院に行くという事態は免れた。
     ただ、翌日は学校へ行っても上の空で、昨日と今日は部屋からほとんど出ていない。
     腹もあまり減らず、部屋に残っていた栄養補給用のゼリーのパウチとすっかり冷めて放置されていたココアで事足りた。仲間たちに知られたらどやされるような食事内容だ。
    (………心配してくれんのよネ、みんな)
     白鳥沢に来て、寮に入って、それが当たり前になっていた。
     当たり前になっていることは、あることに気づきにくい。病気になって健康のありがたみを知るように。でも健康になるとすぐ、調子が悪かったことを忘れてしまう。
     それと同じことだとは思わないが。
     
     そばにあるのに見えていなかったことが、沢山あったのだと気づいた。

     目を閉じるたびに、くり返し思い出されるあの夜の光景。
     違和感ははじめからあった。
     牛島がひとりで談話室にやって来て、自動販売機を使うことは稀なことだ。
     それでも、深くは考えなかった。いや、なにか理由があるのだろうと決めつけたのだ。――一刻も早く、あの場を立ち去りたかったから。
     だから、気づけなかった。会話の噛み合っていない感覚が徐々に薄れ、何故そうなったかを理解したときには、遅かった。
     
     目の前で、牛島は酷く傷ついた顔をしていて。
     それほどまでに深く傷つけていたのだと、天童は知った。

     気づけなかった。
     それ以前に、多くのことを思い込んで歪めていた。
     起こったことをそのまま見つめる前に、――逃げ出していた。
     牛島が部屋に来ていたこと。ふたりでコンビニに行ったこと。あの日、道で話したことも全部、そのまま受け止めるだけでよかった。
     牛島は関わろうとしてくれていた。
     引退したいまも、これまでのように過ごしていたいのだと。
     変わることがいくつあったとしても、変わった先で、これからも。
     マブダチだったと、小さな願いを冗談で包んだ天童のことばを、――大事に思って。

     けれど、牛島に返せることばを、あのときの天童は持たなかった。
     
     同じようには思えない。
     牛島の寄せる感情と自分のそれはあまりに違っている。
     だからといって、このままでいいわけではない。
     傷つけたことは謝りたいと、思う。
     けれど、常に真っ直ぐで誤魔化すことを許さない相手に対して、マブダチとも仲間とも答えられない状況で、どうやって本心を避けて答えればいいのか。
     うぐ、と枕に向けて小さく呻き、天童はやがて、ぐるりと仰向けになった。
     窓から射す弱々しい陽のひかりが部屋を穏やかに照らしている。
     それでもどこか眩しくて、天童は目を細め、味気のない天井を眺めた。 
     
     ほんとうのことを言っても、牛島は理解を示すかもしれない。

     いくらか困惑するかもしれないが、冷静に、そういうことだったのかと、納得してくれそうだと、天童は思う。牛島はいつも事実を事実として口にするほうで、つまりは物事に対する先入観というものが、多分、とても少ない。
     あるいは、事実以外を意に介する必要性を感じていないのかもしれない。惑わされるということは、コートの中では命取りだから。
     だから、――正直に伝えても、ただ断られるだけで済むのかもしれない。

     それはつまり、正真正銘の失恋だ。
     
    (……フラれんのを、…ビビってるだけ)

     ずっしりと、また胸のあたりが重くなった。
     何度も考えて出る、最低な結論。
     それをくり返して何度も情けなく思う。
     傷つきたくなくて、牛島を傷つけたことを放置している。
     失恋が無いようなものだと思えたのは、告白するという状況が起こりえないからで、だからこそ、どうでもいいと思えた。
     でも、状況は変わっている。これ以上、おざなりな態度で牛島に嘘を吐いたり誤魔化すようなことをしたくはない。
     でも、一歩を踏み出す勇気が無い。
    (………つうか、もう終わってんじゃねえの?)
     あの夜から謝罪もせず、会うことも連絡ひとつ取ることもしない相手をどう思うかといえば、いくら仲間であっても、腹立たしいのではないだろうか。
     よくないことはよくないと思う、そういうまっすぐな性格だから。
     ただ、そこまで考えて、天童は疑問に思う。
     あてにならない自分の感覚で、違和感を覚える。
     牛島は常に品行方正で道理を重んじている。いつも冷静で理性的だ。感情的になっても一時のことでで、すぐに自身を客観的に見つめることが出来る男だ。
     そんな牛島なら、あの談話室での出来事を”口論”だったと冷静に認識すると思うのだ。もし第三者が似たようなことをしていたら、多分、止めるだろうから。そして、礼儀という考えも持っているから、たとえ自らに非が無くとも口論に発展したという部分に関してはよくないと感じ、真面目に反省し、状況が拗れたままなら正そうと考えるような気がするのだ。
     でも、あれから牛島からのアクションは一切無い。
    (……今度こそ愛想が尽きたってやつ) 
     過った考えに天童ははっと目を見開いて、やがて両手で顔を覆った。
    「……あー………クッソ……」
     投げやりになっている。
     そんなことを、あの牛島が思うわけないのに。
     これまでのことを大事に思っていたからこそ、あれほど傷ついていたのに。
     思い込みで、目線を歪めて、それをくり返してどうする。
     けど、わかんねぇ。胸の裡で、呟いた。事実と妄想と希望的観測と、石橋を叩くどころか近寄りも出来ない臆病な思考の境がどこなのか。
     頭の中がこんがらがっている。こんなの、試験の最終問題の比ではない。
     ひょっとしたら、もう過ぎ去ったことだと考え、牛島は普段どおりに過ごしているかもしれない。思い詰めているのはこちらだけで。そんなことも考える。
     楽観的に、というわけでなく。
     牛島は強いから、悩むより、先に進む。
     その推進力に支えられてきたからこそ、思う。
     でも、やっぱり、想像だ。
     希望的観測だろうか。
     はっきりとわかるのは、談話室で別れる直前までの、気持ち。
     それ以降のことは、もう。

     ――もう、いい。

     あの、掠れた低い声が聞こえ、顔を上げたときには牛島はすでに背を向けていて、その表情は天童からは見えなかった。
     でも、なんとなく、想像がついた。
     牛島は、多分。
     そこで、不意に自室のドアがノックされた。
     あまりのタイミングに天童は一瞬で半身を起こす。
    「おーい、天童、居るかー?」
     つづいて聞こえてきたのは、多分、隣りの部屋の男の声。
    「なんかバレー部の後輩が来てんぞー」
    「……へ?」
     天童は見開いた目をぱちぱちと瞬かせ、とりあえずベッドから降りた。
     3年の部屋に後輩が来るということはほとんど無い。まずはスマホに連絡が来る。
     一瞬、五色の顔を思い浮かべた。気まずい場面を見られてそれっきりだ。でも、だからといってわざわざここへ来るだろうか。
    「…いま開けるヨー」
     返事をしてドアを開けると、そこにはやはり別の後輩が立っていた。
     それでも十分、意外な人物だったが。

    「…どうも」
    「……太一」
     
     川西が軽く会釈した。
     久しぶりに見た後輩は、3年だらけのフロアだろうと相変わらずの読めない表情で平然と立っていた。むしろ川西を案内してくれたらしい隣室の”先輩”のほうが横の男にやや萎縮しているようで「バレー部でけえな、んじゃこれで」と言って去っていった。
     ありがとうございました、と言って律儀にその後姿をしばらく眺めたあと、川西の視線がくるりと天童を捉えた。
    「お久しぶりです」
    「…ソーダネ」
    「ここで立ち話も嫌なんで、天童さんが困らないとこで話がしたいんすけど。……牛島さんや大平さんに会ったら気まずいですよね」
     気遣うようでいて若干の棘を含む後輩のことばに、天童は遠慮無く顔を顰めた。
     同時になんの用向きかも判り、実に手っ取り早い。
     “牛島が普段どおりの生活をしている”というわけではない、ということだ。
    「…入んなよ」
    「ていうか本当に牛島さんと喧嘩したんですね」
    「ハァ?」 
     ドアを開けながら、天童は口の端を歪める。
     後輩は、ちょっと見たかったかも、とでも言いたげな顔つきで部屋に入ってきた。
    「お邪魔します」
     川西は部屋の中ほどまで進んで立ち止まり、練習時さながらに手を後ろに組んだ。どうやらそこでいいらしい。この可愛げの無い後輩に遠慮は無用なので、天童はベッドに座った。
    「先輩にカマかけるとは生意気なヤツー」
     渋い顔のまま川西を見るも、相手はどこ吹く風という様子だ。
    「そういうわけじゃないです。ただ、話の出処が五色だったんで、オーバーに捉えてた可能性も捨てきれないと思っただけです。ちなみに五色はベラベラしゃべってないですよ。あいつの様子が変だから俺と白布で聞き出しただけです、念のため」
     ブロッカーとして十分に肝の座っている後輩は、ここでも冷静に事態を見極め、そのうえで五色のフォローをした。
     どこか癪だが感心しつつも、天童は自分の予想が外れていなかったことを知る。
     ここ数日静かだったということは、五色はあの夜目撃したことを誰にも言っていなかったということだ。
     五色が話すとしたら、信頼があって話を聞いてくれ、かつ牛島にも掛け合えそうな大平あたりだろうかと見当をつけていたが、どうやら天童が予想していたよりも川西たちは後輩に積極的だったらしい。
     少し見直していたが、物思いも会話のつづきで台無しなった。
    「……なんていうか、おふたりとも人間だったんですね」
    「…久々に会うのにホント失礼だよね」
    「このノリも懐かしいんじゃないですか」
    「二度と無くていいヨ!」
     すると、寄り道もそれまでと言いたげに川西は憮然とした表情を見せた。
    「…それじゃあ、失礼承知で言いますけど、…天童さん、牛島さんと仲直りしてください。五色が凹んでるんで」
     ぎく、と胸の奥が跳ねた。
     罪悪感がじわりと湧く。
    「……工、凹んじゃってんの…?」
     そうすね、と川西が淡々と言った。
    「…どんな状況だったかは詳しく聞いてませんけど、まぁ、練習に出てる牛島さんの顔見たら、なんとなく察せられるっていうか、触らぬ神に祟りなしって感じすね。お陰で五色だけじゃなく他の部員もビビッて委縮してます」
     どうやら五色が言う言わないに関わらず、事態はよくない方向へ転んでいるようだ。動じにくい川西ですら近寄りがたいほど牛島の機嫌が悪いとは。
     じわじわと広がるもので胸の奥が重くなっていく。
     けれど、まさかそこまで怒っているとは思いもしなかった。どんな感情にしろ、冷静を是とする牛島がいつまでも同じことに囚われているということは無かったから。
     川西がわざわざ寮の部屋まで来た理由をいまさらながら理解する。だが、そこまで深刻そうな表情を見せないのがこの後輩のらしいところだ。
     川西はほんの少し目を伏せた。
    「……あいつが凹むのは、なんとなくわかる気がします。仲のいいおふたりしか見たことないからショックだったんじゃないすか。…まぁ、五色以外でもおふたりのガチの喧嘩を見たひとは居ないみたいですけど」
    「……まあね」
     天童は、ぽつりと相槌を打った。
     自分もしたことがないし、するなんて思いもしなかった。
    (……若利くんとしてたのなんて、世間話ばっかだったもの)
     なにが好きか、嫌いか、ジャンプがどうだとか、お菓子が美味いとかそういうことばかり、あとはその場で思い浮かんだことを適当に言っていただけで、――それが、牛島に伝わったとして、響くことは無いと思っていた。
     バレーボールと自分にしか興味が無さそうに見えていたから、感情を露わにするほどその内面へなにかが及ぶとは、全然思っていなかった。
     ほんの少し感傷に浸っていると、はぁ、と後輩はため息をついた。
    「…大平さんや山形さんはいつか収まるだろうなんて呑気ですし、瀬見さんは『ケンカの理由がわかんない以上なにも出来ない』なんて言いますし。こんなときに限って瀬見さんはしゃしゃり出ないのかって白布もキレてました」
    「賢二郎も相変わらずだねー。英太くんカワイソウ」
    「可哀想なのは俺らですよ。先輩たちの言い分もわかりますけど、……正直、引退した身分で気楽なこと言われても、俺らは困るんです。練習や寮であの不機嫌な牛島さんに会うとか勘弁して欲しいです」
     そこで不満げな後輩の目が、少し鋭くなった。
    (あ、マジなやつ)
     天童が思わず身構えると、川西は眉根を寄せていった。
    「おふたりとも、喧嘩は勝手にしてください。けど、立つ鳥跡を濁さずって言うじゃないですか。ウチのチームとエースに迷惑かけないでくださいよ」 
     重苦しい胸の真ん中に、それは深く刺さっていった。 
    「この際だから言いますけど、どちらも謝んないなんて大人気無いですよ。お互い話の通じない相手だなんて思ってないでしょ。親友ですよね?」
     びくっと、反射的に背筋が伸びて、天童は目を丸くした。
     その反応に、川西が怪訝な視線を向けてきた。
    「え、なんですか」
    「…………ウウン」
     やっとのことで、天童は返事をした。
     親友。
     友だち。
     そう思っていた。
     ただ、それは一方的なことで。
     それでいいのだと思った。思うようにした。

