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    hota_kashima

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    hota_kashima

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    塚橋
    ちだしまさんのユーフォニウム橋内先輩の幻覚をお借りしました。
    塚橋で、12歳と18歳の設定。
    大変美味しゅう幻覚で泣きながら描きました。

    再奏その演奏を聴いた瞬間、なぜか分からないけれど涙が頬を伝っていた。
    音楽を聴いて涙が出るなんて、そんなこと、これまで一度もなかった。
    心の奥まだ誰にも触れられたことのなかった場所に火が灯る。小さなその炎は、じわじわと胸の内を満たしていく。
    それは憧れにも、恋にも似ていて、どうしていいか分からないほど、強く惹かれた。

    その楽器は「ユーフォニウム」というらしい。
    銀色の輝くボディから奏でられる音色はまるでベルベットのように柔らかな光沢を放っていて、雄大な海のようにすべてを包み込んでくる。
    優しくて、あたたかくて、なのにどこか強い芯を持っていて…気がつけば俺は、その音色に心をまるごと射抜かれていた。

    「六年、部長の橋内です。吹奏楽部は未経験者も大歓迎です。ぜひ、遊びに来てください。」
    演奏が終わると銀色の楽器を横に構えた橋内さんは正面を向き、深々と一礼した。
    その瞬間、体育館に集められた一年生たちのあいだから、明らかなどよめきが広がった。
    まるでモデルのような整った甘い顔立ち。そしてあの演奏。

    「天は二物を与えず」なんて、よく言ったものだ。あれはきっと嘘だ。
    音楽の才能に顔の良さ。加えて、この中高一貫校は県内でも指折りの進学校だ。
    入学式の代表スピーチまで務めていた彼は、きっと頭もずば抜けていいに違いない。
    そんな人が、本当にいるんだ。俺の目は橋内さんから離すことができなかった。

    俺の家から地元の公立中学までは、自転車で30分、往復で1時間の道のりだった。だけど、この県立中高一貫校は、徒歩3分。
    通学の楽さを理由に、親から「絶対ここにしろ」と半ば命令のように言われ、俺は死に物狂いで受験勉強をした。
    正直、成績はギリギリ。合格通知には「補欠合格」とはっきり書かれていたけれど、それでも受かった瞬間、家はお祭り騒ぎだった。祝いに特上寿司が出てきたのは、あれが最初で最後かもしれない。


    気がつけば、吹奏楽部の入部届を書いていた。
    楽器のことなんて何も知らないくせに、橋内さんに強く惹き寄せられていた。


    しかし、入部早々、俺の小さな夢はあっけなく打ち砕かれた。
    橋内先輩と同じユーフォニウムを演奏したい。その一心で吹奏楽部の門を叩いたのに、顧問の先生は俺の顔を見るなり、あまりにもあっさりと告げたのだ。
    「塚本くんは、チューバね」
    「チューバ?」
    初めて聞くその楽器の名前を、俺は思わず復唱する。
    顧問は「口の形が合ってるから」とだけ言って、それ以上の説明もなく俺の楽器は決まった。
    チューバは見た目こそユーフォニウムにそっくりだが、ユーフォニウムよりも一回り、二回り大きな低音の楽器だ。
    (どうしてユーフォニウムじゃないんだろう)
    納得できない気持ちを抱えたまま、周りを見渡せば、同じように希望の楽器に就けなかった一年生がちらほら。どうやら、配属はすべて顧問の一存で決まるらしい。
    希望を出すことすら許されないと知って、俺はますます肩を落とした。

    けれど、そんな中で聞かされたある話に心が少しだけ揺らぐ。
    「橋内先輩もね、もともとユーフォニウムがやりたかったわけじゃないんだよ」
    そう話してくれたのは、同じチューバの先輩だった。
    聞けば、あの橋内先輩でさえ一年生のときに顧問からユーフォニウムを指定されたのだという。
    先輩はその日、初めてユーフォの名前を聞き、触れ、そしてそこから今日まであの音を育ててきたのだと。
    憧れていた先輩が、ほんの少しだけ身近に感じられた瞬間だった。
    ユーフォニウムになれなかったのは今でも残念だと思う。でも、もしかしたら、チューバで自分だけの音を見つけられるのかもしれない…と、自分を納得させた。





