酔っぱらい その日、半助が自室に戻ったのは晩になってからのことだった。
「たらいまもどりまひたぁ〜〜」
「おやおや、こりゃまた良い具合で」
忍術学園教員長屋の相部屋では先輩教師の山田伝蔵が、まだ帳面に何やら書きつけているところであった。夜の帷に油火の灯しが淡く円く山田の輪郭に陰影を与えている。障子の手前から思っていた通り、その影は半助を迎えて振り向いた。
とある集落からの依頼を受けた学園長の命により、半助は一人忍務に出ていた。その忍務先で聞き取りの一環から会合に参加するまではいいものの、たらふく飲まされた後は絵に描いた千鳥足で、今は床の上の青虫になっている。
「尻なんか突き出してないでちゃんと支度して寝たらどうですか、土井先生。報告書まだなんでしょ? それじゃあ生徒に示しがつきませんよ」
呆れ笑いを息に込めて吐く山田は我関せずの姿勢を早々に示す。このような手合いには放置が一番だからだ。
「あぁあ、つれない。すこしは介抱してくれたっていいじゃありませんか」
山田に声を掛けられてからもモニャモニャと虫の擬態を解かない半助は遂にするりと言いつけられてしまう。
「あら。だってお前さん、酔っ払ってなんかいないでしょうに」
一呼吸を置いて半助の口から「あ、あはは〜…」とトンボのフンにも似た間が飛んだ。そして上がる甲斐性なしの声。
「どうしてバレるんですか〜?」
「そりゃあ〜わたしの方がこの道じゃ先輩なんですから? 分からないわけがありませんよ」
スラスラスラと山田は止めぬ筆の調子でニヒルにそう答える。なるほど、確かに大先輩の貫禄だ。
情けない面も整えられずに自宅の風情が如くゴロンと大の字の半助は、何のための猿芝居だったんだか、と投げやり気分を露わにする。そのうえ次第にうとうとしだす始末。
会合では飲むフリだけしていた。だから本当に酔っているわけでもなければ疲れているわけでもない。ただ部屋に浮かぶ灯火の影が半助に何ともいえない夢見心地を与えるのだ。
「山田先生は酔っ払うなんてこと、今までも無かったんですか?」
起き上がった半助はその影に尋ねてみた。教師連中で飲みの場もあるが、皆一様に飲んだふりばかり上手いので、各々《おのおの》酔いどれ気分を味わいこそすれ、本当に酔っ払うということが実のところ中々ない。
「んん? まぁ、そうですねぇ……」問われた山田は帳面から目を離さないまま考えるようにして顎髭の辺りを緩く掻く。「酒を始めたうちは別として、こんな生業ですしね。他のでもそうですよ、酔っちまうなんて奴ァ、そういないでしょうよ」
──アンタもね。
読み透かしたような寄越し眼は、早く寝ろと言わんばかりだ。疲労を感じてはいないのだが、どうやら他者の目に映る姿はそうでもないらしい。
仕事は苦ではないが、ややもすれば人疲れというのはしないでもない。
夢の岸辺に立つからか、珍しく半助の口からぽろぽろと、取り止めのない会話の切れ端がこぼれてくる。
「新学期が始まりましたね」
「そうですねぇ」
「また忙しくなりますねぇ」
「そうですねェ」
「まだお休みにならないんですか」
「わたしゃお前さんと違って勤勉なんですよ」流し三味線のような壮年者の響きはそのまま続ける。「さ、そろそろ眠っちまいなさいな」
そう云う背中が、ぼうっと油火の灯りにかがって空気を包む、そのように半助の目には映る。
とろん、と垂れ落ちてくる瞼をギュッと瞑ったのちまた同じ所を見つめれば、一層赤く縁取る円が舫となって山田の背中を半助の視界に留め置く。今日は雲がよく出ている。月の眼差し届かぬ屋にあって、見惚れる明かりはそれだけだった。
敷く夜着の音ばかり耳立つほどの閑か。今や小虫の涼しさが微風を引いてくる。きっと、どこかの丘で夏草の呼びかける、さようならの挨拶だ。
宵闇に浮かぶ光りはさながら地上の月明かり。墨を含んだ筆先に渗むツヤにもそれが匂い立つ。
夜着に埋もれてふと息をつくほどに、半助の微睡みは一つの揺れもなく、そのまま眠りとなってとけていった。