    (――だって、寂しいじゃん)

     一緒に居るのは、同じチームの仲間だから。
     学年もなにも関係無く、同じ場所に集う同じ志を持つ者、ただそれだけ。
     そこに意味を求めはじめたら、あとがつらくなるだろう。
     いつか、そう遠くない日に離れる。
     バレーボールから離れる。
     そのひとは、知らない場所で、楽しいバレーボールをしつづける。
     つらくなるのがわかっているなら、そうならないようにしていたほうがいい。

     そんな距離を感じたのだろう。
     あのとき、突き放されたと。

     ――お前は、いったい俺をなんだと思っているんだ。
     ――答えられないなら、何故言ったんだ。

    (狡いヨネ)

     会いたくない。避けていたい。
     でも好かれていたいだなんて、ムシのいい話だ。
     都合のいいことばかり覚えていて欲しいだなんて。
     これからも、一緒に居たいと思っていたのに。

     その寂しさを、――よく知ってたはずなのに。
     
    「……それじゃあ、話したいことは終わったんで」

     天童は我に返った。
     川西は「失礼します」と言って軽く頭を下げ、つかつかとドアのほうへ歩き出した。
     思わず立ち上がる。けれど、ここでも、相手になんと言っていいのかわからない。
     ことばが見つからない。
     すると、ドアノブに手を掛けた川西が背を向けたまま、天童さん、と呼んだ。
    「……天童さんは、常々ブロックは読みと嗅覚だって言ってましたけど、それだけで全国に通用したなんて思ってません。…読みだって経験に裏打ちされてのものですし、…天童さんしか持ってない知識や技術を教えてもらいたい後輩は、他にも居ますから」
    「………へ……?」
    「マジで仲直りしてください」
     そう言って、振り返ることなく後輩はドアを開け、お邪魔しました、と言って出て行った。
     だが、そのほんの一瞬。ドアの向こうへ消える間際に見えた表情は、川西らしからぬなんともいえないバツの悪そうな顔で、――天童は後輩の出て行ったドアの前から、しばらく動けなかった。
     重苦しさも痛みも晴らしてしまうような、軽やかななにか。
    「………すっかり先輩面するようになっちゃって」
     何日ぶりだろう、天童はいま自然に笑っているのを感じていた。
     いまだ周囲を困らせている立場だが、なんだろう、後輩の頼もしさに感心してしまった。
     すると、まるで試合の最中のように、肩からスッとちからが抜けた。

     ウチのチームとエース。

     楽園と呼べる時間は終わったが、川西たちのそれはつづく。
     新しいチーム。そこに選ばれたくて必死だった。
     先輩たちの引退後など、次期レギュラーの枠を狙いながら誰もがギラつくころだ。しかも1年から枠を取りつづけてきた牛島が居ないのだから、枠がひとつ増えるようなものだ。
     もちろん、五色や他のふたりがやすやすと明け渡すとは思っていないが。
     強気な後輩たちの顔を思い浮かべ、天童はまた笑った。

     あの場所は、自分ひとりでつくったものではない。
     去ったからといって汚すようなことは不本意だ。

    (……白い鳥は、恩返しするもんダヨねー…)

     白鷲はしなさそうだけど、と胸の裡で付け加え、天童は両腕をぐっと天井のほうへ伸ばす。
     ぐうたらが沁みついた身体を伸ばして、まただらん、とちからを抜く。
     リラックスしている。
     胸のあたりにはまだ少し痛みが残るけれど。
     天童は壁の時計を一瞥し、後輩が出て行ったドアを開け、部屋を出た。

     牛島が居なければ、自分の追い求めるバレーは中学で終わっていた。

     理由は、もうそれで十分な気がしていた。



     ※ ※ ※



     穏やかな陽光の射す体育館からボールの跳ねる音が止み、今日の練習は終了した。
     午後はしっかり休養するようにと監督とコーチから念押しがあり、部員たちが解散する。
     白鳥沢は体育館の設備も整っているが、それでも冬は冷えによって硬くなった筋肉へ負荷が掛かりやすい。最近は練習終了の時間も少しずつ冬季の内容へと移行している。
     ただ、それは後輩たちへの話であって、引退した牛島たちはその限りではない。陽射しのある午後のうちに予定通りロードワークに行こうと考えていたが、解散後、牛島は珍しく白布に呼び止められた。
     このあと少しお時間いいですか、と声を掛けてきた後輩はいつになく真剣な目をしていた。出来ればふたりだけで話したいということで、ならばと、寮に戻ってから牛島の部屋で話すことになった。
     大平たちと食事を済ませ部屋に戻って待っていると、白布は時間通りにやって来た。
    「失礼します」
     少し硬い面持ちで後輩は部屋に入った。椅子に掛けるように勧めたが、白布は部屋の中ほどに立つと腕を後ろに組み、ここで構いませんと言った。
     牛島は少しのあいだ思案し、白布が立つ場所にほど近いベッドに掛けた。
    「…それで、ふたりだけで話たいこととはなんだ?」
    「はい」
     そこで少し白布が目を伏せ、そしてしっかりと牛島を見た。

    「…牛島さんが、天童さんと喧嘩をしたと聞きました」
     
     後輩のことばに、牛島は僅かに目を見開く。てっきり練習や新しいチームに関わる話だと思っていた。
     だが、もっと意外だったのは、肯定のことばすら出てこないほど動揺した自分自身に関してで、――牛島がことばを選ぶ前に、それを察してか白布が先をつづけた。
    「…事情がわからないのに、口出しするべきではないと思っています。……ただ、このところ元気の無い牛島さんを見ていて、…なにか少しでもちからになれないかと思いました。…その、五色も、おふたりのことを心配していて…」
     五色、と聞いて、牛島は思い返す。
     3日前、談話室で会った後輩とはあれから一度も話していない。練習中も一度も目を合わせていない。これまでそんなことは無かったのだが。白布に言われて、はじめて気づいた。
     怠慢だった。牛島は思う。
     そして、いまようやく、後輩が話の場所を選んだのは自分や周囲への配慮であることに気づく。白布は冷静沈着で、論理的であり対応力もある。川西も居るから、もしチームになにかあっても自分たちで解決していくだろう。だが、こちらに話をしに来たということは、あの日のことでチームになんらかの不都合が生じているということだ。
     話を切り出されるまで気づかずにいたとは。
     うわの空だったということだろうか。牛島は山形の顔を思い出した。
     あの日から、――共通の仲間である大平たちに話すべきか、何度か考えた。
     だが、皆もまた進学へ向けて忙しい日々を送っている。日ごろから姿を見せない天童の様子を心配している。そんな仲間たちに事の経緯を話したなら、余計に気を揉むのではないかと思えた。

     だが、そもそも、――話す理由など無いのではないかと考えた。

     事の原因と、これから取るべき行動ははっきりしている。
     解決に必要なのは自分の意志だけだ。
     だが今回、踏み出す前に後輩たちが先んじて動いた。
     不甲斐無い状況と言うほかない。
    「…お前たちに、気に遣わせてすまなかった」
    「あ、…いえ、」
     白布はまっすぐに伸びた背筋をさらに伸ばすかのように、少し両肩を竦めた。
     そんな後輩を見て、牛島は「だが」とつづけた。
     白布の聞いた話と事実は異なる。
    「天童と喧嘩をしたというのは正確ではない。……俺が一方的に天童を責めた」
    「えっ」
     普段は落ち着いている後輩が、目を丸くした。
     そして、ややあって口を開く。
    「……あの、…天童さんが、ではなく……?」
    「ああ、俺が傷つけた」
     事が事だけに誤解があってはならない。念を押すようにはっきりと言うと、白布はやけに目を瞬かせ、しばし間を空けて言った。
    「……すみません、…その、…普段の牛島さんの様子からは想像がつかなかったので…」
     やがて白布は遠慮がちに、理由を伺ってもいいでしょうかと牛島に訊ねた。
     戸惑う様子の後輩の目を見て、牛島は僅かに目を伏せた。
    「…理由は、理不尽なものだ」
     そう前置いて、牛島はこれ以上、誤解が生まれないようにと慎重にことばを選んだ。
    「……俺は、天童のことを大事に思っている。だが、天童は俺が思うほどには、俺のことを思っていなかった。他者に抱く感情には差はあるだろうから、それは仕方がないことだと思っている。……だが、」

    (……それが、堪え難かった)

    「同じように思って欲しかったと、天童に無茶なことを言って傷つけた」

     感情を、事実を辿るように、牛島は言った。
     口にしてみると、ほんとうに呆気ないほど事は単純だ。
     天童の胸中も知らず、ことばを鵜呑みにし、勝手に思い込み、――状況を把握し損ねていた自分を棚に上げて、思いどおりにならない状況に腹を立た。
     挙句、大事におもっているはずの相手を理不尽に責めた。
     他人の気持ちは、どうにか出来るものではない。
     どれほど大切でも、どれほど頑張っても、自分にはどうしようも出来ない領域のものだ。

     それを詰って、なんになるというのだろう。

     非はこちらにあり、天童はなにも悪くない。
     だから、取るべき行動はひとつなのだ。
     それなのに。
     あれから、なにも。
     思考がまた堂々巡りになりそうなところで、――牛島は会話の途中だったことに気づき、顔を上げた。
     白布は何故か俯きがちに手で顔を覆っていた。
    「…白布?」
     呼びかけると、後輩ははっとした様子で目許から手を下ろし、再び後ろで手を組んだ。
     その顔はやや俯いたままだった。
    「……すみません。……あの、…これは…牛島さんと、…天童さんのお話なんですよね?」
    「そうだな」
     牛島が答えると、白布の頭がさらに傾いた。
     その後輩らしからぬ行動を見ていたら、胸のあたりが次第に重苦しくなっていった。
     白布からすれば、原因が明らかなのになぜ謝罪しないのかと疑問しかないだろう。
     この状況では、なにを言っても弁解でしかない。きっと、仲間たちも同様のことを思う。
     そして、他ならぬ天童自身も。
     いまだ俯いたままの後輩に申し訳なさを感じながらも、牛島はつづけた。
    「……天童は常に冷静な視点を持っている。きっと自分が理不尽な目に遭っていることを理解しているだろう」
     いま、なにをおもっているだろう。
     状況を放置している、このさなか。
    「…非は俺にある。…だから、すぐにでも天童に謝りに行くべきだということはわかっている。――だが、」

     一瞬、天童の笑顔が、脳裏を過った。

    「………もしも、あいつに軽蔑した目で見られたらと思うと、足が動かない」

     おもわれていると、当たり前のように信じていた。

     一緒に居るときに、天童はいつもよく笑っていたから。
     とても楽しそうに見えたから。
     自分と居る誰かが、あんなに笑って、楽しそうにしている様子を見ることは、あまりなかったから。だから、勘違いをしていた。
     
    (楽しさの、程度というものを)

