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    haruka

    他所に載せていたテキスト置き場
    お読みいただきありがとうございます
    hq&沢のみなさん大好きです
    30代の彼らが楽しみすぎます

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    haruka

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    引退後の牛天と沢のみなさんの話・中編

    #牛天
    niuTian

    きみとマブダチ/中編 大きな手のひらが見えた。
     その手はこの身を抱えるように包んでいき、強く抱きしめられた。

     ――若利。

     ――元気でな。

     ――からだを大事にするんだぞ。

     ――どこにいても、父さんはいつもお前のことをおもっているよ。

     ぬくもりの中で、頭の上から声が降ってきた。
     雪のようにやわらかくて。
     すぐに消えていく。

     (――うん)

     (ぼくもおもう)

     (お父さんも、げんきで)

     ことばはここにあるのに、声にならなかった。
     だから代わりに頷いて、最後まで、お父さんの姿が見えなくなるまで、見送った。
     お母さんと、手をつないで。

     でも、いつのまにか、手にはなにもなかった。
     お父さんがいなくなって。
     お母さんもいなくて。

     ひとりだった。
     
     あたりはまっくらだった。 
     夜なのかと思った。
     でもよく見たら、少しちがう。

     日かげに立っていた。
     家の中だ。2階の廊下。
     学校から帰ってくるころ、ここは少し日にかげる。
     ランドセルを下ろそうと思った。
     だから部屋に行こうと思って、つきあたりの部屋――お父さんたちの部屋のドアが少し開いているのを見かけて。
     閉めようと思って。

     それから。
     急いで離れた。

     自分の部屋に入ってランドセルを床に置いた。
     机の上に置かなければいけないのに、そのまま、代わりにボールを持って部屋を出た。
     廊下を走った。
     走ったらあぶないのに、走った。
     くつ下で走ったからすべりそうになった。でも、また走る。
     周りは見ない。前だけを見て、くつをはいて庭に行った。

     外は、空が青かった。
     
     胸のあたりがどんどんとうるさかった。
     何度も深呼吸をした。それでもまだうるさかった。
     おさまりそうにないから、そのままボールを空に上げた。
     
     オーバーハンドパスの練習。
     お父さんに教えてもらったとおりに、ずっと、練習をした。
     ただいまと聞こえてくるまでしていようと思った。
     
     ずっと。

     名前をよばれるまで。 



      ※ ※ ※



     わかとしくん。

     声が聞こえたような気がして、目が覚めた。
     目の前には見慣れた天井があった。それから視線を横に動かしたが誰も立っておらず、牛島はゆっくりとベッドから起き上がった。
     呼ばれたのは気のせいだった。
     あるいは、夢の中での出来事だったか。
     疲労を感じているわけではないのに、気づけば口からため息が漏れた。
     久しぶりに見た。父親が家を出た日の夢だ。
     掛け布団の上、そこにある自分の手に視線が行く。
     いまと比べて背が低く小さかったころは、あの日の夢を見た朝は決まって布団の端を握り締めていて、手は汗ばんでいた。
     いまはもう、そうはならない。
     だが、何故か開いた手のひらは汗で冷たくなっていた。
     なんとなく手を何度か開いては握り、それから牛島はベッドを降りた。
     すっきりとしない目覚めだが、時計を見ればいつもの起床時間だった。よかったと思いながら、ロードワークの支度し、部屋を出た。
     外はまだ薄暗い。月末に向けて日に日に寒くなり、朝は暗い時間が増える。
     雪が積もらないだけまだいい。走り慣れた道のアスファルトの感触を靴の底で感じながら、牛島はいつものコースを駆けていく。
     寮から離れ、いくらか走るとランニングのしやすい道に出る。夏場は他に走っている者とすれ違うが、秋から冬は気温の低いこの時間帯に走っている者はほとんど居ない。
     通行人も見当たらない道を走る。
     それはいつものことだ。なのに、――やけに、静かだと思う。
     一昨日の朝、天童と走ったからだろうか。考えてみたが、答えらしいものは頭に浮かばなかった。天童と走っていたときも会話は少なかった。ひとりで走っているときとの差が大きいかといえば、そうでもないように思える。
     それなのに、何故かふとした瞬間、静けさが迫ってくるような感覚がある。
     聞きなれた自分の足音を聞いていても、なにかが欠けているような気がする。
     牛島は誰も居ない隣りに視線を投げかけた。

     久しぶりに会った天童は、いつもより元気が無かった。

     本人が言っていたように寒いこともあったのだろう。生活リズムも引退してから変わり、あの時間は眠っているとも話していた。
     コンビニに寄り、その帰り道では、天童の口数はさらに減っていた。
     ずっと牛島の後ろを走っていて、途中でペースを落とそうとしたが、このままでいいと天童は言い、結局、寮までコンビニの袋の音を背に牛島は走った。
     朝食はコンビニで買ったおにぎりで済ませると言い、天童とは寮の部屋の前で別れた。
     牛島は登校の前にも天童のもとへ寄ったが、すでに部屋を出たあとだった。
     その日の夜、大学の練習から寮に戻ると、部屋のドアノブのところにビニール袋が掛かっていた。
     中には天童が買っていた今週号の雑誌とメモが入っていた。

    『今日もおつかれー 今週号もよろぴくぴくー』

     小さなメモ用紙にはそう書かれていた。
     名前は書いてなかったが、天童が置いて行ったものだと判った。
     寮ではたまにこうした物のやり取りが行われている。部屋に本人が居ない場合、渡すものがあれば同室の者に頼むか、部屋のドアに貸し借りしていたものを掛けておく。
     本人を探したほうが早い場合もあるが、試合前など多くの寮生が忙しい時期はそのタイミングが合わないこともある。寮内には冬の大会を控えた寮生も多く、また受験勉強で校舎や図書館に遅くまで居る寮生も増えている。
     だから、天童もまた、タイミングが合わなかったのだろう。
     袋を手に取ったとき牛島はそう思った。
     でも、同時に、天童が来た時間に部屋に居たかったと思った。
     もう過ぎたことで、思っても仕方が無いのだが、――それでも、思う。

     何度も。いまでさえ。

     視界の端が明るくなり、牛島の意識は早朝の街路に戻ってきた。
     目の前に広がる街並みの輪郭が細く、まばゆくかがやいて。
     朝日が昇るのだとわかった。
     景色の色合いが変わっていく。

     ――あんとき朝日がすんげえ綺麗だなーって思ったんダヨね。
     ――こんな眩しいのはじめて見たって。

     懐かしい。
     そう言った天童の声が記憶の中から浮かび上がり、ほんの少し、牛島は目を細めた。
     胸のあたりがくるしい。
     決して無茶なペースで走っているわけではないのに、あの日から、それは顕著に起こる。日々、管理している身体の中に自分の意思が及ばないなにかがある。
     そして、何故か胸が痛むたびに。

    (――天童、)

     あの日の天童の姿が、脳裏に浮かぶ。
     隣りを走っていた姿が。
     自室に戻っていったときの背中が。
     立ち寄った天童の部屋のドアまで、浮かんで。
     ふ、と息が漏れた。
     白い息が朝日に消える。
     胸のあたりに留まっているものが出て行ったような気がしたが、それも一瞬だった。
     空気が冷たいと、ふと思った。
     外に出て随分経つというのに、冷たくて、少し痛い。

     そしてまた、言いようのない静けさが、そこに混じる。

     マブダチならば少しくらい会っても構わないのではないかと、大平は言った。
     その意見に牛島も納得した。心配はしていないが、――会いたいという気持ちが、あった。それなら、コンビニに行くときに同行する程度なら天童の時間を妨げないのではないかと考えた。そうして、当日の天童の反応を見る限り大丈夫だったと感じた。
     だが、いまの状況は予想出来なかった。
     会ってからは、それまで以上に天童のことが気になっている。
     笑顔が少なかった。口数も少なかった。コンビニではいつも雑誌とセットで買っているチョコレート菓子を買わず、代わりにおにぎりを選んでいて、いつもの天童らしさが無かった。
     以前とは違う。些細なことかもしれないが、気になる。
     そんな天童を見たことが無かったから。
     会って様子を知りたいと思うようになったのは、心配になったということなのかもしれない。
     ただ、たとえ次会ったとして、今度はまた別のことが気になるような気がしている。
     また会いたくなるのではないかと、牛島は思う。
     根拠は無い。勘のようなものだ。
     けれど、予感がそのとおりだったとして――それではいくらマブダチという間柄でも度が過ぎるのではないか。
     天童はより多忙になった。
     今週に入ってからは瀬見も天童に会っていないと言う。瀬見の部屋を訪れることも無く自室に籠っているのではないかと、そんな話を耳にした。
     忙しいから、雑誌をドアノブに掛けていったのだろう。
     袋を目にしたときのことを思い出して、何故か、また静けさを感じた。
     ひっそりとした廊下で聞いた、ビニール袋の音。
     そのときの、よくわからない感覚。
     胸の痛み。
     牛島は、走るペースを上げた。
     途切れた集中を、戻そうと思った。それに、負荷を掛けて動けば身体もより温まる。
     同じペースでくり返される足音。道を蹴る感触。
     やがて、すっかり明るくなった景色の中にコンビニの看板を見つけた。夜の名残のように、まだ明かりが灯っている。あの朝ふたりで立ち寄った店ではないが、天童がよく行くコンビニのチェーン店だ。
     その看板に気を取られていたら、不意に、その明かりがぷつりと切れた。
     それがなにかの合図のようだった。
     上着のポケットに意識が向いた。ロードワーク中も財布は持っている。
     牛島は薄暗くなった看板のほうへ足を向けた。コンビニへと近づいていく。距離が縮まるにつれ、ペースが早まる。
     コンビニの駐車場に車は無く、牛島はひと気の無い店内へと入った。
     店員が挨拶をした。中は暖かく、冷えていた肌の表面がその温度差にちりちりと微かに疼いた。
     牛島はレジ前の菓子が並ぶコーナーからその奥へ進んだ。キャンディなどの袋菓子の横にチョコレート菓子のコーナーがある。同じコンビニのチェーン店だからだいたい商品の場所も同じだ。天童がよく足を運ぶのを見て牛島も覚えた。
     ただ、何故か一昨日の天童は、雑誌コーナーからすぐにおにぎりを買いに移動していた。思い出しながら、牛島はいろいろな種類の菓子のパッケージを眺めた。
     袋、箱、その中に『東北限定』の文字を見つける。天童の好きなポッキーだった。『宮城・ずんだチョコ味』と書いてある箱は、パッケージ画像に映るポッキー同様にずんだ餅の色をして目立つ。
     少しのあいだ、牛島は通常商品とそれを見比べる。
     限定と書いてあるとつい買いたくなると、以前、天童は言っていた。そして通常のものと限定版の前で唸りながら悩む姿を、牛島は何度か見た。
     自分のものであれば、味に拘りが無く、甘いものを好んで食べるわけでもないから、悩まずに通常の味を購入する。だが、贈るものであれば――相手の気持ちを思い浮かべると、選択に迷う。
     いつも食べたいと思う好きな味。
     限定品で滅多に食べられないから気になる味。
     