    いざ楽器を吹き始めると、思いがけない壁にぶつかった。チューバの先輩たちはほとんどが幽霊部員で、日によっては誰ひとり来ないことも珍しくなかったのだ。
    吹奏楽部では基本的に各パートの先輩が後輩を指導する。けれど、そもそもその先輩が来ないとなれば教えてもらうことすらできない。
    楽譜の読み方も、音の出し方も分からず、何度も自己流で試しては、上手く吹けない俺に顧問の先生が見かねて助け舟を出してくれることもあったが、会議や出張で不在な日も多く、俺はすっかり途方に暮れていた。

    そんなある日、先生がぽつりと呟いた。
    「チューバの子たち、アテにならないからこれからユーフォと一緒に練習して。橋内くん、教えるの上手だから、ちょうどいいわ。」
    その一言で、俺の胸は一気に熱を帯びた。

    (橋内先輩に…教えてもらえる!?)

    信じられないような喜びに浮き足立ち、音楽準備室へと向かう。譜面台を持ちユーフォが練習中の部屋のドアをそっと開けた、そのときだった。
    バランスを崩した拍子に、譜面台からファイルが滑り落ち、中の楽譜がばさりと床一面に散らばる。
    風に乗った一枚が、すうっと滑るようにして橋内先輩の足元へ。
    「わっ、す、すみませんっ!」
    慌てて楽譜を拾い集めようとする俺の前に、しゃがみ込んだ先輩が、丁寧にまとめてくれた束をそっと差し出してくれる。
    「塚本、先生から聞いてるよ、これからよろしく。」
    橋内先輩がふわりと笑って、俺の顔をのぞき込んだその瞬間、胸の奥がじんと熱くなって、思わず天を仰ぎたくなった。
    先輩と同じ楽器になれなくても、こうして一緒にいられる時間をもらえた。神様、本当にありがとうございます…!
    心の中で何度も手を合わせながら、俺は譜面台を立て直し、少し照れながら「よろしくお願いします」と頭を下げたのだった。

    チューバとユーフォニウムは、音域こそ1オクターブ違うものの、基礎練習では同じ音階の曲を使うことが多い。
    ユーフォの同級生と並んで橋内先輩に教わる日々が始まり、独りでの練習が当たり前だった俺にとって、その時間はまるで新しい世界の扉を開いたかのようだった。
    先輩の教え方は、的確でわかりやすく、そしてやさしかった。今まで空回ってばかりだった自分の音が、日に日に変わっていくのがわかる。音がまっすぐになり、コツがつかめてきた。
    先輩のひと言ひと言が、自信のなかった俺の背中をそっと押してくれる。

    そんなある日のことだった。
    基礎のスラー練習を繰り返していたとき、橋内先輩が顎に指を添えたまま目を閉じて、じっと耳を澄ませていた。
    やがて静かに目を開けると、ふと眉をわずかに上げ、俺の方へと視線を向ける。
    「塚本、本当にいい音を出すな。…本当に初心者か?」
    思いがけず名指しされた俺は思わず周囲をキョロキョロと見回してしまった。
    すると先輩がクスッと笑って、お前だよ、と俺を指差す。
    「は、はい…音楽の授業くらいしかやったことなくて…」
    そう答えると、先輩は目を細めて、どこか納得したように言葉を続ける。
    「…向いてる奴ってのは、こういうやつのことを言うんだな」
    その言葉は、本来なら先輩自身にこそ似合うはずなのに…。
    でも、そんなふうに褒められたことなんて今までなかったから、頬がじわりと赤くなるのが自分でもわかった。
    「あっ、そういえば!最初に先生が口の形がチューバ向きだって言ってました」
    ふと思い出したことを口にすると先輩は軽く頷きながら俺の口元に視線を移した。
    「ああ、なるほど。確かに唇が厚めで柔らかそうだ」
    そう言ってから、ふと何かに気づいたように目をそらし、再び顎に指を当てて目を閉じる。
    一瞬、時が止まったような沈黙。鼓動だけが妙に大きく聞こえる。
    「…続きをしよう。リップスラーの3番、いくぞ」
    そう言うと、手にしたペンで譜面台の縁を軽く叩き、カウントを取り始める。
    教室に響くその音は、どこかいつもより焦った雰囲気をしていた。






