91話後の一幕「入るぞー」
雑なノックの音と同時に扉が開かれ、スピネルは慌ててPCのウインドウを閉じた。
「返事をしてから入るようにといつも言っているでしょう」
「はいはい、そりゃ悪かった」
まったく悪びれない返事にため息を吐くしかない。同時に扉を開いていてはノックの意味もないだろうに、何度言っても聞きはしないのだから。
「なんだよ、エッチな動画でも観てたのかぁ?」
「そんな訳がないでしょう」
態度に出したつもりは無かったが、スピネルのほんの少しの焦りを見透かしたようにフリードが茶化しながら顔を近づけてくる。ニンマリと笑う金色の瞳は凪いでいて、特に変化は見られない。それを確認して安堵し、そんなことを日々気にしている自分が滑稽だと思った。
そんなものを見る趣味も暇もないが、フリードの言うように猥褻な動画ならばわざわざ隠したりはしない。茶化してくるだろう彼に「同じプレイをしてみますか?」と囁いて反撃してみるのも良いだろう。どんな反応をするのか見てみたい気はする。
しかし、今スピネルが見ていたのはそんなものとは程遠いものだ。
以前フリードと共にいた少年がケッキングとバトルをしている様子を映したものである。
長く沈黙を守っていた彼らがラクリウムによる異変を察知して再び動き始めたようだった。
その姿をフリードに見せるわけにはいかない。彼の記憶を刺激するようなものには極力触れさせたく無かった。
「ほら」
「……?」
素気無いスピネルの返事にやれやれと言った様子で鼻先に差し出してきたのは湯気のたったマグカップだ。少し甘い香りがしている。
「ホットミルク、ですか」
「そ。あったまるぜ」
差し出されるままマグカップを受け取れば、そのカップを通してスピネルの手のひらへと温かさが伝わってくる。
確かに身体を温めるにはもってこいだろうが、自分のような人間にホットミルクを差し入れてくるなどいったいどんなセンスなのか。あまりにも似合わないだろうに。
ひとくち飲んでみればハチミツが入っているのかとても甘い。あまりにも子供向けだ。
「あんまり根詰めすぎないでそれ飲んで早く寝ろよ?」
スピネルがホットミルクを飲んだのを見て満足したのかフリードは手をひらひらとさせながら部屋を出ていく。
甘いホットミルクをもう一度口に含んだスピネルは、なるほど、と一息ついてスピネルはもう何も映していない画面に目をやった。
記憶を失っていても習慣や行動は変わらないものなのだろう。先ほど見た少年にも同じように甘いホットミルクを淹れてやっていたのかと思い至ってスピネルは瞳を伏せた。甘いものを飲んでいるはずなのに口の中に苦味が広がっていくようだった。
動き出したあの少年たちはきっとここに辿り着くだろう。自分たちの奪われたものを取り戻すために。
しかしスピネルとて簡単に明け渡す気はない。六英雄と呼ばれていたポケモンもフリードもすべてスピネルのものだ。ずっとここに閉じ込めておくのだ。
彼をずっと閉じ込めておくなど、そんなこと出来はしないと心のどこかで感じつつも、スピネルは新たな一手を打つためにまたキーボードへと手を伸ばした。