    (……どちらなら、より笑顔になるだろうか)

     浮かんだ問いかけの答えは、案外、すぐに出た。
     天童ならばきっと、どちらでも喜ぶ。笑顔になる。それなら。
     牛島は、迷わず両方の箱を棚から取った。
     どちらでも喜ぶのなら、両方あればもっと喜ぶのではないか。
     浮かない気分もいくらか紛れはしないだろうか。
     手にしたそれらをしばらくの間見つめ、牛島は気づく。

     気のせいではなく、胸にある痛みが和らいでいた。







    「若利?」

     近くではっきりと聞こえた自分の名前に、牛島は一度瞬き、声のほうを向いた。
    「……山形」
     牛島が座るソファの横に、風呂上がりらしい山形が立っていた。首に掛けたタオルで髪を押さえながら、牛島のちょうど横の空いている場所へ座った。山形はいつもよりも控えめな笑みを浮かべ、持っていたペットボトルをソファの前のテーブルに置いた。
    「ぼーっとしてんなぁ。どうした?」
     山形に問われ、牛島はまたひとつ瞬いた。呆けていたつもりは無かった。
    「…ぼうっとしていたか?」
    「してたぞ、3回呼んだ」
    「……そうだったか」
     すまん、と山形に謝った。同時に、気づかなかったことに驚く。だが、山形に呼ばれるまで上の空だったかというと、そうでもない。むしろ考えごとの最中だった。
     傍から見れば変わりはしないか。牛島がそう考えたところで、山形が少し悩ましげに笑った。
    「若利、最近よく止まってんなぁ」
     最近、よく、その部分を牛島は頭の中で反芻した。
     それほど頻繁に、呆けているように見えているということか。
     すると、山形が目を丸くした。
    「ん?自覚ナシか?」
     牛島が頷くと、横から笑い声が起こった。
    「マジかー。…いや、練習のときは集中してっけどな。休憩んときとか、あと教室でもたまに止まってるぜ」
    「…そうか。自分では気がつかなかった」
     いまも、少し考えごとをしていた程度の認識だった。けれど、自分で感じていた以上に考えに没頭していたようだ。
     まぁ、大学での練習で移動も増えたしな、と山形が言った。
     そしておもむろに顔を左右に動かした。
    「……若利ひとりか?」
    「ああ、そうだが」
    「なんだ、お前がここに居るから、とうとう天童が出てきたのかと思った」
     てんどう。その響きが、それまでなだらかだった胸の奥を揺らした。
    「…そうではない。……部屋に戻る前に、ここで少し休もうと思った」
    「そうかー。残念」
     山形の笑顔が、また悩ましそうなものになる。天童を気にかけているのが見て取れた。
     牛島はあまり、というより敢えて自分から寮の談話室に来ることは無い。誰かに誘われ、あるいは用事でこの場を使うときに来るくらいで、そして牛島をよく誘っていたのが天童だった。 それをよく知っているから、山形はここに天童が居るのではと考えたのだろう。
    「アイツも根詰めてんのかなぁ。同室のヤツもさ、天童がずっと居て調子狂ってるかもな?いままでだいたいお前んとことか、余所の部屋に入り浸ってたし」
    「………そうだな」
    「おし、いっちょ景気づけに今度差し入れでもするかな」
     何気なく言ったであろう山形のことばが、どこか鋭く、牛島の胸の奥に響いていった。
     山形と同じことを考え、牛島もまた今朝、天童に差し入れのポッキーを買った。
     登校後、休み時間に天童の教室に行ったが姿は見えず、寮に戻ってから天童の部屋に行ってみたが不在だった。風呂に入り、もう一度行ってみたが中からの返事は無く、また時間を空けて行こうと、部屋に菓子を置いたその足でここへ来たのだった。談話室は寮生の部屋よりもずっと暖かく、溶けやすいチョコレートを持ってくるのは躊躇われた。
     自室で時間が過ぎるのを待ってもよかった。
     だが、もしかしたら天童がここに来るかもしれないと考えたら、足が自然と向いた。
     天童はテレビが好きなほうだった。時折、気になる番組を一緒に観ようと牛島に声を掛けてきた。
     テレビの内容がCMに変わった。
     雪のイメージ映像とともに冬季限定のチョコレートが映る。たしか、天童も昨年好んで食べていたものだ。
     このCMを見ると冬が来たと思う。天童がそう言っていたような気がする。
     テレビを見ているとき、CMがはじまると天童はよく牛島に話し掛けてきた。
     直前までのテレビの内容についての感想や意見を訊ねてくることがあり、そういった経験は寮に入るまでほとんど無かったから、答えに迷うことも度々あった。なにがどう楽しいか天童自ら説明することが幾度かあったが、理由は知れても、理解は滅多に出来なかった。
     いわゆる、打てば響くというような状況ではなかっただろう。それでも天童は、好きなもの、嫌いなもの、なにをどう感じるかを牛島に話し、それに対し返答が短くとも嬉しそうにしていた。
     談話室に居るときに限らず、雑誌を読んでいるとき、食堂で食事を摂っているとき、たまに学外に足を運んだときもそうで、会話の内容よりも会話そのものを楽しんでいるように見えた。
     なにかが伝わったという感覚が、好きだったのかもしれない。
     隣りで、天童は楽しそうに笑っていた。 
     笑顔とひとくちに言ってもこんなに違うものかと思うほど、表情豊かに。

     そして、そんな天童を見ているのが、――多分、楽しかった。

    (………ほんとうに、いまさら、気づく)

     胸の裡で呟いた途端に、そこがひやりと冷たくなった気がした。
     静かだと、思った。
     談話室には牛島以外にも寮生は居て、各々が好きに話をしている。
     きっと、いまこの寮内でどの部屋よりもここが騒がしい。
     それなのに静けさが迫ってくる。
     今朝のように。
     牛島は我に返った。
     目にしていたはずのテレビには、CMではなく番組のつづきが映っていた。
     名前も知らない誰かがそこに映る。

     ――活躍してる若利くんをテレビで見ながら、俺は牛島のマブダチだったって自慢するから。
     
    「――チワす!」
     
     聞きなれた、けれど違う声がもうひとつ聞こえてきて、牛島はゆっくりと振り返った。
     こちらへ歩いてきたのは五色だった。横に座る山形が軽く手を上げた。
    「おー、五色、今日もお疲れさん!」
    「…おふたりも、今日の練習ではありがとうございましたっ」
    「終わりのほう白布にどやされてたな!」
    「う…、それは……ハイ…」
    「ははっ、まぁ、アイツも気合入ってるからな。――お前も座るか?」
     そう言って、山形がソファの空いているスペースを指さす。五色は手を振って、大丈夫ですと答える。
    「ちょっと飲みもの買いに来ただけなんでっ。なんかあったかいのが飲みたくなって」
    「部屋さみぃもんな。俺はここ来るとついコンポタ買っちまう」
    「美味しいすよね!……俺は、いまコレにハマってて」
     五色が財布と一緒に持っていた小さな缶のパッケージを牛島たちのほうへ見せる。そこには茶色の缶に赤色と白色で『ホワイトチョコのクリーミーココア』と書いてあった。
    「ホワイトチョコが入ってるんすよ、このココア。でもそんなに甘くなくて、味がまろやかっていうか、…なんかつい飲みたくなっちゃって」
    「へー、こんなのあったのか!」
    「新商品みたいっす。天童さんもコレ好きそうだなって思うんすけど」
    「確かに。つーかもう買って飲んでんじゃね?」
    「ありそうですね。――…ていうか、…アレ?天童さんは…?」
     五色の視線が牛島のほうに向き、そして少しふしぎそうに首を傾げる。
     瞬間、また胸のあたりに冷たさを感じた。
     五色もまた山形と同じ推測をしたのだろう。
     からっとした笑い声が起こった。
    「そう思うよなぁ。若利はたまたまひとりで来ただけ。俺もさっき天童探してた」
    「そうなんすか。早とちりましたっ」
    「俺も早とちった、俺だけに」
    「え…っ?」
     五色が首を傾げたまま動かなくなった。
     いまのは、山形が名前と早とちりということばを掛けたのだと牛島は理解した。
     こういう場面で、天童が居るとより話を弾ませたり、あるいは別の話がはじまることがある。――だが、いまはここに居ない。
     会話が途切れたようなので、牛島は訊ねたいことを口にした。
    「…五色、貸した本は参考になっただろうか?」
     すると後輩の傾いた首は元に戻り、はい、と元気な返事が上がった。 
    「すごい参考になってます!風呂上がりのストレッチメニューをやりはじめたら、次の日からだ軽くてビックリしました!」
    「そうか。…それならよかった」
    「俺、自己流入ってたとこがあったんで、…本のおかげで正しいやりかたがわかりました」
    「へー!よかったな!つうか若利、工のあと俺にも貸してくれ」
    「ああ、わかった」
    「それじゃ、読み終わったら山形さんに渡しますんでっ」
    「おう!」
     山形が笑い、五色の表情もまた笑顔になった。
     場の空気が穏やかになる。
     寮に入り、互いに気心の知れた仲間と生活や練習を共にするうちに、こういう”時間”や”場所”があるのだと知った。それらがときに自分の感情を整えていくことを牛島は自覚していた。それを好ましいことだと自分でも思っている。