     一緒に居て、楽しいとも、面白いとも、天童は言っていた。
     それは真実で、ただその程度が、ここにあるものとは違ったというだけで。
     
     別れるという選択を、――されていたということに、気づいただけだ。

     そういうことがあると、もう、知っている。
     簡単に決めることもあれば、決してないがしろにするわけではなく、熟考し、身を切るような思いで選択することだってあるということを、理解している。
     だが、天童のことはそもそもが誤解だった。無いものをあると、信じていただけで。天童がなにを思っているかわからないままで、勝手に期待をかけていた。
     これからも、一緒に居られるだろうと。

     マブダチだから。

    (……その資格は、無い)

     天童がどうおもっていても、天童をおもう気持ちはある。いまも変わらず。
     それは『心の底から大事に思う』はずのものであるのに、――この状況はどうだろう。
     この期に及んで保身ばかり考えている。
     相手が傷ついていることよりも、これから自分が傷つくことを考えている。
     ずっと、ことばばかりで行動が伴っていなかった。
     自分の欲望を先行させるだけで。

     ならば、軽蔑されて当然ではないのか。

     あのとき、目の前で天童から笑顔が消えた。
     いまは、どうしているだろう。
     なにをおもうだろう。
     想像するたびに。
     血の気が引く。

     気づけば、――視線は足元に落ちていた。
     また考え込んでいたと、牛島は急いで顔を上げる。
     白布は、あまりに情けない話に困惑したのだろう、再び手で顔を覆っていた。
     なにをしているのだろう。一体。
     自己憐憫だろうか。
     また胸のあたりが冷えた。
    「……俺が不甲斐無いばかりに、すまない。…五色にも悪いことをした」
     すると白布は目許から手を離し、再びその手を後ろに組み直した。
     だが、その表情は困惑そのものだ。
    「…いえ……すみません。…その、……情報量があまりに多くて」
    「情報?」
     どういう意味だろうか。白布のことばを待っていると、なにかを考えた様子の後輩は、やがていつもの冷静なまなざしで牛島を見た。
    「事情は、わかりました。……そのうえで、俺にでもひとつだけ、はっきり言えます。天童さんが牛島さんを軽蔑するなんて万が一にもあり得ません」
     やけにきっぱりと白布が言い、今度は牛島が目を見開く。
     何故だと思う間もなく、後輩は話をつづけた。
    「たとえ、おふたりのあいだで思い違いがあったとしても、天童さんはきっと牛島さんの事情を考えています。……天童さんは、…ふざけて、ひとをおちょくることはあっても、自分の手が回りそうなことへは、臆することなくフォローしていました。試合でも、練習でも」
     どこか熱を帯びたことばを一度切り、白布は冷静ながらも穏やかな瞳を見せた。
    「…そんな天童さんが、牛島さんが自分を責めている状況を思い浮かべないはずがないです。……そのうえで、あの天童さんが動かないでいるのだとしたら…なにか余程の事情があるんじゃないでしょうか。動けなくなるほどの事情が」
    「……事情」
     後輩のことばを反芻するその脳裏に、――これまで天童と過ごした日々の記憶が、溢れた。
     出会ってから、その人柄を傍で見てきた。
     一緒に過ごす時間を共有しながら。
     楽しげに話すその表情を、見つめながら。
     牛島の視線は、ふいに本棚のほうへと吸い寄せられた。

     下段にある、カラフルな背表紙。
     そして上段の空白。


     ――それ、若利くんの父ちゃんが書いた本だったんだね。

     ――本出すとかすげえ。

     ――父ちゃんもさ、若利くんが自分の本読んでんの嬉しいだろうね。

     ――よかったね、若利くん。


     あのとき、天童はちょうどこのベッドに寝そべっていた。
     あの場で嬉しそうにしていたのは天童だった。
     その笑顔が、胸の奥の深い部分にゆっくりと寄り添っていくようで。
     ふしぎとあたたかく。
     そんな天童のもたらすものに、何度も触れてきたはずだった。

    「………そうだな」

     あいつは、そういう男だ。
     自分のことのように、こちらの感情に触れて。
     見守るように。ときに、曖昧なそれにかたちを与えてくれる。
     冷たさなど、そこには無かった。
     少しのあいだ、会わなくなり、見えなくなった。わからなくなった。
     だが、それは天童のほんの一部だ。
     これまでの記憶が、時間が、ここにある。

     心の底から、天童のことを大事におもう。
     おもいたいと――、無自覚ながらに、思っていた日々が。
     
     静かに息をつく。
     そして牛島は、大事なことを思い出させてくれた後輩へ向き直り、立ち上がった。
    「――ありがとう、白布。俺は天童と話そうと思う」
    「はい!」
     そうして白布は深く頭を下げた。
    「出過ぎた真似をしてすみませんでした」
    「いや、そんなことはない。…助かった」
    「……はい」
     顔を上げた後輩の表情は、落ち着いていながらもどこか晴れやかだった。
     胸の重苦しさはもう無い。
     冷たさは、天童がくれたもので消えていった。

     どう思われているか、――それはどうにも出来ないものだ。
     だから、ただ、受け止めよう。
     
    (……天童に、笑顔になって欲しい)

     その笑顔をいつまでも自分に向けて欲しいとは思わない。
     いまはただ、大切なものをくれたその心を、穏やかにしたい。
     
    「……では、失礼します」
    「ああ。…ありがとう、白布」
     ドアの前で姿勢よく頭を下げ、後輩は静かにドアを閉めた。
     パタン、と軽やかな音が響いた。
     静けさが淡い午後のひかりに満ちた部屋に広がる。
     白布が去っていったドアをしばらくじっと見つめ、そうして、牛島は机のほうへと移った。
     あの夜、天童に渡すはずだった差し入れは、いまもそこにある。
     会いたい一心だった。
     でも、その思いが、天童を傷つけた。

     もう二度とくり返したくはない。

     牛島は椅子に座り、机の引き出しから携帯電話を取り出した。
     日ごろからあまり使わないそれを操作し、天童にメッセージを送る。
     謝罪と、会って話したいという用件。
     いまの気持ちを、選んだことばに乗せる。
     やがて送信完了の表示を確認し、牛島は静かに息をついた。
     それがどう受け止められるかわからないが、まずひとつ踏み出せた。
     携帯電話を机に置く。
     コトンと響いた、その硬いの音につづくように――不意に部屋のドアがノックされた。

     白布とは違うテンポと、その強さ。

    「若利くん」

     声を聞いた瞬間、牛島は立ち上がっていた。
     耳の後ろのあたりがざわめいて、椅子の脚が揺れ、がちゃんと音を立てた。
     椅子を仕舞わなければと思ったが、忘れた。
     ばたばたと床が鳴る。
     階下の者が困る。
     でも、いまは。
     ドアノブに手を掛けた一瞬、天童の笑顔と、傷つけた顔が脳裏に甦って。
     でも、強く握り締め、牛島はドアを開けた。

     そのどちらでもない。

     ない交ぜのような表情の天童が、立っていた。



     ※ ※ ※



     だしの香るつゆから温かい湯気が立ち上る。
     その上にちょこんと乗っているかき揚げをつまんでかぶりつき、川西はその固い食感を味わってから、おもむろにうどんを啜りはじめた。
     慣れない一仕事をしたあとで気晴らしに行くところといえば、あと数年後であれば居酒屋かどこかなのだろうが、あいにくまだ学生で、加えて休日であるので場所は寮の食堂になる。寮の憩いの談話室は3年生の天国であるので下級生は滅多に居座れない。
     というか、先輩が居る時点で全然憩えない。3年生の部屋まで足を運んだ今日など、特に行く気になれなかった。
     気が付けば天ぷらうどんは半分も無くなっていた。
     それもそうだろう、午前の練習で気力と体力を使い、さっきも面倒事を終わらせた。数時間前の昼食など腹から無くなっているに等しい。
     軽食代わりの一杯が無くなりそうなのを見て、おかわりしよっかな、と考える。
     そこで、川西はやや項垂れた様子で食堂に入ってきた男を見つけた。
     この時間帯に食堂を使う寮生は多くない。座っている川西と目が合うなり、珍しくげんなりとしていた顔の白布がさらにしかめっ面になった。
     やがてなにもない宙を睨み目つきを鋭くした白布が足早にカウンターへ向かい、注文し、湯気の立つどんぶりを持ち川西の居るテーブルまでやって来た。
     対面に置かれたのはあつあつの天蕎麦だった。
     白布が静かに座る。
    「おつかれ」
    「おう」
     返事をした白布はなんとも言い難い、嫌そうな顔をしながらまず天ぷらにかぶりついた。
     それから蕎麦をすすってとりあえずざっと味わったというところで、白布はこちらを睨んだ。いや、ずっと目つきが悪いまま、こちらを見たというだけか。
    「…どうだった?」
    「まあ、ぼちぼち」
     去り際、あの癖の強い先輩はぽかんとした表情をしていたが、あれで大丈夫だと思っている。
     ヘタレたことをよく言う先輩だが決して立ち止まったままのヘタレではない。それは同じポジションだった自分が誰より、と言えなくとも、よくわかっている。
     あとは当人同士でどうにかするだろう。そこから先は、他の先輩たちが言うように口出し無用だ。
     そっちは、と川西は訊き返さなかった。
     白布の顔を見れば、首尾よく終わったわけではないということは判る。ただ、ここに来たということは、目的自体は達成されたということだろう。
     だから、今回はそれでいいのだが。
     目の前で黙々と、というより蕎麦をすすることで無心になろうとしているかのような白布を見ているうち、次第に気遣いを押しのけ好奇心が疼いてきた。
     牛島の敬虔な信徒と言っても過言ではない白布が、牛島と腹を割って話した結果、何故こんな顔をするようになったのか。見ていて気にならないわけがない。
    「牛島さんは、機嫌直った?」
    「あ?」
    「解決したのは知ってる」
     白布は牛島とは別種の険しい顔をしたが、怖くない。だから川西は冷静に付け加えた。
     話は伝わったようで、そこでようやく白布の表情が、普段のやや不機嫌そうなレベルまで戻った。
    「……そこは、もう大丈夫だと思う」
     けど、と付け加えた白布の表情はたちまち苦虫を潰したようなものになった。

    「いくら牛島さんでも、あんなの俺は二度と御免だっ」

     そう強く言い放って、白布は蕎麦を食べはじめた。
     CMの如く小気味よい音の中で猛烈に減っていく蕎麦を見て、やがて川西は立ち上がった。

    「俺も蕎麦食いたくなってきた」

     うどんもちょうど無くなり、今日はこれからふたりでチームのほうのミーティングもある。
     労うというわけではなく、あちらもまた労われたいわけではないだろう。
     でも、まあ、付き合ってやろう。
     蕎麦もう一杯いくだろうし。
     川西はそう思い、空のどんぶりのトレーを持ってカウンターへ向かった。 




     ※ ※ ※




     あの日、あのとき以来、顔を合わせる。
     大きな瞳が自分を映している。
     それは、引き金のように。

    「………天童」

     呼ぶよりもはやく天童の腕へ手を伸ばしそうになり、牛島は反射的に、それを抑え込んだ。
     一瞬の衝動をやり過ごし、口唇を噛み締める。
     胸が高鳴っている。
     だが、いまは落ち着くことが先決だ。すべきことがある。
     我を忘れて傷つけるようなことは、もう嫌だった。
     天童の赤みがかった前髪が、目の前で微かに揺れた。
    「…若利くん、……いま、チョットいい?」
    「……ああ」
     少し詰まりながらも訊ねてくる声はやわらかく、答えながら牛島は状況を理解した。怯えは杞憂だったと。
     後輩からのことばで思い直せてよかった。そう思いながら、いまだ逸らされずにいる瞳に、牛島はいちばん伝えたいことを話した。
    「…天童、この前は一方的な物言いでお前を傷つけた。すまなかった」
    「え……っ?」
     驚いたのか、天童の瞳が瞬いた。
     いくらかの無言の時間。
     のちに天童は小さく首を振り、困ったように眉を下げ、――そうして小さく笑った。
    「…俺は、気にしてないよ、若利くん。……若利くんからすれば、尤もだと思ったもん。謝るのは俺のほうだよ。…だから、ごめんね、若利くん」
     話すうちに、痛ましそうに瞳が細められていった。
     そのつややかさと翳りを見つめながら、牛島は湧き起こる疑問に、少し眉根を寄せた。
     ここで天童から謝られる理由がわからない。そんな謂れは無い。
     何故なのだろうか、と疑問が浮かぶ。だが、いまはすぐ、ことばにならなかった。