    入部して二ヶ月が経つころには、楽譜の読み方も音の出し方も、だいぶ身につき、パートの先輩がいない日には、準備室の隅に一人腰かけて、黙々と練習するのが日課になっていた。
    夏のコンクール用の楽譜も、ようやく顧問の「合格」をもらえた。最初は嬉しくて何度も吹いていたその譜面も主旋律のないチューバのパートではどこか物足りなさを感じ始めていた。

    そんな日の放課後だった。

    「塚本、暇なら俺のソロコンの練習につきあってくれないか。一人で吹くより、誰かとやった方が楽しい。」
    そう声をかけてきたのは、橋内先輩だった。
    「えっ、俺…ですか!?」
    思わず声が裏返った俺を気にすることもなく、先輩は俺の向かいに椅子を置き、手際よく譜面台を立て始める。
    「ピアノ伴奏してくれるやつが今日休みでな。代わりに塚本に低音のパートの伴奏を頼みたいんだ。今簡単に譜面書くから、基礎練して待っていてくれ。」
    さらりと言うと、カバンから白紙の五線譜を取り出し先輩はペンを走らせる。その動きは迷いがなく、まるで誰かに手紙を書くみたいに軽やかだった。
    …本当に、何でもできる人なんだな。
    思わず見惚れてしまった間に先輩はわずか5分ほどでチューバ用の簡易パート譜を書き上げてしまった。
    譜面には全音符や四分音符が多く並び、初見でも吹けそうな内容だったので、少しだけ安心する。
    譜面を見つめながら、いつも先輩が練習しているあの曲の旋律を頭の中で思い出し、そっと口元で音をなぞる。
    「…大丈夫そうです」
    そう伝えると、先輩はふっと微笑んでから楽器を構えた。


    橋内先輩がこちらに視線を送り、静かに首を縦に二度振ると、スゥーと大きく息を吸うとユーフォのソロから始まった。
    何度聞いても美しい橋内先輩の音色に俺の頬に熱が溜まる。吸い込む息までもが、まるで曲の一部のように奏でられている。

    イーナの歌。
    どこか物悲しく、それでいて静かな情熱を帯びた旋律。
    橋内先輩の硬派なイメージとは正反対なのに、不思議と違和感はなく、先輩の吹く旋律は悲しみと情熱に満ちていた。

    そんな橋内先輩の音に俺の音が寄り添っていく。
    (あ、ここのフレーズ…)
    楽譜には書かれていないフェルマータ。先輩がいつも少しだけためる部分。
    思い切って真似てみると、橋内先輩がふと驚いたようにこちらを見る。
    その目元が笑みに変わると、次の瞬間から先輩の音色が今まで以上に俺の音に寄り添ってきた。

    チューバの音に絡みつき、時には凭れ掛かるユーフォの旋律。
    ぴたりと寄り添ったかと思えば早足で一歩先に進み俺が追いつくのを待っている。
    (俺を置いて行かないでください。)
    と追いかければ、不意に抱きしめられ、悪戯に俺の音を撫でる。
    (いつもは真面目な橋内先輩なのに、二人で音を合わせるとこんなに無邪気な人なんだ…)
    話をするだけでは気が付かなかった先輩の一面を音から感じることができる。
    気づけば、息を合わせるという行為が心地よくてたまらなかった。言葉では届かない深いところで繋がっているような、不思議な一体感。
    (気持ちいい…音を合わせるってこんなに気持ちがいいものなんだ…)
    うっとりと重なる音色に酔いしれていると最後のフレーズに差し掛かる。

    最後の音…終わりたくない。
    この音が終わらなければ、ずっと先輩と一緒にいられるんじゃないか…そんな、ありえない願いすら抱いてしまう。
    そして、最後の音がそっと、消えた。