     ただ、どうしてだろうか、――いまは。

     日常の光景。
     仲間がここに居て笑い合っている。
     その穏やかな空気が、ここに居ない存在を浮かび上がらせる。
     
    「………俺は、そろそろ戻る」

     なにか別のことばの代わりに、牛島はそう言っていた。
     部屋へ戻って、それから、もう一度。
     立ち上がった牛島に、山形がひらりと手を上げ、五色は頭を下げた。
    「おう。じゃあな、若利。また明日」
    「お疲れさまですっ」
    「…ああ。また明日」
    「お前も、ソレぬるくなっちまうんじゃねぇか?」
    「うあっ、そっすね!それじゃ俺も失礼しますっ。おやすみなさい!」
     牛島がその場を離れる前に五色が勢いよく頭を下げ、談話室を出て行った。
     去っていった後輩を見送り、それから山形と顔を見合わせ牛島もまた部屋を出た。
     談話室は3年の部屋の区画に隣接していて、移動にはあまり時間が掛からない。天童の部屋は談話室にほど近い。だから、テレビを見にしょっちゅう立ち寄っていたようだ。
     牛島は自室に戻って、机の上に置いたままのコンビニの袋を手に取り、再び天童の部屋へ向かった。だが、袋は数分前とほぼ同じ場所に戻ることになる。
     部屋に天童は居なかった。ノックしても誰も出てこず、天童曰く、他の部屋に入り浸っているという同室の者も居ないようだった。
     しばしドアの前で立ち止まり、――牛島はそのまま袋を持って部屋へ戻った。
     就寝の準備をはじめていたら、ほどなくして今日の当番が点呼をしにやって来た。
     やがて消灯時間になり、部屋の外の騒めきも聞こえなくなる。
     静けさの中で一日が終わる。
     ベッドに入って、牛島は目の前にある夜の暗闇を眺めた。
     目を閉じれば、一日の適度な疲労感を癒すように、程なくして眠りに落ちる。
     だが、今日は何故かそうはならなかった。
     どこか落ち着かない。
     外ではなく自身の中で、なにかが騒めいている。
     なにかに急かされているようだと牛島は思った。
     あまり慣れない感覚だった。どんなに緊迫した試合の只中であっても頭の中は冷めていて、気が急いていくことは滅多に無い。
     目蓋の奥の暗さに慣れ、あとはそこへ意識が沈んでいく。
     普段は、そうであるのに。

     目の前が、――ただ、暗い。

    (……あの場所は、)

     今朝久しぶりに見た夢。
     だが、あれは夢ではなく、実際にあったことだ。

     幼いころの記憶。

     両親から離婚の話を聞いてしばらく経った日の出来事。
     学校から帰ってきて、両親の部屋のドアが開いているのに気づいて、――そこで見たのは、父親の物がすべて無くなっていた部屋だった。
     棚の上にあった写真立て、ボールを模した置物、学校で作って渡した工作。
     壁に掛かっていた上着、仕事で使う物と本が置いてあったはずの棚も空になっていた。

     父と離れる。 
     その日がほんとうに来る。
     それをあのときようやく実感した。
     それを見たくなくて、あのとき、急いで部屋から離れた。
     話し合いののち離婚を決め、それから実際に家を出るまで準備などがあっただろう。
     日本での仕事も辞め、渡米するためにはさまざまな手続きも必要だった。
     そういったことを、あのころは知らなかった。
     事実として受け止めてきれていなかった。
     自分の知らないところで、なにかが大きく変わってしまっている。
     ただ、それを知りたくなかった。見たくなかった。
     知らないところで変わっていた家の中に居たくなかった。
     だから、あの日から、家に帰るとすぐ庭に出て、ずっと練習をしていた。
     父親がまだ帰ってくる、そのあいだ。それまで。
     ただいまと言って。

     名前を。


     ――わかとしくん。


     暗闇に。
     夢うつつのあわいに。
     記憶の揺蕩う中から、呼ばれる。

     ――じゃあ、若利くんて呼んでいい?

     思い出す。
     ずっと、思い出している。
     その声を聞くことが無くて。

     ――活躍してる若利くんをテレビで見ながら、
     ――俺は牛島のマブダチだったって自慢するから。

    (……どうして、過去のことのように言う)

     記憶の中の声に問いかけても、答えは無い。
     なにも返ってこない静けさがまた、暗闇の中で、胸に迫る。
     そこに、天童の声が浮かび上がる。

     ――懐かしーなー。
     
     あのとき、後ろから聞こえてきたことばに、胸のあたりが締め付けられた気がした。
     何故かはわからない。だが、急に、牛島の中で揺らいだ。いや、揺らぐというよりも、なにかが、――あったものが、消えていくような。
     天童と走っていたあの時間がどこかへ流れ去るような気がして、牛島は、喉の奥から絞り出すように、伝えた。
     そうしなければいけないと思った。

     これからも。
     同じ場所に居るなら、――一緒なら、同じ景色を観ることは出来る。 

     何度でも、観られるはずだ。

     暗闇で、牛島は目を開けた。
     いつの間にか、喉がからからに渇いていた。
     寝付くには強すぎる喉の渇きに、牛島は給湯室へ行くことにした。
     ゆっくりと半身を起こし、ベッドを降りる。まだ目は慣れていないがどのあたりになにがあるかは感覚として把握している。物が落ちていない部屋の中をゆっくりと歩き、牛島は部屋を出た。
     壁の下方には小さなダウンライトがいくつか点いていて、足許をぼんやりと照らしている。廊下の先には非常口の緑色のライトが小さく見えた。
     給湯室は談話室の反対側にある。
     談話室にも飲みものは売っているが、消灯後に喉が渇いた場合は、寮生は給湯室のウォーターサーバーを使っている。スポーツドリンクを買うとき以外は給湯室で事足りるから、牛島はもっぱらそちらを利用していた。ロードワーク後に軽く水分補給したいときに重宝している。
     だから給湯室の物の位置もだいたい把握している。廊下から届くほのかな明かりを頼りに水を飲み、紙コップを備え付けのゴミ箱へ捨て、そこで牛島は立ち止った。

     廊下の先、談話室の近くに人影があった。
     背が高く細身で、少し猫背気味の。

     気づけば、牛島は歩き出していた。
     暗がりでよく見えない。それは向こうに居る相手もそうなのだろう、人影は牛島に気づいていない様子だった。それもそのはずで、人影は部屋に戻ろうといまちょうどドアを開けていた。
     小さな灯りが点いているとはいえ廊下は暗く、それがどの部屋のドアがなのかは判らない。やがて細長い長方形の影の中に人影は入り込み、そのままゆっくりと静かに、壁に収まっていった。
     自室の前を通り過ぎたところで、牛島は足を止めた。

    (………なにを、やっている)

     なにを焦るのだろう。たとえあの人影が天童だったとして、――消灯後の時間にこんな暗がりで会ってどうするというのだろう。
     話せたとしても眠る前の挨拶を交わすだけで。
     なんのために。
     問いかけて、でも、答えは浮かばない。
     この問いがなんのためのものかもわからず、牛島は自室の前へと戻った。 
     そこでドアノブに手を掛けて、気づく。
     手のひらが汗ばんでいる。

     扉ひとつ隔てた場所。

     自分の預かり知らぬところで、なにかが大きく変わっていく。
     なすすべもなく、頑張ってもどうしようもなく。
     止められないことがある。
     
     ドアをノックしても、――開かない。 

    (――違う、)

     違うと、なお、牛島は胸の裡で呟いた。
     ドアノブの感触が冷たい。
     だが、手は掛けられる。
     扉に近づくことは、もう怖くはない。
     そしていまなら、扉の前から去らずに他の選択も出来る。
     あの、雑誌が入った袋のように。
     天童がそうしたように。
     ドアノブに掛けるか、あるいはドア向こうの同室の者に託すことも出来る。
     でも、そうはしなかった。
     机の上に置いた差し入れの袋は。
     
     直接、渡したいと思った。

     浮かない顔をしていた天童が、少しでも元気になればいいと思っていた。
     けれど、おそらく、それだけでは無くなっている。
     決して上辺だけの気持ちではない。けれど、純粋にそれだけでもない。
     天童のいまの状況を押し測るしかないが、ただ事実として、天童は雑誌をドアノブに掛けていった。その方法がいいだろうと判断したということだ。
     いまの天童にとってのちょうどいい感覚がそれなのだと認識を改めて、――そうして気づいた。

     会いたいと思っている。

     居ないから、余計に感じる。
     天童の存在。


    『わかとしくん』


     ――なんとなくソッチのほうが好きそう。

     あれは、天童の勘だったのだろうか。
     いつしか、当たっていると思うようになった。
     天童に名前を呼ばれることを、心地よく思う。
     そんな自分に気づいて。

    (………下心、というものだろうか)

     弾むような声で、名前を呼んで欲しい。
     そばに居て欲しい。
     笑顔の天童を、見たいと。
     だが、それは勝手な我儘だ。

     マブダチならば、――相手をおもうならば。

     どこに居ても。
     目指すものは違っていても。
     いつも、思っている。
     心の底から思っている。
     天童がこちらに向けるものと同じように天童を思いたい。
     差し入れならドアノブに掛ければいい。

     そう思うのに。

     牛島は、ドアノブに掛けたままの手を見た。
     震えてはいない。
     汗も、もう滲んでいない。ただ。
     天童に会えた日。ドアを閉めようとしたあの細い指の手。
     あのときの微かな体温が薄らかに思い出されて。
     
     触れて欲しい、以前のように。

     そんな欲望が湧く。

    (違う、……マブダチならば)