     天童が以前のように名前を呼んでくれる。

     そのことが胸の奥を熱くする。
     鼓動が高鳴り、あの日とは違う、どこか浮ついたような足場の心許なさが爪先のあたりにある。その場を踏みしめている感覚を確かめ、――そして牛島は、天童に立ち話をさせている状況に気づいた。
    「……すまん。話は、俺の部屋でいいか」
    「あ、……ウン」
     お邪魔します、と遠慮がちに言って天童が部屋に入る。その背中を見つめながら、牛島はドアを閉めた。3年になってから、天童がこの部屋にノックと断りを入れて入ってきたのは、いまがはじめてだ。そんなこれからの話とは関係無いことを考えて、牛島は少し、心に余裕が生まれているのを感じた。
     気がつけば、白布が来たときに部屋を照らしていた陽射しはすっかり消え、窓の外は少し薄暗くなっていた。薄手のカーテン越しにちらちらと雪の影が見える。
     冬の天気は変わりやすい。牛島は部屋の明かりをつけた。
     そして、いまだ立ったままの天童の背中に言った。
    「…好きに掛けていい」
    「……ウン、それじゃ」
     そう言って、天童は普段の何倍もの時間をかけて、そろりと傍のベッドに座った。
     動きのぎこちなさはその胸中をあらわしているように見えて、あたたかくなった胸の奥が今度はちりちりと痛みだす。 
    (……まだなにも解決していない)
     当然のことを自覚し、浮足立っている自分を諫める。そうして牛島が天童の隣りに座ると、何故か同じタイミングで天童が少し腰を浮かせ、牛島の反対側のほうへと位置を僅かにずらした。
     間隔が思った以上に空く。それだけで、胸の奥をぎゅっと鷲掴みされたような気がしたが、――いまはそんなことを気にすべきではないと思った。
     他のことに気を取られて、大事なことを見失いたくない。
     疼く手を膝の上に置き、牛島は右隣りに座る男の横顔を見据える。
     やがて天童が振り返りその瞳がこちらを映す。
     心許なげに。
     和らげたいと、牛島は思った。
    「…すまなかった、天童。本来であれば俺がお前のところへ謝りに行くのが筋だ」
     天童は気にしていないと言ったが、一方的に責めた事実は変わりない。
     じっと、天童の視線はこちらを見たまま動かない。数瞬で多くのことを捉えるその瞳には、いまなにが映るのだろう。なにが伝わっていっただろう。
     瞳は、やがて悩ましげに細められた。
    「…んなこと無いよ。…元はといえば、俺がヘタレて勘違いしてたんだし。それで若利くんのことを避けてたんだから……若利くんが怒るのも無理ない」
    「……避けていた?」
    「そう。……ほんとに、ごめん」
     突然知らない事柄が出てきて面食らう。だが、天童になかなか会えなかった理由はそれだったのだと納得する。
    「……そうか。…だが、それはもういい。俺は気にしていない」
     そう言うと、天童は少し驚いたように肩を小さく竦めた。
     それはこれまでの状況を補足する情報でしかない。きっと天童なりにそうせざるを得ない事情があったのだと、いまなら思える。
     過去がそうだったとして、大事なことはいまと、これからだ。
    「……勘違いとは、一体なんのことだ?」
     牛島が話を進めると、天童はやがて、うん、と歯切れの悪い返事をした。
    「……それは……俺が居ても居なくても、若利くんは気にしないって、…そういう勘違い」
     天童のことばに、牛島は僅かに目を見開いた。
    「そんなことは――」
    「…ウン。だから、勘違い」
     思わず話を遮りそうになったが、天童が静かなトーンで会話を戻した。
     牛島はいつのまにか、膝の上に置いていた手を握り締めていた。胸の奥でも、言いようのないなにかが疼きだしている。それを堪え、いまは聞くことに集中する。
     天童はじっとこちらを見ながら、静かにつづけた。
    「……でも、そんなふうに思いこんじゃってたから、俺、若利くんに会わないようにしてた。――ただ、」
     天童はそこで、小さく、息を呑むようにした。
    「最後の試合んとき、……マブダチだって、軽い気持ちで言ったわけじゃなかったよ。……ケド、……特別だって思ってんのは、俺だけだと思ってたから」
     ひりひりと、空気が震えたようだった。
     手が――すぐにでも隣りに伸びそうになって、代わりに膝の上で固く握る。
     そんなことはないと、言いたかった。けれど天童の話を遮りたくはないと、牛島は口唇を噛み締めた。
     天童が、そこでほんの少し、目を伏せた。
    「…若利くんは、中学のころから有名だったけどさ、…おんなじ部に入って、チームとか高校生とかそういう枠を突き抜けちゃうようなヤツ、ほんとにいるんだなあって思った」
     なんたってジャパンだしね、とそこで小さく、天童が微笑む。
    「……若利くんは、これからも、どこまでだって行けるし、……そこで楽しいこともいっぱいあるデショ。…あんまり楽しくって夢中になると、他のことが目に入んなくなったり、…すっかり忘れちゃったりするじゃない?……少なくとも俺は、ここに来てそうだったから、……だから、これから、もーっと楽しい場所に行く若利くんもそうなんだろうなって思い込んでてサ」

     だから、引退したときがお別れなんだろうなあって思ってた。

     まるで窓の外の雪のように、はかない響きだと思った。
     別れ、――そのひとことに胸は騒めき、そうして牛島は、談話室で天童が言っていたことの背景を知る。
     マブダチだと言った、あの日のことも。

    (そんなことは、考えたこともない)

     牛島は思うだけにして、また口に出すのを堪えた。
     締め付けられている胸の内は、さらに痛んだ。
     だが、話のとおりであれば、天童は前からひそかに胸を痛めていたことになる。
     
    (………いつから、そんなことを、)

     そんな”最後”を考えていたのだろう。
     思い返しても、わからなかった。
     天童はいつも笑っていたから、楽しそうにしていたから、なにも気がつかなかった。
     そうして、――牛島はふと、幼いころのことを思い出した。 
     両親も、そうだった。
     あの、開けてしまったドアの向こうで別れの準備をしていても、それでも両親は務めて子どもの自分にはあたたかく、やさしく、気持ちが沈まないように出来る限りのことをしてくれた。
     それと同じように、天童もまた見せないように努めていたのではないのか。
     天童は楽しいことが好きだ。なにが楽しいことなのかを自覚している。だからこそ、なにが楽しくないことなのかを考え、痛みをひとりその胸に仕舞っていたのではないだろうか。
     もっと早く、気づきたかった。
     なにより、天童にそんな思いを抱かせてしまったことが不甲斐無かった。
     どうにもならない、過ぎたことを、――牛島ははじめて後悔した。

    「……若利くんが、…そんな顔することねえのよ?」

     はっとすると、隣りで悩ましげな瞳のまま天童が小さく笑った。
     いまなお、労わるように。
     それはこちらの役目であるのに。
     天童は少し首を傾け「予防線張ってたんだよ」と言った。
    「……そんなふうに考えておけば、実際そうなったときつらくないじゃん。…でも、思い込みってのは厄介っつうか、……いつの間にか、それが俺の中で”当たり前”になってた」
     天童は、傾けた顔を正面の壁へと向けた。
     静かに沈んでいくような、その瞳を牛島は目で追う。
     いまの話は、身に覚えがあった。 

    「……俺にとっての”当たり前”は、…天童が傍に居て、楽しそうに笑っていることだった」
     
     隣りへ語りかけるように、牛島は言った。
     それは、日常だった。
     寮で、あるいは学校で、練習ではもちろんのこと。
     天童に会い、天童に名前を呼ばれ、その笑顔を見ることは牛島にとってありふれたことで、呆気なく変わってしまうことがあるなどと考えもしていなかった。
     そんなことは、決して無いのに。 
     自分の知らないところで。
     思いもよらぬはやさで。
     それを、よく知っていたはずなのに。
    「……これからも、変わらずお前が傍に居るのだと思っていた。…無条件に。……だが、…引退してからお前があまり顔を見せなくなって、……ようやく…それが当たり前のことではないのだと、気づいた」
     思い出したと言うべきだろうか。
     だが、そんなことは、いまの天童には関係無い。
     ゆっくりと、天童がこちらを見る。
     牛島は目を細めた。
     心許ない。
     それは、――自分のほうなのかもしれない。

    「……気づいてからは、…ただ、お前に会いたかった」

     ややあって、天童が「うん」と言った。

    「…会いに来てくれてたもんネ。……けど、俺が捻くれてたから、若利くんの気持ちに全然気づけなかった。……ごめんね」
    「いや、…謝らなくていい。もう気にしていない。……誤解が解けたのなら……天童が、気に病まなくなったのならそれでいい」
     膝の上で拳を握る手から、勝手にちからが抜けていくような気がした。
     天童が、あはは、と小さく笑った。
    「若利くんは……やさしいなあ」
     ありがとね。そう言って眉尻を下げ、天童が小さく笑う。
     その表情は本来の溌溂とした笑顔には程遠い。
     胸の奥が痛むでもなく、静かに震えた。 

    (やさしくなどない)

     まだ遅くはないと、思った。
     誤解は解け、互いの考えの行き違いは無くなった。
     だが、まだ天童の表情は晴れない。
     それなのに。
     途端に、求めはじめる。
     伝わって欲しい。

     感情に、べたりと貼りつく。

    「……天童、」

     気がけば、――牛島は口走っていた。

    「…いまも忙しいのは、重々わかっている。……だが、また、……少しのあいだでいいから、これまでのように会えないだろうか」

     口に出した途端、一瞬で、この場の空気が張り詰めたのがわかった。
     天童が動揺していた。背中が小さく跳ねたかと思えば、――そこから、緊張を帯びた鋭いものを感じて、ふたりのあいだに、この僅かな間に、静寂が迫った。
     鼓動が高鳴っている。
     牛島は口を噤み、――やがて、天童がゆっくりとこちらを一瞥する。
     その手が、ベッドの上に置かれた。すると天童は再び僅かに腰を浮かせ、牛島からさらに離れるように座り直した。
     その意図が掴めないでいた。
    「……天童?」
    「若利くん。あのね」
     ことばを遮るように、天童が強く言った。
     強張った声は、胸騒ぎを増長させるには十分だった。
     雪の降る、その静けさが、いまは痛い。
     そう、痛ましそうに、天童の瞳は細められた。
    「……俺、もひとつ、若利くんに話したいことがあんの。……さすがの若利くんでも、ビックリすると思うんだけど」
     こちらを見つめる瞳は、かなしげでもあって。
     牛島は、天童もまた膝の上で拳を握っていることに気づいた。
     その手は小さく震えて、――理解した。
     誤解が解けても天童の表情が晴れない理由が、いまから。
     静まり返った部屋に、やがて天童のなだらかな声が響いた。