    橋内先輩はそっとユーフォを膝の上に置き、こちらに手を伸ばしてきた。
    「…泣き虫だな、塚本は」
    その一言で、初めて自分の頬を伝う涙に気づいた。
    「っ…すごく綺麗で…」
    「ああ、いい曲だよな」
    違います。あなたの音が綺麗なんです。
    でもそれを言葉にしようとした瞬間、感情が喉を詰まらせ、声にならなかった。
    「塚本みたいに、意図を察して気持ちよく吹かせてくれるチューバは久々だ」
    そう言って、先輩はポケットからハンカチを取り出し、俺の頬を優しく拭ってくれる。
    「一年なのに、こんなに思い遣って吹けるなんて…塚本はよく俺を見ているな。また一緒に合わせてくれ」

    そしてチラリと視線を下ろし
    「あー、あと、収まるまでトイレ行ってこい。それ。」
    顔を赤らめ、俺の股間を指差す
    「わあああ!!すみません!すごく、すごく気持ち良くって…!」
    必死に手で押さえながら準備室を飛び出す俺の背中に、橋内先輩のぶふっと堪えた笑いが響いた。
    「気持ちはわかるよ。」
    その声が、やけに優しくて、ますます顔が火照って仕方なかった。







    それ以来、先輩との仲は急速に近づいていった。
    6年と1年。普通の学校で置き換えれば高校3年と中学1年だ。この年齢の年の差は大きい筈なのに橋内先輩は年の差を感じない接し方をしてくれる。
    冗談を交えた会話や、ふとしたタイミングでのアドバイス、練習後に肩を並べて歩くバス停までの道のり。まるでずっと前からの知り合いだったような自然さがあった。

    俺は8人兄弟の長男で、誰かに甘えたり年上に頼ったりすることがほとんどなかった。でも、橋内先輩と過ごす時間は、もし兄がいたらこうだったのかもしれないと思わせるほど、あたたかく、頼もしく、そして奏者としてだけではなく橋内先輩自身にも憧れを抱くようになってきた。

    そんなある日の放課後。

    橋内先輩は自宅までバスを二本乗り継いで帰る。
    本数の少ないバスの発車時刻までの間、俺の家のすぐ側である学校前のバス停でよく先輩と話をして過ごしていた。
    バスが来ると手を振って見送り、その足で家に帰る。そんな他愛ない時間が、俺は密かに好きだった。

    けれどその日は、いつもの時刻になっても、橋内先輩はバス停に現れなかった。
    (どうしたんだろ…)
    不安になって校門まで戻ると、校門入って右手にある職員駐車場の片隅で橋内先輩が誰かと話しているのが見えた。
    隣に立つのは、同じ吹奏楽部でフルートを担当している五年の先輩。誰もが認める校内一の美人で知られる先輩だ。
    距離が遠くて会話の内容ははっきりとは聞こえなかったが彼女の鈴のような声だけは風に乗ってはっきりと聞こえた。
    「橋内先輩、好きです」
    その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられるような痛みに襲われた。
    動悸が速くなるのと同時に背筋を氷水でなぞられたように冷たい感覚が走る。
    (…付き合うのかな。先輩があの人と付き合ったら、もう今までみたいには…)
    理屈では説明できない焦りと不安が一気に押し寄せ、気づけば俺はネクタイを握りしめ、校門の陰にしゃがみ込んでいた。
    (なんで、こんなに胸が苦しいんだろう…)
    顔を上げることができず、ただアスファルトを見つめていると、ぽたり、ぽたりと雫が落ちていく。
    (あ、涙…)
    その雫は静かに足元のアスファルトに小さな水たまりを作っていった。

    そして、次の瞬間―

    「すまない。俺は、そういうことに興味がないんだ」
    橋内先輩の凛とした声が、静かな校内に真っすぐ響いた。
    その言葉の直後、ローファーの靴底がアスファルトを叩く音が鳴り響き、フルートの先輩が俺の目の前を駆け抜けていく。
    彼女の頬にも、涙が流れていた。

    (…興味が、ないんだ)