     おもうだけで、いい。

     胸の奥で呟いて、冷たいドアノブから手を浮かす。
     そして甦ってくるあの手のぬくもりを掻き消すように、もう一度強く掴み直し、牛島は自室の扉を閉めた。



     
      ※ ※ ※
     


     風呂上がりの髪を適当に拭いて、天童はベッドにごろりと横になった。
     背中や頭が押し返されるようなその硬めな感触を感じながら、なんとはなしに天井から視線を動かさないでいた。
     束の間、多くの学生が暮らす場所とは思えないほど、静かな時が流れた。
     やがて耳に届いてくる、ドアの向こう、廊下からの微かな雑音。夕食から就寝までの時間は寮生の移動が多く、とくに騒ぐことがなくても各々の生活音が重なり合い、寮内は賑わう。ただ、3年の区画だけは別で、この時期は大学の推薦組以外の寮生はだいたい部屋に居るからか、時折、自宅を思わせるような静けさを感じることがあった。
     年が明けて一般入試の期間に入るころ退寮する。練習で疲れた身体を受け止めてくれたこのベッドともお別れになる。
     やべえ、と頭の片隅で天童は思った。
     練習も無くなり、身体に疲労が溜まっているわけでもないのに、だらりとベッドに身を預けていると、意識が沈んでいきそうな感じがした。
     以前なら気晴らしにジャンプを読んだりしたが、そうもしていられない。
     重たく感じる頭を横に向けると、動かす気のない腕が横たわっていた。
     数週間前までは、ボールに触れていた腕だ。強いスパイクを受ければアザも出来た。だが、いまはなんの跡もつかず、机に突っ伏すときに枕になるだけだ。
     指先が、軽く痙攣するように動いた。
     テーピングをしない指にも慣れたように、失恋にもすぐに慣れた。

     どんな変化も緩やかに日常へと埋没していく。

     また睡魔の波が来て、やべえ、と思う。
     思いながら、天童は顔を正面に戻し目を閉じた。
     消灯前までに終わらせておきたい課題がある。ただ、まったくやる気が起きないのも確かで、このまま睡魔に身を委ねてしまいたい誘惑に負けそうだった。
     いま眠っても別に困らない。同室の相手はいつものごとく余所の部屋に、遊びにではなく勉強しに行っていて、やがて戻ってくる。部屋の明かりも消してくれ、なんなら点呼も代わりに答えてくれるいいヤツだ。
     だから意識を手放してもいいのだが、――明日の授業や補習のことがどこかで気になっているのか、ぼんやりとした頭の中から浮かんできていた。 
    (……受験生みてえ)
     まさしくそうだけど、と自分にツッコミを入れた。
     受験生という立場は目標がはっきりしていてやりやすい。などと、天童は他人事のように思った。
     それを言うなら、受験生になる前も似たようなもので、白鳥沢学園のレギュラーという立場もまた、強くあり、点が取れればいいというシンプルさがあった。そのわかりやすさは、入部したての天童にありがたいものだった。
     とはいえ、手放しで喜べないほど練習はきつかったが、どんな状況であろうと思考を冷静に切り替えられるようになっているのは、監督の鬼のような指導の賜物だろう。
     コートの中ではいちいち落ち込んでなどいられない。気圧されることもあってはならない。元からどちらとも縁が無いほうだが、この強豪の白鳥沢というチームで自由を勝ち取ったという自負は、気持ちに精神的な余裕を生んだ。
     そして引くほどの練習量は、天童自身の中に以前からあった冷めた目線をよりロジカルに、より鋭敏なものに変えていった。

     だから、感情の切り替えや整理も容易だ。
     現状にも、慣れる。
     
     ここ数日は、いよいよ受験生という感じの生活を送っていた。
     授業が終わったあとにも論文の対策を相談しに行ったり、空いている時間は自習室や図書室で課題をひとつずつ終わらせていた。
     向き合うモノは変わらないが場所は変えられる。環境が変わると気持ちも変わる。教室と練習場を往復していたときにはほとんど足を運ばなかった場所へ行くのは意外と楽しく、ささやかだが気分転換にもなった。どちらも寮内のようにチョコレートを好きに食べられたら最高なのだが。
    「あ!!」
     チョコレート、と思ったところで天童は目を見開いた。
     夜の勉強の癒しにと買ったココアのことを忘れていたのだ。脳は甘いものを欲していたのか、思い出した途端に半身を起こす気力が湧いた。
     勢いベッドから降りて、天童はバッグから入れっぱなしだった茶色の缶を出した。
     ホワイトチョコのクリーミーココア。
     談話室の新商品で、ここいちばんのお気に入りだ。ココア自体はややほろ苦いのだが、溶けているチョコレートの甘い風味が広がって美味しい。
     下校して寮に戻ったら談話室に直行し、このココアを買うのがここ数日の新たなルーティンになっていた。今日はたまたま、クラスメイトから貰ったチョコレートを先に食べて、飲むのを忘れてしまっていたが。
     缶のプルタブを開けると、甘い香りがそっと鼻先をくすぐっていった。
     ホットで販売されているものだが冷めても美味しい。そこがいい、と天童は心の中で絶賛している。問題集を解きながらちびちびと飲むにはもってこいなのだ。
     仕事終わりのビールというのは、こういうモノだろうか。天童は椅子に座り直し、ぐいとココアを飲んだ。
    「うまーい!生き返るー」
     つい声に出てしまったが、部屋には他に誰もいないから気にしない。きっと、居ても気にしない。
     心のままに話す、声に出すということは、身体と心にいいと天童は知っている。
     思いを飲み込みつづけ胸に押し込めば、感情の容れ物である自分が歪む。
     不快なものが圧縮され、溜まりつづけ、――誰かの手を借りなければ、誰かにはっきりと肯定されなければ、自力では立ち直れなくなる。
     そのギリギリのところにかつての天童は居た。
     そしてここへ来てようやく、心のままに話すことが出来るようになった。
     だからだろうか。
     時折、自身の内面の複雑さに立ち止まる牛島に、つい、目が行ってしまうのは。
     牛島は面白くて、奥が深い。
     目に見えるイメージとその言動があまりに強烈だが、全国3本指の大エース、学園のスターなど大雑把な表現で括るにはもったいないくらいに、その思考は独特だった。
     そんな牛島の内面を見ようとするときは、美味しいチョコレートの隠し味を探るような楽しみがあった。
     甘い、美味しいといってもその幅は広く、多様で、ときに繊細でもある。
     じっくりと向き合うと、意外な味を見つける。
     それが嬉しくて、面白くて、気がつけばただ浸ってしまっていた。
     思考も、感覚も自由に委ねて。
     ただそのひとときに。
     そこで天童は、――目を伏せた。
     失恋した相手のことを思い浮かべて、なんになる。
     ココアを口に流し込み、あまりないその味と甘さだけに浸る。
     いま、この味に集中する。それだけで、雪崩れそうななにかが止まった。
     その内面の動きを、天童は頭のどこかでぼんやりと眺めていた。

     すぐに慣れることが出来たのは、多分、この失恋がどこか遠いものだからだ。

     もしも自分が女だったら、牛島に告白する子のように玉砕覚悟で同じ選択をしたかもしれない。でも、はじめからなんの見込みもなく、努力でどうにかなる話でもなく、どうしようもないことであれば、――諦めると言えるほどの欲望も湧かない。
     終えるしかない。
     だから落ち込みようがない。
     それに、この感情がなんであれ、これから起こることも変わりはしないのだ。
     牛島は世界に舞台を移し、バレーボールに邁進していく。
     こちらは自身の選んだ道を進む。
     そして本人にも言ったように、牛島が活躍する様子を画面越しに応援するだけ。
     
     失恋など、あって無いようなものだ。

     変化は無い。
     なにも。
     そして日常はつづく。
     何度も出た結論をまた噛み締めて、またココアを飲む。
     そのとき、不意に部屋のドアが音を立てた。
     そのゆったりとしたノックのテンポに天童は目を見開いた。
     誰がそこに居るのか、判って。
     
    「―――天童、…居るか?」 

     声を聴いただけで、心臓は酷く跳ねた。
     息が止まった。
     だから、――だから、天童はドアを見つめたまま、開きかけた口を噤んだ。
     缶を持ったまま動かない手を、そのままで留めようとした。
     その意味するところを感覚のどこかで、卑怯だと把握しながら。
     
    (………なんで……?)

     素朴な疑問は、鼓動の響きの中へと消えていった。
     どうして、牛島がここに来るのだろう。
     混乱する頭で思いつくのは貸していた雑誌のことだが、なにか不都合なことがあったのだろうか。
     保管を頼んでいる立場ではあるが、天童は――選んだ。
     いまの感情と、雑誌に関して想像出来る事象を天秤に掛け、感情を優先させた。
     それは切り替えることは出来る。整えることも出来る。
     けれども、会うのは避けたかった。
     会わずに済むのなら。
     先延ばしに出来るのなら。

     いつか、――慣れても。
     いま痛いことには変わりない。 

     天童はただ、ドアを見つめる。
     ここにある沈黙に、じっと、息を潜める。
     鼓動がうるさくて。
     冷たい。

    (……ゴメン、)

     胸の奥の謝罪が届くわけもなく、冷たいそこがぎゅっと痛んだ。
     再びノックされる気配は無い。
     心音が時間を刻み、やがてドアの向こうで微かな足音がゆっくりと遠ざかっていった。
     牛島の背中が記憶の中から思い起こされる。
     天童は、はあ、と息を吐いた。
    (……若利くんに、居留守使っちゃった…)
     すでに湧いていた罪悪感が、痛みとともに胸に広がっていく。
     缶を持つ手にちからが籠っている。そこは微かに震え、――そして頭のほうは、まだ混乱していた。
     どうして牛島が来たのだろう。
     渡している雑誌のことに関してなら、急ぐような用事は起こらないはずだ。
     バレー部に関することならスマホに一斉に連絡が入る。同時に、引退した仲間たちからもなにかしら連絡が入るはずだ。
     だからといって無視していいわけではないが、――でも、喫緊の用ではない。
     それなら何故。考えて、天童は思いつく。近頃は瀬見の部屋にも顔を出さなくなったから、仲間が以前のように牛島を寄越したのではないか。
    (………そうだったんなら、ますますゴメンね。若利くん)
     天童は、ゆっくりと視線を手許の缶へ落とした。
     飲み口の奥は暗い。中でココアが少し揺れているのが伝わってくる。
     気がつけば、天童は自嘲気味に、口の端を歪めていた。