    「……俺ね、…若利くんのことが好きなの。……若利くんに告白してくる女の子たちと、おんなじように」

     その一瞬。
     なにかが牛島の胸の奥をざらりと撫でて、――去っていった。
     そして、こちらに向けられていた視線はゆっくりと下へ逸らされていった。
    「…最近、気づいたんだけどね」
     天童は付け加える。だが、俯いて垂れた前髪で、その表情は見えない。
     その膝の上で、拳がぎゅっと固く握られた。
    「……だから、…ていうか、……いろいろ、ごめん」
     俯いた顔は深く、下を向く。
     その謝罪はなにに対してだろうか。牛島は疑問をそのまま口にした。
    「…謝る理由は無い。……天童、俺は、それでも会いたい」
     いまの気持ちを伝える。
     胸の奥が、再び疼きだすのが自分でもわかる。
     すると、天童の頭が少し上がり、髪の合間から、困ったように細められた瞳が見えた。
     口唇の端が、少し上がった。
    「…ウン…そうだね、……若利くんは平気かもしんねえけど、……俺としては、それは、結構つらいのヨ。……若利くんと、好き、の種類が違うから」
    「……違う、」
    「そうそう。……したいって思うことが、いろいろ違うじゃん。……だから、……いままでみたいには、会えないよ」
     会えない。
     そう、天童のことばをただ反芻して、――牛島は言いようのない、ふしぎな思いでいた。
     会えないとはっきりと言われたのに、何故かショックではなかった。
     それよりも、なにかがいま、牛島の中でふしぎな勢いを持って手繰り寄せられていた。
     時折呼び出され、あるいは手紙で、受けている告白というもの。
     付き合って欲しいと、希望を告げられる、その意味。
     牛島はこれまで断っていたが、他人の場合は、必ずしもそうしていないということは、知っていた。
     校内でも見かける、付き合っているという者たちの姿。
     天童から借りた雑誌、あるいは談話室で観たテレビドラマの中で、そのイメージを得た。あくまでイメージであり、天童に誘われて観ていただけだからおぼろげな印象しかない。だが、それがいまになって、――いま、ここにあるなにかと、結びついていくような気がした。
     会いたいと思う。
     声を、聞きたいと思う。
     笑っていて欲しいと思う。――いま。
     そうして、牛島の視線は、固く握られたままの天童の手に注がれた。
    「……たとえば、いまお前の手に触れたいと思うことが、同じ、好き、なのだろうか?」
     そのまま口に出すと、天童はゆっくりと顔を上げ。
     大きな瞳が、見開かれた。
     静かに、牛島の鼓動が跳ねた。
     伝わっている。
     もっと、伝わって欲しいと、思う。
     全部伝わって欲しい。
    「……ふたりで、より多くの時間を過ごしたいと、……お前に笑顔で居て欲しいと、……思うだけでは、足りないと思うことが、お前の言う、好き、なのか?」
    「………へ…?」
     驚きに見開かれていた瞳が、大きく瞬く。
     天童が戸惑っている。
     牛島は自分の拳を握り締めた。
     いまある衝動を、必死に堪えて。
    「それが、天童が俺に抱いている感情だというのなら、……それなら、俺にもある」
     言い切ったその瞬間、まるで時が止まったかのように、静けさが広がった。
     天童が目の前で動かなくなった。
     けれど、そこにこちらのことばが響いていることは、伝わった。
     ことばによって、感覚が、ここにあるものが、明瞭になっていく。
     それだけではなく、これまで感じていた抗いようのなかったものや、胸の奥の冷たさを癒したぬくもりの、その正体が。
     それが、天童の言うものと同じかどうかは判らない。
     だが、言いようのないそれらがかたちを得て、名前を得て、はっきりとある。
     そのことが、何故だろう、嬉しいと思った。
     
     きっと、――天童がくれたものだから。
     
     あの日くれたことばのように。

    「……俺は、お前に触れていたいと思う。…ふたりで一緒に居たいと思う。……心の底から、……ずっと…大事におもいたいと、思っている」

     今度は、これからは、ちゃんと大事にしたい。
     寄り添うように。見守るように。
     おもいを、大事にしてくれるひとを。
     天童は、ようやく、眉尻を下げて、そうして言った。

    「……触れたいってのはさ、…ハイタッチとかじゃ、ないよ?…………キス、するとか、……そういう感じのやつだよ…」

     最後のほうは天童らしからぬ語気の弱さだった。
     だが、牛島はまたそのことばを反芻して胸に刻んだ。
     いま天童の手に触れて、その身を引き寄せ。
     口唇と口唇を重ねる。
     その瞬間を、想像したなら。

    「……ああ。お前と…そうしたいと思う」

     いまにも逸らされそうな瞳をはっきりと見据えて、告げる。
     そうか、と牛島は思った。
     
     これが、きっと告白なのだ。

     おもいを告げた相手は、これ以上無いほど目を見開いて、動かなくなった。

    「……天童」

     牛島は、出来る限りそっと呼び掛けた。
     意味を成したばかりのことばは、ちゃんと伝わっただろうか。
     無音の部屋に自分の心臓の鼓動だけが響いて。
     やがて、沈黙を破ったのは、天童だった。
     こちらを見ていた顔はぎこちなく逸らされ、隣りの男はからだを傾け牛島に背を向ける。
     なだらかなその背は、小さく震えていた。

    「………いや、……こんなの……、………夢でしょ…」
    「夢ではない」

     牛島は丸まった天童の背中に訴えかけるように言った。
     夢にして欲しくない。思いながらその背を見守っていると、やがて天童の髪の合間から見える耳が赤く染まっていくのが判った。
     もう一度、天童、と呼ぶ。
     すると、その身がゆっくりとこちらへ向き直った。
     視線が重なる。
     その大きな瞳にあの暗い翳りは無かった。
     だが、――まだ戸惑っている。
     口唇は閉ざされたまま、ことばは無い。
     こちらは、天童ほど物事への鋭さを持ち合わせていない。
     それでも、いま、はっきりと感じている。
     共にあったこれまでの日々、過ごした時間が培ったものが、答えを浮かび上がらせている。

    「俺も天童が好きだ」

     無言で、目を見開いたままの天童が肩を震わせ。
     気づけば、そこに手が伸びていた。
     なだらかな感触が伝わってくるだけで、ピリピリとうなじが震え。
     牛島はベッドの上で身を乗り出し、空いている隙間を埋め、天童の膝の上の手をしっかりと握った。 

    「もし、この感情がお前と同じものなら、……俺はもう、お前と離れていたくない」
     
     こちらを見上げる瞳が、自分を映す。
     鼓動が、何度脈打っただろう。
     その瞳は悩ましげに細められ。
     天童は小さく頷いた。

    「………っ!…わ…っ、」

     ベッドが軋み、小さな声が上がったときには、牛島は天童の身を抱き締めていた。
     引き寄せてバランスを崩した天童の重みを、腕で受け止める。
     細い、からだの感触。あたたかさ。匂い。
     鼓動が聞こえてくる。
     どちらのものかもわからない、ざわめき。
     ため息ともつかない息づかい。
     それらを離さぬように強く両腕で包み込む。
     やがて、肩口から、小さな声が聞こえてきた。

    「………わかとし、くん、」
    「……天童」 

     さらさらと鳴る髪が牛島の首を撫で、やがて肩に凭れ掛かる。
     反動ではなく、遠慮がちに預けられたその身の感触に、胸の奥が疼く。
     ゆるやかなカーブを描くその背中を撫でると、天童の腕が背中にゆっくりと伸びてきた。
     ただ、穏やかだった。
     牛島もまたすぐそばにあるぬくもりに顔を寄せた。
     包み込み、包み込まれる。
     あたたかな存在に、少し身を預け。

     あの日のように、――牛島は目を閉じた。

     雪が深々と降る音が、聞こえた気がした。

     どこにいても。
     いつも。
     おもう。

     心の底から、祈るように。

     信じている。

     でも。

     
    「………さびしかった」


     胸の奥、からだのどこからか。
     深い井戸の底からゆっくりと汲み上げたようなそれは。
     
     いま、かたちを得て、――溢れた。

     ずっと。
     
     言ってはいけないと思ったいた。
     言ったらかなしむと思っていた。
     大事なひとのおもいを、壊してしまうと。
     
     でも、いまは、――言ってもいい。

     天童が、胸の奥の深い部分に寄り添って。
     だから、いま、ことばになったと思うから。
     
    「……お前と、一緒に居たい。……これからも、ずっと」

     その笑顔を見ていたい。
     日の出でも、月の出る夜空でも、なんでもいい。
     同じ景色をふたりで見ていたい。
     一緒に。

     腕の中で、うん、と小さく、声がした。

    「……俺も、…若利くんと、………一緒に居たいなあ」

     声だけで、笑顔なのだということが伝わってきて、牛島はそっと小さく息をついた。
     天童のことばがまた胸の奥へゆるやかに沁みて、そこがあたたかなもので満ちていく。
     そのぬくもりを、心の底から大事におもいたい。
     思いは自然と腕に籠っていくようで、やがて、牛島は背中を軽く叩かれた。
    「…う、……若利くん、」
     くるしい、と声がつづき、牛島は腕を解いた。
     身を寄せていた天童がそろりと半身を起こす。だが、隙間は無く。
     天童と顔を見合わせた牛島は、見たままのことを口にした。
    「……天童、顔が赤い」
    「…そりゃね!…若利くんは、ぜんぜん、……ッ、」
     耳まで顔を赤く染めた天童の大きな瞳がこちらを見て、再び、悩ましげに細められた。
     その頬を緩ませて。
    「……チョットだけ、赤いヨ」
    「そうか。……どうりで頬のあたりが熱いと思っていた」
     胸の奥の疼きが、今度は顔のあたりに移って軽くひりついているような気がした。
     試合のときに覚えるような興奮の中の熱とは少し違う。
     いまは、とても穏やかな心地だった。
     顔色以外は普段のやわらかな表情に戻った天童を見つめ、牛島は口を開いた。
    「……天童、…さっきの話だが」
    「ん?」
    「……キスをしてもいいだろうか」
     ヒエッ、と天童が短い声を発した。
     両肩が竦み、固まったかと思えば、やがてなにかのスイッチが入ったかのように天童は両手を胸の前で振りはじめた。
    「べつにっ、証明とかしなくても、俺、若利くんのこと信じてるよっ?」
    「……証明したいというわけではない。――ただ、」
     牛島は天童の忙しなく動く手をじっと見つめ、やがてその片腕をぱっと捕える。 
     驚いたように、天童の手が跳ねる。その掴んだ腕から一旦手を離し、牛島は止まっているその細長い指に自分の指を絡めた。

     会いたいから会いに行くように。
     震えていた手を握るように。
     ただ口唇に、触れて。

     イメージしたならば。

    「……天童と、そうしてみたい」

     その瞳に告げそっと手を握ると、天童の肩がもう一度大きく震えた。
     天童の顔は赤みが増し、やがてがくんと項垂れた。
     うう、と小さな呻き声が聞こえてきた。
     だが心配するものではないと、つないでいる手のぬくもりが知らせてくる。
     やわらかく手が握り返される。
     そこに微かにちからが籠る。
     いくらかの間のあと、天童がゆっくりと頭を上げた。
     顔は相変わらず赤い。

    「……ウン。…イイヨ」

     返事をする口唇の動きがやけにはっきりと見えた。
     こちらを見つめる天童は、いまだ悩ましげに微笑んでいる。
     困惑も、いずれ解けていって欲しい。
     その表情をしばし見つめ、牛島は天童の頬に手を添えた。
     指先に天童の耳が触れ、ふ、と吐息が漏れたその口唇を前に、顔を傾ける。

     キスは、天童の口唇と同じようにやわらかく、あたたかく。

     いつまでもそこへ触れていたかった。



     ※ ※ ※
     


     はじめてのキスは、相手らしからぬ穏やかな触れ心地で、でもやっぱり相手らしい、やさしいものだった。
     
     口唇がなかなか離れていかず、堪らず目を開けると、閉じられた牛島の瞳が間近にあった。
     これ以上熱くなりようがないと思っていた顔がさらに熱さで痺れて、天童はつい、牛島の頬へと手を伸ばす。
     あまりの居た堪れなさにそのまま掴んで引き離したかったが、こちらの動きに何事かを察した牛島がぱちと目を開け、やがてゆっくりと、その整った顔が離れていった。
     その目の色が少し寂しげだったが、――いまはそれより動揺のほうが上回っていて、なんと言っていいかわからず、結局、天童は相手に呼びかけることしか出来なかった。
    「…わ、…かとしくん」
    「……天童」
     いまだ頬には牛島のぬくもりがある。耳の縁に触れている指先のくすぐったさを堪えていたら、その手がそっと離れ、また抱き締められた。
    (ブヘェエエッ!!?)
     まるで予測出来ない。対応出来ない。
     心臓がよく跳ね、あまりに跳ねるのでいつもはよく回る口も動かせない。
     場合によっては、――二度と牛島と関わらない覚悟でここへ来た。
     その予想とのギャップがあまりに大きくて、この力強く生々しい感触に包まれてもなお、白昼夢ではないかと思ってしまう。
     けれど、それすらも否定してくる、熱い、体温。
     こんなに心臓がうるさいのはいつぶりだろう。
     試合中はむしろ自分の感覚に全幅の信頼を置いているから動揺しない。だから、多分、この前の談話室のとき以来だと、――そんなことを考えた。
     考えたら少し、心臓のうるささがマシになる。
     やがて、頭の中も少しクールダウンしてきた、気がした。
     腕の中で、ほっと、息をつく。すると、この身を包み込む腕がまた少し、きつくなった。