    心の奥が、ふっと軽くなる。安心に近いものを感じたのに、同時に「そういうことに興味がない」という言葉が胸に深く突き刺さった。

    俺が感じているこの気持ちは、いったい何なんだろう。
    先輩と過ごす時間が、ただ楽しいだけじゃないと気づいたのは、この日だったのかもしれない。
     






    ユーフォニウム全国高校生ソロコンテスト。
    その舞台で橋内先輩は見事、優勝を果たした。

    広いホールの客席から俺は固唾をのんで先輩の演奏を聴いていた。
    入学直後、部活紹介で初めて耳にしたあの音色。あのときも心を掴まれたけど、今日の先輩の音は、それとは比べものにならないほど深く、あたたかく、そして美しかった。
    音が始まった瞬間から、まるで誰かの手がそっと背中を撫でてくれるような感覚がある。やわらかく、包み込むような優しさ。だけど、その奥には熱く燃える情熱が確かに息づいている。
    さらに時折、旋律に混ざるお茶目なニュアンスが、先輩の人柄そのものを浮かび上がらせていた。
    (先輩の音だ…)
    何度も聞いているはずなのに、その度に新しくて、その度に胸を打つ。気づけば、また涙が頬をつたっていた。
    「泣き虫だな」
    あのときのように、演奏が終わったら先輩にそう笑われるかもしれない。
    でも止まらなかった。止められなかった。

    曲の終わりと共に会場全体が拍手の波に包まれる。汗を額に光らせながら、橋内先輩はゆっくりと片手を上げ、大きく深く頭を下げた。
    その姿さえ、ひとつの音楽のように美しくて胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
    (…俺、先輩のこと、好きなんだ)
    その思いが、心の底からふわりと浮かび上がってくる。ようやく自分の気持ちに名前がついた瞬間だった。

    男同士とか年の差とか先輩が「そういうことに興味がない」って言っていたこととか。そういう現実が一気に押し寄せてきて、俺の心に重くのしかかる。
    わかってる。勝ち目なんかない。どうしようもない、叶わない片想いだって。
    それでも、どうしようもなく涙があふれた。
    あたたかくて、苦しくて、愛おしくて、切ない。
    演奏を終えた先輩が、客席のほうに目を向けた気がして、俺は慌てて顔を隠した。
    この涙の意味が、どうか届きませんように。そう願いながら、静かに俯いた。
     




    吹奏楽部の夏のコンクールは既に終わっていた。だから橋内先輩のソロコンテストが6年生としての最後の舞台となる。

    俺たち部員一同は、ホールのロビーで先輩を待ち構えていた。けれど俺は泣き腫らしたような目元を誰にも見られたくなくて、人垣の奥のほうで顔を伏せていた。

    やがて扉が開き、拍手と歓声が巻き起こる。
    橋内先輩が現れ、代表して花束を渡したのは5年の先輩だった。
    「俺、先輩は音大に行くと思ってました」
    その言葉に反応するように、周囲の部員たちがどっと押し寄せた。
    「えっ!?音大行かないんですか!?」「もったいない!」「どうして!?」
    次々と浴びせられる声に、橋内先輩は少しだけ困ったように眉を下げ、それでも落ち着いた笑みで周囲を見渡す。
    「ああ、やりたい事があるんだ。」
    それは迷いのない、まっすぐな声だった。
    「えーっ、何ですか!?」「ユーフォよりやりたいことがあるんですか!?」
    部員たちの興味はさらに高まるが、先輩は答えずに、ふっと視線をこちらに向ける。
    すると目が合った。
    「塚本、一緒に帰ろう」

    不意に名前を呼ばれ、周囲が「えーっ!」と非難の声を上げる中、先輩はみんなに軽く頭を下げた。
    「花、ありがとう。今まで世話になった」
    そう言って、まっすぐ俺のところに歩いてくると、「行こう」と肩をポンと軽く叩いた。

    その手の温かさに、胸がまた締めつけられる。
    俺は顔を上げることができず、俯いたまま、先輩の背中を追った。
    涙で熱をもった目元が、橋内先輩に見つかりませんように。ただそれだけを祈りながら。





    皆でお金を出し合って贈った、小ぶりながらも彩りの美しい花束を抱える橋内先輩は、まるで雑誌の表紙を飾るモデルのように見える。

    一年の初めに出会った頃の先輩は、もう少し近い存在だった気がする。
    それが今では、目元や横顔にふと影を帯びたような、大人の雰囲気をまとっていた。その事実に胸の奥がズキリと痛む。

    (橋内先輩は六つも年上の“大人“なんだ…)