     牛島の行動の意味もわからないで、よく『マブダチ』などと言えたものだ。

     それ以前に、自分の感情すら気づけていなかった。
     悟りまくりのミラクル・ボーイも消えてしまった。

     ごめんね。手の中で揺れるものへ、天童は呟いた。

     牛島に『昔の仲間枠』などと言ったが、もう仲間だと胸を張って言えやしない。 
     この胸に押し留めているものは、真っ直ぐで眩しい牛島には似つかわしくない。
     どうしようもなく。ただ終えるだけのもの。
     だから、息をひそめて。
     ごめんと胸の裡で告げながら。

     狡くても、それでも。
     
     まだ仲間でありたい自分が出来るせめてものことじゃないかと、天童は思った。







     あれほど眠気を覚えていたのに、その日はなかなか寝付けることが出来なかった。
     罪悪感が靄のように胸のあたりを覆っていた。眠ろうとする気持ちとは裏腹に色濃くなったそれは重さを伴い、どこか息苦しい。
     このままでは明日に響く。消灯後ではあったが、天童は気晴らしにココアを買いに行くことにした。
     消灯後に他の部屋や談話室へ行くことは規則で禁止されているが、今夜の天童のようにこっそりと部屋を出て行く者もいる。夏場は特に、暑さで喉を潤したい者同士が談話室で鉢合わせになることもある。同学年同士なら笑うネタにでもなるが、相手が部の先輩だった場合には気まずくていけない。
     過去の夜中の談話室での思い出が甦ってくるが、ふいにこみ上げてきたくしゃみの気配でそれも中断される。だが、廊下の寒さは鼻をくすぐっただけに留まり、大きな物音を立てずに済んだ。
     鼻先を撫でながら、天童はほっと息をついた。
     冬は反省文の危険を冒してまで談話室に行こうとする寮生はほとんど居ない。往復するだけで身体が冷え、温かいドリンクを買う意味が無くなるからで、天童のように談話室に近い部屋の3年が行くか行かないかというところだ。
     ただ、今夜はわざわざココアで暖を取るために行くわけではない。
     天童は小さいころから、どうにも落ち着かない夜は、あの小さな包みのチョコレートを眠る前にひとつ食べていた。おやつでもらったチョコレートがたまたま上着の中に入っていて、思い出して夜中につまみ食いをしたのがはじまりだった。
     喉に詰まらないようにと布団の上に座って食べたひとつぶは甘く、なぜか慰められているような心地を覚えた。疎外されていることへの安易な同情は嫌いだったが、ごわつく感覚をそっとなだめるようなチョコレートのやさしい味は、反発心の隙間を潜り、天童の中ですんなりと受け入れられた。
     今日はたまたま部屋にチョコレートのストックが無かった。だから、代わりにあのココアをと思った。それだけだったのだが、談話室に入って自動販売機の明かりが見えたとき、どうしようもなくほっとした。
     思っていた以上に動揺していたのだと気づいた。
     暖房の切れた談話室はしんと冷えていて、開けたココアはあたたかかった。
     寝ている同室のことを気にしてこの場で飲んでいたが、次第に冷たい場所での小さなあたたかさが心地いいと思えてきた。そうして幾度かココアを口にして、――途中から、天童の視線は窓の外に釘付けになっていた。

     墨のように深い空に小さな白い雪が舞っていた。

     初雪だった。
     この寮で見る、最後の初雪。
     見慣れている光景だが、それでも、毎年はじめて降る雪は子どものころから在る心を、少し躍らせる。
    (……若利くんが走りづらくなるね)
     牛島は寒さや冷たさなどものともしない性格だが、それでどうにか出来ないのが自然で、早朝の凍った道は特に滑りやすいし、防水の靴でも濡れて冷えるし日々の手入れが大変だ。
     雪が積もれば走れもしない。
    (……今年は、工たちも朝から雪かきだネー…)
     毎年、雪が積もったら1、2年生が寮とその周辺の雪かきをする。受験を控えた3年生は免除されていて、昨年のいまごろは、天童たちも朝の点呼のあとに各々がスノースコップを持ち雪かきをした。
     朝の残り少ない時間に朝食にありつこうと、皆黙々と道を綺麗にし、終わったら食堂へ駆け込んだ。凍えた両手に、ご飯茶碗や汁椀の温かさがじんじんと沁みたことを覚えている。

     あたたかだったのは、仲間たちだったのだろう。
     だから、多分、研いだものはここでは必要無かった。

     何気ない仕草、些細な違和感、そこから相手の思惑を見つけるのはお手のものだった。
    どんなときも、冷めた目で変化を察知し、全身で感じ取った。それは自分自身にだって有効だった。
     なにが嫌でなにが好きかを知らなければ、――自分自身をよく知らなければ、自分を守れない。どこまでなら捨てていいか、どこからは絶対に譲れないか、その境界線を決めるために天童は自分を観つづけていた。その中から大事なことを選び取り、ときにいくらか捨て、感じる痛みを減らしてきた。
     そうしなければ、ひとりでは居られなかった。
     でも、ここではそんなことは不要だった。
     感情を縛られることは無く、自由に、誰にでも思うままに接した。
     チームの仲間たちは皆やさしく、気がよく、また強くもあり、返ってくるものは心地よかった。遠慮の無いナマイキな後輩たちや、からかい甲斐のある素直なエースも、先輩である天童に臆することなく、飾らない感情を返した。
     厳しくおっかない監督は、最後まで「点を取るなら文句は無い」という指針を変えることは無く、皆の強さを讃えた。

     コートの中が楽園だったなら、――この寮は、幸福な場所だった。

     恵まれていた。ほんとうに。
     だから、これ以上を求めてどうする。
     
     真っ暗な窓枠の中で雪が絶えず降り落ちていく。
     そのひとつひとつの中に、思い出がひらりと浮かんで消える。
     部屋に居たときとは違うあたたかな甘さが、喉から胸の奥へと流れ込んでいく思いがした。
     
     そこにある重い罪悪感は薄まりはしない。
     ただ、在って然るべきで。
     
     それでいいと、思った。

     
     
     翌日、すっかり雪が取り除かれた道を行き、天童は学校の早朝の補習に参加した。
     牛島に合わせる顔がない。だから、学校でも出来るだけ接点を持たないようにと、天童は教室に留まらないようあくせく動き回った。
     これ以上罪悪感を抱きたくないだけの行動だと判ってはいたが、他にいい方法も浮かばなかった。それに、実際、試験対策で進路指導室へ足を運んだり、補習について確認することがあったりと、用事はあるといえばある。
     自意識過剰、と思わなくもなかった。
     昨日の牛島がどんな理由で来たのか実際のところはわからない。そんなあやふやなことに過剰に反応していると天童自身も感じている。
     牛島との接点は少ない。ただ、それでも昨日のように牛島が来ることがあった以上は、昨夜の最悪な状況をくり返したくなかった。
     それならどうすればいいかを考えて、――天童は夕食と風呂をさっさと済ませ、頃合いを見計らって瀬見の部屋へ行くことにした。
     一対一で気まずいから避けた。それならひとりで居るよりも、信頼していて且つ互いをよく知る第三者が居たほうが、牛島と会ったときに場を取り繕えるような気がした。
     それに、瀬見なら牛島が部屋に来た理由を知っているかもしれない。
     さまざまな期待を込めて、天童は数日ぶりに仲間の部屋を訪れた。
     そして気のいい仲間はあっけらかんと天童を迎えてくれた。
     底冷えするような夜にあの強烈な色のラグマットは暖かく、いい意味で存在感を放っていた。
     久しぶりじゃねぇか、と天童の肩を叩いた瀬見はテーブルの横にクッションを置き、その上からてきぱきと参考書を移動させスペースを空け、テーブルの真ん中にはポテトチップスの袋を置いた。
    「チョコじゃねえけどよ」
    「あっりがとー、英太くん!腹減ってたのよ」
     喜びながらノートを広げると、瀬見は眉を顰めて開いた袋に手を当てた。
    「お前、いまもちゃんと夕飯食ってんだろうな?」
    「食べてるヨー」
     瀬見だけでなく牛島たちがこぞって気に掛けているのがわかっているから、ここしばらくは天童にしてはバランスのいい食事を心がけていた。精一杯やってます、という自信が態度に見えたのだろうか、「ならいいけどよ」と言って瀬見の手がぱっと上がった。
     お互いポテトチップスを数枚食べつつ、各々の課題に取り掛かる。天童は今日コピーしてもらった過去の論文の課題に目を通した。それだけで睡魔が襲ってきそうだったが、瀬見の切り出した話題が天童の眠気を止めた。
    「…なぁ。お前、部の練習は来ねえのかよ」
     それは、天童が想定していたいくつかの話題の中では、まだ気乗りがするほうのものだった。
    「なにー?英太くん。俺みんなに求められてるー?」
    「求めてるっつったら来んのかよ」
    「うーん。行かない」
     ふざけた調子を上手くあしらわれて、天童はむっつりと口唇を窄めた。
    「前も言ったじゃん、太一に任しときゃいいのー」
     他の理由もあるが、これは天童の素直な本音だ。
    「そうは言うけどよ、川西、監督にこってり絞られてたぜ」
    「アイツがぁ?」
     珍しいこともあるものだ、と天童は思わず目を丸くした。自分と違って器用な後輩は、監督の檄が飛ぶようなプレーを滅多にしない。瀬見も同じチームで見てきてそれはわかっているからか、そのまなざしは気づかわしげだった。
    「もっと貪欲に行けって言われてたな。ほら、お前は相手チームがドン引きするぐれぇには、どシャットかまして凹ましてやるって執念が見えてたけどよ」
    「敵の心を折らずしてなんのどシャットかっつうの」
    「そうそう、それな。…まぁ、いままで若利が取ってたぶんの点を、工と他のヤツで取ってかなきゃなんねーし、…全員で点もぎ取る気迫っつーのか、そういうのがいままで以上に要るんだろうな」
     白鳥沢は、これまで牛島という存在を存分に活かすためのチームだった。牛島が抜けたこれからは、新たなチームのかたちを模索することになるだろう。ただ、バレー部に限らず部活ではよくあることで、だから監督の鷲匠は個の強さにこだわる方針を取っている。
     自分たちは強い。
     その自負を持つ各々が、大エースを引き立たせるためだけに居たわけではなかった。
     点を取らなければ、つなげなければ、あの場に居る意味はない。
     己の自由がある場面で点をもぎ取ってやるという意志は、ことばとして表に出さなかったが瀬見も強く持っていた。
     だからこそ余計に心配しているのかもしれないが。
    「…どこのチームも、点を取るためにあそこに居るんだからさ。気持ちなんてそのうちついてくるよ」
    「俺もあいつらの技術や気構えは心配してねえよ。……ただ、川西のプレーがお前が居たときより少し迷ってるように見えたからよ。…そういうとき、自分のことをよく知ってるヤツが『お前は大丈夫だ』って見てくれてたら、なんか安心すんじゃねーかと思ってさ」
     瀬見のことばをなぞるように想像して、天童は顔を大いに顰めた。
    「ひとによるんじゃなーい?ガラじゃねえもの。俺が居たって太一は目の上のタンコブくらいにしか思わないって。…あ、英太くんは賢二郎に『言われなくてもわかってます』って目で見られそうー」
    「なんでわかったんだよっ」
    「え、もしかして言われた?やっぱりねー!」
    「やっぱりじゃねえ。かぁいくねぇよ、まったくよォ」
    「ブヒャヒャヒャヒャ、ダーヨネー」
     お互い後輩の顔が脳裏に過ったのがわかって、天童は笑った。
     やがて瀬見の苦笑いが後輩思いの微笑に変わり、その余韻に浸ったような表情のまま、ぽつりと言った。
    「…そういや、若利も珍しく、なんつうか、ぼんやりしてたんだよなあ」
     ひやりと、急に冷たい感触が天童の胸の真ん中に落ちていった。
     話題が逸れることに対しては構えていたというのに、いざ名前を聞くだけで、自分の中でなにかが搔き乱される。おかげで、言いたいことは浮かんで来ず、天童は瀬見のことばを鸚鵡返しするしかなかった。
    「……ボンヤリしてた?」
    「…ああ。あいつらを指導してるときはそうでもねーけど、休憩んときとか、いつになく静かっつーか」
    「……そうなんだ」
    「山形の話だと、教室でもそんな感じなんだってよ。…まぁ、急に寒くなったから、ロードワークで余計に疲れてんのかもなって」
    「……まあ、雪も降ってきたしねえ」
    「今夜はもっと積もるだろうな」
     視線を部屋の窓へと移した瀬見の横顔を見ながら、だねぇ、と天童は相槌を打った。
     冷気を入れないようにカーテンはしっかり閉められている。そのままでは見えないが、その向こうでは昨夜のように深々と雪が降っているだろう。
     部屋に訪れた静けさを壊すことなく、天童はレポート用紙を開き、瀬見もまた中断していた問題を解きはじめた。
     結局、牛島のことを話したのはそのときだけで、――瀬見の様子を見ても、牛島がなぜこちらの部屋に来たのか、その理由を知っているふうでもなく、天童は大人しく目の前の課題に取り組むことにした。
     それから小一時間ほど、勉強もひと区切りしたところで天童は最後にポテトチップスを摘み、瀬見の部屋を後にした。
     