     それは、ことばのように身に沁みてきた。

    (………あの若利くんが、寂しいって言うなんて)

     牛島が、感情をことばであらわすことは珍しい。
     表情に出すことはあっても、口には出さない。前向きなものでないならなおさらだ。どれほどきつい練習のあとでも、つらいとか疲れたなどと言ったことは無かった。
     だから、つまり、それほど深く傷ついていたということだ。
    (……ごめんね、若利くん)
     どうしていいか迷ったが、天童は試合のときのように牛島の背中に軽く手を添えた。
     ちょうど胸の反対側あたり。そこから気持ちが、――寂しさが、晴れていくようにと。
     目を閉じ、慣れないながら、天童は牛島の肩に凭れた。髪に牛島の鼻先と口唇が触れていった気がした。
     やがてからだは離れ、天童が隣りを見遣ると、牛島の表情はいつもの落ち着いていて穏やかなものへ戻っていた。
    (…ヨカッタ)
     その頬だけがまだほんのりと赤く、交わしたものが現実であることを教えてくれる。
     すると、さっき触れていた口唇が同じことばを発した。
    「……良かった」
    「へ?」
    「……以前のような笑顔が戻った」
    「ん?俺?」
    「……ああ」
    「そお?」
     自分ではよくわからない。
     まだくらくらしている。
     ただ、自分の表情筋が緩んで思い切り脱力、もといリラックスしはじめてるのはわかった。
     牛島が離れると、天童はなんの気なしにベッドの上へごろんと倒れた。
     この部屋に来てはいつもしていたこと、――日常。
     毛布からは慣れ親しんだいい匂いがして、心地よさで口許がさらに緩んだ。
     
     気がつけば、天童の視界にはバレーボールがやけにくっきりと映っていた。
     
     いつも牛島のベッドの枕元にあるそれ。この部屋に来てもこれといって意識しないほど、当たり前のようにあるもの。
     いや、当たり前だと思っていたのは、この部屋にあるからなのではなく。
     すると、牛島がベッドの上に乗り出しボールを取りこちらへと転がした。視線の向きからなにかを察してくれたようだった。
     引退してからは触っていなかったボールは、指先から手のひらへと、すぐに馴染んだ。
     
    (……俺の、一部)

     そう思った。
     
     ボールを受ける者、渡る先、その周囲の者の動き、些細な動きの中の、攻防。 
     それらが当たり前のように、天童の中にあった。
     皮の冷たさ、やわらかで少しざらついていて、軽いのに、試合では何倍も重く感じる。
     天童はそのままボールを手に取ると、ベッドの上で仰向けになった。そして寝そべったまま、ほど近い距離で、オーバーハンドでボールを上げはじめた。
     牛島はなにも言わなかった。
     指先から弾んでいく、軽やかな音。
     幾度も繰り返えしてきた練習。
     少し離れてはすぐ戻り、また離れ戻ってくる、飽きもせず見つめてきたもの。

     バレーボールは、なによりも楽しかった。
     
     ただ夢中で、楽しくて、気持ちよくて、頭のてっぺんから爪先までどっぷり浸かっていた。
     小さなレンアイ感情などたやすく呑み込まれ、自分の気持ちすら覆ってしまうほど強烈な、無二の幸福。
     そんな大きな存在を、――たとえ引退したら終わりだと覚悟を決めていたとしても、きれいに割り切れるものだろうか。
     短くボールを上げながら天童は自嘲気味に笑い、ちらりと傍らへ視線をずらした。
     牛島は静かにこちらを見ていた。
    「…俺さあ、むかーし今日みたいな雪の日に、外でオーバーの練習してたんダヨね。んで、はじめて300回連続達成ー!ってときに雪が目に入っちゃってさー、落としちゃったんだよねー。そのあとちゃんとキメたけどっ」
     悔しくて、そのあと不貞腐れて家に入ってアイスを食べ、やっぱり悔しくてまたボールを持って外に出た。
     あのころは、いつかバレーボールをしなくなる日が来るなんて、想像したこともなかった。

    「……俺も、よく家の庭でオーバーの練習をしていた」

     声が、というか、話が返ってきて天童ははっとした。
     落ちてきたボールを顔の前で止め、牛島を見遣る。
    「……小学校のころは、天気が悪くなければ庭へ行って、…家族が帰ってくるまでずっとつづけていた」
     そう穏やかに話す牛島を見て、天童はにっこりと笑った。
    「そうなんだ。しっかり身になってんね、若利くん」
     すると、牛島は穏やかな目をしたまま、――そっと微笑んだ。
    「……そうだな」
     天童もまた小さく笑った。
     バレーボールの話のときは、牛島も楽しげによく笑う。
     すると、穏やかに目を細めていたその視線がゆっくりと部屋のどこかへ逸れ、また天童の元へと戻ってきた。
    「……天童」
    「ん?」
    「…前に話したが、…改めて、お前に差し入れがある。…よければ、受け取ってくれないか」
    「え?」
     差し入れと聞いて、記憶は瞬時にあの日へと遡る。
     談話室で牛島を避けたいあまり受け取り拒否をしたもの。ただ、気持ちだけで十分だと思ったのはほんとうだった。
     しかし、あの日から今日までの牛島の気持ちを想像したなら、さっきのことばを聞いたなら、思うことはひとつだ。
     天童は跳ねるように起き上がった。
    「ハイ!受け取ります!喜んで!」
     まるで五色のようにしゃんと背筋を伸ばして、手を高く上げた。
     牛島は小さく頷いて、それが置いてあるらしいところへ向かった。
     その背を見ながら、天童はふと、五色のことを思う。自分たちのせいで落ち込んでしまっているという後輩も早く安心させたい。部屋に戻ったら川西に連絡しなければ。
     しっかりした後輩の顔を思い浮かべているうち、牛島がベッドのほうへと戻ってきた。
     隣りに座った牛島は手に持っていた袋を天童のもとへ差し出した。中を見て天童は思わず声を上げた。
    「わーい!ポッキー!しかも2個!…あ、こっちの限定のヤツじゃん?コレが俺で、もひとつは英太くんの?」
     中から箱を取り出して隣りに訊ねると、牛島は「いや、両方とも天童のものだ」と言った。
    「どちらが好きかわからなかったから、2つ買った」
    「そうなの!?若利くんてば太っ腹ダヨー!ありがとー」
     袋から出した箱を見比べて、そうして天童は、半分は瀬見にあげようと決めた。
     この数週間、どれだけあの部屋で心が軽くなったか知れない。

    (…ひとりなんかじゃあなかったね)

     ここでは、――白鳥沢では、誰かが手を差し伸べてくれる。
     無理に悟った気にならなくてもいい。 
     迷って、悩んで。
     それでも、仲間が居る。
    「……高校生だもんねー、俺」
     悩むよ。しかも受験生だもんね。そう内心付け加えていたら、牛島が「そうだな」と律儀に応えてくれた。
    「つっても、高校生でいられんのもあと少しだけどね」
    「…そうだな」
     天童は声の主を見る。
     その想いは、もう知っている。
    「……若利くん、ポッキーここでひとつ開けてもいい?」
     ああ、と牛島が頷く。天童は少し迷ってから限定ポッキーのほうを開けた。箱の中の小包装の袋のうち、ひとつを出して封を切った。
    「いただきまーす」
     まろやかな黄緑色のポッキーを口にする。
     枝豆の風味が広がった。
    「ずんだ!」
     想定よりも香ばしい甘みに、天童は目を見開きひと噛みで一気に食べ、もう1本つまむ。
    「うめえ!ちゃんとずんだ餡の味がするー!」
    「…そういうものではないのか?」
    「そうでもないときがあんのヨー」
    「そうか」
     天童はポッキーの袋を見ている牛島に言うだけ言ってみることにした。
    「…若利くんも、1本食べる?」
    「ああ」
     意外にも即答で少し驚いたが、牛島の興味がずんだ餡味のポッキーにあるのが面白くて、天童は袋を差し出した。
     牛島の手に珍しくチョコ菓子があり、それがゆっくりと口へ運ばれる。
     ぽき、と小気味よい音がした。
     味わっているのだろう。静かにもくもくと食べる横顔を天童は見つめた。
     その向こう、部屋の窓の薄いカーテン越しに雪の影がちらついているのが見える。
     どんな思いでこれを買ってくれたのだろう。ロードワーク中、コンビニに立ち寄る牛島を想像し、天童は「あ!」と口を開いた。
    「今日って日曜ダヨね!?」
    「…ああ」
    「明日ジャンプじゃん!」
    「そうだな」
     買いに行かねば、と思ったところで、天童は牛島の顔を見たまま止まった。
     先週号は読む気力が湧かず流し読みし、内容をほとんど覚えていない雑誌をこの部屋へ置いてきていた。
     多分、――牛島は、ああいうことは、好きではなかっただろう。
     胸の奥がちくりと痛む。だが、おそらく牛島の中では過去として流されていて、蒸し返すことを本人も好まない。
     それなら、これからのことを話そうと思った。
     天童は牛島の服の袖を小さく掴んだ。
    「若利くん、預かってもらってるジャンプ、俺の部屋に持って帰るよ。いままでありがとね!そんでまた、明日新しいの買ってくる!前みたいに渡しに来るね!」
    「………そうか」
     食べかけのポッキーを持ったまま、ややあって牛島が答える。そのときの目がほんの少し、ほっとしたように細められた気がして、天童もまた安堵した。
    「…ただ、今週号はまだ読めていない」
    「そうなの?じゃ、1冊だけ持って帰るヨ」
    「わかった。……だが、勉強中に読みたくなって困るのではなかったのか?」
    「あー、ウン、そうなんだケド。……あ、」
     質問に対してひとつの回答例が浮かんだ。それを口に出すまで、数秒、間が開いた。
    「そしたら…ジャンプじゃなくて、…俺がコッチに来てもいい?」
     言った途端に、顔のあたりが一気に熱くなるのがわかった。牛島の袖を掴む指にも思わずちからが籠る。
     この部屋に来ることなど、なんてことないはずだった。でも、いまは少し違う。気がする。
     意外だったのか牛島も少し目を丸くしていた。だが、すぐ、やわらかな視線がこちらを向く。
    「…ああ。待っている」
     真顔で返されて、天童の顔はまたさらに熱くなった。

    (……俺たちって、なんなんだろ、若利くん)

     大切なことは変わらないけれど、――でも、大きく変わってしまった。
     いまは、それしかわからない。
     心臓の鼓動がうるさい中、天童はゆっくり、牛島の服から手を離す。そして牛島は平然と残りのポッキーを食べ終えた。
    「…俺、そろそろ部屋に戻るよ」
     天童は壁の掛け時計を見て言った。
     部屋に置いてきたスマホから後輩に連絡したかった。でも、すぐに済ませたい用事はそれくらいだ。
    「……若利くん、今日このあと練習ある?」
    「いや、無い。…ただ、日が沈む前に少し走りに行く」
    「そっかあ。…じゃあ、……それまで、若利くんの部屋で勉強していい?」
    「…ああ。教えられることは少ないが」
    「ううん、そーゆーのはダイジョウブ!ただ自習に使わせてもらうってだけだから!若利くんは、若利くんのすることあるもんね。筋トレとか」
    「そうだな」
    「ありがとー!じゃっ、俺ノート取ってくる!」
     横に置いたポッキー入りの袋を持ち、天童は勢いよく立ち上がった。そのままドアのほうへ向き直ると、ふいに後ろから呼び止められた。
    「天童」
     座ったまま見送るかと思っていた牛島がベッドから立ち上がり、――その手が、ビニール袋を持つ天童の指を包んだ。