    当たり前のことなのに、なぜかその事実が、今さらのように胸に重くのしかかる。
    そして改めて思い知らされた。きっと先輩は、このまま俺の手の届かない場所まで行ってしまうのだと。
    追いかけても追いかけても、すぐには追いつけない。置いて行かないでほしい。そんな子どもじみた思いが胸に渦を巻く。

    縋るような気持ちで隣を歩く先輩を見上げた瞬間、ふいに視線がぶつかった。
    こちらを見た先輩の瞳に、何かを見透かされたような気がして、思わず息を飲むと、ずっと喉で燻っていた言葉がこぼれる。

    「先輩の、やりたいことって……なんですか?」
    そう問いかけた瞬間、先輩は少しだけ目を見開き驚いた顔をする。それから視線を空へと向けた。
    空には一機の旅客機が白い軌跡を引きながら、ゆっくりと遠ざかっている。
    静けさのなかで、ほんの少しだけ風が吹く。
    「飛行機のパイロットになりたいんだ。」
    雲の向こうを見つめるように先輩は言った。
    その目は真っすぐで、どこか遠くを見据えていて、でも、どこか楽しそうで。
    ほんの少し綻んだ口元に、胸がきゅうっと締めつけられる。

    ああ、この人には音楽よりも強く惹かれてやまない夢があったんだ。今まで知らなかった一面。
    少しずつ大人になっていく先輩の背中が、急に遠く感じる。手を伸ばしても届かない場所へ、まっすぐに歩いて行ってしまうようで…

    置いていかないで。

    そんな想いがこぼれてしまう。
    「…先輩、好きです。」
    言うつもりなんてなかったのに。心の奥に閉じ込めているはずだったのに。それでも、声になってしまったその一言に、もう取り返しはつかない。

    その言葉を聞いた先輩は、一瞬だけ目を見開き、驚きと戸惑いが混じったような表情を浮かべたあと、ゆっくりと微笑んだ。
    どこか困ったような、優しい笑顔だった。

    そして、何も言わずに俺の肩を軽く抱き寄せる。触れられた場所から、熱がじんわりと広がっていく。
    「…大人になったら、会いにきてくれ」
    その声は穏やかで、まっすぐないつもの先輩の声だった。

    次の瞬間、先輩は到着したバスに乗り込んだ。
    ドアが閉まり、エンジンの音が響く。
    見慣れたはずのバスの後ろ姿。
    なのに今日は涙で滲んで、まるで夢の中の景色のようにぼやけて見えた。



    部活に先輩が居ない日が始まり、ふと気がづく。俺には、部活以外で先輩と会う術がないことに。
    当たり前のように顔を合わせていた日々が、実はかけがえのない時間だったんだと今になって思い知らされる。先輩との接点は、いつの間にかすっかり途切れてしまっていた。
    もう音楽室でも廊下でも見かけることはない。部活がなければ先輩はもう俺の世界にいない。そんな事実に、どうして今まで気づかなかったんだろう。

    あの日の別れが先輩との最後だった。






    「和さん! 見てください!」
    俺は胸を張ってケースを開ける。中には、ようやく手に入れた銀のチューバ。中古だけど、ずっと憧れてた一台だ。
    「給料、何ヶ月かかけて貯めて、やっと買ったんです…!」
    嬉しさとちょっとの照れをごまかすように笑ってみせると、和さんは眉を上げて少し呆れたように言った。
    「楽団の貸し出しを使い続ければよかったのに。わざわざ買わなくても良かっただろう」
    それはそうかもしれない。
    ここは地元の趣味の楽団。休日に好きな曲をのんびり演奏するだけの場所だ。楽器は借りられるし、そこまで道具にこだわる必要なんてない。…でも。
    「俺…銀のチューバが吹きたかったんです。和さんの銀のユーフォに憧れてたので…」
    ずっと胸にしまってた気持ちが、ふと口をついて出た。言ってしまったあとで恥ずかしさがこみ上げる。
    和さんは少し驚いたような顔をして、しばらく黙っていたけれど…やがて、懐かしむように目を細めて笑った。
    「…じゃあ、久々にあれ吹くか。」
    「え?」
    「イーナの歌。覚えてるか?」
    その名前を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
    「もちろん覚えてます。」
    隣に並ぶ銀のユーフォと俺のチューバ。
    あの日憧れた景色に今の自分がようやく追いついた気がした。
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