     自室に戻り、今日済ませたい課題も終えた。
     バッグの中にペンケースとレポート用紙をぽいぽいと詰め、天童はちらと時計を見た。
     点呼の時間まであと少しある。
     瀬見の部屋で塩気のあるものを食べたからか、甘いものが欲しくなった。そうして真っ先に頭に浮かんだのはあのココアだった。
     さっき廊下を通ったとき、3年の姿は少なかった。昨夜よりも気温が低いから皆部屋に籠り気味なのかもしれない。一方、下級生の姿がまったく無かったのは、翌朝の雪かきが確定しているからだろうと天童は予想した。こんな雪の日は、さっさと休んで明日に備えるに限る。
     あるいは、新体制での練習がはじまった部の後輩たちが、疲れ切っているか。
     なんにせよ、寮という狭い場所で顔見知りに会いそうにないチャンスを逃すまいと、天童は小銭をポケットに入れ部屋を出た。
     さっきも感じたが廊下が寒い。背筋を震わす寒さに、天童は肩を竦めた。
     足元から体温が奪われていきそうな気がする。こんな中、敢えて部屋から出てくる者は、見たところ天童くらいしか居なかった。
     静かな廊下をやや足早に歩いていく。
     少し離れた廊下の突き当たり、そこの窓から外の景色が見えた。
     昨日よりも大きな雪が、窓ガラスに吹き付けられていた。
     どうりで冷えるはずだ。

     ――お前は大丈夫だって見てくれてたら、なんか安心すんじゃねーかと思ってさ。

     急に、瀬見のことばを思い出した。
    「……若利くんがもう言ってくれたもんね」
     つい、口に出た。
     引継ぎの日に、牛島は下級生ひとりひとりに声を掛けていた。
     常に絶対的なエースとしてチームを引っ張ってきた牛島からのアドバイスは、後輩たちの心に深く刻まれただろう。
     牛島が後輩たちを丁寧に分析していたことには驚いたが、その内容も異論が無いほど的確で、天童としてはなにも言うことはないと思った。
     それに、監督やコーチも、常に後輩たち個人の強さを信じてくれている。
    (…もう十分デショ)
     白鳥沢というチームで、牛島という存在ありきで生き延びた身の上だ。
     自分の好きだと思うバレーボールに、道は無い。だから止める。
     後輩たちがつづけていくこれからのチームに、掛ける声などあるのだろうか。
     廊下の冷ややかな空気が肺に沁みていった。
     天童は頭を掻き、そうして談話室の前にやって来た。
     読みは当たった。中は寮生の姿は無くがらんとしている。
     並ぶソファとテーブルの合間をするすると縫うように進み、天童は部屋の奥の自動販売機に辿り着くと、さっさと硬貨を入れた。
     早くあたたかいものを飲みたかった。
     胸のあたりの冷たさを消したくて。
     ボタンを押すと、ガシャゴトン、と缶の落ちる音が室内に響いた。
     缶を取り出し顔を上げると、ココアのボタンに『売切』の表示が点灯していた。
    「ラーッキー!最後の1本!」
     気分が一気に上がり、取り出した缶を頭の上に高々と掲げた。
     だが、次は補充されないと飲めない。それに気づき、天童は缶を両手で持ち直し、胸の前で抱えながら、はぁっと深いため息をついた。
     そんなふうに自動販売機の前で一喜一憂していたから、気がつかなかった。

     そのひとが来ていたことに。

    「―――天童」

     背後に響いた低い声に、一瞬、息が止まった。
     静けさの中からやがて自分の心臓の音が聞こえだして、天童はゆっくり振り返る。

     そこには、牛島が立っていた。



      ※ ※ ※



     今朝は雪が積もった。
     昨夜のニュースで雪の予報を目にしていた牛島は、起床してまず外の景色と窓の桟についた雪のやわらかさを確認し、走るには問題無いと判断してロードワークへ出た。
     適度に厚着をしたがそれでも早朝は冷える。天童がそろそろコートが欲しくなると言っていたことを、牛島は再び思い出していた。
     ロードワークから帰ってくると、下級生たちの雪かきのおかげで寮の周辺の道と敷地内は綺麗に整備されていた。
     約1年前、皆で朝の雪かきをしていたときは、天童がしきりに寒いと言いながら、硬い動きで雪を除けていた。早く3年になって雪かきを休みたいとも。
     通例に従い3年の今年は雪かきが免除されている。
     いまごろ喜んでいるだろうか。浮かんだ心の呟きに、わからない、と牛島は思った。
     多分、そうではないかと考えた。天童は寒いのも暑いのも苦手だった。
     途端に、ひやりと、胸のあたりが冷たくなった。
     冷たさは痛みを伴った。
     
     天童を思い出す。
     
     その感覚に馴染みつつある。
     それが、嫌だと思った。
     慣れたくはない。
     だからといって、そんな理由で天童に会っていいとは思わない。
     そう思いながらも、――ロードワークから自室へ戻ってまっさきに牛島が目にしたものは、机の上に置いたままのビニール袋だった。
     半透明の袋の中には、カラフルな箱がうっすらと透けて見える。
     牛島は袋越しにその表面を撫でた。
     触れるのは、手に取って欲しいのは、自分ではないと思いながら。

     ――いっちょ景気づけに今度差し入れでもするかな。

     山形も言っていたように、差し入れがなんのためのものかといえば相手を元気づけるためだ。天童に笑顔になって欲しいからだ。だからここに用意した。
     食べたならきっと喜ぶ。そういうものなら、渡すのは早いほうが断然いい。
     タイミングが合わないのなら、天童のスマホに連絡を入れれば済むことでもある。
     でも、そうしない。
     その理由は自分でもわかっている。
     牛島は少しのあいだそれを見つめ、――暖房の利いている教室に長時間置くのはよくないだろうとそのまま寮に置いていき、学校へと向かった。
     通学の途中、見上げた曇天からはまた雪が舞いはじめた。目の前へと落ちてくるその白くやわらかいものを、牛島は眺めた。
     冷たく、小さな結晶の集合体。
     たとえ知識として覚えても、雪のすべてをわかったことにはならない。
     日によって違う雪の感触を、冷たさを、その厳しさを身に沁みこませ、ようやくわかることがある。見えてくるものがある。朝から寮生たちを疲労させる重みもまた、雪の一側面だ。
     頭や心で思い描くだけでは、心許ない。
     雪の微かな冷たさが、胸の奥のものと同調する。
     手のひらに落ちた途端に溶けていく雪のように、まるで、大事ななにかを掴む前に、失っていくような。

     ――おはよう、若利くん。
     ――今日も寒ぃね。

    (………寒い)