    「……もう一度、キスをしていいだろうか」
     
     ブヘエッ。と、天童は派手に吹き出した。真剣な表情を前に、また顔の熱さが舞い戻ってきた。
     つながれた手も熱い。
     口唇に、意識が向く。
     天童は顔を逸らしたくなるのを耐え、でもやはり堪らず、頷いた拍子にぎゅっと目を瞑った。
     でも、それでおしまい。真っ赤であろう顔をしっかりと牛島へ向ける。
    「……ドウゾ」
    「ああ」
     気恥ずかしさは、すぐキスの感触に追いやられた。
     やさしい、けれど、さっきよりも強く押し当てられた口唇の感触を受け止め、キスよりも長い時間、抱き合った。 
     緊張と安らぎが交じるふわふわとした心地の中で、まだ知らない牛島が居るのだと、天童は思った。
     互いの腕を背に回したまま、顔の横、耳許で牛島が「天童」と呼んだ。その声の硬さに、天童はそろりと顔を横に向ける。

    「俺は……お前とマブダチになりたいと思う」

     その切実な響きに、天童は目を見開いた。

    「……もしかしたら、また、感情が先走って、お前を傷つけることがあるかもしれない。…だが、そうならないよう、極力気をつける。……いつも、心の底から、…大事に思っていきたい」

     ――お前は俺をマブダチだと言った。心から大事な友人だと。

     ――心の底から。

     ――ずっと、大事に思いたいと思っている。

     くり返し、くり返し。
     決意のような。
     願いのような。
     それらは、牛島の中で大事にされていることばのように思えた。
     
     そんなことばを、もらう、嬉しさ。
     
     ぎゅっと、その背を強く抱き締めて天童は言う。
     心の底から。

    「……もうなってるよ、若利くん。俺らは、マブダチ!」
     
     俺たちはなんなんだろう、だなんて、思うまでもなかった。
     いつか、牛島が振り返るかもしれない、遠い日の思い出の中ではなく、これからもその目の前に居られるのなら。その目に映っていけるのなら。 
     心の底から楽しんでいきたい。
     ふたりで居るときを。
     思い合う時間を。

     やがて、そろりと顔を離していった牛島が意外そうに呟いた。

    「……そうなのか」
    「ソウダヨ!若利くん!」
     
     楽しさと、嬉しさと、少しの気恥ずかしさの中で天童はもう一度、マブダチを強く抱き締める。
     わしゃわしゃっと袋が牛島の背中のほうで鳴る。
     あの頼もしい両腕が、より強く、この身を包んでいく。
     さっき、一瞬見えた牛島の小さな微笑みを目蓋の裏に思い浮かべ、天童はまた笑顔でその肩に顔を寄せた。







     何日かぶりに入った寮の食堂は、いつもの食堂、という感じがした。
     いつもの明るさ、いつもの混み具合、いつもの匂い。
     そして、食堂の端の列にはいつもの顔ぶれが集まっていた。
     最初に目が合った山形が、ぱっと目を見開いた。
    「天童!!」
     大平が顔を上げ、瀬見が振り返る。天童は久しぶりに会う仲間へ手を振った。
    「ヤッホー。久しぶりー」
    「ほんとにな!」
     山形たちの視線は天童と、そして隣りを歩く牛島へ交互に注がれる。なにかを察した仲間たちは可笑しそうに笑い、天童たちは同じテーブルへ、夕飯の乗ったトレーを置いた。
     今晩はきつねうどんにした。
    「相変わらず少ねぇな!」
    「食事はちゃんととってたか?」
    「食べてたヨ!みんなホント心配性ー」
     席に着くなり対面からの突っ込みを受け、天童は笑いながら肩を竦めた。瀬見は横からそれをニヤニヤと眺めている。山形が自分の皿の唐揚げを指さした。
    「よかったら1個やるぞ」
    「俺、練習行ってねーもん。そんなにいらないヨー」
    「お新香とうどんじゃタンパク質足りないだろ」
    「ベンキョー中は糖分があればイイヨー」
    「お前は課題中にチョコ食いすぎな」
     瀬見も加わって栄養の話をしているあいだ、天童は大平がやけにニコニコと笑っているのを横目で見た。
    「よかったなあ、若利」
    「……ああ、心配かけてすまなかった」
     笑い掛ける大平に牛島がゆっくりと頷くように言う。その訳ありの雰囲気に、話に加わらないながら天童は気恥ずかしさを覚えた。自分が思っているよりも、自分のことは個人で完結しないものなのかもしれないと、妙なくすぐったさに天童は思わず首の後ろを掻いた。
     静かな笑みを浮かべる大平の横で、山形がニッと笑った。
    「そうそう、俺と獅音から、お前に差し入れあんだわ。今度持ってくな!」
    「えー?マジで!?隼人くんも獅音もやっさしー!ありがとー!」
     俺は先に貰ったぜ、と瀬見が笑う。そしてお椀を持ったまま、左の肘で軽くこちらを小突いてきた。
    「なんだよ、すっかり元気になりやがって。ここしばらく干からびてたじゃねぇか」
    「……まぁねー」
     天童は仲間の軽口に口の端を上げた。
     気力も感じられずだらけるだけの訪問者によく付き合ってくれたものだと、改めて、ありがたく思う。
    「……なぁんかねー、ひとりで空回ってたかもって思ってさー、…もうちょい肩のちから抜くことにしたのよネー」
     いまある気持ちをそのまま口に出したら、こちらを向いていた瀬見がきょとんとした。
    「ん?なに、英太くん」
    「…どうした天童、やけに素直じゃねぇか」
     瀬見が眉を顰める。前を見れば山形と大平もぽかんと口を開けている。
    「天童、変なもんでも食ったか?」
    「…まぁ、不気味ではあるな」
    「ひっでえ!みんなして!俺はいつも自分に素直に生きてますぅー。ネー、若利くん?」
     この場で同意してくれるであろう人物は、姿勢正しくアジフライを咀嚼し、飲み込んだあと、答えてくれた。
    「…そうだな」
    「ホラ!」
    「そんなに息ピッタリなくせに、いったいどういうわけで喧嘩したんだよ?」

    「――ひとのプライベートに迂闊に首突っ込まないほうがいいんじゃないですか?」

     不意に冷ややかな声が割って入ってきて、瀬見と天童が後ろを振り返る。
     後ろの通路には湯気の立つトレーを持った後輩二人が並んでいた。
    「…白布、川西」
    「ちわーっす」
    「お疲れさまです」
     相変わらずテンションの低い後輩たちはたまたま通りがかったわけではないようで、顔色が変わらない川西はともかく白布は瀬見から天童へ、意味ありげな視線を向けた。それはひとつ下のエースの後輩に向けるものに似て実に冷ややかだった。ただ、そこまであからさまではないのは、白布なりの先輩に対する最低限の礼儀のつもりだろう。
     天童は、あちゃあ、と内心呟いた。
    (……これはもしかして、若利くんとこには賢二郎が行ってたパターンかなー…?)
     思い返せば、川西はひとりで率先して動くタイプではない。それが面倒ごとであれば首を突っ込まないやつだ。そんな男が先輩に物申しにやって来たということは、共にチームを引っ張っていく相方のほうも動いていて当然だ。
     ともあれ、後輩に迷惑を掛けたことには変わりない。天童は冷たい視線に満面の笑みを返した。
    「賢二郎ー!久しぶりー」
    「お久しぶりです」
    「アレ?背伸びた?」
    「伸びてません」
     切り捨てるように言い、それから白布は斜め前の席の牛島を見て、小さく頭を下げた。
     牛島はまた、小さく頷いた。
    「――…お前たちにも迷惑を掛けた。すまなかった」
     場に、低く重みのある声が響く。これには白布だけではなく、さすがの川西も動揺したようだ。
    「!…いえ、」
    「…もう、大丈夫です」
     後輩たちがしおらしくなったところで天童は二人に向け敬礼した。
    「ゴメンネ!俺たち反省したから。もう喧嘩しません!」
    「…絶対とは言い切れないが、善処する」
     牛島の真剣なまなざしを受け、後輩たちは直立不動になった。そんな場の空気を和ませたのは大平の声だった。
    「……おいおい、真剣なのはいいが、逆に白布たちが恐縮してるぞ」
    「そうか。すまん」
     牛島の視線が大平へ逸れ、ほーっと後輩たちの両肩が下がる。ただ、白布だけは天童を見て「もうこれきりにしてください」と小さく言った。
    (……若利くん、なんか余計なこと言ってないヨネ…?)
     いや、既に手遅れだろうか。だがそれも過ぎてしまったことだ。
     天童は平静を取り戻した横の後輩へピースサインを向けた。
    「たーいちー!俺、明日から練習に行くからネッ」
    「えっ」
    「マジかよ!」
     川西の驚きの声が山形のものと重なった。マジだよん、と天童はつづけた。
    「やっぱりネー、いきなりパタっと止めると調子イマイチっていうか、支障が出てネー。最後にゲスの恩返し見せちゃうよん」
     なんかありがたみがねぇなあ、と瀬見が横で茶々を入れる。
    「どんどんこき使ってイイヨー。ねっ、太一?」
     謝ったことだし、後輩が見せた貴重なデレをとことんいじってやろう。
     そんな天童の意図がばっちり伝わったのだろう、川西は僅かに眉を顰め、控えめに嫌がった。ただ、こき使っていいというのは本音だ。
     そんな後輩に、大平が笑顔を向ける。
    「はは。よかったなあ、川西」
    「………ハイ」
     さすがの大平に言われては、川西も素直に肯くほかない。
     そんな後輩の様子を見て天童は少し目を伏せた。
     『ゲス・モンスター』と、いつの間にそう呼ばれるようになったかは知らない。
     だが、牛島という”本物”が居る白鳥沢のチームに在って、モンスターと呼ばれたことは選手として誉れだ。
     ならば、ほんとうの最後までその爪跡を残してやろう。
     後輩たちだろうとお構いなしに、心をバキバキに折ってやる。
     それが、多少は、置き土産になるだろうから。

    (鍛治くんたちにも、お世話になったからね)

    「あ」

     山形がぱっと笑顔になって、天童たちの後ろへ手を振る。
     この場に居る皆がその方向へ振り返ると、食堂の入口のほうを見て手を振る。そこには、きれいに揃ったおかっぱ頭の後輩が立っていた。天童たちに気づいた五色は反射的に頭を下げ、カウンターへは向かわずやや早歩きでこちらにやって来た。
    「つっとむー!」
    「あ、…チワス!」
     五色は背筋を伸ばし、座る3年生と立っている2年生、双方にそれぞれ頭を下げた。
     川西からは連絡が行ったのだろうが、その表情にはまだ戸惑いの色が浮かんでいる。
     無理もないよネ、と思い、天童は笑顔でいちばん末の後輩に手を振った。
    「工、久しぶりー!背伸びた?」
    「うぇっ!?伸びてません!…ていうか、天童さん、あの、」
     五色の視線が天童と、その向こうの牛島へと彷徨う。
     応えるように、真摯な瞳が後輩へと向けられた。
    「この前はすまなかった」
     そのまなざしに被せて天童は座ったまま身を乗り出し、再びピースサインをつくった。
    「工、ごめんね!明日の練習は俺も行くからネ!」
    「え!」
     ほっと緩んだ五色の表情が今度は驚きのものへと変わる。
    「天童さんも来られるんですか!?」
    「そだよーん。容赦なくどシャットしてやるから覚悟しときなよー?」
     脅しを籠めてみたが、――それでも、後輩は晴れやかな笑顔を見せた。
    「…ハイッ!負けません!」
     先輩たちの前で、五色が頼もしく言い切る。
     瀬見が天童を見て苦笑した。
    「……お前が戻って来たら来たで騒がしいなぁ」
     そんなボヤキのようなことばも、後輩を笑顔にするものでしかなかったらしい。
     五色がその場を見渡して、笑った。

    「みなさんが集まってるの見ると、…なんか安心します」

    「……お前、気抜き過ぎ」
     場の温度を下げすぎない調子で白布が言う。
     それでも先輩のことばは響くらしい。五色が驚いたように肩を竦める。
     懐かしいようで、でも、もう新しい光景。
     楽しめるうちは、楽しまなければ勿体ない。
     天童は後輩たちのピリピリとした空気に割り込むべく、笑顔を見せた。
    「まあまあ。圧が強いヨ、賢二郎。あ、みんなドコ座る?ちょうど後ろのテーブル空いてるヨー」
     さっきまで天童の後ろの席に座っていた寮生は食事を終えて立ち去っていた。
     そこを案内するように両手を向けると、川西と白布が顔を見合わせ、五色はぎょっとした顔で肩を竦めた。
    「あ、俺らはあっちの席行くんで」
    「俺は、向こうで友だちが席取ってくれてますんで!」
     失礼します、と三人の声が綺麗に重なり、そそくさと後輩たちは去っていった。五色は早歩きでカウンターへと向かっていく。
     そんなもんだよなあ。
     牛島以外の仲間たちは苦笑し、天童たちは再び、残りの夕飯を口に運びはじめた。
     
     うどんは伸びていたが、やけに美味しかった。




     ※ ※ ※




     家を出て見上げた空は、青く澄んでいた。
     高校に向かうあいだ、近所の塀越しに早咲きの白い梅の花が咲いているのを見た。
     細く伸びる枝を揺らしていた風は、まだ冬の冷たさを含んでいる。
     学園を囲むように植えられている桜の木はまだ蕾をつけておらず、――花が満開になるころには、俺たちは、それぞれが選んだ新しい環境に居るのだろう。 
     白い制服の胸元に赤い花を付けた仲間たちは、少し離れた場所で、受け取った卒業証書を手に持ちながら校舎に笑い声を響かせている。
     その中には、髪を短く切った天童の姿もあった。
    「さみー!頭スースーする!」
    「ははは、そりゃそうだろ」
     朝の教室でもそうだったように、瀬見と山形が天童の短い髪の感触を確かめるように触っている。やがて「ストーップ」と天童が二人の手を払った。
    「にしても、さすがの監督も天童の頭には目ぇ丸くしてたな」
    「そりゃ驚くだろ。つうか俺もまだ慣れねぇ、こんなの笑っちま…」
     言い終える前に山形は吹き出し、つられて瀬見も声に出して笑った。
     そんな二人を見ていた天童が眉を下げ、腕を組んだ。
    「これでも大変だったんだよー。願書出したあとにやっぱ受験止めますってんだからさ。親にも頭下げたし、お店にも弟子入りが叶うまで通い詰めてよーやく!覚悟の丸刈りなのヨ!」
    「方向転換が急なんだよ!進学からパティシエ修業って」
    「パティシエじゃねえの。ショコラティエ!」
    「どう違うんだ?」
    「ショコラティエはチョコレート菓子専門」
    「へえー。お前にぴったりじゃん」
    「作り終わる前につまみ食いしてそう」
    「失礼ダヨ、君たち!」
     話に花を咲かせていた三人は互いに顔を見合わせ、また笑い出した。
     やがて、横に立っていた大平がこちらを向いた。
    「若利はあまり驚いてないな」
    「……そうだな。少し前に、天童から話を聞いた」
     あれは退寮後、数日経った日のことだ。珍しく天童から電話があった。
     進学を止めてショコラティエになる。
     いずれはフランスへ修業に行く。
     聴いているだけで、相手の楽しさや強い決意が伝わってくるような、張りのある声だった。
     そのときの、幾らかの動揺が、電話越しに伝わってしまったかどうかはわからない。ただ、そのあと間を置かず「応援する」と言えたことに、自分でも少しほっとしていた。
    「……それにしても、まさかアイツまで海外へ行くことになるとはなあ」
     仲間たちを見つめる大平もまた、笑顔を浮かべている。
     いまのことばは、電話をもらった日に思っていたものと同じだった。
     いつか俺も海外へ行く。ただ。
     勝手な考えだが、それまではもう少し長くふたりで一緒に居られるだろうと、期待していた。
     すると、大平が俺の肩に手を乗せ、俺の背後を指さした。

    「――牛島さんっ、みなさんっ」
     
     後ろからの声に振り返ると、卒業生のひとだかりの向こうから白布や川西がやって来ていた。
     その手には色とりどりの花束を抱えている。他の後輩たちもふたりにつづいてこちらへ向かってきた。 
     話し込んでいた皆もまた声に気づき、後輩たちのほうへと向き直った。

     卒業おめでとうございます。

     これからの白鳥沢を担う者たちから、卒業生へ餞のことばが贈られる。
     正面へやって来た五色の手から花束を受け取ると、その目からはたちまち大粒の涙が零れ落ちていった。

     
     




     卒業生と在校生のひとだかりの中からいつの間にか消えていた天童は、バレーボール部が使う体育館の裏にひとり立って居た。
     校舎から離れ、いつもはボールの弾む音が響くこの場所も、いまは静まり返っている。

    「…ここに居たのか」

     決して大きくはない声だったが、天童はこちらに気づいた。
     振り返ったその顔は、淡い陽のひかりを受け綻んでいった。
    「若利くん。どうしたの?」
    「…お前を探していた」
    「そうなの?ゴメン!でもこっち来てよかった?さっきまだ写真頼まれてたよネ?」
     弾むように届く声を噛み締めるように聞き、質問に答える。
    「…知らない相手からの写真は断っている」
    「そっか。人気者は大変だねえ」
     花束を片手で抱え、天童が目を細めて言った。
    「工、若利くんに花渡してからずーっと泣いてたネ。泣き過ぎて干からびるんじゃねーのって心配しちゃったよ」
    「泣きつづけたところで、そこまでの量は出ないはずだ」
    「モノの喩えダヨー」
     天童が首を傾げ、そうしてこちらに背を向けて歩き出した。いまは閉まっている体育館の裏口の前まで行くと、コンクリート製の階段を数段飛ばして上っていった。
     そしてまたこちらへと振り返る。
    「……ここでさー、みんなで休憩してたヨネー」
    「そうだな」
    「合宿のときに食べたアイスも美味かったなー。……よっ!」
     話しながら、天童が階段から地面へと軽やかにジャンプした。難なく着地し、その大きな瞳に、近づいてきた俺を映す。
    「若利くん、及川の話聞いた?」
    「ああ。……卒業後、アルゼンチンへ行くと」
    「そうそう、アルゼンチン。ビックリだねー」
     その話は練習先の大学で耳にした。情報通だという先輩が及川の海外行きを教えてくれた。
     だいぶ前から噂はあったらしいが、一緒だった大平たちも初耳だったらしく、随分と驚いていた。
    「アイツもアイツで、また遠いねぇ」
     そう言って天童は笑みを浮かべ、俺からその上、――雲ひとつない空へと視線を送る。
     遠く、澄み渡る青空。
     胸の奥が、ほんの僅かだが、痛んだ。

    「……お前は、いつ行くんだ?」

     やがてその瞳が再び俺を映す。
     今度は穏やかな目をして天童は微笑んだ。
    「…まーだ、少し先。いまのお店で基礎をみっちり叩き込まれてからね。あと語学も!コトバ覚えてなきゃなんもはじまんねえし!」
    「……そうか」
     天童から電話があった日に、ショコラティエについて少し調べた。
     いずれ自分の店を構え、第一線で活躍するためには、知識と技能と兼ね備えている証明として資格が必要であるということ。そのためには数年、現地の専門学校で学ぶ必要があること。もし、現地で働く場合は、有する資格によって仕事の幅が大きくかわってくること。
     きっと、天童は長く向こうに居ることになるだろうと思った。
     天童の好むものに対する探究心と貪欲さは知っているつもりだ。口には出さないが、その内には見た目の変化以上に強い覚悟を宿している。
     また明日からひたむきに修練を積み、きっと、そう遠くないうちにフランスへ発つだろう。

    「――寂しくなる」

     気がつけば、そう、口に出していた。
     天童の目が見開かれる。ただ、程なくしてやわらかく微笑み、俺の前までやって来た。
    「若利くん。俺も寂しいヨ」
     いまここにある気持ちを、そのまま伝えている。
     そして、俺のことばもまたそうであったと理解している、そんな声音だった。
     ただ、そこで天童が少し眉を下げた。
    「ごめんね。…若利くんと、あんまり一緒に居られなくて」
     それは、いつか天童に告げた俺の本心のことだ。
     ただ、胸の痛みは、いまのことばに撫でられ消えていった。
     心配せずとも、もう。
    「…それは、もう大丈夫だ」
     相手を失うかもしれないという、漠然とした不安。その不安から、自分の思いと同じものを相手に求めるようなことは、もう無い。
     胸の痛みや冷たさには、あたたかな感情が寄り添ってくれた。
     それは、たとえ一緒に居られなくても、いつも変わらずにここにある。そう感じている。
     そして寂しいと思うのは、それほどまでに大切におもう相手が居ることの証だ。
    「…目指すものがあるのなら、寧ろ、そうでなくてはならないだろう」
    「あはは。そうだねえ。ヒヨッコどころかまだタマゴだもんネ!まずはひたすら、殻破るとこから!」
     花束と卒業証書を持ったまま、天童はブロックをするかのように両手を上へ伸ばした。
    「……俺も、いずれ行く」
    「ウン!楽しみにしてるよ!若利くん!」
     晴れやかな声が胸に沁みていった。
     重なり合い、つながっている思いがここにあると、天童の笑顔が俺に教えてくれる。 
     不意に、建物と俺たちのあいだを穏やかな風が過ぎていった。
     そこには微かに、春が滲んでいた。

     いまなら、及川の言っていたことが、少しは理解出来る気がする。

     より強いバレーボールをするために、俺はここへ来た。
     強さはより豊かな環境で得られ、個々に齎されるチャンスの数も変わってくる。
     だから白鳥沢を選んだ。それが俺にとっての最良だった。
     ただ、俺自身を強くし豊かにするものは、バレーボールだけではないのだと知った。
     それは、必ずしも環境や練習に限定されず、――意図せず、目の前にあらわれる。
     あるいは、すでにあったことに、あるとき気づく。
     かけがえのない存在。
     決して自分ひとりでは見つけられないもの。
     手放したくないと強く願う、かたちにならないもの。
     それはときに自分を導き、ときに癒し、心を力強く支えてくれる。
     他の誰かにはわからない。わからなくてもいい。
     自分だけの指針。
     きっと、及川はずっと前からそれを思い知っていて、大切にしていたのだろう。

     最良は、それぞれの中にある。

     また風が吹き、抱えている色鮮やかな花々を静かに揺らした。
     やわらかな陽射しに照らされた体育館を見上げると、天童もまた同じ方向を見つめた。
     もしかしたら、ふたりでここへ来ることはもう二度と無いのかもしれない。
     それでも。
     いつか、まだ見ぬ場所で。
     俺たちが、今日の日を思い出すことはあるだろうか。

    「――天童」

     天童が振り返った。
     花束を右に持ち替え、目の前へ手を差し出す。

    「これからもよろしく」 
     
     いつか。
     そんな日があって欲しいと思う。
     そのときは、出来れば、少しでもいい。天童の傍に居たい。
     ふたりで、過ぎた日々に思いを馳せていたい。

     見据えた相手は楽しそうに笑って、俺の手を取った。

    「こちらこそ。これからもよろしくネ、若利くん!」

     手のぬくもり。
     やわらかな、力強さ。
     それらを噛み締め、いとおしく思う笑顔をこの目に映す。

     どこに居ても。
     目指すものは違っていても。
     心の底から大事におもっている。
     お前がおもっていてくれる。


     これまでも、これからも。

     俺たちはマブダチ。




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