     そばに居るという実感が、途切れそうだと思った。



     その夜、大学の練習から寮へ帰ってくると中の様子は閑散としていた。
     時間帯的に食堂がそうなのはわかるが、廊下を通る寮生もほとんど見かけない。気温が低いから皆部屋に籠っているのだろうと、大平や山形が話していた。
     3人で夕飯と風呂を済ませたあと、牛島は差し入れを持って天童の部屋へ向かった。
     部屋に居る可能性が高いと思ったが今日も不在だった。
     仕方なく自室へ戻り、また同じ場所へビニールの袋を置いた。そのまま椅子に座る。
     キィ、と背凭れのあたりから細い音が響いた。
     椅子に座れば聞くその音を、――物悲しいと思った。
     音にそんな感想を持つのはじめてだ。
     だが、やがてその微かな音よりも、静寂のほうが気になりだす。
     静けさが背中から迫ってくるようだった。牛島を取り巻く部屋の空気がからだを圧迫してくるような、嫌な感覚があった。
     気のせいだとわかっている。だが、牛島はやり過ごすように、ゆっくりと椅子を半回転させた。視線は、後ろの本棚へと移った。
     父の本の場所が、暗く空いている。
     読み終えた五色からは週末に山形へ渡すという報告を受けた。
     やがて、視線は自然と下方の目立つ背表紙に向いていった。
     借りた雑誌はまだ読めていない。
     預かるからと後回しにしていたわけではない。読んでいるもののつづきは読もうと思っている。
     ただ、雑誌を手に取ろうとすると、何故か胸の奥が冷たくなっていく。
     そんなことが何度もつづくうち手を取るのを躊躇うようになった。
     だから、ただ背表紙を眺めるだけ。
     数日経てば次号が発売される。 
    (……天童は、来週も買いに行くのだろうか)
     そう考え出して、――しかし、すぐ、胸のあたりが重くなった。
     天童が雑誌を買いに行くとしても、今度は多分、タイミングが合わない。
     雪が降るようになったから、朝は買い物を控えるだろう。雪の下の道が凍れば歩くこと自体危険で、天童に限らず誰もがそれを避ける。牛島自身も日を見てロードワークは控えることがある。
     朝に行かないのだとすれば、部活の時間に縛られなくなった天童は気温が上がって比較的歩きやすくなっている放課後にでも行くだろう。
     以前のように誘うことは難しい。
     だが、――だからといって天童はなにも困らない。
     困るのは。
    (……何故、…おもうだけで満足出来ないのだろう)
     気がつけば、天井を見上げていた。
     目に映るもので意識していなかった時間を捉え、以前、談話室で山形が言っていたことを実感した。
     思考が堂々巡りに陥っていることは、なんとなくわかっている。
     いや、思考らしい思考をしていないというのが正しい。
     適切な方法がわかっているのに、その方法を取らないというだけ。
     取るべき選択をしていないだけ。

     相手をおもう。
     応援する。
     それだけでは嫌だと、駄々を捏ねているのだ。小さな子どものように。

     天井、縦長の本棚、足許へと視線が下りていった。
     下を向いていてもなにもない。牛島は椅子から立ち上がり、ベッドのほうへ行く。
     感情の整理がつかない限り、考えも整理されない。それなら眠ろうと思った。十分な睡眠をとり頭もすっきりとしたなら、気持ちも変わるかもしれない。
     今日は喉も渇いていない。身体のコンディションを確認して、そうして、牛島はゆっくりと、壁に掛かる時計を見上げた。
     そのまま今日が終わるはずだっただろうに。

     不意に、――昨夜の、談話室の方向の人影が脳裏に浮かんだ。

     もしも。
     あれが天童だったなら。
     そう、思ったら、居てもたってもいられなくなった。

     会いたいという気持ちが、その一瞬で、どうしようもなく溢れた。

     ほんの一瞬の思いつきだ。だが、可能性があるなら追いたくなる。 
     点呼までまだ時間はある。牛島が思うよりも、部屋を出るほうが早かった。
     廊下には寮生の姿はほとんどなく、談話室の方角はがらんとしている。
     また、気がつけば、足早に歩いていた。
     急ぐ必要は無い。無いけれど、もし会えたなら、限られた時間のなかで少しでも長く会えるかもしれない。そう思った。
     やがて牛島が談話室の近くまでやって来たとき、部屋の中から自動販売機の缶が落ちる音が聞こえてきた。
     開放されているドアからやわらかな明かりが廊下に漏れている。
     その部屋から、不意に。

    「ラーッキー!」

     心臓が、跳ね。
     牛島は目を見開いた。
     聞き間違えるはずのない声。
     その声に、足が、――全身が反応した。
     部屋の中へ入る。
     壁側の自動販売機の前、そこに。

     会いたかったマブダチが、立っていた。







    「………天童」

     自動販売機の前で缶を持っていた男の赤みがかった髪が揺れ、――天童が振り返った。
     数秒も刻みはしないその時間が、やけに長く感じられた。まるで試合中の、ネット際の攻防の刹那、視界がくっきりとひらけるときのように。
     だからだろうか、大きな瞳をより見開かせた天童が、牛島には固まったように見えた。
     そこに笑顔は無かった。――けれども、口の端だけはやがてゆるやかに上がった。
     天童らしからぬ表情だと牛島は思った。
    「……お疲れさま」
     数日ぶりに聞いた声だった。
    「……ビックリした。…どうしたの?珍しいね、ひとりでここに来るなんてさ」
     ことばをひとつひとつ選ぶかのような、僅かな間。普段の天童らしからぬ口ぶりだった。
     疲れているのだろうか。
     根を詰めてる、と山形が心配していたが、そのとおりだったのかもしれない。
     牛島の視線は一度その手許に移る。それは以前、五色が持っていたものと同じだった。天童が好きそうな味だという話だったが。
     やがて、牛島は自分がなにも話していないことに気づいた。
    「……天童は、気分転換に来たのか?」
     口に出してから、質問に質問で返していたと思った。
     天童は牛島が答えていないことを気にしなかったようで、口許に笑みを浮かべた。
    「…ウン、まぁ、そんなとこ」
    「…五色もそのココアを買っていた」
    「そうなの?…美味いのよコレ。最後の1本だった」
    「……そうか」
     温かい缶の縁を両手で支えながら、天童はやがて目を伏せた。
    「…じゃあ、俺、もう買ったから」
     そう言って、天童が自動販売機の前を空けるように移動した。こちらも飲みものを買いに来たと思っているのだろう。点呼間際の時間帯に談話室に来る理由といえば、それくらいしかない。
     だが、そうではない。

     天童に会えるだろうかと、ただそれだけで。

     牛島はいきさつを説明すべきかを考え、――そうして、まず点呼までのあいだに優先させたいことを思い出した。
     急いだら間に合うだろうか。
    「天童」
     名前を呼ぶと、相手は驚いたように顔を上げた。
    「…ん?……なに…?」
    「…点呼の前に、出来たらお前に渡したいものがあるのだが」
    「ヘッ?」
    「…天童がよく食べているお菓子だ」
    「え……っ?」
     天童は目を見開かせた。その肩が小さく揺れた。
     静けさが、牛島たちのあいだに満ちた。
     一瞬のような、長いような。
     空気が張りつめている、そんな感覚があった。
     やがて、静かに天童の視線が揺れ動いて、身に迫る空気が僅かに綻んだ。
     悩ましげな目をして、――天童が弱々しく笑った。
    「……ありがと。……ケド、……そのね、…気持ちだけで、十分ダヨ」
     どきりと、一瞬、鼓動が小さく跳ねた。
     必要無いと言われるとは思っていなかった。
     そしていま、――ショックを受けている自分が居ることに牛島は驚いていた。
     ただ差し入れは要らないと言われただけで、酷く動揺している。
     ことばを返せずにいるうちに、天童が話をつづけた。
    「……ホラ、最近は大学との往復で忙しいでしょ。英太くんから聞いたよん、少し疲れてるみたいだって」
     鼓動に揺れる胸の奥が、不意にぎゅうと締め付けられた。
    「……瀬見から」
    「ウン。……それに、ホラ、俺ジャンプ預かってもらってんじゃん。……それでもうじゅーぶん助かってるし……だから、これ以上の気遣い無用よ」
    「………それは」
     そうかもしれないが。ことばは、最後まで出てこなかった。
     言い分は理解出来た。天童の気遣いの中に天童なりの筋道があることを感じている。
     納得している思いがある。
     だが、胸の奥で、――どこかで。
     よくわからないものが、話の本筋から、互いの気持ちから、ずれていく。
     
     大事に、おもいたい。
     応援したい。
     元気になって欲しい。
     それらを押しのける、感情。

    (―――受け取って欲しい)

     鼓動が高鳴る。

    (―――まだ、会っていたい)

     疼くものは。
     いまにも、溢れ出そうなものは。

    「……ありがとね。…なんか、嬉しかったよ」

     天童が、首を傾げて笑った。
     その表情にあの溌剌とした明るさは無く、そしてまた視線は逸らされ。
     きっと、そのまま行ってしまうだろう。

     その直感が、――牛島を動かした。

     次の瞬間には、手は天童の腕を掴んでいた。
     びくんと、その肩が大きく震え、缶を持つ手が揺れた。 
     視線が重なる。手のひらからはっきりと感じる。
     ここに天童が居る。
     でも、どうしてだろうか。

     そばに居ると思えない。

     天童の瞳は、まだ牛島を映していた。
    「……え…っ?………な、なに?」
     なにかが背中から急かしてくる。
     それがなにかはわからない。でも、はっきりと、この手を離したくないと思った。
     また理由もなく引き止めて、そうして理由を探す。
     どうして、こんな。
     振り回すようなことを。
     天童、と牛島は呼んでいた。
    「………雑誌のことだが」
    「ん…?………うん、」
    「…また買いに行くのか?」
    「……え」
     天童が意外そうな顔をする。
     そして重なっていた視線は、やがて静かに、牛島の背後へと逸れた。
     それからより遠い場所でも見るように、ワカンナイ、と天童が言った。
    「んと、…ていうか、……しばらく、買うの止めよかなって思って」
     ずきり、と牛島の胸の奥が小さく揺れた。だが、動揺は表にはあらわれなかった。
     天童がなおも遠くを見たままで言う。
    「…ほら、買ってもゆっくり読めないしさ。…コンビニ行くのも寒ぃしね。……それに何冊も預かってもらうだけになっちゃうし、……これ以上、メーワクかけらんないよ」
    「迷惑ではない」
     マブダチなのだからそれくらい。
     そう言い掛けて、――けれど、言えなかった。
     静かに震える胸の鼓動が。
     背中からの冷たさが。
     牛島に突き付ける。
     
    (そうではない)

    (ほんとうは)

     おもうよりも、ただ。

     接点を。

     気づけば、天童の腕を掴む手にちからが籠っていた。
     その視線が、こちらに戻る。
     天童の口許は笑みを浮かべている。けれど。
     その瞳はずっと翳っていて。そのまま。
     あはは、と天童が笑った。
    「……ありがと。ホント。……でも、やっぱ、気ぃ引けちゃうし。…それに後からバックナンバーでも揃えられるしさ。…そのほうが勉強に集中出来そうかなーって」
     天童が理由を言う。
     尤もだと思う。受験生だから購読を控えようと検討することは。
     だが、――そうしないで欲しいと思っている。
     そんな勝手な感情が湧き上がって。
     疼いて。
     なにも知らない天童が、牛島の目を見た。
    「……預かってもらってるヤツは、寮出る前にはちゃんと取り行くから。……それまで、持っててもらっていい?」
    「……ああ、わかった」
     答える喉の奥、胸のあたりが、重い。
     視線がふと、天童の腕を掴む手に降りる。
     背中から、胸の奥を押しやるものが、――声を、絞り出させた。
    「……天童、…他に、俺に出来ることはあるだろうか」
     口にした途端に、胸が冷えた。
     不純な質問だ。わかっているのに、言わずにはいられない。
     顔が上げられない。掴んでいる腕も離せない。
     すると、天童の笑う声がした。
    「あはは…、そんなの無いって。未来のジャパンにお願い出来るコトなんてさ」
     牛島はようやく顔を上げた。
     いつもの天童らしいことばとテンポだ。
     そのまま、天童が呼吸を整えるように小さく息をついて、笑った。
     いつもの晴れやかな瞳で。 
    「強いて言うなら、ってか、言わなくてもダイジョーブだと思うけど!これからも頑張って、もっと強くなったとこ見せてよ。そんでさ情熱大陸もだけどサ、いつか成人式とか同窓会なんかで会えたら、昔のよしみでサインでもチョーダイ」
     ね、と念を押すように言って、天童が笑った。
     それは天童らしい笑顔だった。ようやく見られた笑顔で、見たかったはずのもので――そう、だから、嬉しいことのはずだった。
     なのに。
     急に、足場が頼りなく感じる。

     ――俺は牛島のマブダチだったって自慢するから。
     ――じゃ、若利くん、明後日の朝にね。

     過去のことばが記憶の中から浮かび上がって、牛島は気づく。 
     また、会わないことを前提に話している。
     何故そんな言いかたをするのか。
     いつか、などと。

    「………それまで、会わないつもりなのか?」

     歯痒いものを覚えながら言うと、天童は一瞬目を丸くし、そしてまた笑った。

    「あ、ゴメン。ソーダネ。試合見に行ったら、会えるね」

     その瞬間。
     血の気が引いて、――足場を失ったような感覚があった。
     牛島は、咄嗟にその腕を強く握っていた。

     天童の手が、震える。 

    「――ッ、…若利くん…?」

     天童の声が耳に届いて、牛島はいまさら気づく。
     いつからだろう、名前をほとんど呼ばれていなかった。
     記憶の中の声ではなく、呼ぶ声が、胸の奥を震わせて。
     息が止まる。

     あの日。
     ドアの前から急いで離れたときのような、心地がする。

    (どこに居ても、俺は)

    (いつもお前のことをおもう)

    (お前も思ってくれるのかもしれないが)

     近くに。
     そばに。
     そう、考えもしないのか。
     当然のことであるように言う瞳が、その視線が、笑顔が。 
     胸を抉る。
    「……試合でなくとも、会える」
     これからも、会おうと思えば会える。
     あの日、朝日に照らされる中で噛み締めた思いをなぞるように牛島は言った。
     そうしなければ、”いま”さえ、流れていきそうで。
     だが、どうしてなのか。
     その瞬間、天童の瞳からひかりが消え。
     口許が、少し震えた。
    「……そりゃあ、そーだけどさ。……でも、若利くんは、いずれスターになるもの。…難しいってば」
    「…難しい?」
     なにが難しいというのだろう。
     牛島は、翳る瞳を見つめる。
     なにかに追い立てられるように。
     そして、天童は牛島を目に映したまま言った。
    「…だってサ、忙しさなんか学生の比じゃないよ。…いつか海外のリーグに出たら、もーっとそうだよ。――…住む世界が、違うデショ」
    「…よくわからない。住んでいる世界は同じだろう、天童」
     疑問は疑問として口から出ていった。
     だが、訊ねたいからではない。
     なにかをつなごうとするように。
     離せないままの手のように。
     
     いまにも途切れそうな。

     ここに居ること。 
     それから。
     いま目の前にある大きな瞳が、くるしそうに、伏せられた。
    「……いまは、わかんないかもしれないけど、…これからもっと、楽しい場所に行くじゃん。…夢中になれるものがあんじゃん。……だから、……俺は、俺の名前、覚えててもらえたら、……それで十分なんだよ」
     その一瞬。
     息が出来ず。
     牛島を追い立てていたなにかの気配が消えた。
     身体からすべてのちからが抜け落ちたような気がした。
     やがて、天童の腕からずるりと手が落ちていった。
     だが、代わりに、なにかが胸の奥から身体中に流れ込んでくる。
     さっきまで疼いていたもの。
     言いようのない、いまにも溢れ出そうなものが。
     牛島の声から温度を奪った。
    「……覚えているというのは、……俺がお前を忘れる前提でいるということか?」
     あの胸の冷たさが喉を伝って声に乗る。
     だが、冷たいものを感じながらも、からだは熱かった。
     気がつけば、手は拳を握っていた。
     それがどうしようもなく、熱かった。
    「…お前は俺をマブダチだと言った。心から大事な友人だと、そう言った口で、何故そんなことを言う。何故これからのことを勝手に決めつける」
     困惑する瞳を前に牛島はつづけた。
     責めるように。――いや、これは、もう。
     どの口が言うのだと、頭の片隅で冷めた声が響く。
     ちゃんと、知っている。
     マブダチだと言いながら、おもう以外のことばかり求め、それ以外のことを望んで。
     だからここに居て、天童を留めて。
     だが、もう思考は覆い尽くされて。
     止まらなかった。

    「……何故、これまでのことが無くなるような口ぶりで、…俺がお前を忘れると、どうして思うんだ。……お前は、――いったい俺を、なんだと思っているんだ?」

     押し寄せたたものは、ことばになって溢れた。
     引退してから天童が姿を見せなくなった、あの日々が、時間が。
     浮かんでは沈み、抑えていたものがここに現れて。
     きっと、ずっと受け止めて欲しかった。
     天童に受け止めて欲しかった。
     発したことばをどう受け止められても構わない、そう思ってきた。でも。
     いまは、いまだけは、――嫌だった。
     ここにあるもの、そのまま、伝わって。
     
     そう、願って。

     けれど、牛島の目に映る天童は、ただ青ざめて。
     答えは無く。
     視線は逸らされて。

     それが、堪らなく。

    「答えられないなら、何故言ったんだ」

     マブダチだと。

     そんな。

     あたたかなことばを。


    「―――心にも無いことを言うな!」

     
     熱が。
     それが、からだの奥底から吐き出て響いた瞬間。
     かしゃん、と。
     背後で、なにかが落ちた。
     僅かな静寂ののち、牛島が音のほうを振り返る。
     談話室のドアの傍には五色が立っていた。
     後輩の顔もまた青ざめていて、目が合った瞬間、その両肩が大きく跳ねた。

    「……あっ、……すみません…っ!」

     五色が頭を下げ、そのまま素早く、足許からなにかを拾う。
     手にしたのは財布だろうか。牛島が把握する前に、後輩は素早くその場を去っていった。
     ドアの向こうから五色の走り去る音が聞こえ、やがて消えた。
     静けさがまたこの場に戻ってきて、牛島は、ゆっくりと視線を戻した。 
     天童もまた、立ち去る五色を見ていたのだろう、顔を上げていて、――けれど、もう一度重なった視線は、すぐに弾かれ、逸らされた。
     そのまま、天童が俯く。
     下している髪でその表情は見えない。

     だが、見なくてもわかる。 

    「………もう、いい」

     喉から絞り出したことばは、牛島の冷えた胸を刺した。
     なにに対してのことばなのか自分でもよくわからなかった。
     だが、この場が息苦しくて、ここに居たくなくて、牛島は天童に背を向けた。
     談話室に響く、自分の足音。
     そして後輩が去った戸口までのところへ来たとき、そこでぎゅっときつく口を結んだ。
     まだ期待していた。
     後ろから天童がなにか言ってくるのを。 

     マブダチだと。

     これからも、一緒だと。

     拳を握りしめ、牛島は無音のままの部屋から廊下へと出た。
     廊下の先から点呼の声掛けが聞こえてくる。
     その声が、やけに遠かった。


     マブダチの意味を知ったとき、嬉しかった。


     ――こいつに上げれば絶対に決めてくれる。
     ――そう思わせてくれる奴だった。

     それだけではなかったと知ったから。 
     大事におもうひとの、大事なひとになれていたのだと思ったから。
     
     でも、それは、――ただのことばでしかなかった。

     踏みしめているはずの足許が覚束ない。
     握り締めているはずの拳から、ちからが抜けていく。
     胸の奥の冷たさが全身に広がって。
     いま、酷く寒い。
     
     名前も、なにもかも。
     忘れることなんかない。

     心の底から大事だと思える、親しい誰か。

     そう思っていたのは。

     点呼の声が、すぐそこで聞こえた。

     自室の扉の前に立ち、ドアノブに手を掛ける。
     なんの感慨も、抵抗も無く。
     真っ暗な部屋に、牛島は帰った。




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